Sweet company

1. Turning Point (1)

目覚まし時計の大音量が、まだ薄暗い朝の静寂を一瞬にして破っていく。

「う~ん………」
アンジェリークはブランケットから顔を出すと、目を瞑ったまま片手を伸ばしてヘッドボードの上をごそごそと探った。
しかし、目覚まし時計はそこには、ない。

「………………」
しばらく手を出した格好のままじっとしていたが、耳障りな金属音はいっこうに止む気配はない。
アンジェリークは渋々と身体を起こすと、重いまぶたを必死で持ち上げながら、音の出所を探しはじめた。

ぼんやりと薄暗い室内を見渡しているうちに、ようやく目のほうが暗がりに慣れてくる。
ベッドから3メートルくらい離れた場所にあるライティングデスクの上で、目覚まし時計がけたたましい音を奏でているのが目に入る。
のろのろとそれに歩み寄り、時計上部のストップボタンを叩くように押すと、ようやく朝の静けさが戻ってきた。
時計の針は、午前4時半を指している。まだ朝日すら顔を覗かせていないが、これが彼女の毎朝の起床時間。

アンジェリークは、朝が大の苦手だ。
正直に言えば、本当はこんな時間に起きたいなんて絶対に思わない。
しかしお店のお菓子をほとんど1人で作っている彼女は、いやでも早朝に起きて作業を始めなければならない。
そこで寝坊を防ぐ為、毎日違った場所に目覚ましをセットしている。
こうしておけば、時計を探しているうちに自然と目が覚めてくる。これは長年の経験から編み出した、自分なりの『寝起き必勝法』だ。
さらに2度寝を防止する為に、目覚まし時計の横に亡くなった父の写真を飾る事にしている。父が見ていると思えば、もう一度ベッドに潜りたくなる誘惑にも負ける事はない。

アンジェは大きなあくびを1つしてからうーんと伸び上がり、父の写真の入ったフレームを手にとってキスをした。
「…おはよう、パパ」
写真の中の父親は、5年前の姿のまま、子供のような輝く笑顔を浮かべている。
明るい栗色のくせ毛に、大きな緑の瞳。童顔で、とてもこの時37歳だったようには見えない。
朗らかて、優しくて、強くて…そして大好きだった、パパ。
アンジェリークは微笑むと、自分と良く似た父親の写真をじっと見つめた。

5年前にパパが突然の事故で亡くなるまでは、私は甘えん坊の普通の女子学生だったわ。
毎日寝坊してばかりの娘を起こす為、パパはいろんな方法を試してくれた。
くすぐったり、脅かしたり。下手な歌を大声で歌ったり、私の大好きなケーキを鼻の先に置いてみたり。
あの頃は、毎朝大笑いしながら家族みんなで楽しく朝を迎えていた。
だけどあの悲しい事故の後、人生の全てが一瞬にして大きく変わってしまった。

この上なく父を愛していた母親は、ショックのあまりしばらく虚脱状態に落ち入ってしまい、食事も喉を通らなくなってしまった。
元々身体が弱いママは、みるみるやつれて寝込んでしまい、私はママを励まし、必死で面倒を見なければならなくなった。
自分も父をなくした悲しみがあったけど、泣いてる暇すらなかった。この上ママまで失ってしまったらどうしよう、と考えると不安で夜も眠れなかった。
でもそのうち母も、いつまでも娘に頼ってばかりではいけないと思ったのだろう。やがて立ち直り、生活の為にお店を再び開ける決心をした。

でも…ようやく前に進もうとした私達母娘を待っていたのは、泣きたいくらいに厳しい、現実。
元々お店のお菓子づくりはパパがほとんど1人で行なっていたし、仕入れも経理も何もかもパパ任せで、ママはお店に立つ以外の事は何もわからなかった。
このままでは、お店を開ける事など到底出来やしない。
ケーキ専門の職人を雇おうにも、先立つものすらない。
そこで、いつも父の傍らでお菓子づくりを手伝っていた私が、自分でなんとか作ってみると提案した。
お菓子づくりは大好きだったし、パパも1人娘のお菓子づくりの腕を褒めてくれていたし、ママの支えになりたかったし----何より、パパが遺してくれたこのお店を、絶対に手放したくはなかったから。

もちろん、最初のうちは失敗だらけ。
地味なケーキばかり沢山作って大量に売れ残りを出してしまったり、オーブンの火力設定を間違えて生焼けのお菓子が出来てしまったり。
仕込みを始める時間を間違えて、開店時にお菓子が一個も並んでない、なんて事もあった。
それでも買いに来てくれた常連客からは、「味が落ちていない」「パパの味とそっくりだ」との御墨付きをもらう事ができた。
それが自分でも思っていた以上に嬉しくて、少しづつ自信がついて----もっともっと頑張ろうという前向きな気持ちになっていた。

ようやくお菓子づくりの要領を掴みはじめ、売上げが安定しても、問題はまだまだ山積みだった。
材料の仕入れや買い付けがわからず、売れ筋ケーキの材料を切らしてしまったり、その反対であまり使わない食材を大量に仕入れてしまい、腐らせて廃棄してしまったり。
経理の事もよくわからなかったので、運転資金が足りなくなって、慌てて母の知人に頭を下げて借り回った事もある。
それでも5年もたてば、いまや大抵の問題は自分と母だけで解決できるようになった。
わからない事があれば恥ずかしがらずに人に教えを乞えば良いのだし、自分でも経営について少しは勉強もした。

学校と仕事との2足のわらじは大変だったはずなんだけど、夢中だったからそんなに苦には感じなかった。
朝は慣れない早起きをしてお菓子を焼き、学校が終わったら飛んで帰ってお店を手伝う。お店が終わってお風呂に入ると、もう疲れ切ってバタンキューと寝てしまう、そんな毎日。
そんなだから成績もよくなかったし、同級生達と学校帰りに寄り道したりなんていう学生らしい楽しみも持つ事はなかった。
ジョッシュとのデートだってせいぜい週に1度がいいところ。
クリスマスシーズンのかきいれ時や、試験の頃なんかは1ヶ月以上会えなくなる事だってざらだった。
それでも、同年代の子達よりずっと満ち足りた生活を送っていたと思う。
何といっても、大好きな事で生計を立て、手に職を得て自分に自信をつける事が出来たのだもの。

ただ、生活は相変わらずギリギリだった。
パパは車で配達や御用聞きを行なって、ウエディングやパーティー用のケーキの受注を受けて売り上げを作っていたけれど、免許のない私と母にはそれが出来ない。
お店に来るお客をただじっと待っているだけでは、なかなか売上げは伸びないし、天気の悪い日には売上げがゼロになったりする事もある。
自分の頭の中には売上げを伸ばすいろんなアイディアが浮かんでいたけど、学校に通いながらでは実行はとても不可能に思えていた。

だからようやくハイスクールを卒業して、お店の事だけを考えられる日が訪れた時は、本当に嬉しかった。
私は以前から心の中で暖めていたアイディア----お店の前の空いたスペースにテーブルと椅子を並べ、喫茶スペースを始める事や、季節ごとに新しいオリジナルのデザートを考え、それを目玉にする-----を実行に移した。
喫茶を始めるのにも資格やら新しい技術が必要だったけど、若さと持ち前のバイタリティで乗り越えた。
カフェ用に店舗をリフォームしたり、新しい器具を揃える為に銀行から借金もしたが、今の所カフェは順調に売上げを伸ばしている。このままいけば、3年後くらいには借金の返済もできそうな目処もたった。

「だからね、パパ。私、もう1つ新しいアイディアを実行に移そうと思ってるの」
アンジェリークは父の写真に向かって、小さな声で語りかけた。
それはせっかくの決心が鈍らないよう、自分自身に言い聞かせているようでもあった。

今月に入ってから、この街に小さなホテルがオープンした。
田舎っぽいこの辺りには珍しい垢抜けた雰囲気で、中でもホテル内のフレンチレストランは飛び抜けて洒落ているので、地元でもあっという間に人気のスポットになっている。
でもどうもデザートに関しては味がイマイチらしく、あまりいい噂が聞けない。 また、ホテルでウェディングやパーティをした人達に聞いても、ケーキ代がべらぼうに高いとか、デザインが希望通りに作ってもらえないとか、こちらも概して評判が良くないようなのだ。
そこでアンジェリークは自分のお菓子を売り込み、そこに卸す契約を取れないだろうか?と考えていた。

もし上手く契約がとれれば、収入は一気に増える事になる。借金だって早く返せるし、お店にバイトを雇う余裕もできる。
カフェを始めてから売上げは伸びていたものの、母の仕事の負担がどんどんきつくなっていたのが気掛かりだったから。
少しママにはゆっくりしてもらい、貯金が出来たらどこか旅行にでも連れていってあげたい。
そんなに遠い所でなくたっていいから、近場でも、ママと二人でのんびり羽を伸ばして休みたい。
パパが死んでから一度も立ち止まらずに必死で働き続けてきたけど、ここらで少しくらい贅沢をしたって、バチはあたらないわよね?

考えれば考える程、アンジェリークは楽しい気持ちになっていた。
「パパ、どうか上手くいくように、私達を見守ってね」
アンジェリークは笑顔で写真に語りかけると、「さ、頑張って仕事仕事!」と、明るく工房へ向かっていった。



その日、お店はいつになく忙しかった。
カフェはずっと満席で、途切れる事なくお客さんが入ってくる。
母親1人ではとてもお店を切りまわせそうになくて、アンジェも工房から出てきてお店を手伝った。
新しいアイディアについてゆっくり母に相談したかったが、忙しくてとても今はそれどころではない。
まあ、お店が終わってからでも言い出せばいいかな、とアンジェリークは動き回りながら頭の片隅でぼんやりと考えていた。

と、その時突然、ガラスの割れる鋭い音が店内に響いた。

レジを打っていたアンジェが音の方に振り向くと、母親が床に俯せに倒れていた。
水の入ったグラスの破片が、周りに粉々に飛び散っている。

「ママ?どうしたの?!」

慌てて駆け寄ったが、母は倒れたままぴくりとも動かなかった。
抱き起こすと、元々白い肌が透き通るように青ざめている。

「大丈夫?ママ、お願い、返事して!!」

ぐったりと力なく横たわる母親の身体を、アンジェリークは必死で揺さぶり続けた。