その花の呼び名は

第1話

気持ちよく晴れ渡った聖地の朝。
緑の守護聖マルセルは、鉢植えの花を両手で大切そうに抱えながら、女王補佐官アンジェリークの住む家へと急いでいた。

「ふふっ。アンジェ、喜んでくれるかなぁ?」
誰に聞かせるでもなく呟くと、すぐ上の木から"チュン"と愛らしい鳴き声が返ってくる。
それを合図に周りにいた鳥たちが、一斉に可愛らしい声でさえずり始めた。
マルセルは立ち止まって鳴き声の方を仰ぎ見ると、心から嬉しそうな笑みを溢れさせる。
「みんなもそう思ってくれてるんだね!嬉しいなぁ」

思わずスキップしたくなる程心が浮き立ったが、肝心の鉢植えを落としてしまっては元も子もない。
マルセルは逸りそうになる気持ちを抑えながら、手の中の鉢植えに目を落とした。
そこにはたった一輪の黄色い大きな花が、誇らしげに花開いた姿を上向かせている。

「一度は枯れかけたのに、よく頑張ったね」
マルセルは笑顔で花に向かって話しかけた。
それから辺りを見回し、誰もいないのを確認してから、小さな声でそっと呼びかける。
「…アンジェリーク…」


この花は5年前、女王試験が始まって間もない頃にアンジェリークに贈った物だ。
あの頃の自分は14歳、守護聖として聖地に赴いてからまだ日が浅い、幼さの残る少年だった。
守護聖として頑張ろうと張り切っていた反面、家族と別れて寂しい思いもまだ抜けきれず、それを埋める為に植物の世話に日々精を出していた。
そんな中で、特にお気に入りで大切に育てていたのがこの花だった。

この花は、一見地味であまり目立たない品種だ。
背丈もなく葉も小さくて少ないので、花が咲くまではあまり見栄えがしないし、一つの苗からたった一つの花しか咲かせない。
でも一度花開くと、その小さな苗からは考えられないような明るい大きな花を長期に渡って咲かせてくれる。
濃い蜂蜜色の柔らかな花弁は、縁が少しカールしてふわふわと風を孕んで揺れ動き、内側から金色に発光しているかのように見える。
初めてこの花が咲いたのを見た時、まるで天使が生まれ落ちたたような美しさに驚き、自然に笑顔が零れた。

謁見の間で初めてアンジェリークを見た時も、同じような気持ちになった。
そんなに目立つ外見じゃないけど、にこにこしていて可愛くて、見ているだけで元気になれる。
あの子と仲良くなりたいなぁ、ってすぐに思った。
だから試験が上手くいかなくて悩んでいた彼女に、このお花を鉢植え仕立てにしてプレゼントする事にした。
「今は目立たないけど、大切に育てるとびっくりするくらい綺麗なお花が咲くから楽しみにしてね。名前を付けて呼びかけてあげると、お花は気持ちに応えてくれるよ」ってアドバイスしたら、アンジェは「そうします!」って元気に頷いていた。

初めてこの花が咲いた時のアンジェの輝くような笑顔を、僕は今でもはっきりと覚えている。
朝一番に鉢植えを抱えて、お花に負けないくらいキラキラした瞳で走りながら僕の元へと見せに来てくれた。
あの時急に胸がドキドキと高鳴って、その翠の瞳から目が逸らせなくなった。

きっと───あの瞬間から、アンジェに恋していたんだろう。
そう、あれが僕の初恋だった。
5年経った今でもずっと、その気持ちは何一つ変わらない───

やがて目の前に、重厚な石造りの建物が見えてきた。
マルセルは慣れた様子で門をくぐり、中庭を抜けて入り口ドアの前に立つ。
「アンジェ、いるー?」
ドアをノックをしたが、館はシーンと静まり返っていて、返事はない。
「休日だから、まだ寝てるのかなぁ…」
使用人がいるはずだから、勝手口の方から回って声をかけてみようか、そう思った瞬間。

「こんな朝早くから、何の用だ?」
背後から聞こえた低い声に、マルセルはびくっと背中を震わせた。
恐る恐る振り返ると、そこにはこの館のもう一人の主人───炎の守護聖・オスカーが立っていた。
手に大剣が握られているところを見ると、日課の朝稽古中だったのだろうか。
額に大粒の汗が滲み、濡れて深みを増した紅い髪が束になって張り付いてる。
そのせいでただでさえ精悍な容貌が、一層迫力のあるものに感じられた。

「…オスカー様、おはようございます。アンジェから預かっていたお花が元気になったから見せようと思って…」
「俺の妻ならまだ寝ているぞ。約束もせずに来るには流石に常識外れな時間じゃないのか、坊や?」
遠慮がちに話すマルセルに対し、オスカーは不機嫌さを隠そうともせずに言い放った。
口元に笑みこそ浮かべてはいるものの、その透明な青い瞳は威圧するような鋭い光を放っている。

だがマルセルも負けてはいなかった。
自分はもう、14歳の頃の坊やじゃない。
今や年中の守護聖として、後輩の守護聖達に色々教える立場なのだ。
背だってぐんぐん伸びて、オリヴィエの身長も既に追い越した。
昔はオスカーと話をするときは思い切り見下ろされている感じがして怖かったけど、今は目線だってそこまで変わらないのだから。

「…ちょっと早過ぎたかもしれないけど、このお花が枯れた時、アンジェはすごく悲しんでたんです。だからすぐにでも見せてあげたかったんだ」
顔をあげて真っ直ぐにオスカーの瞳を見つめ返し、珍しく強気な口調で言い返した。
オスカーはおや、とでも言いたげにピクリと片眉を吊り上げると、汗に濡れた前髪をかきあげて苦笑した。
「ああ、確かにそうだったな。じゃあ中で待っていろ」
ドアを開けたオスカーに促されて館に足を踏み入れ、奥にある居間へと向かう。
「そこのソファに掛けて待っててくれ。俺はアンジェリークを起こしてくるが、彼女はかなり寝起きが悪いんでな。時間がかかるかもしれんが構わないか?」
「大丈夫です。今日は僕、他に用事もありませんから」

「…オスカー?話し声がしたけど…誰か来てるの?」
頭上から唐突に聞こえてきた声に、マルセルは振り返って上を見上げた。
吹き抜けになった2階部分から続く内階段の上に、寝ぼけ眼を擦りながらあくびを堪えているアンジェリークが立っている。
「アンジェ、起きたの?」
笑顔でソファから立ち上がりかけたマルセルは、だけども次の瞬間ぎくりと動きを止めた。

アンジェリークは薄いピンク色のスリップドレスに、揃いのシルクのローブを羽織った姿で立っていた。
ローブの前がはだけていて、下着を着けていないのか、スリップドレスに裸の胸のラインが微かに映り込んでいる。
でもそれが見えたのは本当に一瞬で、次の瞬間にはオスカーの背中がマルセルの視線を遮るように前に立ちはだかっていた。

「マルセルが来てるんだ、アンジェリーク。着替えてから降りてこい」
言いながら彼女の胸元を指差して、ジェスチャーでローブの前を閉じろと教えてやる。
途端にアンジェリークは頬を赤らめ、慌ててローブの前を掻き合わせた。

マルセルは何も見なかったかのようにいつも通りの明るい笑顔を浮かべると、手にした鉢植えを顔の前に持ち上げた。
「こんな早くにごめんね、アンジェ。お花が元気になったから持ってきたんだ」
「えっ!ほんとう?」
言うが早いか、アンジェリークは階段をパタパタと駆け下りてくる。
マルセルのすぐ側までやってくると、鉢植えの中で咲き誇る一輪の花を見て、満開の笑みを浮かべた。
「すごい、もう絶対にダメだと思ってたのに…。マルセル、本当にありがとう!」
寝癖で乱れた金の髪もそのままに、アンジェリークはマルセルにふわりと抱きついた。
マルセルはほんの少しだけ頬を紅潮させたが、それ以外はいつもと全く変わらない無邪気な笑みを浮かべながら、アンジェリークの頬に小さくキスをした。
「どういたしまして。アンジェが喜んでくれたなら、僕も嬉しいんだ」
「今着替えてくるから、もっとゆっくりお話ししましょうよ。あ、マルセルは朝ごはんはもう食べた?まだだったら、一緒に食べてかない?」
「朝ごはんは僕もまだなんだ。そう言えばお腹がペコペコだから、お言葉に甘えちゃおうかなぁ」
「じゃあ決まりね!急いで用意するから待ってて!」

アンジェリークは慌ただしくまた階段を上り、2階の廊下へと消えていった。
それを笑顔で見送り、再びソファに腰を下ろすと、すぐ前にいるオスカーが腕組みして無言でこちらを見下ろしているのに気付いた。
その顔にははっきりと『面白くない』と書いてある。
だがしばらくすると諦めたように息を吐き出し、肩を竦めた。
「…俺もシャワーを浴びてくるから、ここで待っていろ。アンジェリークはすぐにやってくるだろうから」
憮然としたまま言い捨てると、オスカーはドアの向こうにいる侍女に飲み物を出すように指示を入れ、そのまま立ち去った。

オスカーにとって自分が招かざる客なのは、もちろんマルセルにもわかっている。
今や最年長の守護聖として皆を束ねる立場のオスカーと、女王陛下の右腕として日々駆けずり回っているアンジェリーク。
激務の二人がゆっくり過ごせる休日はとても貴重なのに、朝早くから押し掛けてきて空気を読まない自分は、図々しいおじゃま虫くらいにしか思われてないのだろう。
それでもアンジェリークがどれだけこの花を大切にしてくれていたか、そして───マルセルがオスカーとは違う意味でアンジェリークにとって大切な存在なのかを知っているからこそ、この無礼な闖入者を許してくれたのだ。
マルセルは出されたミルクティを口にすると、ふうっと小さくため息をついてソファの背に身を預けた。

給仕し終えた侍女が立ち去って、マルセルは部屋に一人ポツンと取り残された。
やる事もなく、所在なさげに辺りを見渡す。
質実剛健な造りの炎の守護聖邸の壁際には、アンジェリークの趣味らしい可愛い刺繍のタペストリーやドライフラワー、花模様の写真立てがそこかしこに飾られていた。
男らしい威圧感のある家に、少女趣味なインテリア。
一見不似合いでアンバランスな筈なのに、一緒に在るとなぜか違和感がない。
むしろ最初からそこにあったかのように、しっくりと馴染んで不思議なほど居心地の良い空間を作り出している。
なんだかオスカー様とアンジェリークそのものだなぁ、と思った。

飾り棚の上に沢山並んでいる写真立てを端からぼんやりと見渡して、その中の一つにマルセルは目を止めた。
それは女王試験時代の、アンジェリークとマルセルの写真。
当時14歳のマルセルは手に大きなチェリーパイを持って、楽しそうな明るい笑顔を浮かべている。
隣に写るアンジェリークも笑っているけれど、その瞳はどこか元気がない。
(…この写真、飾ってくれてたんだ)
マルセルは立ち上がり、写真立てを手に取った。
この写真には何も知らずにただ真っ直ぐアンジェに恋をしていた、あの頃の懐かしい記憶も一緒に写り込んでいる。
甘く楽しくて───ほんの少し、ほろ苦い記憶。


あの頃のアンジェと一番仲が良かった守護聖は、間違いなく僕だった。
自惚れでも何でもなく、周りの守護聖達も、アンジェ本人ですらそう言ってくれていた。
暇さえあれば一緒にいてじゃれあっている僕たちを見て、皆は微笑ましい姉弟のようだと笑っていたっけ。

いつも明るくて前向きなアンジェは、だけどこの写真を撮る少し前くらいから元気がなくなり、隠れてため息をつく事が増えていた。
育成が原因、という訳ではなさそうだった。
序盤は確かにロザリアに大きく水を開けられていたけれど、終盤はむしろ追い付き追い越さんばかりの勢いで、二人のどちらが女王になるのか誰にも予測できない状況だったのだから。

人前では相変わらずニコニコと元気に振る舞っているから、誰もアンジェのおかしな様子に気付いていなかったけど───いつも一緒にいる僕だけがその変化に気付いていた。
何か心配事があるんだろうか。
誰にも言えない悩みを、ひとりで心に抱え込んでいるんだろうか?
心配になった僕は、休日にアンジェを外に誘い出す事にした。

「おはよう、アンジェ!今日は良いお天気だからさ、僕とピクニックに出かけない?」
女王候補寮でそう誘いかけた時、珍しく彼女は迷うそぶりを見せた。
いつもなら僕の誘いには、一も二もなく乗ってくるのに。
余計に心配になったけど、そんな事はおくびにも出さずに大きな籐のバスケットを掲げて見せ、大袈裟なくらい明るく振る舞いながら蓋を開けた。
「じゃじゃーん!見て見て!」
中にはアンジェの大好きなチェリーパイに色とりどりの果物、サンドイッチにサラダ、お水のボトルがパンパンに詰まっている。
その大荷物に、アンジェはびっくりした様に目を白黒させていた。

「マルセル様…私のために、こんなに沢山用意してくださったんですか?」
「アンジェ、最近元気が無かったよね?元気づけてあげたかったんだけど、僕にはこれくらいしか思いつかなくてさ」
舌をぺろっと出しながら上目遣いに言うと、アンジェリークが俯いた。
そのまま僕の手をぎゅっと両手で包み込む。
表情は見えなかったけど、その手が少し震えているような気がした。
「…ありがとうございます、マルセル様のそのお気持ち…すっごく嬉しいです。ピクニック、ぜひご一緒させてくださいね」
そう言ってにこやかに顔を上げたアンジェリークは、もういつも通りの明るい彼女で、僕はホッとした。


馬車で30分くらい揺られてから、僕たちは飛空都市の西の奥、なだらかな丘の麓に到着した。
「ここからは馬車じゃ行けないから、少し歩いて登るよ。大丈夫、そんなに急な坂じゃないから」
二人で手を繋ぎ、ゆっくりと丘を登る。
頂上に辿り着くと、奥にある大きな栗の木の下に荷物を下ろした。
今来た道を振り返ったアンジェが、驚きの声を上げる。
「わぁ……!」
緑の瞳を大きく見開き、言葉もなく立ち尽くす。

眼下にはどこまでも続いているかのような、果てしない草原が広がっていた。
視界を遮る様な建物や人工物は何一つ見えず、ただ輝く様な若草色の絨毯と真っ青な空だけの世界。
空と大地の境界になる地平線に見える濃い緑の木々だけが、この雄大な景色にアクセントを与えている。

「…ここね、僕の秘密の場所なんだ」
アンジェリークの横に並びながら、マルセルが話す。
「偶然見つけたんだけど、すっごく綺麗でしょ?ちょっと外れた場所で人がほとんど来ないから、静かで気持ちが落ち着くんだ」

この場所に人を連れてきたのは、アンジェが初めてだった。
辛い時や寂しくて泣きたい時に、こっそり一人で訪れていた秘密の場所。
誰にも教えたくなかったけど、アンジェにだけはここを見せてあげたかった。

「本当に…すごく綺麗ですね…。この景色を見ていると、自分の悩みなんてちっぽけだなぁ、って感じます…」
遠くを見つめながらそう話すアンジェリークの横顔は、いつもより大人びて見えて、マルセルの胸がドキンと高鳴る。
何か悩みがあるなら話して欲しい、そう思ったけど。
あの時の自分はまだ子供過ぎて、どうやって聞き出したら良いのかもわからなかった。
だから───

パシャッ!

突然のシャッター音に、アンジェリークが驚いて振り向く。
そこには笑いながらインスタントカメラを構えている、マルセルの姿があった。
驚くアンジェに構わず、マルセルはシャッターを切り続ける。

「いやー!いきなり何撮ってるんですか!」
顔を赤らめて手を伸ばし、カメラのレンズを遮ろうとするアンジェの手を避けながら、マルセルはさらに数枚の写真を撮った。
アンジェリークは走って逃げ、マルセルが笑ってその後を追いかける。
「今絶対に私、変な顔してましたから!やめてください〜!」
いつしか二人は大声で笑い出し、子供のように追いかけっこを始めていた。
やがて走り疲れたアンジェが荷物の場所まで戻ってきて、息を切らせながら敷物の上に倒れ込む。
すぐ後からマルセルもやってきて、彼女の隣に腰を下ろした。

二人はまだ笑いを治められず、くすくすと声を上げながら顔を見合わせた。
「はい、これ」
マルセルが、今撮ったばかりの数枚の写真を差し出す。
そこには真剣な顔で景色を見ているアンジェリークの横顔と、びっくり顔や真っ赤な顔のアップが何枚か写っていた。
「…アンジェが何に悩んでるのか、僕にはわからないけど。でも後でこの写真を見た時に、そう言えばあんな事で悩んでたなぁ、って笑って話せるようになるといいね」

写真を受け取ったアンジェリークが、驚いた様に顔を上げた。
すぐ横で膝を抱えて座っているマルセルが、首を傾げて穏やかな微笑みを浮かべている。
そのまま二人は黙って見つめ合っていたけれど、唐突にアンジェリークがすっくと立ち上がった。
「マルセル様、せっかくだから二人で写真を撮りましょう!」
言いながらバスケットを手に歩き出し、数メートルほど先にバスケットを置いて、その上にカメラを設置した。
何度もレンズを覗いては「マルセル様、もう少し右に寄ってくださいー!両手にチェリーパイも持っちゃいましょう」と身振り手振りで指示を出す。
「そのカメラ、ゼフェルからの借り物だからタイマーの使い方がわからないんだ。アンジェはわかるの?」
「女子校でこれで自撮りするの、めちゃくちゃ流行ってたんですよ!だから任せて!」
腕まくりして力こぶを作るポーズをとり、アンジェリークが朗らかに笑った。
「はい、そこから動かないでくださいねー!5、4、3…」
アンジェリークが走って戻ってくる。
「はい、チーズ!」
パシャッとシャッターの音がして、笑顔の二人の写真がカメラからピーッと吐き出された。

それからも二人はしばらくそこにいて、敷物の上に座って食事をしたり、楽しく会話したり、そして時には何も話さずぼんやりと景色を見て過ごした。
やがて陽が傾いて、西の空が少しずつ茜色に染まり出す。
この場所が一番綺麗な時間がやってきて、二人は無言でそれを眺めていた。

と、その時───どこからか微かに馬のいななきが聞こえた。
蹄の音が遠くに聞こえ、それはだんだんと大きくなる。
音の方へ振り向くと、丘の下から1頭の馬がゆったりと駆け上ってくるのが見える。
みるみるうちに馬が迫って来て、やがて二人のいる丘の上に到達した。
手綱が強く引かれ、栗毛の馬が首を上げて立ち止まる。
馬上にいる赤い髪の青年が、どうどうと馬を宥める声を掛けて落ち着かせてから、こちらを向いた。
「こんな所にいたのか。探したんだぜ」

「オスカー様?どうしてここに?」
マルセルは驚いて声をかけた。
その時は、オスカーが言う『探している』相手は、何故か自分だと思い込んでいたのだ。
「そっちのお嬢ちゃんに話があってな」
オスカーが顎で指し示した方向に目を向けると、そこには青ざめたアンジェリークの顔があった。
彼女の視線はオスカーに張り付いたまま、緊張で凍りついた様に動かない。
マルセルはその瞬間、アンジェリークの悩みには───何かオスカー様が関係しているんだ、と直感した。

あの時の僕は、今から思うと恥ずかしいくらい勘違いしていたんだけど。
悩みの元凶であるオスカー様からアンジェを守ってあげなくちゃと、ただただ必死だった。
「…今日アンジェは、僕と先に約束してたんです。お話は、別の機会にしてもらえませんか?」
勇気を振り絞って告げると、オスカーがフッと笑って肩を竦めた。
「ああ、先約があったなら仕方ないな。邪魔をして悪かった」

来た道を戻ろうと、オスカーは手綱を引いて馬体を横向けた。
そこでふと動きを止め、暮れなずむ夕陽に染まる雄大な景色に視線を向ける。
「…飛空都市にもこんな素晴らしい場所があったとはな。知らなかったぜ」

身動きもせずに馬上で静かに佇むオスカーは、まるで神話に出てくる軍神の彫像のようだとマルセルは思った。
沈み始めた夕陽がその横顔をオレンジ色に照らし、彫りの深い端正な顔立ちにくっきりと濃い影を落とす。
眩しさに目を細め、眉根を寄せて険しい表情をしているにもかかわらず、遠くを見つめる薄青の瞳はどこか寂しげにも見えた。
風にたなびく青いマントの下は休日用の軽装だが、むしろ鍛え抜かれた肉体を一段と際立たせている。
その一枚の絵のような完璧な姿に、同性のマルセルですら思わず目を奪われていた。

傍らのアンジェにちらりと目をやると、彼女もそんなオスカーを瞬きもせずに見つめている。
その瞳には、他の物など何も───マルセルすら───映り込んでいないように見えた。
(アンジェもやっぱり…オスカー様の事を格好いいとか思ってるんだろうか)
子供っぽい自分とオスカーの姿を見比べ、心の中がモヤモヤと燻る。
(やだなぁ、早く帰ってくれないかな)
そんな嫌な感情が浮かんだ、その時。

「───俺もいつか君に、見せたい風景がある。その時は…一緒に来てくれるか?」
遠くの景色を見つめたまま、オスカーが呟いた。
いつものからかうような『お嬢ちゃん』ではない、真剣で、少し緊張を帯びた口調。
「はい、いつか、必ず…」
アンジェリークが小さいけどきっぱりとした声で答えると、オスカーが振り返った。
逆光で暗くなった表情はよく見えなかったけど、二人の視線が強く絡まり合い、時が止まる。
無言の二人の世界から、マルセルは突然弾き出されてしまったように感じた。
ほんの一瞬の沈黙だったのに、それは永遠のようでもあった。

オスカーは唐突に口の端を上げて笑うと「じゃあな」と呟き、馬の腹を軽く蹴って、来た道を下り始めた。
こちらも見ずに手だけを振って、悠々と丘を駆け下りる。
鮮やかな青いマントが翻ってだんだんと小さくなる後ろ姿を、身じろぎもせずに見つめているアンジェリークの真剣な瞳。
それを見ていたマルセルは、この時ようやく彼女が何に悩んでいたのかを理解した。

アンジェリークが女王試験を降りるとの話が飛空都市を駆け巡ったのは、それからわずか三日後の事だった───



マルセルはふぅとため息を一つ付き、苦い思い出を頭から振り払うと、写真立てを元の位置へと戻した。
周りに沢山飾られている他の写真は、オスカーとアンジェリークが二人で写っている物ばかりだ。
そこにある二人の結婚式の写真に目を止めた時、マルセルの胸はちくりと痛んだ。

純白のドレスに身を包んだアンジェリークは、写真からも溢れそうなくらい幸福にきらきらと輝いた笑顔を向けている。
その姿は、今まで見たどんな彼女よりも美しかった。
あの日、この恋は終わりを告げた。そう思っていた。
でも実際には───あれから5年も経ったというのに、この想いは少しも消えていない。
それどころか、こうして結婚した二人の屋敷を訪ねてでも、彼女と関わっていたいのだから。
全く始末に負えないなぁ、と自分でも呆れてしまう。

アンジェリークがオスカー様と結婚して幸せなのは、こうして見ていればハッキリとわかる。
それでも自分の中に諦められない感情が残ってしまうのには、ちゃんとした理由があるのだ。
アンジェリークの心の奥には、オスカー様ではどうしても埋められない部分がある。
そして自分なら、その場所を満たしてあげられると気付いてしまったのだから───

「マルセル、お待たせ!」
明るい声が部屋に響き、マルセルは振り向いた。
開け放たれたドアから、笑顔のアンジェリークがひょこっと顔を覗かせている。
洗い立ての金の髪がふわふわと揺れ、休日用の寛いだサンドレスを着たその姿は、愛らしい女王候補時代に戻ったかのように見えた。
「朝食の準備が出来てるから、一緒に行きましょう!」
手招きする彼女に笑顔で応え、マルセルは部屋を後にした。