その花の呼び名は

第3話

マルセルは館の裏庭に設えた籐のブランコに座りながら、ぼんやりと物思いに耽っていた。
足で地面を小さく蹴ってブランコを揺らすと、ギィッと微かに枝が軋む音がする。
この素朴な音も、揺られながら見る美しい花の咲き誇る庭も、いつもなら心を癒してくれる筈だった。
でも今は考え事でいっぱいで、何も頭に入ってはこない。

アンジェリークとの喧嘩別れから、既に二週間が経った。
あの日───彼女が何故あんな事を言い出したのか、今ならもうわかる。
女王補佐官である彼女は守護聖の退任を誰よりも先に把握していて当然だし、正式な発表が為されるまでは守秘を貫かねばならない。
オスカーさまと連れ立って同時に聖地を退くのも、あの時には既に決定事項だったんだろう。
なのに3ヶ月も先の約束を僕に迫られて、さぞかしアンジェは答えに窮したに違いない。

それなのに僕は、自分の未熟さから彼女を責め立ててしまったんだ。
ああやって怒りをぶつける事で、子供じみたヤキモチを焼いていた自分の弱さを隠そうとして。
だから早く、アンジェリークと仲直りがしたかった。
一方的に怒ってしまってごめんねと謝り、今まさに彼女の抱えているであろう心労を消し去ってあげたかった。

なのに未だに謝るどころか、ろくに顔すら見れていない。
炎の守護聖の交代と、それに伴う女王補佐官の退任という二つの大事の中心人物でもあるアンジェリークは、引継ぎ業務に忙殺され、聖殿でもその姿をほとんど見かけない。
陛下に望まれて女王宮に泊まり込む日も多く、ろくに私邸にも帰れていないと聞いた。

それでももし、僕がアンジェリークに会いたいと告げれば───どんなに忙しくても、彼女は必ず時間を作ってくくれるだろう。
でもそのたった一言が、どうしても告げられない。
会えば絶対に一年前の『あの約束』の話になってしまうのが、自分でもわかっているからだ。

マルセルは暗く淀んだ瞳で、ブランコの繋いである大木の根元に目をやった。
そこには二本の枝を十字に結んで作った、目立たないくらい小さな墓標が立てられている。
「チュピ…僕、どうしたらいいんだろう」
ぽつりと呟く。


一年前のあの日も、聖地の常でとても気持ちの良い朝だった。
風は優しく木々を揺らし、朝の柔らかな光を浴びた花の蕾が、ゆっくりと綻び始めていた。
僕は毎朝の習慣で起きたらすぐにチュピを裏庭に離し、いつものようにしばらく自由に遊ばせておいた。
餌やりをするからそろそろ戻っておいで、そう声をかけたら…戻ってきたチュピは、どうした訳か脚に酷い怪我をしていた。
慌ててお医者様の元へ連れて行き、手当てをしてもらったのだけれど。
怪我は良くなる事はなく、チュピはみるみる衰弱して、それからたった二日で───

チュピが亡くなったあの日、僕はショックで執務を休んでしまった。
ベッドに横たわり、手のひらに包み込んだ小さな亡骸をただ茫然と見つめていた。
どうして怪我してしまったんだろう、放し飼いになんかすべきじゃなかったんだろうか。
僕がもっと気をつけてさえいれば、死なないで済んだかもしれないのに…そんな後悔が次々に押し寄せてくる。
守護聖として聖地に来てすぐに飼い始めたチュピ。
僕にとって大切な───たった一人の家族だった。

執務を休んだ僕の元へ、アンジェリークが訪ねてきた。
彼女は何も言わずに僕の手を握り、横たわる僕の傍らにじっとついていてくれた。
やがて無言で立ち上がると、寝室の窓を開けて裏庭を眺め、ブランコのある木に視線を落とす。
「…マルセル、あの木の下にチュピを埋めてあげましょう。あそこなら、この窓からいつでも見えるから」

裏庭に出ると、僕らは大きな木の根本にしゃがみ込んだ。
アンジェは小さなスコップを手にして土を掘りだしたけど、根の周りの土はカチカチに固まっていて上手くいかない。
僕が手伝えば良かったんだろうけど、あの時はショックで頭が働かず、両手にチュピを乗せたままぼんやりとそれを眺めるだけだった。
しばらく土と格闘していたアンジェはスコップで掘るのを諦めて、植え込みに立て掛けてあった大きな園芸用シャベルを引き摺ってきた。
両手でざくりと土に差し込むと、足で踏みながら深くまで押し込む。
補佐官のピンクのドレスが泥まみれになるのも構わず、アンジェは額から汗を滲ませながらひたすらに土を掘り返した。
やがて充分な大きさの穴が出来ると、ふうっと息を吐いてシャベルを脇に置いた。

「マルセル、あなたの手で…埋めてあげて」
僕は操られているかのように、何も考えずに穴にチュピの身体を横たえた。
頭の中に白い膜が張っているかのようにぼんやりとして、物事が深く考えられない。
少し硬直が始まっていたチュピは、それでも眠っているかのように安らかな顔をしていた。

「土を…かけてあげましょう」
肩に手を置かれて促されたその瞬間、目の前の白い膜がパチンと弾け、止まっていた感情が心臓に滝のように流れ込んでくる。
僕は首を横に振った。突然涙が頬を伝う。
「嫌だ…チュピ…お別れしたくないよ!僕を、僕を…一人にしないで…!」
涙が止まらなくなった僕を、アンジェが横から包み込むように抱きしめた。
「マルセル、私がいるわ。決してあなたを一人にしない。約束するから…」

アンジェリークの胸で、僕は声をあげて泣きじゃくった。
永遠に止まらないかと思われた涙はいつしか枯れ果て、彼女の優しい手が撫でるように涙を拭う。
それから僕は身体を起こし、両手でゆっくりと土をかき寄せ───チュピに最期の別れを告げた。


未だにあの日の事を思い出すと、肺が締め付けられるような痛みに襲われる。
けれど同時に『あの約束』を思い出す事で、その辛さを乗り越えられる。
そうなんだ、あの日の約束を、僕は今でも心の拠り所にしている。
アンジェがオスカー様と結婚していても、僕のことは弟としか見ていなくたって構わなかった。
ただ、僕を一人にしないでくれるだけで。たったそれだけで良かったのに。

それにあの約束を大切に思っているのは、僕だけじゃない。
アンジェこそが、あの約束を守り抜きたいと強く願っているのを知っている。
彼女が失った大事なもの、守りきれなかったもの。
僕はそれに成り代わる事で、彼女の心を満たしてきた。
もしこの約束も守れなかったら、今度こそアンジェは自分を許せなくなってしまうだろう。

だからこそ、僕から笑顔で『幸せにね』って送り出してあげるのが一番いい。そう頭ではわかってるんだ。
でもいざアンジェの顔を見てしまったら、きっと感情が溢れて止められない。
「僕を一人にしないって、約束してくれたよね」って口にしてしまう。
そんなの、彼女を困らせるだけなのに。
だから会うことも出来ず、こうして一人でひたすらに悩み続けている。

でもこの瞬間にも時は過ぎていき、刻々とオスカー様の退任の日は迫ってくる。
僕が守護聖としてやってきた時、カティス様は聖地に3ヶ月残ってくれたけど、オスカー様はいつまで残るのか。
この前ゼフェルと話した時は、せいぜいあと1ヶ月じゃないかって言っていたけど。
その1ヶ月でこの気持ちにケリをつけ、アンジェと仲直りして笑って見送るなんて器用な真似が、僕に出来るんだろうか───?


「マルセル、ここに居たのか」

張りのある爽やかな声に、マルセルの意識が引き戻された。
視線を上げると、風の守護聖・ランディが正面からきびきびとした足取りで歩いてくるのが見える。
最近とみに身体つきが逞しくなり男らしさが増したランディは、すっかり年長の守護聖としての立居振る舞いが板に付き、歩き姿も堂々として大人の風格が滲み出ている。
聖殿でもすれ違う女官達に熱い目線を送られることも増え、公園やカフェでデートに応じる姿も見かけるようになった。
それでもマルセルに向ける真っ直ぐな視線と明るい笑顔は、初めて出会った頃から少しも変わっていない。

「久しぶりだね、ランディ。どうしたの?」
笑顔で挨拶しながらマルセルは横にずれ、隣に座れる位のスペースを空けた。
ランディは恥ずかしそうに頭を掻いてから、大の男が二人で座るには少し窮屈なブランコに腰掛けた。

「アンジェリークが、さっきまでマルセルを探してたんだ」
「アンジェが?」
「ああ、急にぽっかりと時間が空いたから、マルセルと話がしたいって言ってさ。結局探しても見つからなかったから、諦めて仕事に戻ったんだけどな。でも何だか顔色が悪くて、深刻そうな顔をしてたよ。マルセル、お前…もしかしてアンジェと何かあったのか?」

真っ直ぐに瞳を見据えながら聞かれ、マルセルは顔から笑みをさっと消すと視線を外して俯いた。
膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめる。
そのまま何も話そうとしないマルセルを、ランディは辛抱強く待ち続けた。
たっぷり5分は沈黙が続き、ランディはもうマルセルが話す気は無いのを悟ると、自ら話を切り出した。

「…なぁマルセル、お前が今でもアンジェを好きなのは知ってる。だから残酷な事を言うようだけど…もう諦めたほうがいいぞ。他にも目を向けて、前に進むべきだ」
諭すような優しい声を聞いても、マルセルは顔を上げなかった。
握った拳が少し震えているのを見て、ランディは心配そうに眉根を寄せた。

「…わかってるよ、ランディはいつだって僕の事を心配してくれてるんだって」
俯いたまま、硬い声でぽそりと呟く。
「あのね、僕…ずっとランディに聞いてみたい事があったんだ」
「?ああ、何でもいいぞ。マルセルの知りたいことなら───」
「飛空都市での女王試験の頃、ランディもアンジェの事好きだったんでしょ」

マルセルが顔を上げ、ランディの瞳を見つめ返す。
いつも柔らかな光を湛える菫色の瞳は、今は思い詰めたように固く強張っている。
「すごく…本気だったように見えたんだよ。なのにどうして…すぐに諦められたの?好きな人ってそんなに簡単に、忘れられるものなの?」

ランディは目を見開き、動揺をはっきりと顔に表した。
そのまま呼吸すら忘れたように動きを止める。
目を閉じて大きく息を吸い込んでから、ふーっと詰めていた息を細長く吐き出す。
再び目を開いた時には、もう澄んだ空色の瞳には迷いは一切見られなかった。

「…そうだよ、俺もあの時、アンジェリークの事が大好きだった。初めての真剣な気持ちだったし、それは嘘じゃなかったさ」
「じゃあ…!」
「でも───アンジェはオスカー様といるのが一番幸せなんだ。好きな人の幸せを願うのだって、大切な事だろう?マルセル、お前はそうじゃないのか?」
マルセルが下唇を噛み、首を横に振る。
「わかってるよ、けど僕は…」

「はっ!相変わらずの綺麗事だな、風の守護聖さまよ」
「ゼフェル!」
斜め前方にある大木の木陰から、いきなり鋼の守護聖が姿を現した。
腕組みして木の幹に寄り掛かり、不機嫌そうに眉間にきつく皺を寄せ、目を細めてこちらを見ている。
頬が痩けて鋭さを増した顔立ちは最近さらに眼光が鋭くなり、マルセルの心の奥まで見透かすような迫力を帯びていた。

「なんだお前、こんな所でコソコソ盗み聞きなんて卑怯だぞ!」
ランディが声を荒げたが、ゼフェルはそれを無視してマルセルの顔を睨みつけた。
「おいマルセル、忘れる忘れないなんて、自分で意識して出来るもんじゃねーんだ。忘れらんないなら仕方ねえ、それと付き合っていくしかねーだろうよ。だがな、こんな所でウダウダしてると忘れられるもんも忘れられなくなっちまうぜ」
言いたい事だけ言うとくるりと踵を返し、ゼフェルはその場を立ち去ろうとした。
だが出しかけた足をピタリと止めて、首だけで振り返る。

「…おっと、大事な話を言い忘れるところだったぜ。あのな、オスカーはあと1ヶ月位はこっちに残るだろうって話だったが、引き継ぎが順調なんで退任が大幅に早まったんだとよ」
マルセルが弾かれたように顔を上げた。
その顔色が真っ青になっているのも構わず、ゼフェルは言葉を続ける。

「…退任時期は一週間後、これはもう決定だ。どーすんのか、あとはてめーの頭でよく考えろ!」
それだけ言い捨てると、ゼフェルはもう振り返らず、ずんずんと足早にその場を立ち去った。
「おい待てよゼフェル、今の話は本当なのか?」
ランディが走って追いかけていく。

「嘘だ…そんな……」
一人残されたマルセルは、茫然と前を見つめて呟いた。
アンジェリークが聖地を去るまで、残された時間はたった一週間───


---◇---◇---◇---◇---



月夜の晩、マルセルは自室の机に向かい、薄緑色の便箋に文字を書いては破り捨てを繰り返していた。
いざこうしてアンジェリークに手紙を書こうとすると、書きたい事があり過ぎてうまく纏まらない。
回りくどくなってしまったり、言葉が足りなくなったり。
「あぁっ、また失敗だ!」
今日何十枚目かわからない失敗作をくしゃくしゃと丸めて、近くのゴミ箱に放り投げた。

結局あれから、多忙なアンジェリークとは一度も話せなかった。
昨晩、女王主催の盛大な別れの宴が催されたので、そこが彼女と話せる最後のチャンスと一縷の望みをかけていた。
けれど別れを悲しむ女王陛下がアンジェリークを片時も側から離さず、更にその周りには女王補佐官との最後の別れの挨拶を交わしたがる職員達の輪が何重にも取り巻いていて、マルセルは近づく事すら叶わなかった。

アンジェリークとオスカー様は、明日の朝に聖地を去る。
今日も遅くまで女王宮に籠って仕事を片付けていたアンジェは、おそらく出発直前までゆっくり話をする暇も無さそうに見えた。
こうなったらせめて手紙をしたためて渡そう、そう思ったのに───自分の正直な気持ちを文章にするのがこんなに難しいなんて。
同じ姿勢で長時間座っているせいか、肩と首筋が凝り固まって痛み、集中力が続かない。
マルセルはふぅと息を吐き、椅子の背に身体を預けて目を閉じた。

とにかく心を落ち着け、もう一度頭の中を整理してみよう。
まず一番に書きたい事は───喧嘩の謝罪と仲直りの言葉だ。
もう怒っていないと伝え、お花も引き取って僕が育てたいと申し出る。

それから、チュピが亡くなった日の約束についても。
アンジェは充分なくらい側にいてくれたのだから、僕はもう一人で大丈夫、と伝えなくては。
面と向かっては上手く言えそうになくても、手紙なら落ち着いて伝えられる筈だ。

そして、アンジェリークへの想い───友人としての好意や感謝の気持ちはもちろん伝えたい。
でも、この秘めた想いだけは言うつもりはなかった。
自分の心の中だけに仕舞い込んで、いずれ時間が忘れさせてくれるその日をじっと待ち続ける。

だってアンジェはオスカー様じゃなきゃダメなんだ。そんなの自分が一番良くわかってる。
この恋が叶うかもなんて無駄な期待は、とうの昔に諦めてる。
諦めきれないのはただ一つ、僕しか満たせないアンジェの心の空白。
そこはようやく見つけた僕の居場所だから。
誰も────オスカー様すら入れない、僕だけの────


マルセルの脳裏に女王候補時代のアンジェリークの姿が浮かぶ。
手を振りながら駆け寄ってくる、眩いほどの煌めきに満ちた笑顔の少女。

「マルセル様、聞いてください!今日は大陸に小さな緑が芽吹いたんです!」
「最近は地震も落ち着いて、ようやく安定してきたかなーって」
「ここのところ順調に人口が増えてるから、民の望みもすっごく増えて。育成も大忙しなんですよ」
「リオがいきなり歳をとってて、私、驚いて逃げちゃいました…」
「…悪天候で収穫が減って、村人たちが争っているんです」
毎日のように僕に報告にくるアンジェは、時に喜び、時には涙を流して悲しみながら、エリューシオンの発展をつぶさに見守っていた。

「アンジェってさ、なんだかエリューシオンのお母さんみたいだね」
何気なく言った言葉に、アンジェリークは心から嬉しそうに微笑んだ。
「そう…かもしれないです。エリューシオンは私にとって、目の離せない子供のような存在ですから。でもこんなふうに思うのって変ですよね、自分でお腹を痛めて産んだ訳でもないのに」
言いながら自分のお腹にそっと触れ、恥ずかしそうに頬を染める。

「…私、最初はなんで自分が女王候補に選ばれたのかわからなかったんです。でも初めてエリューシオンを見た時、その理由がわかりました。だってエリューシオンは、私そのものだったんですもの。私の一部を持って宇宙に生まれ落ちた分身。まだ生まれたてで、右も左もわからないで大声で泣いている。何を望んでいるのか、どうやって育てるのか、私もよくわからないけど…でもきっとこれは私にしか出来ない事。だからいつも見て、聞いて、触れてあげようって思いました」
両手のひらで見えない何かをふわりと包み込み、夢見るような瞳で笑う。

「最初は泣くばかりで私がいなければ何も出来なかったのに、少しづつ出来ることが増えて。いきなり自分の足で立ち上がったかと思えば、すぐに転んで私の助けを呼ぶ。でもある日私の差し出した手を振り払い、一人で歩き始める────」
アンジェの瞳に、寂しげな影が差す。
「そしてあっという間に成長して私を追い抜かして、いつか別れの時が来るんですよね。でも民たちが一生懸命生きた姿を忘れないよう、私は大陸の築いていく歴史をこの目にしっかりと刻んでいきたいんです」

エリューシオンに想いを馳せながら語るアンジェリークは、少女の面差しから母性が滲むように溢れ出していて、まるで女神様のように綺麗だった。
僕にとっての彼女は初恋の相手でもあり、同時に母のような優しく大きな存在でもあった。

きっとアンジェが女王様になる、僕はそう確信していた。
女王アンジェリークが創りあげる宇宙は、きっと愛に満ち溢れた素晴らしい世界になるだろうから。
守護聖として彼女と共に宇宙を見守る日が来るのが、待ち遠しかった。

だから女王試験を降りると聞いても、僕はすぐには信じられなかった。
エリューシオンとオスカー様。
大事な子供と、愛する男性。
どちらかを選ばなきゃいけないとしても、アンジェは絶対にエリューシオンを選ぶと思っていたのだから。

でもアンジェは選んでしまったんだ、オスカー様を。
そして自分の子供のように愛していたエリューシオンを、ロザリアに託さざるを得なくなった。
もちろんロザリアはフェリシアと同じようにエリューシオンを慈しみ、心血を注いで完璧なまでに美しく育成してくれた。
そうしてエリューシオンはいつしかフェリシアと同化して一つになり、アンジェリークが育てた痕跡すら消えていった。

それを見ていたアンジェリークの気持ちは、どんなだったんだろう?
手を放したのは自分なのだから、感謝こそすれ不満など言える筈もない。
アンジェリークもエリューシオンも何不自由なく幸せなのだから、これで良かったはず。
いくらそう思おうとしても、自分を許せない気持ちは、心の奥底に残ってしまったんだろう。

あの日から彼女は、自分に自信を持てなくなった。
大切な命を育て守る事すら出来ない、無責任で駄目な人間なのだと。
だから僕は────


…ピンポーン…

来客を知らせるチャイムの音が鳴り響き、マルセルはぱちりと目を開けた。
(こんな時間に…誰だろう?)
壁の時計を見ると、もう夜の8時を回っている。
普段から早く寝てしまうマルセルの館には、遅い時間に訪ねてくる客など滅多にいない。

(まさか……アンジェリーク?)
いきなり心臓がどきどきと早鐘を打ち、息が乱れた。
ここしばらくずっと見れていない、輝くような彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。
どれだけ自分がアンジェリークに会いたかったのか、この瞬間に思い知った。
会いたい、今すぐに!

マルセルは椅子をガタンと鳴らして立ち上がると、一目散に部屋を飛び出した。
慌て過ぎて廊下ですれ違ったメイドとぶつかりそうになり、さらに階段では足を踏み外して危うく落ちかける。
普段は穏やかで落ち着いている館の主人のいつにない慌てっぷりに、使用人たちが何事かと心配そうに顔を出す。
視線に構わずバタバタと転がるように玄関ホールにたどり着くと、いつもならこの時間にはとっくに下がっている筈の老執事がのろのろとドアに向かっていくのが見えた。
「僕が出るからいいよ、休んでいて」
執事に声をかけて下がらせると、息を弾ませながら大急ぎでドアを開け放った。

そこにいたのは、マルセルが心に思い描いていた人物ではなかった。
月を背にした長身の男のシルエットが、ドアを塞ぐようにすぐ前に立っている。
暗い闇にも決して溶け込まない、力強い存在感。

「オ、オスカー様?」

驚きにそれ以上声も出ないマルセルに、明日この地を去る予定の炎の守護聖は不敵にニヤリと笑いかけた。
「聖地を去る前に、お前と話をしておきたくてな。急で悪いんだが、時間はあるか?」