
「バゲットサンドに、タンドリーチキンとチーズ。サラダにフルーツ、飲み物……これくらいで足りるかなぁ?」
ピクニック用のバスケットに出来たての料理をぎゅうぎゅうに詰め込み、アンジェリークはふうっと息をついた。
普段は朝寝坊で有名な彼女が、日の曜日の早朝からキッチンにこもっていたのには、もちろん理由がある。
今日は、念願のオスカー様とのデート。しかも、遠乗りでピクニックに連れていってもらう約束なのだ。
飛空都市に来てはや二ヶ月、女王試験の延長みたいな質問攻めの“公園デート”は何度かあったけれど──ちゃんとした「デート」は、今日が初めて。
朝からずっと、準備に気合いが入りっぱなしだ。
(遠乗りかぁ……どんなところに連れて行ってくれるのかしら?)
うきうきと想像を巡らせながらエプロンを外し、鏡の前で服を当ててはあれこれ悩む。
「大人っぽい、シンプルなワンピースがいいかな?ううん、馬に乗るんだもん、動きやすい服装がいいわよね。でもでも、少しでも可愛く見せたいし〜!」
ああでもない、こうでもないと悩みに悩んだ結果、ベッドの上には脱ぎ捨てられた大量の洋服の山。
そしてようやく、デニムパンツとピンクのパフスリーブニットの組み合わせに決まった。
念入りに髪をとかしてトレードマークの赤いリボンを結んでから、薄い桜色のリップをそうっと唇にのせる。
「オスカー様、私にも花束をくださるかなぁ……?どんなお花を選んでくれるんだろう」
あの日の事を思い出しながら、鏡の中の自分へつぶやいた。
それは、先週ロザリアの部屋に遊びに行ったときのこと。
テーブルの上に飾られた、輝くような白い薔薇の花束が目に留まった。
ロザリアに聞いたら、オスカー様とデートした際に贈られたものだという。
『気高い君にふさわしい花を贈ろう』というキザなセリフとともに贈られたというその花束は、花弁に傷一つない、まさに完璧な美しさで──
アンジェリークは(すっごくきれい…美人なロザリアにぴったり……!)とうっとり眺めつつ、同時に胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
その時はじめて、自分の気持ちに気付いてしまった。
私は、オスカー様に──恋をしているのだと。
よくよく聞いてみたら、オスカー様がデート相手の女性に似合う花をプレゼントするのは、いつものことなのだそう。それこそ、挨拶と同じくらい当たり前の流れらしい。
「べつに特別な意味なんてないと思うわよ」と、ロザリアは笑っていた。
その言葉に、アンジェリークは心の中で、ほっと胸を撫で下ろした。
さっきまでの小さな嫉妬心は頭からすうっと消えて、そのかわりに「私にだったら、どんな花を選んでくれるのかな?」という期待で胸がいっぱいになる。
オスカー様と私は気が合うし、かなり仲がいい、と思う。
普段はお子さま扱いされて、からかわれてばかりだけど──女王試験で悩んでいれば親身に相談に乗ってくれるし、失敗して落ち込んでればカフェテリアでパフェをご馳走してくれる。
まるで実の妹みたいに、何かと気にかけて可愛がってくれているのだ。
でも、それはあくまで『妹のような存在』ってだけ。決して、“恋のお相手”として見られているわけじゃない。
恋多きプレイボーイと噂されるオスカー様のそばには、いつだって違う女性が寄り添っている。
ある時はエレガントな女官、またある時は知的な研究員、またまたある時は色っぽい侍女。ただどの人にも共通してるのは、恋愛経験の豊富そうな大人の美女ばかり、ってこと。
女子校育ちで男の子と手を繋いだこともない私なんて、ただの「お嬢ちゃん」扱いしかしてもらえない。
このまま、妹としてしか見てもらえないんだろうか……って、ずっと不安で。
けれど、もし。
もし、ロザリアのように、私に似合う“美しいお花”を選んでもらえたのなら──
少しはこの恋に、自信が持てそうな気がする。
(オスカー様と言えば真っ赤な大輪の薔薇かなぁ?うーん、でも私にはちょっと大人っぽすぎ?ピンクのミニ薔薇とか、可憐なスイトピーやマーガレットなんかもいいわよね、きゃっ☆)
ピンポーン♪
軽やかなチャイムの音が鳴り、楽しい空想タイムはそこで終わった。
(オスカー様だっ!)
アンジェリークは椅子をガタンと鳴らして立ち上がり、一目散にドアへ向かって駆け出した。
鏡の前でキキーッと急ブレーキをかけ、もう一度ささっと身だしなみをチェックしてから、またパタパタと走り出す。
「お待たせしま──きゃあっ!?」
慌てすぎたのだろうか。
勢いよくドアを開けた瞬間、何かにつまずいてつんのめり、頭から前へ吹っ飛んだ。
(あ、あ、あ、転んじゃう〜〜っ!)
目をぎゅっと閉じたその瞬間──がっしりとした腕に、間一髪で抱きとめられた。
「おっと!朝から相変わらずだな、慌てん坊のお嬢ちゃんは」
頭上から聞こえる楽しげな声に、アンジェリークはぱちりと目を開けた。
「オ、オスカー様?ありがとうござ……ひゃああっ!」
声がいきなり裏返って、甲高い声で叫んでしまった。
それも仕方ない、アンジェリークはオスカーの胸に、ばっちり顔をくっつけてしがみついていたのだから。
彼はいつもの執務服ではなく、シンプルな白いシャツという出で立ち。ラフに開けた襟元から覗く鎖骨と、盛り上がった逞しい胸筋がすぐ鼻先にあり、男らしいコロンの香りが鼻腔をくすぐって──
アンジェリークは一瞬で大パニックに陥った。
「ああっ、ご、ごご、ごめんなさい〜っ!」
慌てて両手で彼の胸をぐいぐいと押し返したけれど、鋼のような肉体はびくともしない。
トマトのように顔を真っ赤にしてじたばたするアンジェリークを見たオスカーは、面白そうに瞳を輝かせた。
軽く力を込めてさらに少女を腕の中に閉じ込めると、からかうように問いかける。
「俺のお嬢ちゃんは、そんなに急いで転びそうになるくらい、一刻も早く俺に会いたかったのかな?」
頭が真っ白になっていたアンジェリークは、思わず「はっ、はいっ!」と即答してしまう。
「……こりゃあまた正直だな。だがそういうのも、俺は嫌いじゃないぜ?」
ハハハ、とのけぞるようにして、オスカーは大声で笑いだした。
そのままアンジェリークの華奢な体を、ぎゅっともう一度強く抱きしめてからパッと両腕を離し、可哀想なくらいうろたえている少女をようやく開放してやった。
「おふざけはここまでにして、出発しよう。もう準備はできてるんだろう?」
その声にようやく正気を取り戻したアンジェリークは、まだ赤らんだ頬を冷ましきれないまま、用意してあったバスケットを慌てて差し出した。
「あのっ、これ……良かったら。一緒に食べたいなって思って、作ったんです」
ずっしりとした重みのあるバスケットの蓋からは、溢れんばかりの食べ物が覗いている。
「すごいな、これは全部お嬢ちゃんの手作りか?けっこうな量がありそうだが……相当、時間がかかっただろう?」
アンジェリークは自信なさげに、こくんと頷いた。
「お料理そんなにしたことないから、お口に合うかどうか、わかりませんけど……」
「お嬢ちゃんが心を込めて一生懸命作ってくれたんだ。美味いに決まってるさ」
オスカーはぱちんと綺麗なウィンクをひとつ飛ばし、片手でバスケットを軽々と持ち上げると、もう片方の手をアンジェリークへと差し出した。
その大きな手のひらを見て、アンジェリークは(あれっ……?)と首を傾げる。
(……オスカー様、花束……持ってない……?)
「どうした?」
動きを止めたままの少女に、オスカーが訝しげに片眉を上げた。
「い、いえっ。何でもないです。行きましょう!」
心の揺らぎを悟られないよう、アンジェリークは努めて明るく言った。
──せっかくのデートなのに、不安そうな顔で始めたくなんてない。
楽しみにしていた花束がなかったのは、正直、ショックだったけど──
でも私が、当然のようにもらえると勝手に思い込んでたのが、そもそもの間違いで。
私に似合う花が思い浮かぶほど、オスカー様はまだ私のことを知らないのかもしれない。
(……だったら、今日で知ってもらわなきゃ)
それならそれで、頑張ればいい。ただそれだけのこと。
アンジェリークはオスカーを見つめてにっこりと微笑んだ。
(落ち込んでる時間なんて、もったいないもん!)
差し出された彼の手に、アンジェリークの手がようやく重なった。
ふたりは並んで歩き出す。外に繋がれた馬が、待ちくたびれたように鼻を鳴らしていた。
「うわぁ……!」
遠乗りで連れてきてもらった場所は、飛空都市が一望できる小高い丘の上だった。
眼下には見渡す限り緑の草原が広がり、背の高い草が風に揺られてさざ波のようになびいている。
青い空は抜けるように晴れ渡り、陽の光に照らされた草の葉先が、金色の飛沫のようにきらきらと輝く。
奥に小さく聖殿や特別寮が見えなければ、ここが飛空都市だという事すら忘れてしまいそうな、雄大な景色。
その美しさは、まだほんの少し沈み込んでいた少女の心の影をすっかり消し去ってくれた。
「すごい……まるで緑の海みたい……!こんなに素晴らしい場所が、飛空都市にあったなんて」
「いい眺めだろう?ここは、俺がこの地で一番気に入っている場所なんだ」
うっとりと景色を眺めたまま立ち尽くすアンジェリークの隣に、オスカーが静かに並ぶ。
「俺の故郷は草原に覆われた惑星なんだが……ここは、ほんの少しだけ似ているんだぜ」
「オスカーさまの故郷……ですか?」
「ああ。ガキの頃は、仲間とこういう斜面を全速力で駆け降りては転げ回り、擦り傷だらけになりながら笑い合っていた。そんなに娯楽も無い星だったから、身体を動かすのが何よりの楽しみであり、鍛錬でもあったな。今の俺を作ってくれたのは、故郷の乾いた大地と青い草の香りなんだ」
初めて聞く彼の過去に、アンジェリークはそっと彼の端正な横顔を仰ぎ見た。
オスカーは形の良い唇を引き結び、どこか寂しげな遠い瞳で、静かに景色を見下ろしている。
いつもの明るく自信に満ちた彼とはまるで別人のようで、アンジェリークはなぜか急に胸が苦しくなった。
静かな沈黙が二人の間に流れ、アンジェリークはますます息が苦しくなる。
何か、何か話さなくちゃ──と、とっさに開いた口から飛び出したのは、自分でも思いもよらない言葉だった。
「あ、あの……ここにはよく……デートで来たりするんですか?」
しまった!と両手で口を押さえたけれど、もう遅い。
オスカーは前を向いたまま口元を歪めて苦笑し、「気になるのか?」と問い返してくる。
ええい、言ってしまったものは仕方ない。
アンジェリークは覚悟を決めて「……はい」と小さく頷いた。
言った瞬間に、顔がじわじわと熱くなっていくのがわかる。
「お嬢ちゃんは、本当に正直だよな。だが俺は、お嬢ちゃんのそういう素直な性質を好ましいと思ってるんだぜ」
オスカーはフッと小さく笑ってから、ゆっくりと彼女のほうへ顔を向けた。すでに首まで真っ赤になっているアンジェリークを、優しい瞳で見つめてくる。
「正直なお嬢ちゃんには、俺もちゃんと答えないとな。答えは、『ノー』だ」
「え、そうなんですか?」
目をまん丸に見開いたアンジェリークに、オスカーは真剣な顔で続ける。
「意外だったか?でもここには、誰とも来たことがない。いつも一人きりだ」
オスカーは大きく一歩を踏み出して、再び草原に目を向ける。
その透明な青い瞳は、目の前の景色より、もっとずっと遠く──遥かな故郷へと向けられている。
「神のような存在の守護聖として、いつも周囲から崇められているだろう?それに応えるためには、常に強く、自信満々に振る舞わなきゃならない。……でも時折り、忘れてしまいそうになるんだ。普通の人間だった頃の、自分自身を。そんなとき、俺は一人でここに来る。ただの自信過剰で傲慢な人間になってないか、自分を見つめ直すためにな」
アンジェリークは身じろぎもせず、彼の語る声にじっと耳を傾けていた。
「俺にとってここは──神でも守護聖でもない、“一人の人間”に戻れる、大切な場所なんだ」
「そんな大切な場所に……」
どうして私を、連れてきてくれたんですか──?
そう問いかけようとして、アンジェリークは途中で言葉を呑み込んだ。
(私にとってオスカー様が特別なように、オスカー様にとっても私が特別とか……そんな都合のいい話、ない……よね)
また花束のときみたいに、一人で勝手に期待して、勝手に落ち込みたくなんかない。
「……そんな大切な場所に、連れてきてくださってありがとうございます」
わずかな間を置いてから、アンジェリークは神妙な面持ちで、オスカーの背中に声をかけた。
背筋を伸ばして堂々と立つ彼の姿は、いつも通り力強い。
でも、そんなオスカー様にだって弱さや葛藤があり、その小さなかけらを今、私にだけ見せてくれている。
ここに私を連れてきた理由はわからないけれど、少なくともひとりの人間として信頼されている──それだけで、今は十分だった。
「……それとまぁ、ここは足場も悪いし、何もなさすぎてな。レディたちとのロマンティックなデートには向かないってのもあるかな」
振り向いたオスカーが、唇の片端を引き上げて、肩をすくめながら笑った。
「……じゃあ、私とはロマンティックなデートじゃないから、ってことですか?」
「ご名答。よくわかってるじゃないか」
「えーっ!それってひどくないですか〜っ?」
アンジェリークが頬をふくらませて抗議すると、オスカーはハハハ、と豪快に笑った。
良かった、もういつもの明るくて頼もしいオスカー様だ。
睨むふりをしながらも、アンジェリークは胸の奥でホッと安堵していた。
「さあ、そろそろお嬢ちゃんお手製のスペシャルランチを食べようぜ。実はさっきから中身が気になって、早く食べさせろって腹の音がうるさくてな」
「いやだぁ、オスカー様ったら」
くすくすと笑いながら、二人は丘のてっぺんに立つ大きな楠の樹へ向かって歩き出した。
すでに大樹の根元には大きな布が広げられ、その中央にバスケットが置かれている。
アンジェリークはバスケットから次々に料理を取り出し、お皿に並べ始めた。
凝った品こそないものの、かなりの量があり、あっという間に敷物の上は色とりどりの料理で埋め尽くされていく。
ちょっとした豪華なピクニックの始まりだった。
「こりゃあまた美味そうだな。……にしても、本当にこの量を全部お嬢ちゃん一人で作ったのか?」
「はい。でも、ちょっと張り切りすぎちゃって。多すぎたかも」
ペロッと舌を出して、アンジェリークは上目遣いで恥ずかしそうに笑う。
「いや、俺は腹ぺこだから、むしろこれくらいの方がありがたいぜ」
その言葉どおり、オスカーは次々に皿へ手を伸ばし、旺盛な食欲を見せた。
「このタンドリーチキンなんか、スパイスが効いてて俺好みの味だな。お嬢ちゃんはてっきり不器用かと思っていたが……意外と料理の才能があるんじゃないか?」
「何ですか、その『意外と』は余計ですよ!」
指についたソースまで実に美味しそうに舌で舐め取る彼の気取らない横顔を、アンジェリークは幸せな思いで見つめていた。
雄大な景色を背景に、肩肘張らない会話で笑い合い、のどかで平和な時間がゆっくりと流れていく。
あれだけあった大量の食事も、気づけばきれいに平らげられていた。
美味しいと手放しで褒めてくれたオスカーは、両腕を頭の後ろで組み、ごろりと満足そうに仰向けに寝転んだ。
午後の陽気は眠気を誘うような心地よさで、爽やかな風が彼の紅い前髪をふわりと揺らしている。
「今日は、本当にいい一日だな。……お嬢ちゃんとここに来れて良かったぜ」
口元に笑みを浮かべながら、目元でちらちらと踊る眩しい木漏れ日を避けて、オスカーは瞼を閉じた。
静かな時間が二人の間に流れ、やがて気持ちよさそうな寝息が微かに聞こえてくる。
隣に座るアンジェリークは、抱えた膝に頬をのせたまま、その穏やかな寝顔をじっと見つめていた。
なぜだろう──とても満ち足りた気持ちだった。
きっとオスカー様は、普段のデートでは恋人をほっぽって昼寝なんてしなそうだけど。
でも、私にだけは気を許してくれている──そう感じられて、なんだか嬉しい。
情熱的に女性を口説くオスカー様も素敵だから、私もそうされてみたいなぁ、って憧れももちろんある。
けれど今の私には刺激が強すぎて、きっと対応しきれないだろうから……このくらいの穏やかなデートがちょうどいいのかも。
アンジェリークは小さなあくびを一つして、彼のすぐ隣にころんと寝転んだ。
今日は張り切って早起きしたから、私も眠くなっちゃった。
大好きな男性の隣で眠るなんて、一歩間違えたらかなり危ないシチュエーションかなぁ?
ましてや女性に手が早いと悪名高い、オスカー様の隣でなんて──
瞳を閉じたまま、アンジェリークはうふふと小さく口元に笑みを浮かべた。
やがて彼女も、柔らかな陽射しに包まれて、静かなまどろみに落ちていった。
「おい、お嬢ちゃん。起きてくれ」
肩を軽く揺すられ、アンジェリークは心地よい眠りからそっと引き戻された。
「うーん……」
握った拳で目をこすると、まだぼんやりとした視界の中に、こちらを覗き込む薄青の瞳が浮かんでくる。
肘をついてゆっくりと上体を起こすと、隣に座るオスカーが彼女の腰に手を添え、さりげなく支えてくれた。
「悪かったな。お嬢ちゃんがいるのに、勝手に寝ちまって」
バツが悪そうに笑うオスカーに、アンジェリークはまだとろんとした瞳のまま、ふふっと口元を綻ばせた。
「いいえ。ついでと言ってはなんですけど、私も一緒にお昼寝しちゃいましたし。それに、滅多に見られないオスカー様の寝顔も拝めましたから」
「カッコ悪いところを見せちまったな。女性とのデート中に寝落ちするなんて、炎のオスカーともあろう者が、一生の不覚だぜ」
そう言って苦笑しながら、長い指で寝癖のついた髪をかき上げる彼に、アンジェリークはしごく真面目な顔で言った。
「大丈夫ですよ!意外と可愛い寝顔でしたもん」
全く慰めにもなっていない言葉に、オスカーは腹の底から笑い出した。
「はははっ!……全く、お嬢ちゃんには敵わないな」
普段の彼には珍しい、心からの飾らない笑顔。
その優しい表情に、アンジェリークの胸がどきりと高鳴った。
「さて、遅くなる前に、そろそろ帰らなくちゃならないんだが……もう少しだけ待っててくれるか?」
オスカーは、子どもにするようにアンジェリークの頭をぽん、と軽く叩いて立ち上がると、木陰に繋いであった馬のところへ水を飲ませに行った。
それから辺りを見渡し、やがて何かを見つけた様子で、土の上にしゃがみ込む。
地面を見つめながら何やら手を動かしている彼の後ろ姿を、アンジェリークはまだぼんやりとした頭のまま眺めていた。
(オスカー様、何をしてるのかしら……?)
しばらくして、彼が立ち上がった。
右手を背中に回して何かを隠しながら、下草を踏みしめてのんびりとこちらへ向かってくる。
口元に浮かぶ楽しげな笑みは、まるで悪戯を企む少年のようだ。
アンジェリークの目の前でオスカーは立ち止まり、両膝を抱えて座っている彼女の足元に、片膝をついて跪いた。
きょとんとしているアンジェリークの若草色の瞳を、彼は正面から優しく覗き込む。
「これをお嬢ちゃんに。……楽しかった今日という日のお礼だ」
そう言って、オスカーは背中に隠していた小さな花束を、そっと彼女の前に差し出した。
「えっ……?これを……私に?」
アンジェリークは差し出された花束を受け取り、まん丸く見開いた瞳でまじまじと見つめた。
それは周囲に咲いていた黄色いタンポポを数本、シロツメクサの茎でくるくると巻いて束ねただけの、素朴で簡素な花束。
「あ、ありがとうございます……」
口をついて出た感謝の言葉は、けれども戸惑いが色濃くにじんだものになってしまった。
あれほど楽しみにしていた花束を、こうして実際にもらえたのは、間違いなく嬉しい。
嬉しいはずなのに──ロザリアがもらったあの白薔薇が、どうしても脳裏をよぎってしまう。
輝くような純白の、豪華な薔薇の花束。気品に満ちたロザリアにふさわしくて、本当に美しかった。
それと比べると、道端の雑草を束ねただけの素朴な花束は──オスカーに恋焦がれる少女に、複雑な表情をさせてしまうのも無理はなかった。
「おや?──お嬢ちゃんは、俺のプレゼントがお気に召さなかったかな?」
オスカーの声に、アンジェリークはハッと我に返る。
「い、いえ、もちろん嬉しいです!」
慌てて笑顔を作ってみせたものの、もう遅い。女性の心の機微を読み取ることに長けたオスカーには、そんな作り笑いなどお見通しだった。
「残念だな。心からの愛らしい笑顔を見せてもらえると期待してたんだが……。まだお嬢ちゃんじゃ花より団子、いや、お菓子の方が良かったかもな?」
別に怒っているふうでもなく、オスカーはいつもと変わらぬ軽い調子で肩を竦め、口元にシニカルな笑みを浮かべている。
けれど、その笑顔もどこか作り物めいているのが、アンジェリークにははっきりとわかってしまった。
さっきまであんなに近くにあった心の距離が、急に遠ざかっていくような気がして──アンジェリークは咄嗟にオスカーの腕を、はしっと縋るように掴んでしまった。
「あの、ち、違うんです……その、ロザリアの──」
「ロザリア?彼女がどうかしたのか?」
思わずロザリアの名を出してしまった事を、アンジェリークはすぐに後悔した。
けれどオスカーは、訝しげに眉を上げながらも言葉を遮らず、じっと続きを待ってくれている。
どうしよう。今さら取り繕おうとしても、薄っぺらな言い訳しか出来なそう。
でも──そうよ、オスカー様は、正直な私を好ましいって言ってくれたじゃないの。
ならば下手な嘘を重ねるよりも、ありのままを話した方がきっといい──
アンジェリークはごくんと唾を飲み込み、恐る恐る言葉を絞り出した。
「あのっ、オスカー様。先週……ロザリアとデートして、すごく豪華な白い薔薇を贈ってましたよね?」
オスカーは上を向いて少し考えるような仕草を見せてから、「ああ」と小さく頷いた。
「目を奪われるくらい綺麗な花束で、美人なロザリアにすっごく似合ってて……。そのぉ、失礼だとは重々承知してるんですけど……正直言って、私の花束とは、ずいぶんと……差が…ある…かなぁー…って…………」
か細い声で言い募りながら、アンジェリークは肩を落としてしょんぼりとうなだれた。
それまで真面目な顔で聞いていたオスカーが、いきなりプッと吹き出した。片手で口を押さえながら、喉の奥でククッと笑い声を漏らす。
「……なんで笑うんですかっ。オスカー様は、デート相手に似合うお花を選んで贈るって聞いたから、私、けっこう期待してたんですよ〜!」
涙目になりながら、アンジェリークは恨みがましい視線を向けた。
「悪い悪い。あんまりお嬢ちゃんが分かりやすくて、可愛らしかったんでな」
オスカーは笑いながら立ち上がり、膝についた泥を軽くはたくと、彼女の隣に腰を下ろした。
長い脚を無造作に投げ出し、両腕を後ろについて空を仰ぐ。
その横顔には、さっきまでと打って変わって、リラックスした柔らかな笑みが戻っている。
「そうか、ロザリアへのあの花束を見たのか。──それじゃあ、お嬢ちゃんが比べて悲しくなっちまうのも、無理はないよな」
オスカーの表情が和らいだことに安心したのか、アンジェリークの口からは、胸につかえていた言葉が次々とあふれ出す。
「もちろんタンポポだって、元気で可愛いお花だと思いますよ?踏まれてもめげずに立ち上がる、しぶといところなんかは私に似てる気もするし……。あっ!もしかして、それで贈ってくださったんですか?」
オスカーはまたしても肩を震わせながら、口元に浮かんでしまう笑いを必死に噛み殺している。
「もうっ、私は真剣に話してるんですよっ!」
目を三角にしてぷりぷりと怒り出したアンジェリークに、笑いを堪えきれなくなったオスカーの顔がますます緩む。
気がつけば、さっきまで二人の間にあった壁はすっかり消え、穏やかな空気が戻っていた。
「ははっ、でもな。お嬢ちゃんにタンポポを贈ったのは、“踏まれても強い雑草だから”なんて理由じゃないんだぜ?」
ようやく笑いを収めたオスカーが、彼女の方へ向き直る。
「ここに連れてきたのも、タンポポの花を贈ったのも、俺なりの理由がある。……ちゃんと話すつもりだったんだが、タイミングを間違えたな」
「……そう、なんですか?」
アンジェリークは小さく首をかしげ、オスカーの言葉を待った。
「まず、ロザリアに贈ったあの花束なんだが。あれはマルセルが、幼苗の頃から大切に育てた薔薇なんだ」
オスカーは言葉を選ぶように、ゆっくりと語る。
「病気にならないよう、悪い虫がつかないよう、目をかけ手をかけて……愛情を込め、大事に守られてきた花だ。俺はそれを見た瞬間に、この薔薇はロザリアそのものだと思った。生まれながらの女王候補として、周囲の愛と期待を一心に受け、大切に育てられ守られてきた。その期待に応えるために、悪い色に染まることなく、純白のまま気高く花開こうとしている──そんな彼女にぴったりだ、とな。……お嬢ちゃんもそう思わないか?」
アンジェリークは金の髪を揺らして「はい」と小さく頷いた。視線の先には、手の中にある素朴なタンポポの花束。
オスカー様の言う通り。あの白薔薇は、まさしくロザリアそのものだった。
もしも今日、あの花束を贈られていたら。きっと私は、綺麗だと単純に大喜びしていただろう。
でもそれは、私のために選ばれた花じゃない。ただ不公平にならないよう、ロザリアと“同じ”ものをくれたというだけの話。
それなら、私のためだけに選んでくれた、この素朴な花束のほうが、よっぽど心がこもっている。
頭ではそう理解しているのに──どうしても感情が追いついてこない。
私は……オスカー様にそんなふうに言ってもらえるロザリアが、羨ましくて仕方ないんだ。
ロザリアに相応しいと選ばれたあの薔薇が、このタンポポよりずっと美しく見えてしまうのも。
今、顔を上げちゃったら、嫉妬で歪んだ嫌な顔を見られちゃう──
アンジェリークはうなだれたまま、どうしても顔を上げられなかった。
「まあその先も聞いてくれよ、お嬢ちゃん。──ここからが本題なんだぜ」
オスカーはそう言うと、うつむいたままの少女にそっと手を伸ばし、金の巻き毛を優しく撫でた。
「で、お嬢ちゃんに贈ったその花なんだが──さっき、この場所が俺の故郷に似ているって言ったろう?」
「はい……」
消え入りそうな声で、アンジェリークが答える。
「俺の故郷は“草原の惑星”と呼ばれててな。乾いた大地一面に、背の高い草が茂っていて……花もほとんど咲かないんだ。だが、家のまわりや街の中では、草を綺麗に刈って人が通れる程度の道が作られてる。舗装もされちゃいない、土が剥き出しの素朴な道だが──」
オスカーはそこでふっと遠くを見やった。懐かしい景色を思い出すように、目を細める。
「その道端に、このタンポポとシロツメクサにそっくりな野の花が、ぽつぽつと咲くんだ。花が滅多に咲かない星だから、子どもだった俺にはまるで宝石のように美しく見えた」
その言葉に、アンジェリークの心臓がどくんと音を立てた。
ぱっと顔を上げたが、オスカーはまだ遠くの空を見つめたままでいる。
アンジェリークは声もかけられず、ただ彼の横顔をじっと見つめるしかなかった。
ざっと風が舞い、目の前の草がざわめくと、オスカーはようやくアンジェリークの方へと振り返った。
「俺は学校へ行く道すがら、宝探しをするようにその黄色い花を摘んで歩いた。シロツメクサで花の根元をくるくると巻いて花束を作るやり方も、その頃に覚えたんだ。そして学校に着いたら──その花束を、一番気になってる女の子へ贈る。それが俺の故郷での……大切な思い出ってわけさ」
アンジェリークは、思わず手の中の小さな花束を見つめた。すぐにまた顔を上げ、オスカーを見つめ返す。
「それって……」
胸の鼓動が速くなり、開いた唇が震えて、言葉に詰まる。
「そうだ」
オスカーのアイスブルーの瞳が、まっすぐにアンジェリークの瞳をとらえた。瞳の奥に宿る、強い光に射抜かれる。
「俺が今、一番気になってる女の子に──この花を贈りたかった。一緒にいると楽しくて、心が安らいで……“炎の守護聖”じゃない、素のままの“俺”でいられる。そんな不思議な力を持ったお嬢ちゃんに、な」
アンジェリークは震える手で、膝の上に置いていた花束をそっと持ち上げた。
さっきまでロザリアの花束と比べてみすぼらしく思えていたそれは、今は世界で一番きらきらと輝いて見える。
──オスカー様は、私のために心を込めて、この花を選んでくれていた。
故郷の大切な思い出と一緒に、私へと贈ってくれたんだ。
彼の瞳に映る私は、ちゃんと「特別な存在」としてそこにいたんだ──
涙がじわりと滲んできて、花束の輪郭がぼやけていく。
「オスカー様……ごめんなさい。そんな大切な思いを込めてくださったのに、私……変な態度を取っちゃって」
涙を湛えた瞳で見上げてくるアンジェリークに、オスカーはやわらかく微笑んで肩をすくめた。
「いや、俺の方こそ──先にちゃんと話せば良かったよな。お嬢ちゃんに悲しい顔をさせちまって……本当に、悪かった」
「ううん、いいんです」
アンジェリークは小さく首を横にふると、今度こそ、心からの輝くような笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます、オスカー様。私、このお花を……今日の思い出と一緒に、大切にしますね」
見つめあったままの二人の頭上を、鳥たちが高く鳴きながら巣へと帰っていく。西の空が茜色に染まり、風がひんやりと夜の匂いを運んできた。
「暗くなる前に帰らなきゃな」
オスカーは空を仰いでから立ち上がり、アンジェリークに手を差し出す。
手を引かれて、二人は馬のいるほうへとゆっくりと歩き出した。
──もう少しだけ、オスカー様と一緒にいたいな。恋人のように寄り添って、夜の星を眺めてみたい。
だけど、彼の手から伝わってくるのは迷いのないあたたかさだけで……そういう気配は、微塵もない。
オスカー様にとって私は、きっと「特別」なんだと思う。
歴代の恋人達よりも、ずっと心の近くにいる。
でも、私はまだ幼いから──今はまだ、『そういう』仲になるには、早すぎるのかもしれない。
だけど……
この胸にようやく灯った希望の光だけは、消したくはなかった。
アンジェリークは、ふいに立ち止まった。
「オスカー様……ひとつ、お願いがあります」
その真剣な声に、オスカーも足を止めて振り返る。
「どうした?」
緊張で身体をこわばらせ、うつむいている少女の顔を、心配そうに覗き込む。
アンジェリークは手の中のたんぽぽの花束を見下ろし、それからそっとまつ毛を上げて、彼の瞳を見つめる。
そして、ありったけの思いを込めてまっすぐに告げた。
「いつか……私が、オスカー様の隣に並ぶのにふさわしい、大人のレディになれたら──その時は私に似合う、薔薇の花を贈ってくださいますか?」
声が震えて、掠れる。それでも目は逸らさなかった。
少女が初めて見せた大人びた表情に、オスカーはわずかに目を見開き、それからゆっくりと微笑んだ。
「──ああ、約束しよう。必ずだ」
「あんまりお待たせしないよう、私、頑張りますね」
生真面目な顔でそう言うと、アンジェリークはオスカーの顔の前に片手を差し出し、そっと小指を立ててみせた。
子供っぽい“ゆびきり”のポーズをしながら、緊張した面持ちで待っているアンジェリークが可愛くて、オスカーは自分でも気付かぬうちに口元に笑みを浮かべていた。
少女の白くて細い小指に、オスカーの大きくて骨張った小指が、優しく絡められる。
──そう遠くない未来に、きっとこの約束は叶う。そんな予感が、二人を優しく包み込んでいた。