大切な思い出を、あなたへ


 その日は朝から非常に忙しく、オスカーは執務机にかじりついて、山のように積み上げられた書類と格闘していた。
 あの銀杏並木でのデートから、はや三週間。
 アンジェリークは、未だ星の間から出てきていない。

 決裁が必要な書類に目を通しては、さらさらとペンを走らせて署名していく。
 その時、微かなノックの音が耳に届いた。
「どうぞ」
 オスカーは書類から視線を離さないまま、声だけで入室を促した。
 ゆっくりと開いたドアの向こうから、語尾をのんびりと伸ばす、聞き慣れた声がする。
「あーオスカー、少しお話しがあるんですが、今よろしいですかー?」

「ルヴァ」
 年長の守護聖が訪ねてきたのに気付いて、オスカーは急いで椅子から立ち上がり、ドアへと歩み寄った。
「すまなかった、出迎えもせずに」
「いえいえ、いいんですよー。お忙しいところを、お邪魔しちゃいましたかね?」
「いや、大丈夫だ。どうせ急いだところで、簡単に終わる量じゃないからな」

 穏やかな笑みを浮かべた地の守護聖が、いつものように大量の本を抱えているのを見て、オスカーは奥のソファへと促した。
「本を置いて、そこで待っていてくれ。今、茶でも用意させる」
 侍女を呼ぼうと呼び鈴を持ち上げたオスカーに、ルヴァは慌てて首を横に振った。
「いえいえ、そんなに長くはかかりませんから。実は先ほど、女王陛下が星の間からお出になられたんですよ」
「陛下が?」
 緊張した表情で振り向いたオスカーに、ルヴァはにこやかに頷く。
「ここのところ宇宙で頻繁に起きていたサクリア異常の原因がようやく判明したそうで、私の意見が聞きたいと呼び出されましてね。短い時間でしたが、直接お会いしてきたところなんです」

「それで……陛下のお身体の状態は?三週間も星の間に詰めていたのは、女王就任以来初めてだろう」
「ええ、精神体を飛ばしている間は、女王の肉体は仮死状態にあるから、不眠不休でも問題ないとは言われていますが……。さすがにお疲れの様子で、少し頬が削げて目の下にクマが出来ていました。でも瞳の輝きは全く変わっていなくて──心はお元気そのものに見えましたよ」
「そうか」
 オスカーはホッと息をつくと、緊張でこわばっていた表情を緩めた。

「それでですね、陛下から、これをあなたにと預かってきたんです」
 ルヴァは手にした本の山から、一冊の革張りの表紙の本を取り上げ、オスカーへと差し出した。
 ずしりとした重みのある分厚い本は、濃紺の滑らかな革に、金箔で繊細な模様が押されている。
 題名のない、日記帳のような装丁。

「これを、陛下が?」
「ええ、なんでも恥ずかしいから、絶対に誰もいないところで一人で見てほしい、っておっしゃっていましたよ」
 オスカーは本を開きかけていた手を、その言葉で止めた。
 ルヴァは「じゃあ、ちゃんと渡しましたからね。私はこれで失礼しますよ」と微笑んで、オスカーの執務室を後にした。

 一人になったオスカーは、念のために秘書官に人払いを命ずると、明るい窓際の壁に背を預けた。
 誰もいないところで、というからには、秘密の恋文だろうか?
 長い脚を交差するように前に投げ出し、期待に満ちた瞳で革張りの本を開く。

 まず目に入ったのは、罫線の引かれた、何も書かれていないページ。
 オスカーは、ぱらぱらと静かにページを繰った。
 ──どこにも、文字はない。

 訝しげに眉を寄せながら最後のページを開いた時、本の間から、小さなしおりがはらりと落ちた。
 オスカーは壁から身を起こし、長身を折り曲げて、それを拾い上げる。

 細長い紙には、あの日アンジェリークが拾っていた、銀杏の押し葉が貼られていた。
 オスカーの口づけを受けた、愛らしいハート型の葉っぱ。
 その下には、丸みを帯びた手書きの小さな文字で『大切な思い出を、あなたへ』と記されている。

 ──大丈夫、あとでちゃーんとあげますから。心配しないで、ね?

 上目遣いで悪戯っぽく微笑む少女の姿が思い起こされ、オスカーの口元に、自然と笑みが浮かんだ。
 栞を唇に寄せ、目を閉じて、ハートの葉にそっと口づける。

 だが、すぐに眉間にきつく皺を寄せ、栞を唇から離した。
 怪訝そうに栞を見つめてから裏返すと、そこに貼られていたのは──細かく割られたぎんなんの殻。
 漂ってくる強烈な匂いに、オスカーは思わず苦笑した。

 ──このバッグを開けるたびに、変な匂いが今日の思い出を呼び覚ましてくれるなら──それって、とっても素敵なことだと思わない?

 笑いながら光の輪を飛び移っていく、妖精のような少女の姿が、オスカーの眼前に鮮やかに蘇る。
「君の言った通りだ。……全く、お嬢ちゃんには叶わないな」

 変な匂いも、確かに悪くない。
 そんな風に思ってしまう自分が可笑しくて──
 オスカーは誰もいない部屋で一人、声を上げて笑っていた。



───Fin.───