憧れの人

 


女王補佐官・ディアの朝は早い。

目覚めはいつも、まだ辺りが薄闇に覆われた、しんとした静寂に包まれた時間。
ベッドから出るとまず最初に窓を開け、朝露の香るひんやりした空気を部屋に入れる。
新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだら、眺めの良い窓際のテーブルにお気に入りのティーセットを並べて腰掛ける。
やがて空が少しずつ白み始めるのを静かに見つめながら、ゆっくりと噛み締めるように香り高い紅茶を味わう。

多忙な女王補佐官が自分の為に使える時間は、文字通り朝のこのひと時だけ。
この時だけは、仕事や煩わしい思いの一切を頭から締め出して、朝日がきらきらと窓に差し込むのを無心に眺め、自分の心と五感をまっさらな状態にリセットする。
これがディアの、毎朝欠かさず行う大切な儀式。



それから身だしなみを整えて、馬車で王立研究院へと向かう。
まだ職員すら疎らにしか出仕していない、静かで仄暗い研究院に足を踏み入れると、女王候補達の前日までの育成状況等の報告書を纏めて、次元回廊を抜け聖地へと赴く。
女王試験の報告を兼ねて、多忙な陛下と短い朝食の時間を共にする為に。
わざわざ聖地まで赴かなくても、星間通信システムで映像の報告をする方が楽なのだが、ディアは可能な限り聖地に足を運ぶようにしていた。
今は宇宙の危機が迫っているので、女王陛下はともすると食事も取らずに星の間に詰めてしまう事もある。
昔からこうと決めたら多少の無理をしてでもやり遂げてしまう性格なのを知っているからこそ、ディアは陛下を出来るだけ一人にさせないよう心を砕いていた。

「女王陛下、昨日はロザリアの育てている大陸が第一目標に達しましたわ」
ディアはにこやかに報告しながら、さり気なく女王の健康状態を観察する。
きちんと食事を摂れているか、顔色は悪くないか。
今朝はよく眠れたようで目の下にクマは無いし、食の進みも良いようだ。ディアは心の中で安堵の息をついた。

「女王試験が始まってからひと月余りしか経っていないのに、ロザリアの育成はかなり進んでいるようね。もう一人の女王候補はどうかしら?」
女王からの問いかけに、ディアはその形の良い眉をほんの少し顰めた。
「それが…育成初期の失敗が響いているようで、まだこれと言った成果が出ていないのです」

アンジェリークの育成状況は、ディアも心配していた。
いきなり女王候補に選ばれたから慣れない事も多いのだろうと予測はしていたが、それでもロザリアにここまで圧倒的な差をつけられるとは思ってもいなかった。
本人もかなり気にしているようで、最初の定期審査の後に中庭の植え込みに隠れて一人で泣いているのを見つけた時は、可哀想で胸が痛んだ。

女王は「そう」と短く頷くと報告書を手に取り、さっと内容に目を通す。
「今は苦労しているようだけど、必ず結果を出せる日が来るはずだから心配はしていないわ」
それからディアの顔を見て、口元に小さな微笑みを浮かべた。
「彼女達が悩んでいたら、話をよく聞いてあげてね。私達は女王試験に直接手を貸すことは出来ないけれど、自分で答えを出せるように導く事は出来るのですから」
「わかりましたわ、陛下」

二人だけの穏やかな時間はあっという間に終わりを告げ、星の間へと向かう女王陛下を見送ると、ディアはまた飛空都市へと急ぎ舞い戻る。
この頃にはもう、ジュリアスが聖殿に出仕している。
息つく暇もなくジュリアスと打ち合わせをして、宇宙で起きている問題点の処置を各守護聖へと割り振っていく。

それが終わると、ようやく女王候補達が聖殿にやってくる時刻だ。
ディアは王立研究院内に設えられた補佐官室へと向かい、通常の執務をこなしながら女王候補達の訪れに備える。
ロザリアは育成に効率よく力を注いでいる為、あまりディアの元へは訪れない。
それに対してアンジェリークは、一日に一回は相談の為にやって来る。

「おはようございます、ディア様!」
この日も明るい笑顔と共に、補佐官室のドアが開かれた。
「おはようございます、アンジェリーク。私に何か聞きたい事があるのですか?」
優しく微笑みながら尋ねると、少しはにかみながら毎日同じ答えが返ってくる───大陸の望みが知りたい、と。

コンピューターからはじき出された数値をプリントアウトして渡すと、アンジェリークはその紙をじっと見つめ、しばらく考え込んでから、思い切ったように顔を上げた。
こちらを見つめる瞳には迷いが浮かび、その緑の色を曇らせている。
「…すみません、ディア様。私、昨日もこれを見て、大陸の望む通りに育成をお願いしたんですが…あまり結果が出てないようなんです。何が悪いのか、どうしてもわからなくて…」

ディアはどう答えるべきか、考えた。
アンジェリークの持つ心の力を、どのように使えば効率よく育成できるのかはわかっている。
でもそれをそのまま教えてしまっては、彼女の為にはならない。
育成が上手くいかないのが不安でアドバイスが欲しいのだろうが、やるべき事は本人に決めさせるように仕向けなければ。
ただ──毎日大陸の望みを聞くのにばかり力を使ってしまい、本当に力を注ぐべき所が見えていないようなのが、ディアには気になった。

「…大陸の望みを知る事は確かに大切です。でも育成に力を貸してくれる守護聖達を良く知る事も、必要だと思いますよ」
「守護聖さまを知る…ですか?でも私、ロザリアに比べて力も少ないし、お話とかに力を使う余裕がなくて…」
「もちろん何に力を使うか決めるのはあなた次第です。でも育成のやり方は一つだけではありません。ロザリアと同じでなくてもいいのです。あなたらしく育成していけば良いのですよ」
「私らしく…」
アンジェリークは呟くと、手元にある大陸の望みが記された書類に目を落とす。
しばらくそれをじっと眺めてから、もう一度顔を上げた。
「じゃあ、守護聖様との関わり方を知りたいです。占いをお願いできますか?」
ディアは笑顔で頷いた。「もちろんですよ」

「きらめく星のささやきが、人の心に秘められた想いを教えてくれます。星たちのささやきが聞こえてきます…」
ディアは水晶球に手をかざし、そこに映る星々を眺めて、ほんの少し驚いたように目を見開いた。
そこには二人の女王候補と守護聖達の持つ運命星が映り、その位置で心の関わり具合がわかるようになっている。
試験が始まってまだひと月余りなので、ロザリアはほんの数人の守護聖とのみ親しくしているのが推測できた。
それに対してアンジェリークは、満遍なく全員と心が近づいている。
年齢の近いランディやマルセルとは普段からよく行動を共にしているので仲が良いのだろうとは思っていたが、人付き合いが嫌いなクラヴィスや、他人になかなか心を開かないゼフェルからも同じように関心を持たれているのだ。
笑顔で礼を述べて立ち去る彼女の後ろ姿を見送りながら、ディアは微笑んだ。

女王陛下のおっしゃる通り、そんなに心配する事はないのかもしれない。
アンジェリークは、自分でも気付かぬうちに守護聖たちの心を掴み始めている。
今までの女王には、強い統率力やカリスマで守護聖達を纏めていく力が求められていたが、アンジェリークはむしろその真逆を行くような所がある。
どこか頼りなげだが賢明に頑張る姿は、誰もが手を差し伸べて助けてやりたくなるようなところがあり、それこそが彼女の女王の資質なのかもしれない…。

そして次の定期審査の時に、その予想は現実となった。
陛下は守護聖達に自分の信じる女王候補を告げよと仰り、アンジェリークはその日の勝者に選ばれたのだから───

----◇----◇----◇----◇----


女王試験が始まってから3ヶ月が過ぎた。
大陸育成を最優先に取り組むロザリアと、守護聖達との交流に重きを置くアンジェリーク。
全くタイプの違う二人は良きライバルとして互いに刺激を与え合いながら友情も深め、女王試験は滞りなく流れて、大きな問題は無いようにディアには思えた。
───アンジェリークから依頼される占いで、一人の守護聖との親密度だけが急激に上がっている事を除けば。



ディアはその日も忙しく、聖地から回ってきた報告書に目を通していた。
宇宙の危機を伝える報告の中で、対処の為に守護聖が早急に向かう必要のある惑星がある。
どの守護聖に任せるのが一番適任か──
しばらく黙考してからおもむろに立ち上がると、炎の守護聖の執務室へと足早に向かった。

「オスカー、ちょっと宜しいですか」
ノックをして執務室に足を踏み入れると、オスカーは執務机の端に腰掛けて脚を交差するように前に投げ出し、彼にしては珍しいほど寛いだ優しい笑顔を浮かべていた。
その前に向かい合う形でアンジェリークの姿もあり、二人は何やら楽しげに談笑しているようだった。

「お話し中にごめんなさいね。急ぎで頼みたい事があるのですが」
「これは麗しの補佐官殿、わざわざ御足労頂かなくても急用でしたら俺の方から伺いましたのに」
オスカーは机から身体を起こすと「お嬢ちゃん、ちょっと待っててくれよ」と、大きな手で女王候補の頭をぽんぽんと叩いた。
アンジェリークは頭を押さえて上目遣いでオスカーを睨む。
「もうっ!子供扱いはやめてくださいっ!」
「ディアのような完璧な大人のレディになれば、俺も喜んで一人前の女性として扱うぜ?」
オスカーは声を上げて笑いながらディアの元へ歩み寄った。
書類を受け取って素早く目を通すと、瞬時に笑っていた表情を引き締める。

「…これはなるべく急いで向かったほうがいいな」
「明後日の日の曜日にお願いしたいのですが、大丈夫かしら?」
オスカーは書類から顔を上げて振り返った。
「お嬢ちゃん、悪いが日の曜日の約束はキャンセルだ。仕事で出かけなきゃならない」
ディアは慌ててアンジェリークのほうを見た。
試験中は女王候補の意向が最優先される決まりとなっている。
約束をしているのだったら他の守護聖に仕事を振ろうかとも考えたが、彼女は即座ににこやかな笑顔を向けてきた。
「いえ、お仕事なら仕方ありませんから!お忙しそうですし、私はこれで失礼しますね」

元気に一礼してから二人の横を通り過ぎるアンジェリークは、いつも通りで何も変わりなく見えた。
オスカーは「じゃあな」と笑って手を振ると、すぐにディアの方に向き直り、真剣な表情で話し始めた。
でもアンジェリークが扉を閉めるその瞬間、こちらにチラリと向けた視線が切なげに翳ったのを──ディアは見過ごす事が出来なかった。


----◇----◇----◇----◇----



日の曜日。
惑星視察に向かうオスカーを次元回廊で見送ったディアは、その足で女王候補寮へと向かった。
可愛らしいピンクのフラワーリースが掛かった部屋のチャイムを鳴らすと、中から「はーい!」と明るい声が聞こえてくる。
パタパタと走り寄る音の後に、かちゃりとドアが開かれて、金の髪の女王候補がひょっこりと顔を覗かせた。

「あれっ、ディア様?どうなさったんですか?」
アンジェリークはびっくりしたように緑の瞳を見開いて立ち尽くしている。
「急に来てしまったから驚かせてしまったかしら?」
ディアは優しく微笑んだ。
「今日はオスカーとの約束が無くなりましたでしょう?もしお時間がありましたら、私の館でお菓子作りをして過ごすのはどうかしらと思いまして」
アンジェリークは見開いていた目をぱちぱちと瞬かせてから、すぐにぱぁっと満開の笑顔を向けた。
「いいんですか?私、ディア様と休日を過ごしてみたいなってずっと思ってたんです!すっごく嬉しい!あ、ロザリアも誘った方がいいですよね?」
ドアを出て隣の部屋に向かおうとしたアンジェリークを、ディアは優しく制した。
「先ほどロザリアの部屋にも行ったのですが、今朝はもう出かけてしまったようですよ」
アンジェリークは「あぁ…」と納得したように手を打って頷く。
「そういえばさっき、オリヴィエさまが下にいらしてました!」
少し羨ましげな表情で呟く彼女に、ディアはふふっと笑いかけた。


ディアの私邸のキッチンで、二人はエプロンを着けて髪を結び、お菓子作りの準備を始めた。
「今日は何か作ってみたいお菓子はありますか?大体のレシピは揃っていますよ」
その問いに、アンジェリークは元気に即答した。
「あの、キルシュトルテを作ってみたいんです!」
「キルシュトルテ…ですか?でもあれはかなりお酒が効いているお菓子ですけど、大丈夫かしら?」
「…はい、実は私も食べた事は無いんです。でも、すごく美味しいって仰った方がいるので、一度食べてみたくて…」
頬を赤く染めながらもじもじと俯くアンジェリークを見て、ディアは彼女が何故これを作りたいのかを察した。
キルシュトルテは甘い物をあまり食べないオスカーが、珍しく気に入っているお菓子なのだから。
「やっぱり私には…大人の味過ぎて無理でしょうか…?」
おずおずと不安げに訪ねてくるアンジェリークに、ディアは安心させるように笑顔を向けた。
「ではお酒を少なめにして、さくらんぼのコンポートを多めに効かせたレシピにしましょうか」
その言葉で一瞬にして、アンジェリークの表情が明るく輝いた。

かちゃかちゃかちゃ…。
泡立てた卵に小麦粉とココアと砂糖を加えて混ぜたら、型に一気に流し込む。
「あまりゆっくりやっていると膨らみが悪くなりますから、ここは手早くした方が宜しいですよ」
ディアの教えに頷きながら、アンジェリークは真剣な顔で作業を進めていく。
ココアスポンジをオーブンに入れて焼き上がりを待つ間に、今度は飾り用のチェリーにキルシュを振りかけ、シロップで煮込む。
「いつもはこの位で火から下ろすのですけど、今日はアルコール分をしっかり飛ばしましょうね」
焼き上がったスポンジにシロップをたっぷり染み込ませ、チェリーを挟み込んでからチョコクリームでデコレーションを施す。
やがて甘い香りがふんわりと漂い、見事な出来栄えのキルシュトルテが出来上がった。
「さ、それではいただきましょう。飲み物は紅茶でよろしいかしら?」
キッチンの隣に設えた日当たりの良いサンルームにお菓子を運び、二人だけの楽しいお茶会が始まった。

「わぁー、美味しそう!いただきまーす!」
アンジェリークは嬉しそうに両手を胸の前で合わせてから、ウキウキと銀のフォークをケーキに差し込んだ。
勢いよくぱくりと口に放り込んだまでは良かったが、そこで急にカチン!と身体が固まった。
そのまま身動きもしないアンジェリークに、ディアが心配そうに声をかける。
「…どうしましたか?お口に合わなかったかしら…」
その声にハッとしたアンジェリークが、慌てたように首を横に振る。
「いえ、あのっ、違うんです。味は間違いなく美味しいんですけど、その…お酒がまだ残ってたみたいで…」
言われてみると、既にアンジェリークの頬はほろ酔いしたかのように、ほんのりと紅潮している。

「あら、本当ですか?しっかりアルコールは飛ばしたと思っていたのですが…」
急いでディアもケーキを口にすると、ほんのりと洋酒の香りが立ち上るものの、アルコール自体はほとんど感じられない。
「お酒の香りはしますが、もうアルコール分は飛んでしまっていますから、大丈夫ですよ」
笑顔で促され、アンジェリークは勇気を出してもう一度ケーキを口にする。
だが頬はますます赤くなり、目蓋までとろんと下がり始めたのを見て、ディアも流石にこれはまずいのではと思い始めた。
「酔っ払ってしまったら大変ですから、他のお菓子にしましょうか」
できるだけ優しく語りかけながらケーキのお皿を遠ざけ、代わりに頂き物のクッキー缶を開けた。
がっくりと肩を落とし、悲しげにアンジェリークが呟く。
「この程度のお酒もダメだなんて、私って…やっぱり子供ですよね」
「そんな事はありませんよ。大人だってお酒が苦手な人は沢山いるのですから」
懸命に励ましたが、アンジェリークに笑顔は戻らない。

「…ディア様みたいな素敵な大人の女性になれる日なんて、本当に来るんでしょうか…」
はぁっとため息を零しながらぽそりと口から漏れた言葉に、ディアは心配そうに表情を曇らせた。
彼女がオスカーに言われた事を気にしているのは、すぐにわかった。
何故ならディアも女王候補時代に、同じような悩みを抱えていた事があったのだから。

ディアは立ち上がると、部屋の隅にある飾り棚の方に向かって歩いた。
中央にある小さな引き出しを開け、繊細な銀細工に縁取られた写真立てを取り出して戻ってくる。
「アンジェリーク、私が女王候補として聖地に呼ばれたのは…あなたと同じ17歳の時でした」
そう言って、写真立てを彼女に手渡す。
そこには編み込んだ髪を後ろで一つに纏めた可愛らしい美少女が、少し俯き気味に恥ずかし気な微笑みを浮かべて写真に収まっている。

「これってもしや…ディア様ですか?」
アンジェリークは驚きに目を見張りながら、まじまじと手の中の写真を見つめた。
確かに言われてみれば、面影はある。穏やかな聖母のような微笑みと慈愛に満ちた眼差しは、この頃から変わっていない。
それでも今より丸顔で顔立ちも幼く、体つきもまだ華奢な少女のそれで、控えめで目立たない装いも相まって、言われなければ目の前にいる華やかな美しい大人の女性と同一人物とはわからない。

「今よりずっと子供っぽいでしょう?ルヴァなんて、私があまりに変わり過ぎて昔の姿が思い出せない、なんて言うんですよ」
にこやかに話しかけたが、アンジェリークはじっと写真を見つめたままで動かない。
「…でもディア様はこの頃から既に落ち着きがあって、品のある美少女で…。私みたいに『お嬢ちゃん』なんて子供扱いされるような女の子には…見えません」
しょんぼりと俯くアンジェリークの姿が女王候補時代の自分の姿と重なるように感じて、ディアはほんの少しだけ寂しげに瞳を伏せた。
長い睫毛が、透き通るような白い肌に影を落とす。

「…私も女王候補時代は年上の守護聖達に囲まれて、自分が無力な子供に思えて悩んでいましたよ。年長の守護聖からは名前すら呼んでもらえず、『女王候補のお嬢さん』なんて呼ばれていましたし」
アンジェリークが弾かれたように顔を上げた。
「ディア様が…ですか?信じられません、だってお人柄も仕事も完璧で、こんなにも皆様から尊敬されてらっしゃるのに…」
「…私も最初から今のようだった訳では無いのですよ。失敗も沢山しましたし、ホームシックになって泣きべそをかいた事もありました。あの頃はジュリアスにも自覚が足りないとよく叱られたものです」
「ええっ、ひどいっ!私ならジュリアス様に怒られるのもわかりますけど、こんなにお優しくて非の打ちどころのないディア様をお叱りになるなんて!」
両の拳を握りしめ、我が事のように怒って頬を膨らますアンジェリークを見て、良かった、元気が出てきたようだとディアは安堵する。

「…あら、カップが空になってしまいましたね。お茶のお代わりを淹れますから、少しお待ちになっててくださいね」
サンルームと続きになったキッチンに入ってケトルを火にかけると、お湯が沸くまでの待ち時間に窓から外を眺める。
さやさやと風に揺れる緑の木々をぼんやりと見つめていたら、女王候補だった17歳の頃の記憶がふと蘇った。



───あの頃の私はロザリアと同じで、女王特待生としてスモルニィ女学園に通っていた。
幼い時から女王のサクリアの芽生えがあると聞かされて育ったし、人々の為に尽くしたいとずっと願っていたから、憧れの聖地に呼ばれた時は心が震えるほど光栄だと感じていた。でも…
いざ聖地に来たら、理想と現実の違いをまざまざと思い知らされてしまったのだ。

守護聖は神のような崇高な存在だと教わってきたのに、聖地に着いたその日から次々とデートのお誘いをされて驚いた。
彼らも普通の人間なのだという事実をなかなか受け入れられなかったから、恋愛的なアプローチや贈り物をされても、嬉しいと思うより戸惑いばかりが先立った。
ただでさえ幼い頃から女子校育ちで、その中でも特に男女交際に厳しい特待生クラスにいたものだから、男性とどう接すればいいのかもよくわからないのに。
こんな私がいずれは彼らの上に立ち、導かねばならないのだと考えたら、それだけで肩に重荷がずしりとのし掛かった。

私は元々あまり感情を表に出すタイプではなかったから、人前では悩みがある事は一切見せず、常に穏やかな笑顔を浮かべてその場を凌いでいた。
でも結局それは問題を先延ばしにしているだけだと気付いてもいたから、どうやってこの先を進むべきなのか、道が見えずに悩んでいた。

そんなある日、事件が起こった。
私は二人の守護聖から同時にデートに誘われ、答えに窮して無言になってしまったら、目の前で喧嘩が始まってしまったのだ。
口喧嘩は次第に激しい言い争いになり、ついに二人は喉元を掴んで睨み合い、一触即発状態になった。
どうしたら良いのかわからず、ただ青ざめて困っている私の前に───“あの人”が現れた。

偶然通りがかったあの人は、喧嘩している二人の間にごく自然な態度で仲裁に入ってきた。
「なんだお前たち、女王候補のお嬢さんを取り合ってるのか?見ろよ、すっかり困ってるじゃないか」
その言葉で二人は我に返り、真っ青な顔の私を見てバツの悪い表情を浮かべた。
「デートに誘いたいんだったら、尚更女の子を困らせちゃダメだろう。今日はもう諦めて、日を改めて出直してこい」
あっという間にその場を収めて二人を追い払うと、彼はこちらを向いて子供のように悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「じゃあお嬢さんも暇になった事だろうし、せっかくだから俺の執務室で話でもしないか?」
そうしてちゃっかりとデートの権利を手にした彼に、私はホッとしながら笑顔でお礼を述べて頷いた。

あの人はいつもそうやって、厳粛な聖地という空間でも飄々とおおらかに振る舞い、楽しげに人生を謳歌していた。
そんな彼に自分とは正反対の型にはまらない自由さを感じて、私は仄かな憧れを抱くようになった。
年長の守護聖でありながら近寄り難さは微塵もなく、誰にでも分け隔てなく笑顔で気さくに接する。
その明るい陽の光のような笑顔を見るのが、私は本当に好きだった。


「いつも頑張ってるお嬢さん達にご馳走しよう。たまには羽目外しも見逃すぞ?」
ある日訪れた彼の私邸で、そう言って出された宝石のような綺麗な色のカクテルを、私は内心ドキドキしながら顔には出さず、笑顔で平然と口にした。
真面目でおとなしい優等生だった私の意外な一面に、女王陛下───あの頃はまだ女王候補だったけど───が驚きながら私を見つめていたのを、昨日の事の様に覚えている。
あの人の好きな物ならなんでも知りたかったし、大人として認めて欲しくて背伸びしていたのだと思う。
実際はお酒は香り付け程度にしか入っておらず、ただのジュースのような物だったけれど。
それでも彼の好きな世界の一端に触れられたような気がして、とても嬉しかった。

あの時の彼には恋人のような存在がそばにいたし、私はいち女王候補としてしか見られていなかった。
けれどもその時はまだ、憧れの大人の男性と一緒にいられるというだけで満足していた。
でも名前すら呼んでもらえないのは、やはり寂しくて。
だから早く一人前になって、あの方に名前で呼んで貰えるような自立した大人の女性になろうと誓った。
目標ができた事で迷いが無くなり、私は心からの笑顔を取り戻す事が出来たのだ。

それから私は女王補佐官になり──その瞬間から、あの人は私を子供扱いしなくなった。
きちんと名前で呼ばれるようになっただけでなく、女王と変わらぬ敬意を持って接してくれるようになり、それに応えるかのように私の中にも急速に自覚が生まれ、少女から大人へと自然に変わっていった。

その頃にはあの人への気持ちも───もう、ただの憧れではなくなっていた。
常に太陽を仰ぎ見る昼顔の花のように、私は気付くと彼の姿を目で追っていた。
でも宇宙の危機のさなか、それを表に出す事などできない。
私は思いを心の奥に秘めて、補佐官としてあの人の側にいられるだけで良いと思い込む事にした。
彼の恋人だった女官が、守護聖との生きる時間の違いを理由に別れ、聖地を去った時も。
私がその代わりになろうなどとは露ほども考えず、ただあの人の寂しそうな後ろ姿をそっと見守っていただけだった。
だから彼のサクリアが衰え始め、次代の新守護聖がやって来て──彼との別れが目前に迫って初めて、私は自分の想いに真剣に向き合わざるを得なくなった。

あの人が聖地を去る最後の晩に、私は思い切って彼の私邸を訪れた。
彼は意外な客人に驚いたようだけど、すぐに笑顔になり「良かったら一杯御馳走しよう」と私を部屋に招き入れてくれた。
女王候補時代に一度だけ尋ねた事がある、彼の私邸のバーカウンター。
新しい守護聖はお酒が飲めないから、ここも明日には壊して温室にするらしいと笑って話してくれた。
最後にとっておきのカクテルを作ってやろう、と彼は袖をまくってカウンターに立つと、慣れた手つきで氷の入ったシェーカーを上下に数回振った。
カクテルグラスを2つ用意して、シェーカーからカクテルを注ぐ。
キラキラとした透明な液体がグラスを満たしていくさまを、私は魅入られたように見つめていた。

「長かった聖地での暮らしと、これからの新しい人生に乾杯だ」
そう言ってチャーミングなウィンクを一つ飛ばし、グラスを小さく合わせてからカクテルを飲み干す。
私も続いてグラスを口にしたら、意外に強いお酒だった事に驚いた。
「今日は、大人のカクテルなんですね」
「ディアももう、立派な大人の女性だからな」
彼はカウンタを出てこちら側に回り、私の隣に腰かけた。

「前に君がここに来た時は、まだ女王候補だったか…。いつか女王になるかもしれない少女達に、ちょっとした悪戯心で酒を勧めたんだよな」
「覚えていますよ。あれはほとんどジュースでしたね」
彼はおかしそうに思い出し笑いをした。
「あの時はまさかディアが、あんなに堂々と酒を飲むとは思わなかったな。意外に度胸がある、ただの大人しいだけの少女じゃないんだって、あれで見る目がだいぶ変わったのさ」
「あの時の私は、憧れの大人の男性に認めてもらいたくて随分と背伸びをしていたんですよ」
「憧れの、か。ディアもずいぶんストレートに物を言う様になったなぁ」
感慨深げにそう言うと、彼はいつもの様に明るい、太陽のような笑顔を向けてくれた。
笑うと目尻に微かに皺が寄るのに、どこか無邪気な子供の様でもある、私の大好きな笑顔。

「昔からディアはいつも感情を飲み込んで、辛い事も顔に出さず全部自分一人で抱え込んでしまってたよな。最初はそれが心配だったんだが…でもそうやって周りの人間を誰一人不安にさせず、その場を平穏無事に収めてしまうなんてのは、誰にでも出来る事じゃない。ディアは一見もの静かで穏やかな女性だけど、芯が強くて自己犠牲をも厭わない決意を秘めているんだよな。そんな君を、俺は密かに尊敬していたんだぞ」

私は驚きに目を見張り、彼の方へと向き直った。
誰にも見せなかった自分の心のうちを、この人はわかってくれていた。
本音を出せない自分の内向きな性格を認めてくれて、尊敬しているとまで言ってくれた。
私はもうこの人にとって『お嬢さん』ではなく、一人の大人として心から対等に扱われている。
その喜びがひたひたと胸を満たしていき、予期せず想いが口から溢れ出そうになる。

───私は、あなたをお慕いしていました───

けれど、言えなかった。
星の間で懸命に力を奮う女王陛下の姿が脳裏を掠め、想いは口から出る事なく飲み込まれた。
代わりに口をついたのは「明日は何時に発つのですか」という事務的な言葉。
「明日は日の出と共に出立の予定だ。湿っぽいのは苦手だから、守護聖連中には見送りには来ないでくれ、って言ってある」
「そうですか…。聖地を出た後は、故郷に帰るのですか?」
「いや、しばらくはあちこちを旅してみようと思ってな。ぶらぶらと彷徨いながら、気に入った場所でも見つけるさ」

とても彼らしい、と思った。
聖地の様な閉ざされた場所でも伸び伸びと暮らしていたこの人なら、広い宇宙の何処にいても明るい道が開けていくに違いない。
「あなたがいなくなると、聖地も寂しくなりますね」
最後に小さな本音を漏らし、私はグラスを置いて彼の私邸を辞した。


翌朝、私はいつものように夜明け前に目覚めた。
窓を開け放ち、お気に入りの紅茶を淹れて、いつものように窓辺に座る。
やがて空が白み始め、透明な陽の光が窓から徐々に差し込んでくる。
いつもと変わらぬ静かな景色を目にした瞬間───突然涙が溢れ出た。

女王補佐官として、取り乱したり動揺した姿を他人に見せてはいけないと、常に自分に言い聞かせてきた。
だから人前ではもちろん、一人きりでも泣いた事などない。
女王候補時代の泣き虫な自分は、とうの昔に心の奥底に封印したはずだった。
なのに今、どうしても涙を止められなかった。

私は最後まで、あの人に自分の気持ちを伝えられなかった。
それは宇宙の危機だとか、女王陛下のお側にいたいとか、様々な理由はあったけれど、一番は────私に勇気がなかったから。
苦い後悔が胸を締め付けたけれど、もうあの人はここにはいない。
もう二度と、あの笑顔が私を照らしてくれる事はないのだ────
私はテーブルに顔を伏せて、誰も聞いていないのにも拘わらず、声を殺して泣いた。



シューーーッと勢いよく蒸気の吹き出す音に、ディアははっとして顔をあげた。
慌てて火を止め、ケトルを火から下ろす。
昔の思い出話をしたからだろうか、いつの間にか物思いに耽っていたようだ。
深呼吸を一つしてから、ティーポットにゆっくりとお湯を注ぐ。
ポットの中で茶葉が踊るように跳ね上がるのを見つめながら、静かに心の乱れを整えていく。
やがて過去の自分が湯気と共にぼんやりと薄れていくのを感じると、ポットを乗せたトレイを持ち上げた。
「大変お待たせしましたね」
いつものように優雅な物腰の女王補佐官へと戻り、ディアはアンジェリークの待つテーブルへと向かった。


美味しいお茶とクッキーをたっぷりと二人で堪能し終え、ディアは壁の時計を見上げた。
「あら、もうこんな時間ですか。そろそろお開きにいたしましょう」
立ち上がってお茶を片付けるディアを手伝いながら、アンジェリークが何かを言いたそうにもじもじしている。
「?どうしましたか、アンジェリーク?」
「あの…そこに残っているキルシュトルテ、二つ持ち帰ってもいいでしょうか…?」
遠慮がちにお菓子を指差したアンジェに、ディアは「もちろん構いませんよ」と応えた。
「でもお酒が気になってあなたは食べられなかったでしょう?どなたかに差し上げるのですか?」
「はい、一つはロザリアにお土産です。もう一つは…」
そう言ったきりアンジェリークは黙り込み、お酒入りのお菓子を食べた時よりも赤い顔をして俯いた。
「……オスカーにあげるのですね?」
そう尋ねた途端、アンジェリークの赤い頬がさらに赤みを増した。
「えっ?どど、どうしてそれを…じゃなくてっ、えーっとえーっと…」
わたわたと意味のない動きを繰り返し、汗びっしょりになって返答に困っている姿を見て、ディアは微笑むだけでそれ以上の追求はしなかった。

「差し上げ物でしたら、ラッピングをしましょうか。リボンの色はどれが良いかしら?」
ディアはいそいそと引き出しから透明なセロファンを取り出して、丁寧にケーキを包んでいく。
棚の上にずらりと並んだ色とりどりのリボンの山を前にして、アンジェリークはしばらく迷ってから、可愛らしいピコットレースで縁取られた薄いピンクのリボンを手に取った。
「これがいいかなぁ…」
「それもあなたらしくてとても可愛らしいですけど、こちらもよろしいのではないですか?」
そう言ってディアが取り出したリボンは、しっとりした滑らかな手触りの深い赤のシルク。
「ラッピングは、贈る相手の喜ぶ顔を思い浮かべると良いのですよ」
そう言いながらお菓子の一つにはピンクのリボンを、もう一つには赤いリボンを結んで見せてくれた。

中身は同じお菓子なのに、リボンの色が違うだけで全く別物のようだ。
ピンクのリボンの方は可愛らしい、いかにも若い女の子が好きそうなお菓子に見えるけれど、赤いリボンを結んだ方は、中のチョコレート色のお菓子とのコントラストも相まって、高級感のある大人のお菓子という感じがする。
「…確かにこっちの方がオスカーさまには合ってるかも…」
ぽそりと零れた言葉に、アンジェリークは慌てて両手で口元をばっ!と押さえた。
「あ、あの、これはその…えっとぉ……」
そのまま真っ赤になって固まってしまったアンジェリークに、 ディアも思わずふふっと笑ってしまう。

「……すいません、私ったら大切な女王試験中だっていうのに…。あの、オ、オスカーさまの事は私が勝手に憧れてるだけなんです!…でも特定の守護聖さまばかり気にかけてるのは、良くない、ですよね…?」
「いいのですよ、アンジェリーク。気になる人が出来るのは自然な事なのですから。でも、そうですね…。もし今後、その事で思い悩む日が来たら、何が一番大切なのかは自分の心に聞いてごらんなさい」
「自分の心…ですか?」
「自分の心に向き合って、決断していく繰り返しの中で人は大人になっていくのです。失敗したり後悔する事もあるでしょうけど、そこで投げ出さずにきちんと考え抜く事こそが、素敵な大人への第一歩なのではないでしょうか」
「大人への第一歩…」
アンジェリークは俯いたままディアの言葉を噛みしめるように反芻し、じっと考え込んでいる。

「そろそろオスカーが視察から戻ってくる時間ですよ。私は次元回廊を開きに王立研究院に行きますが、あなたもご一緒しますか?」
「…いいえ、私はオスカーさまの執務室でお待ちしてみます。ディア様、今日は本当にありがとうございました」
アンジェリークはぴょこんと一礼してから姿勢を正すと、頬を紅潮させ、瞳をキラキラと輝かせながらディアの顔を見つめた。
「今日はたくさんアドバイスをいただいて、迷っていた気持ちが晴れたような気がしてます。私…いつかディア様のような素敵な大人の女性になれるよう、この女王試験を精一杯頑張りますね。ディアさまは私の目標であり、憧れの人です!」
その真っ直ぐな言葉に、ディアもにっこりと美しい笑顔を向けた。
「ありがとう、アンジェリーク。私もあなたの成長を楽しみにしていますよ」


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「視察ご苦労様でしたね、オスカー。何か問題はありませんでしたか?」
王立研究院の次元回廊の間で、視察帰りのオスカーからディアは報告を受けていた。
「ああ、思っていたより早く懸案事項も片付いた。もう大事には至らないだろう」
「いつもあなたは仕事が早くて助かります。今日はもうお疲れでしょうから、報告書は明日以降で構いませんよ」
「そうしてもらえると有難いな」

真剣な顔で報告しているオスカーの左手に、彼には不似合いな可愛らしい物が握られているのに、ディアは気づいた。
「オスカー、それは…」
「ん?ああ、これか。今日は女王候補のお嬢ちゃんとの約束を破っちまったからな。せめてものお詫びに、お土産だ」
手の中にあったのは、天使の形のマスコット人形。
ふわふわした金の髪と背中に小さな白い羽が付いたそれはとても愛らしく、どことなくアンジェリークに似ている。
それを見つめるオスカーの瞳の色がふっと和らいだのを見て、ディアはある事を閃いた。

「オスカー、少し待っていただけますか」
ディアは私物の入ったバッグを何やら探り、中から赤いリボンを取り出した。
先ほどアンジェリークのお菓子に付けてあげた残りを、たまたまバッグに入れていたのを思い出したのだ。
「プレゼントでしたらリボンを付けてあげた方が、相手も喜びますよ」
そう言ってオスカーから人形を受け取り、丁寧に赤いリボンを結ぶ。
ラッピングもされず剥き出しだった人形は、たちまち贈り物らしい華やかな雰囲気を纏い出した。

「いつもながら、ディアの気遣いは一流だな。急いでいて包んでもらう時間も無かったから助かった」
「あなたなら、女性には薔薇の花束を贈るのが定番かと思っていましたよ。意外でしたが、こちらの方がアンジェリークは喜びそうですものね」
オスカーは少し複雑そうな表情になり、肩を竦める。
「あのお嬢ちゃんは、まだ薔薇の花束より可愛らしいお人形の方がお似合いだからな。早くディアのような、大輪の薔薇が相応しい大人のレディになってほしいものだぜ」
「相変わらずお上手ですね」
甘い褒め言葉にも顔色ひとつ変えずにさらりと受け流すと、ディアは人形をオスカーの手に返した。

「…人は誰でもいつか、大人になる日が必ず来ます。その時期は本当に人それぞれで、急ぐ必要など無いのですよ。彼女が大輪の花を咲かせるに相応しいその日まで、あなたは大切に見守っていてあげてくださいね」
まるで心の底を覗かれたような言葉に、オスカーは少し驚いたように切れ長の目を見開き、それからフッと口の端を上げて、聞こえない位の小さな声で呟いた。
「…そうだな、ディアの言う通りだ。焦ってもしょうがないんだよな」
「えっ?何かおっしゃいましたか」
「いや、ディアには叶わないな、って言ったのさ。じゃあ俺はこれで失礼する」

マントを翻して立ち去ろうとするオスカーに、ディアは慌てて声をかけた。
「オスカー、これから執務室には戻りますか?」
「いや、今日はこのまま真っ直ぐ私邸に帰ろうと思っているが」
足を止めて振り向いた彼に、ディアは手にした書類を封筒に入れて渡す。
「これを執務室にいるあなたの秘書官に渡していただけますかしら。必ず今日中にお願いしたいのですけれど」
「美しい補佐官殿の頼みとあっては断れないな。じゃあ執務室に立ち寄ってから帰ることにするよ」

そのまま部屋から大股で立ち去るオスカーの背中を見送りながら、ディアは彼女にしては珍しい悪戯っぽい笑みを浮かべた。
実はあの書類は、急ぐような物では全くない。
でも執務室には、お菓子を持ったアンジェリークが待っている。
約束を反故にさせてしまったお詫びに、これは女王補佐官から二人への、ちょっとした時間の贈り物。

まだあの二人の間には恋愛と呼べる感情はないけれど、心が惹かれ合っているのは間違いない。
それがどう育っていくのか、わからないけど───無理に摘み取るような真似はしたく無かった。
女王陛下がそうだったように、いつかは恋か使命かで悩む日が来るかもしれない、それでも───
どうするのかは、自分の心に従って決めてほしい。
私のように後悔を引き摺るような苦い想いは、決してして欲しくはないのだから。


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女王補佐官・ディアの一日は長い。

休日でも常に周りに目を配り、問題が起きればすぐに駆けつけ、ゆっくりと休む暇も無い。
それでも一日の終わりにはお気に入りのアロマキャンドルを枕元に焚き、静かなピアノの音色を聴きながら、窓辺に座って暖かいハーブティーを口にする。
目を閉じてその日の出来事を振り返り、失敗があれば反省し、何もなければ少しだけ自分を褒めてあげる。
全てを確認し終えると、ようやく目を開いて安堵のため息を漏らした。
開け放たれた窓から見える煌くような星々を眺めてから、そっと窓を閉じる。

いつもと変わらないこの日常に感謝しながら───ディアは穏やかな眠りに着いた。




END
あとがき