その花の呼び名は

第2話

朝日の入る明るいダイニングルームでは、既にオスカーが席に着いて待っていた。

「やっと来たな。待ちくたびれてもう腹ぺこだぜ」
笑みを浮かべながら立ち上がり、アンジェリークの手を取って席へと導く。
椅子を引いて彼女を座らせると、上体をすっとかがめてこめかみに軽いキスを落とした。
その手慣れたエスコートを笑顔でごく自然に受け入れるアンジェを横目で見つつ、マルセルもテーブルに着いた。

三人が揃うと、端に控えていた給仕たちが一斉に動き始める。
同時に部屋の空気も動き出し、焼き立てのパンの香ばしい匂いが辺りにふわりと漂いだした。
大きな銀の皿に綺麗に盛り付けられた食事やピッチャーに入った飲み物がテーブルにいくつも置かれ、その量の多さにマルセルは目をぱちくりと瞬かせた。

「うわぁ、朝から随分いっぱい並ぶんだね!僕はいつも一人で食べてるから、こんな豪華な朝食は久しぶりだなぁ」
「うちもいつもなら個別にサーブしてもらうんだけど、今日はマルセルが来てくれたから大皿で取り分けにしたのよ。その方が賑やかに楽しく食べられるでしょ?」
ナプキンを膝に広げながら、ニコニコと楽しげにアンジェリークが説明する。

「うん、ありがとう!それじゃ早速いただきまーす!」
マルセルは笑顔で両手を胸の前で合わせて一礼し、自分の皿にサラダや果物を少しずつ取り分けた。
「なんだお前、それしか食べないのか?遠慮しなくていいんだぞ」
顔を上げると、マルセルの三倍はあろうかと言う量を皿に乗せたオスカーと目が合った。
よく見るとアンジェリークですら、マルセルより多めの量を皿に盛っている。

「…僕、朝はいつもこれくらいの量なんです」
マルセルは恥ずかしそうに首を竦めた。
「マルセルは昔から小食なのよね。ダイエットとか気にしなくても太らないし、羨ましいわ」
「俺はこれだけ食べてるが、別に太らないぞ」
大量の食事を豪快に口に運びながら、オスカーが笑う。
「マルセルは確かに細いが上背があるんだし、それっぽっちじゃ栄養が足らんだろう」
「うーん、成長期の頃はそれなりに食欲もあったんですけど。そろそろ身長も止まってきたのか、最近はまた食べる量が減ってきちゃって…」
言いながら、語尾が自信無さげに小さくなっていく。

もうすぐ20歳になろうかと言うのに、相変わらずの少年体型はマルセルの目下の悩みの種だ。
背だけはかなり伸びたけど、骨格は華奢なままで筋肉もあまり付かず、手足ばかりがひょろひょろと伸びてバランスが悪い。
仲の良いランディは筋肉もついてがっしりとした大人の体型になって久しいし、細身のゼフェルですら最近は肩幅がぐっと広がり胸板も厚みが増して、関節もゴツッとした大人の骨格になったと言うのに。
目の前にいる大人の男性として完成されているオスカーと比べてしまうと、自分の子供っぽさが嫌でも目立つ。
こんなだからアンジェにも男として見てもらえないんだろうなぁと、どんよりした気持ちになった。

「食べる量は人それぞれなんだし、身体が元気でちゃんと成長してるならそれで充分なんじゃない?」
マルセルの気持ちを察したかのように、アンジェリークが明るく口を挟む。
「最近のマルセルは、背だけじゃなくて急に大人っぽくもなったわ。顔つきも雰囲気も、別人みたいに変わったもの」
「僕が?大人っぽくなった?」
「うん、すっごく。ね、オスカーもそう思うでしょ?」

アンジェリークに笑顔で問われ、オスカーはフォークを口に運ぶ手を止めた。
顔を上げ、マルセルをしげしげと眺め回す。
「…そうだな、女王試験の頃と比べるとまるで別人だ。あの頃のお子様3人組の中では、お前が一番変わったかもな」
マルセルはびっくりして、食べるのも忘れて口をぽかんと開けてしまった。
「本当ですか?僕、あの中では一番子供っぽいままだと思ってたから…」
「そりゃあランディやゼフェルは、そもそもお前よりだいぶ年上なんだ。だがあの中ならお前が一番見た目も性格も落ち着いてるし、年齢の割にはしっかりしてると思うぞ。直情型のあの二人がなんだかんだ上手くやれてるのも、穏やかなお前が間でバランスを取ってるのが大きいんだろうし」
真面目な顔でひとしきり話してから、にやりと笑う。
「まあでも、こうして話すとお前もまだまだ我儘で甘えん坊な所も残ってるんだがな」

オスカーからの意外な高評価に、マルセルは驚きを隠せなかった。
正直言ってこの瞬間まで、鼻にも掛けないお子様扱いされてるとばかり思っていたのだから。
アンジェの前だからリップサービスもあるのかなと考えて、すぐにそれを打ち消した。
この人は心にもないお世辞を言うようなタイプじゃない、それだけは確かなんだ。
そう思うと失いかけていた自信が戻ってきて、ホッとした気持ちになれた。

「でも僕、自分ではどこが変わったとか全然わからないんです。オスカー様の言う通り、末っ子気質で甘えん坊なのは否定できませんし」
「私はね、最近のマルセルは、どことなくリュミエールに似てきたと思うの!」
アンジェリークが前のめりになって目を輝かせる。
「絹糸みたいにサラサラの長い髪や、ほっそりして優しげな雰囲気とかね。二人は仲が良かったから、見た目も似てくるものなのかしら?」

「おいおい、マルセルはリュミエールとは似ても似つかんだろう」
オスカーは笑いながら手を伸ばし、大皿の上のパンを2個いっぺんに掴んだ。
「大体、リュミエールよりマルセルの方がずっと男らしいじゃないか」
「え!僕ってオスカー様から見て男らしく見えるんですか?」
次々と出てくる意外な発言に、マルセルは心底驚いて目を丸くした。
「俺はリュミエールがお前と同じ歳の頃を知ってるが、あいつはまるっきり女にしか見えなかったんだぞ。少なくともお前は、ちゃんと男に見えるしな」
「なぁんだ、やっぱりそんなレベルなんですね」
露骨にがっかりして肩を落とすと、オスカーがちぎったパンを口に放り込みながら可笑しそうに笑った。

「まあお前もあと2、3年もすれば、本物のいい男になるさ。そうだな、お前はどこか…カティスを思い起こさせる所があるんだしな」
「カティス様…ですか?すっごく嬉しいですけど、僕、金髪以外どこも似てないですよ?」
マルセルは首をかしげ、不思議そうにオスカーを見つめた。
「見た目じゃなくて、纏っているオーラとか雰囲気だな。同じサクリアを持つ者同士、やはりどこか通ずる物があるんだろう」

「カティス様って、マルセルの前の緑の守護聖だった方よね?」
アンジェリークが飲み物を注ぎながら、興味津々という表情で聞いてくる。
「うん、すっごく大人で優しくて、本当に素敵な人だったんだよ。僕ね、大好きだったんだ」
「カティスとはよく酒を酌み交わしたが、懐の深い自由人で実にいい男だったな。ま、俺の次くらいってとこなんだが」
ごく当たり前のようにサラッと言い放たれたセリフに、マルセルはついつい笑ってしまった。
「あははっ!オスカー様って本当にいつでも自信満々ですよね」
「当たり前だろう、俺はそれだけの器がある男だと思ってるし、自信を裏づけるための準備や努力も欠かしてないんだ。その積み重ねこそが『自分なら出来る』という心の余裕をもたらし、今の俺という人間を作り上げているんだからな」

堂々と言い切るオスカーの言葉は、強い説得力を持ってマルセルの心に響いた。
体型や子供っぽさをすぐに気にする自分からすると、自信を持つために努力していると言い切れる強さは羨ましく、素直に格好いいとも感じる。
思わず笑っていた口元をきゅっと引き締めると、彼の言葉を一語一句も聞き逃すまいと真剣に耳を傾けた。

聖地に来てから6年近く経つというのに、オスカーとこうしてプライベートな話をするのは、意外にも今日が初めてだった。
年齢も気性も全然違っているから苦手意識もあり、話が合うとも到底思えなかったからだ。
もっと言えばアンジェの周りをうろちょろする自分は、絶対にオスカーから嫌われているに違いない、と思い込んでいたのもある。
今日も邪険に扱われるに違いないと身構えてたのに、普通にあっさりと受け入れられて拍子抜けした。
それどころか気さくで話しやすいし、話せば話すほど尊敬出来る一面が垣間見えて、憧れの気持ちが高まっていく。
ランディやゼフェルとは時々一緒にお酒を飲むらしいけど、きっとこんな感じで楽しい酒を交わす、いい兄貴分なんだろう。
こんなに素敵な人だったなら、もっと早く仲良くしてれば良かったかなぁ、と思った。

「…オスカーのその自信、私にも少し分けて欲しいわ」
食事を食べ終えたアンジェリークがナプキンをたたみながら、伏せ目がちに笑う。
マルセルはその表情の奥に隠された微妙な感情に気付き、注意深く彼女を見つめた。

「君はもっと自信を持っていい。あれだけの仕事量をこなしながら、この聖地全体のムードメーカーにもなってるんだぜ?どんなに不安なニュースが蔓延ろうが、守護聖連中が仲違いしようが、君が来た瞬間に皆が笑顔になっちまう。それはもう君にしか出来ない、立派な才能なんだ」
オスカーが熱意を込めて語ったが、アンジェリークは寂しそうに微笑み返すだけだった。
「…ありがとうオスカー、いつもそう言って慰めてくれて」

「…俺は本心で言ってるんだぜ」
オスカーがすっと腕を伸ばし、アンジェリークの小さな手に自分の掌を重ねた。
親指で滑らかな手の甲を愛撫する様にゆっくりと撫でてから、上体を低く屈めて彼女の瞳を下から覗き込む。
それだけで、たちまちアンジェリークの頬が薔薇色に染まった。
「君はこの俺が心からの愛を捧げるただ一人の女性なんだ。それを忘れないでくれよ」

周りに人が沢山いても平然と愛の言葉を囁くその姿に、マルセルは顔を赤らめて視線を外し、手でパタパタと顔を煽いだ。
給仕係たちはもう慣れっこなのか、見ないふりでそそくさと空いたお皿を片付けている。

…結婚してもう随分経つって言うのに、オスカー様は相変わらずアンジェを溺愛してるんだなぁ。
普段の執務中でもそれは伺えて、常に忙しい彼女を気にかけて業務を手伝い、影に日向に助けとなっている。
でもそれじゃあ彼女の心の奥底にずっと沈んでいる後悔や、深い罪悪感を消し去る事は出来ないんだ。
今や仕事も問題ない、むしろ人一倍仕事をこなせているアンジェが、未だに自信を持てないのは───まさにそれが関係しているんだから。

あの女王試験の日々で、アンジェはなぜオスカー様の手を取るのを迷っていたのか。
オスカー様を選んだ代わりに、何を永遠に失ってしまったのか。
アンジェに選ばれたオスカー様には、絶対にそれがわからない。
皮肉な事に、僕は選ばれなかった側だからこそわかってしまうんだ。
彼女の心にぽっかりと空いた空虚な闇。
その喪失感を埋めてあげるには、どうしたらいいのかも───

アンジェリークはぽぉっと蕩けた瞳でしばらくオスカーと見つめ合っていたが、急にパッと目を見開いた。
マルセルが同席していたのを今さら思い出して振り返る。
「あ、そ、そういえば!マルセルが急に大人っぽくなったせいか、最近は女官達の間でも噂の的になってるのよ!」
真っ赤になって汗をかきかき、慌てて話題を変えていく。
「僕の噂?…やだなぁ、何か変な事とか言われてるの?」
「違う違う、悪い噂じゃないの!どんな女性がタイプなんでしょう、恋人はいるんですか?って。私がマルセルと仲が良いからか、皆から質問攻めにされちゃって」
「ええっ!そ、そうなの?」

アンジェリークは部屋の隅にいる侍女たちにちらっと視線を走らせてから、マルセルに顔を寄せて小声で囁いた。
「さっきなんかね、マルセルに誰が飲み物を持っていくかでうちの侍女達が取り合いになってたんだから。彼女達に言わせると、あなたは凛とした透明感があって、気軽に触れてはいけないような神秘さを感じさせる存在なんですって!普段は甘えん坊ですごく可愛いのよ、って言ったらびっくりされちゃったわ」
翠の瞳を悪戯っぽく輝かせながら、アンジェリークがうふふと笑う。
マルセルは気付かれないくらい微かに眉を曇らせると、複雑な胸のうちを隠してあやふやな笑みを返した。

…もしこれが僕じゃなくてオスカー様の噂だったなら。
アンジェはやきもちを焼いてたちまち不機嫌になるんだろうなぁ。
僕がどんなに大人っぽくなって、女性から褒めそやされようが、アンジェに男として見てもらえる訳じゃない。
僕はアンジェにとって、ただの可愛い弟にしか過ぎないんだから───

でもそうなるように仕向けたのは、他でもない僕なんだ。
彼女の心の隙間を埋めるためには、恋心に気づかれないよう、ただの弟として無邪気に振る舞う必要があったから。
そう承知してたはずなのに、彼女の心にこれっぽっちも恋愛感情が無いのを思い知る度、苦しくなってしまう。

自分で自分の首をじわじわと締めているような感覚に、マルセルはフォークを皿の上に置いてふうっと息を吐いた。
作り笑顔を顔に貼り付け、無理矢理に話題を変える。

「…アンジェはさ、昔から全然変わってないよね」
「ええっ、本当?これでも少しは大人っぽくなったかなぁ、って思ってたのに。オスカーにも未だに子供扱いされちゃうし、私ってそんなに成長してないのかなぁ…」
「ううん、そう言う意味じゃ無いんだ」
がっくりと肩を落とすアンジェに、慌ててマルセルが否定する。
「補佐官のドレス姿の時は、髪もきちんと結っててお化粧もしてるし、すごく大人っぽくなってるよ。でも今日みたいに飾らない格好でいると、女王候補の頃に戻ったみたいだなぁって。あ、もちろんアンジェはあの頃からすっごく綺麗で、そこは全然変わってないからね!」
アンジェリークは瞬時に首まで真っ赤になり、両手でパッと頬を覆った。
「マ、マルセルって、時々オスカーもびっくりなセリフをさらっと言うわよね…」
「ひどいなぁ、アンジェ!僕はあんなに恥ずかしいセリフは言わないよ」
「おい、それはどういう意味だ」
食事を綺麗に平らげ終えたオスカーが不満そうに口を挟み、テーブルは一気に和やかな笑いに包まれた。



食事が終わると侍女達が下がり、部屋にはマルセルとアンジェリーク、オスカーの3人だけになった。
静かになった部屋でオスカーはゆったりと脚を組んでカプチーノを飲み、新聞を広げて読み始める。
アンジェリークはマルセルの持って来た鉢植えの花を明るい窓辺に飾り、テーブルに肘をついて組んだ指に顎を乗せ、うっとりと幸せそうに眺めた。

「この花をこうしてまた眺められて、本当に嬉しいわ!この花は私をいつも見守って応援してくれる、お守りみたいな存在なんだもの」
「ふふっ、アンジェがこんなに長い間大切にしてくれてるなんて、お花を贈った僕まで嬉しくなっちゃうな」
笑顔で見つめるマルセルに、アンジェは申し訳なさそうに目を伏せた。

「そう、本当に大切にしてたわ。なのに…いきなり萎れちゃったのよ。どんなに忙しくてもお水も肥料も欠かさなかったのに、どうして?ってすごくショックだった。私はこんな小さな命すら、ちゃんと育てられないのかな、って…」
濃い睫毛の下で、緑の瞳が暗く翳った。
自己嫌悪に陥っている気持ちを察し、マルセルは慰めるように彼女の肩にそっと手を置く。
「そんなに気にしないで、もうお花は元気になったんだからさ。植物を長いあいだ育てるのって、それだけ大変な事なんだよ。お花だって人間と同じで、急に具合が悪くなったりする日もあるんだから」
その優しい言葉にアンジェリークは顔を上げた。
咲き誇る花をもう一度見つめると、ようやく小さな笑顔が戻ってくる。

「そうよね、マルセルがこのお花を蘇らせてくれたんですもの。あなたはやっぱり、お花や動物と心を通わせる特別な才能があるんだわ」
「ううん、そんな才能なんて大袈裟なものじゃ無いんだ。ただ名前をつけて呼びかけてあげたり、常に気にかけてお世話してるだけなんだよ」
「私もマルセルに教わった通り、名前で呼び掛けたり綺麗な音楽を聴かせたりして、大切に育ててたんだけどなぁ」
「アンジェもこのお花に名前をつけてるんだ!ねぇ、何て呼んでるの?」

マルセルの何気ない問いかけに、アンジェリークは急にそわそわし始めた。
大きな緑の瞳がちらりと一瞬だけ動き、オスカーの方を盗み見る。
オスカーは真剣に新聞を目を通していて、彼女の視線には気付かない。
「ふふっ、内緒よ!」
アンジェリークは立てた人差し指を唇に当て、頬をほんのりと赤く染めた。

まるで少女のように初々しく恥じらうその姿を見て、マルセルの心に小さな棘がちくりと引っかかる。
(もしかして、オスカー様の名で呼んでるんだろうか)
心の奥のほうから、もやもやした灰色の感情が湧き上がってくる。
(なんだか…嫌だなぁ)

マルセルにとってこの花は、アンジェリークそのものだ。
だから心の中ではいつも「アンジェリーク」と呼びかけていたし、それだけで胸がときめいて幸せな気持ちになれた。
もちろんこれはアンジェにあげた物だから、どんな名で呼ぼうと彼女の自由なのはわかってる。
それでも、この花だけは。
誰にも邪魔されない、二人だけの大切な絆であって欲しかった。

「ねえ、マルセルはどうやってこのお花を元気にさせたの?コツがあるなら教えて欲しいわ!」
明るい声が暗い思いを掻き消し、マルセルはハッと我に返った。
慌てて笑顔を取り繕い、鉢植えを眺める。

「この花はね、あまり背丈も伸びないから、そんな頻繁に植え替えなくてもいい品種なんだ。だけどさすがに5年も経つと根も伸びきって、根詰まりを起こしちゃっててさ。だから古い根と葉を整理してあげたんだよ」
アンジェはふんふん、と真剣な顔で頷きながら身を乗り出す。
「古い根と葉の整理って、どうやるの?」
「葉っぱが多くなり過ぎると栄養が行き渡らなくなるから、苗の下のほうに付いてる古い葉を切ってあげるんだ。それから苗をそっと取り出して、古くなった根っこの先だけ切り落として…」
「え、ちょっと待って!古い根っこがどれかなんて、パッと見てもわからないわ」
その疑問に、マルセルは顎に手を当ててうーんと小首を傾げた。
「そっか、僕はわかって当たり前みたいに思ってたけど…確かに知らなければ見分けられないよね」

しばらく考えてから、マルセルは思いついたように「そうだ!」と両手を合わせた。
「じゃあさ、今度この鉢の植え替えを一緒にやろうよ!その時に古い根の見分け方も教えてあげる。今は根を切ったばかりだから、3ヶ月後くらいがいいかな。一回り大きい鉢に植え替えれば、当分は根詰まりも起こさなくなって、お花を健康に保ってあげられるしね」

我ながら名案だと思ったのに、何故かアンジェリークの瞳に動揺の色が走った。
緑の瞳がそろりとオスカーに向けられ、助けを乞うように何かを訴えかけている。
新聞を読んでいた筈のオスカーも、いつの間にか顔を上げていた。
二人にしかわからない無言の会話が、目線だけで交わされる。
その光景に、マルセルは奇妙な既視感を覚えた。

───なんだろう、この嫌な感じ。
悲しい記憶が無理矢理呼び覚まされるような。

そうか、これはあのピクニックの時と同じなんだ。
アンジェとオスカー様の二人だけに通じる何か。
僕には決して入り込めない、目に見えない境界線のような───

「…ごめんねマルセル、そしたらもうしばらく…そのお花、預かっててもらえないかなぁ?ほら、その…また植え替えする時にマルセルの所に持っていかなくちゃならないし…」
アンジェリークは両手のひらを顔の前で合わせると、心からすまなさそうに謝罪の言葉を口にした。

その奥歯に物が挟まったような物言いに、マルセルは強い不快感を覚える。
胃がキリキリとねじ上げられ、苦い胃液が喉の奥に粘りつく。
「どうして僕が持ち帰らなきゃならないの?重いとか面倒くさいって言うなら、3ヶ月後に僕がまた取りに来てあげるよ。それまではアンジェがお世話しながら、ここで花を楽しめばいいじゃないか」
思わず強い口調で言い返す。

「ええっと、でも…その…」
アンジェリークは落ち着きなく何度も手を組みなおした。
視線が宙を泳ぎ、その目がまたも縋るようにオスカーに向けられる。
その様子に、抑え込んでいたマルセルの苛立ちがついに爆発した。

「…僕はアンジェがこのお花を大切にしてくれてると思ったから、一生懸命お世話を頑張ったんだよ。でもアンジェはそうじゃなかったんだね。僕、絶対にその花を持って帰らないよ!ちゃんと心を込めて、自分でお世話してあげて!」
声を荒げて一気に吐き出すと、マルセルは勢いよく立ち上がって部屋を飛び出た。
「マルセル、待って!」
アンジェリークも立ち上がって叫んだが、マルセルは振り返りもせずにその場から走り去った。

しんとした部屋に残されたアンジェリークが、震えながら両手で顔を覆う。
「…どうしよう、私…マルセルを傷つけてしまった……」
オスカーは新聞を無造作にテーブルに置くと立ち上がり、彼女の側へと歩み寄った。
「…仕方がない、今はこうするしか無かったんだ。タイミングが悪かったな。せめてもう少し後だったなら…」
アンジェリークの肩に手を回して胸元に抱き寄せると、慰めるように華奢な背中をゆっくりと撫でた。



それから一週間後。
女王陛下の名の下に、守護聖達が謁見の間に集められた。
そこで女王の口から、次代の炎の守護聖が聖地に着任した事と、それに伴い現・炎の守護聖オスカーと女王補佐官アンジェリークが退任する旨が告げられた。
退任時期は、次代の守護聖への引継ぎが終わり次第───

その時ようやくマルセルは、あの日のアンジェリークの発言の真意が掴めたのだった。