Sweet company

~prologue~

「ねえ、次はいつ会えるの?」

乱れたシーツの合間から、物憂げな女の声が聞こえてくる。
女は白い裸体をシーツで包み込み、乱れた黒髪をかきあげながら、媚びを含んだ艶のある視線で男を見つめている。

声をかけられた男は、シャツに袖を通しながら小さく振り向いた。
「そうだな…しばらくは忙しいんで、約束できそうにないんだ。でも君のようないい女を俺1人のためにじっと待たせておくのも忍びないから、他の奴と付き合っても構わないんだぜ?」

「それって…もうお別れって事?」
少し寂しげな上目遣いで、女はベッドの上に半身を起こしてシーツを胸から滑り落とした。
見事な大きさの乳房がシーツからこぼれ落ちる。
だがそれを見つめる男の目には、もう欲望の光は宿る事はなかった。

「そんな寂しそうな顔をするな。俺だって、忙しくしてる間に君に他の男が出来るのなんて見たくはないんだ。それだったら、一度きっちり別れたほうが互いの為だって事さ」
そう言ってボタンをかけながら大股でベッドに近づくと、寝そべっている女性に軽く口づけてから、ゆっくりと親指でその唇をなぞった。
「君は俺には勿体無いくらい素敵な恋人だったよ。楽しかった」
微笑んでウィンクを1つ投げると、次の瞬間には踵を返し、男は部屋を出ていった。

ひとり残された女はふぅっと溜息をつく。
噂通り、あっという間に落とされて彼の恋人になり、そして瞬く間に関係が終わった。
あんな素敵な男性とはお近付きになれる機会だって滅多にないから、惜しい気もするけど-----こっちも散々楽しませてもらったのだから、これで良しとするべきなんだろう。
しつこく追いかけたりなんかしたら、二度と振り向いてはくれないけど、大人の距離感をわきまえてさえいれば、また気が向いた時にでも声をかけてくれる事もあるかもしれない。
そう、彼は絶対に1人の女に縛られない。
恋から恋へと楽しげに渡り歩いて人生を謳歌する男。
それが彼------オスカー・カークランドなのだから。



オスカーはイグニッションにキーを差し込んで車を発進させると、女と過ごしたマンションの駐車場を滑るように抜け出した。
大都会の街並はそろそろ暗闇に覆われ始め、瞬くネオンに化粧された建物は、昼とは全く違うきらびやかな表情に変化している。

彼女とは、どの位付き合ったのか…2週間、いや10日くらいだったか?
かなりの美人で仕事もでき、男にはおよそ困っていそうにもない彼女を落とすのは、楽しい挑戦だった。
思った通り遊び慣れていたし、うるさく付きまとったりもしない。
セックスも上手で、いつもそこそこ俺を満足させてくれた。

だが、それだけだ。
男を満足させてくれる女性は本当に素晴らしいとは思うのだが、どういう訳かその先を知りたいという興味がなくなってしまう。
中途半端に身体だけが満足しても、心は逆に満たされない。
そうやってどんな女と付き合っても、俺の探していたのは彼女ではなかったと感じて、すぐに他の女性に目がいってしまう。
自分勝手だとは思うんだが、それこそが俺なのだから仕方がない。

女性はみんな可愛らしくて魅力的な存在だし、側にいてくれるだけで心が和む。
企業戦士として激務の日々をを送っている身としては、女性の優しさや柔らかさを味わうのは大切な時間だ。
そう、俺にとって恋は人生の大切なスパイスだ。恋のない人生なんて何になる?
だが、1人の女性に縛られてがんじがらめにされるのは俺の性に合わない。
気の合う魅力的な女性と束の間だけ楽しみ、癒してもらえればそれでいい。

仕事上では成功への道を一足飛びに駆け上り、大都会での洗練された生活も手に入れた。
様々な美女達との恋愛の楽しい駆け引きにも事欠かない。
何もかもが順調で、充実した人生を送っている。
なのに、この大都会で成功を手にすればするほど、心の奥の『何か』が輝きを失っていく。
一体その『何か』の正体とはなんなのだ?

そこで携帯電話の呼び出し音が鳴って、オスカーの思考は中断された。
ハンズフリーのスイッチを入れると、運転する手を休めないまま電話に出る。
「カークランドだ」
「もしもし、オスカー部長ですか?こんな時間にすいません、営業2課のマーフィです」
スピーカーから聞こえてくる声の主は、オスカーの会社の部下のものだった。その声には、緊張と疲労が強く滲んでいる。オスカーはすぐに表情を引き締めた。
「どうした?何か問題でもあったのか?」
「はい、実は…」

オスカーは部下の説明にじっと耳を傾けた。
話を要約すると、外国企業との大口契約の話が大詰めにきているのだが、契約締結の直前になって向こう側から内容の見直しを言い渡されたのだという。
相手の言い分を全て飲むと、こちらの利益は大幅に減少してしまう。
なんとか最初の契約内容のままで押し進めたいのだが、相手方のほうが一枚上手でなかなか歯が立たない、という話だった。

「すいません部長、ここまで漕ぎ着けたのに上手くいかなくて…」
「心配するな、マーフィ。俺が直接交渉のテーブルにつこう」
オスカーの言葉に、マーフィが安堵の溜息を洩らした。
「部長に直接出馬していただけるのなら、これ以上心強い事はありません。でも今は他の案件も抱えてお忙しい身なのでは?」
部下の気遣いに、オスカーがフッと笑みをこぼす。
「忙しいほうが仕事は張り合いがでるってもんだ。今から俺は社に戻るから、今までの交渉内容の詳細をまとめてメールしてくれ。必要な資料が揃ったら、君とも綿密に打ち合わせをしておきたい。明日の朝一番で俺のデスクに来れるか?」
「は、はい、大丈夫です!」
「安心しろ、必ず契約をクロージングしてやるよ。それもこっちの言い値でだ」

オスカーは電話を切ると、これからの戦い方について考えを巡らせた。
相手は手強そうだが、そのほうがやり甲斐もあるし、一仕事終えた時の充実感も大きい。
見てろ、今さら契約内容の見直しなんて言い出したのを後悔させてやる。

オスカーは口の端を微かにあげてアクセルを踏み込むと、滑らかに加速する車の感触を楽しみながら、大都会の夜にとけ込んでいく。
先程会っていた女性の事は、もう頭の片隅にも残ってはいなかった。



-----◇-----◇-----◇-----





「アンジェ、電話よ。ジョッシュから」

アンジェリークは母の声に、ボウルをかき回していた泡立て器を持つ手を止めた。
ほんの少し憂鬱そうに眉をひそめると、オーブンの温度に注意深く視線をやりながら受話器を受け取る。
「もしもし、ジョッシュ?え?これから会わないかって?…うーんごめんなさい、今ちょっと忙しいの」

その声を聞いたアンジェリークの母が、慌てたように工房に顔を出す。
「アンジェ、ママならもう手が空いたから、ケーキの焼き加減くらい見ておくわよ。あなた、最近仕事ばっかりじゃないの。久々のデートでしょ、行ってらっしゃいよ!」
母の声が電話の相手にも聞こえたのだろう、向こうは少し強引に迎えにくると言い残し、さっさと電話を切ってしまった。
アンジェリークは溜息をついて受話器を戻すと、のろのろとエプロンを外しはじめた。
支度をする為に、小さな自分の部屋へと向かっていく。

ジョッシュとはもう、3年の付き合いだ。
まわりはもう結婚するものだと思ってるようだし、彼も大学を卒業したら私と結婚したいようだ。最近は会話の中で、幾度となくそれらしい事をほのめかされている。
でも、肝心の私の気持ちは?というと、いまだにジョッシュと結婚といわれてもピンと来ない。
むしろ最近は仕事のほうが大事で、デートする時間があるならお菓子作りの研究をしたいとすら思ってる始末だ。

アンジェリークはリボンやフリルが沢山ついたミディ丈のワンピースに袖を通し、赤いリボンを髪に結ぶ。
ジョッシュはこういった少女っぽい服装が大好きで、デートの時はいつもこういう格好をさせたがるし、手放しで似合うと褒めてもくれる。
最初の頃はそれが本当に嬉しかった。けれど20歳になった私には、いつの間にかこういった服がだんだん似合わなくなってきたように感じているのに、彼は相変わらず私にこういう格好をさせたがる。
たまにはもう少し大人っぽい格好だってしてみたいし、流行りのお洒落にもチャレンジしてみたい。
だけど、ジョッシュはそんなファッションは絶対私には似合わないって言い切る。
「アンジェは確かに中身はしっかりしてるけど、外見は子供みたいに可愛いっていうアンバランスなとこが魅力なんだからさ。背伸びして大人っぽい格好なんかしたらおかしいよ」
そんな風に言われる度、着たところを見た訳でもないのに、とちょっぴり悔しくなってしまう。

でもまわりの友人達は、ジョッシュは私には勿体無い程の素敵な恋人なのだから、彼の言う事を素直に聞くべきだと言う。彼みたいな人と結婚できるのなら、少しくらいの不満は我慢して、彼にあわせなさいよ、と。
確かに、ジョッシュは素敵な人だ。
ハイスクールの1学年先輩だったジョッシュは、爽やかなハンサムで、フットボールの花形クォーターバックを務めるスポーツマン。家柄も良くって、学園中の女の子の憧れの的だった。
私ももちろん憧れていたけど、いつも沢山の女の子に囲まれていた彼が、私のような平凡な女の子に目を留めるはずがないと思っていた。
だから、2年生になってジョッシュから告白された時は本当に驚いたし、素直に嬉しかった。友達にも羨ましがられたし、自分も少し舞い上がっていたのだと思う。
彼の告白を、あまりよく考えもせずに受けてしまったのだから。

それでも付き合いの最初の頃は本当に、楽しかった。
彼は優しいし、デートにも慣れていて、いろんな場所に連れていってくれた。
お洒落なカフェに高級なレストラン。素敵なホテルのラウンジバーや、踊りが楽しめるナイトクラブ。
男性と付き合うのが初めてで、遊び回ったりした事すらなかった私には、文字どおりそれは夢のように楽しいひとときに思えた。

でもジョッシュがハイスクールを卒業し、大学に進学した頃からなんとなく…私の中でこの付き合いがしっくりいかなくなり始めた。
最初は大学と高校という互いの環境の違いのせいで、しっくりこないのかなと思ってた。
でもジョッシュは大学に行っても相変わらずまめにデートに誘ってくれたし、誰もが「彼は本当にアンジェに夢中ね」と言ってくれるくらい優しかったのだから、きっと私の考えがわがままなんだわ、と反省もした。
だけど私がハイスクールを卒業し、大学に進学せずに家業の手伝いに専念するようになってからは…彼との心の距離は、ますます開いていくのを感じるようになってしまった。

15歳の時に父が亡くなってから、父の遺したケーキ店を、私と母の2人で必死に守ってきた。
決して裕福ではなかったけど、母と2人でなんとか生活していく事だけは出来た。
でも大学に進学する余裕はなかったし、私も苦手な勉強より、早くケーキ職人として一人立ちしたいと思ってたから、高校卒業と同時に家業に専念する事にした。
身体の弱い母に少しでも楽をしてもらいたかったし、ずっと働き詰めで休みのなかった母に、いつか旅行くらいはプレゼントしたいからと、売り上げをどうやったら伸ばせるかで毎日頭を悩ませていた。
仕事の事で頭が一杯の私と、まだ学生気分を満喫してるジョッシュとでは、考えや価値観ががずれてしまうのは、仕方のない事なのかもしれない。

------でも、それだけじゃない。もう1つ、彼との結婚を考えられない大きな理由がある。


車のクラクションが鳴り響き、アンジェリークはハッと顔をあげた。
どうやら考え事に没頭してる間に、ジョッシュが迎えに来てしまったようだ。
慌てて外に出ると、真っ赤なオープンカーから手を振る彼が見える。

「アンジェ、楽しんでらっしゃいね」
店の中から、母が笑顔で手を振ってくれている。アンジェリークは作り笑いを浮かべて力なく手を振り返すと、ジョッシュの待つ車に乗り込んだ。




「…久しぶりだね。最近なかなか会ってくれないから、心配しちゃったよ。仕事はそんなに忙しいのかい?」
ハンドルを握りながら、屈託のない笑顔でジョッシュが尋ねてくる。
短く刈り込んだ金髪に、濃いブルーアイ。フットボール選手らしいがっしりした筋肉質の体型を、白いタンクトップとぴっちりしたジーンズに包んでいる。女の子なら多かれ少なかれ、彼を素敵だと思うだろう。
私ももちろん、彼を素敵だと思っている。だけど…どうしてなんだろう?こうしてすぐ側にいても、胸がときめいたりはしないのだ。
----それは、3年という長い付き合いがもたらした、良く言う「マンネリ」のせいなのかもしれないけど。

「まあ、せっかく会えたんだから仕事の話はナシにしようよ。それより、夕食はまだだろ?美味しいパスタを出す店を見つけたんだ。そこでいいかい?」
アンジェリークは少し笑顔を取り戻して頷く。
ここは小さな田舎街ではあるけれど、遊びなれているジョッシュは気の効いた素敵なお店を沢山知っている。 彼が連れていくお店なら大抵間違いはないし、彼はいつも私を喜ばす事を第一に考えてくれている。
彼との付き合いに疑問を感じる瞬間はあっても、いつもこうして優しくされる度に、まだ大丈夫、きっとやっていけると自分を納得させて付き合いを続けてきた。
こうして二人でいる楽しい時を重ねていけば、私もいつかは彼との結婚を考えられるようになるのかもしれない。
みんなが言うような普通の幸せとやらを、掴めるのかもしれない-----
そう思っていたはずなのに、ジョッシュの次の台詞に、笑顔はいっぺんに凍り付いてしまった。


「それから、いつものホテルに部屋をとったんだ。今日は泊っていけるだろ?」


「……ごめんなさい、明日も早くからお菓子の仕込みをしなくちゃならないの。泊まりは無理よ」
「そっか、じゃあしょうがないな。でも2時間くらいなら大丈夫だよね?」
「…そうね、それくらいなら……」
アンジェリークは固い笑顔を浮かべながら、やっとの思いで答えた。

お菓子の仕込みがあるのは本当だけど、泊れないというのは嘘。
どんなに忙しくても、好きな人と一緒にいられるのなら、多少の無理はできるはず。
でも私は、その無理が出来ない。

何故なら私は-----セックスが好きじゃないから。楽しめないし、むしろ苦痛にしか感じない。
経験を積めばきっと平気になるのだろうと期待もしたけど、逆に回数を重ねる程苦痛感は強まっていくばかり。最近では、セックスの事を考えるのすら苦痛になってしまっている。
きっと私は、世間で俗に言うところの『不感症』ってやつなのだろう。

ジョッシュはハイスクール時代から女性経験もそれなりに豊富だったようだし、私より前に付き合ってた女の子達が、彼はそっち方面は上手いと吹聴していたのも聞いた事がある。
だから、セックスが好きになれないのは私のほうにこそ問題があるのだし、決して彼のせいじゃない。彼はこんな不感症の私でも文句1つ言わないし、きっと、とても上手に私を抱いてくれてるんだと思う。
それでも事の最中は、嫌悪を顔に出さないのが精一杯で、終わった途端に申し訳なさと惨めさに襲われて、一刻も早くその場を逃げ出したくなってしまう。

でも……結婚しちゃったら、もうどこにも逃げる場所なんてないじゃない?


つまり、これこそが------私が彼との結婚を躊躇してしまう、もう1つの理由。