早朝の空気はひんやりと透き通り、朝露の瑞々しい香りが漂っている。
レイナは深呼吸をひとつして、最初の一歩を踏み出した。
ザッザッと地面を蹴る音と共に、少しずつ血が巡り、筋肉が温まっていく。
大きく腕を振り、徐々に歩幅を広げてスピードを上げる。
呼吸が早くなり、肺に新鮮な空気が送り込まれると、細胞の一つ一つが目覚め──寝起きでぼんやりしていた思考が、霧が晴れるようにクリアになる。
身体の奥底から活力が湧き上がってくるこの感覚が、たまらなく心地よい。
朝のランニングは、レイナがバースにいた頃から続けている習慣だ。
早起きして会社に行く前に体を動かすと、前日までの嫌な諸々を忘れて集中できるし、出社時には完璧なコンディションで仕事を始める事ができる。
ただバース時代は、こうして人気のない早朝に外を走る事は無かった。
比較的治安の良い地区に住んでいたとは言え、まだ薄暗い時間に女性が一人で外にいるのは危険も多かったので、専らジムのランニングマシーンやエアロバイクを利用していた。
でも女王陛下の御力に護られたこの聖地でなら、この時間でも何の不安も無い。
それに外の空気や自然を感じて走るのは、新たな気付きや発見が沢山あるのだ。
例えば──明け方の空は薄闇からピンク色の厳かなグラデーションを見せたかと思えば、今朝のように白金の眩い光を感じる日もある。
行きは固い蕾だけだった植え込みが、帰り道には一斉に花開いて景色がガラリと変わっていたりもする。
それは無機質なディスプレイパネルを眺めながら走っていた頃には、決して知り得なかった驚きの連続。
体調だけではなく、精神までも整い潤っていくこのひとときは、多忙なレイナにとってかけがえの無い大切な時間だった。
女王宮からの一本道を抜け、中央の大きな公園に入ると、にわかに人が増えてくる。
「おはようございます、補佐官様」
「レイナ様、おはようございます」
次々とかけられる挨拶に、レイナは軽い会釈と共に笑顔で応える。
「おはよう」
走りながらなので、ゆっくりと言葉を交わしたりは出来ない。
けれどレイナは、出来る限り心を込めて挨拶を返すようにしていた。
3年前、初めてこの地で補佐官の職に従事した頃。周りの職員達からどこか距離を置かれているのを、レイナは敏感に感じ取っていた。
昔から、こうなのだ。
自分はそんなつもりは無いのだが、周りからは壁を作っているように見えるらしく、「近寄り難い」「お高くとまっている」と言われ、常に遠巻きにされてしまう。
以前なら「仕方がない」とすぐに諦めてしまっていた。自分は人付き合いが下手なのだから、と。
でも女王試験を通じてアンジュや守護聖達と触れ合ううちに、こちらから心を開いていけば、いつか必ず気持ちは通じる事を学んだ。
とは言え女王補佐官職は激務で、職員達と交流する時間を持つのは難しい。
だからこそ、レイナは朝の小さな挨拶をとても大事にしていた。
(もう3年か……。忙しくて振り返る余裕もなかったけど、あっという間だったわ)
レイナは思い出して、クスリと笑う。
最初にこの地でランニングをした日は、早朝の公園には人の気配もほとんど無かった。
(たまにすれ違う人に挨拶しても、驚いた顔をされるばかりで、まともに挨拶が返ってくる事もなかったのよね)
その時、前から上品な物腰のご婦人が歩いてきた。こちらに気付くと、すぐに朗らかな笑顔を向けてくる。
「おはようございます、補佐官様。今日も良い一日になりそうですね」
その挨拶に、レイナはしみじみと幸せを噛み締める。
「おはよう。あなたも良い一日を」
輝くような笑顔で伝える。
いつからなのかはわからない。けれど今、聖地の人々はレイナに壁を感じていない。それどころか、親近感を抱いてくれているのがはっきりと伝わってくる。
3年間ずっと続けてきた事が、こうして形を結んでいるのは、もちろん継続がもたらす信頼感もあるのだろう。でも────
(私がこんなに素敵な人々に囲まれているのは、女王陛下のサクリアがこの地を護り、平和が保たれているからなのよね……。ありがとう、アンジュ)
女王アンジュへの感謝を胸に、レイナはその場を軽やかに走り去った。
その後ろ姿を、人々が憧れに満ちた瞳でうっとりと見つめている。
「……レイナ様、今日も相変わらずお綺麗だなぁ」
「あのまっすぐで長い、見事な脚線美!普段は補佐官のドレスに隠れてるから、わざわざ早起きしてでも拝みたくなっちゃうのよね」
「レイナ様を見ていると、こちらまで背筋が伸びて身が引き締まるような気持ちになるんだよな」
「きゃーっ、朝から補佐官様にご挨拶返してもらっちゃったぁ、ラッキー!」
「俺もお言葉を頂けたから、今日も一日頑張れそうだ!」
レイナはまだ、気付いていなかった。
自分の存在が、この聖地に住まう人々にどれだけの希望を与えているのかを。
クールな美貌に、隙のない完璧な仕事ぶり。近寄りがたいと評判だった女王補佐官が、聖地着任後すぐからお供も付けずに早朝ランニングをしているという噂は、徐々に職員達の間に広まっていった。
最初こそ半信半疑で、冷やかしがてら見にいった人々は、驚きに目を見張る事となった。
色付きリップクリームと日焼け止めだけというほぼすっぴんで、瑠璃色の豊かな髪を無造作にポニーテールにし、飾り気のないシンプルな(しかし却ってスタイルの良さを引き立てる)ランニングウエアに身を包んで黙々と走っている姿は、職員達が勝手に思い描いていた『気取った補佐官像』を大きく覆したのだ。
忙しくても滅多に休まず走り続けるその姿は、完璧な女王補佐官が裏ではどれだけ地道な努力を続けているのかを如実に示していた。
いつしか聖地に住まう人々は、憧れと敬意を持ってその姿を見つめるようになった。
挨拶をすれば必ずこちらの目を見て笑顔を返してくれる女王補佐官の姿は口伝てに評判となり、今や多くの人が早起きして散歩するのを日課としている。
美しく優しい女王補佐官との、ささやかな朝の邂逅を楽しみに。
何も知らずに、レイナはただひたすらに走り続ける。
前を向き、凛とした表情で。一歩一歩、大地をしっかりと踏みしめて。
鳥たちの賑やかなさえずりが、素晴らしい一日の始まりを告げていた。