Hell or Heaven

~第1章・禁断の果実(1)~


「オスカーさまみたいなお兄ちゃんがいたら、良かったのになぁ」

大きな碧の瞳をいたずらっぽく輝かせながら、女王候補アンジェリークは炎の守護聖・オスカーの顔を覗き込んだ。
今は公園デートの真っ最中、試験に関する質問も一通り終わり、公園の隅にあるにある大きな楡の木陰で話し込んでいるところだった。

「おいおい、この俺とデートしてるにも関わらず、『お兄ちゃん』呼ばわりか?こう見えても俺は、『宇宙一のプレイボーイ』とも呼ばれる男なんだぜ。もう少し言い様ってもんがあるんじゃないか?」
「えー。オスカーさまは確かにかっこいいけど、プレイボーイには見えないですよ。優しくって頼りになって、何でも相談できる…やっぱり、『お兄ちゃん』が一番しっくりくるんじゃないですか?」
アンジェリークの真直ぐな瞳を受け止めながら、オスカーは苦く微笑んだ。

そう、彼女にとって俺は「頼りになる兄」のような存在でしかないのだ。
俺がいくらデートに誘っても、甘い言葉を投げかけようとも、それは彼女の心に響かない。
「兄」という存在も、それはそれで大きな物なのだという事はわかっている。
俺がプレイボーイで沢山の女性と遊んでいるという噂は、彼女の耳にも当然入っているだろう。
それでも、彼女が俺を信頼してくれる心には一点の曇りもない。
そこには嫉妬も疑念も、何一つ存在しないからだ。
俺の心の中に渦巻いているどろどろとした嫉妬の炎など、彼女には想像もつかないのだろう。

俺の気持ちなどまるで無頓着なアンジェリーク。
そんな彼女が、時折憎いとすら思える時がある。
無邪気さと隣り合わせの無神経さ。
俺は少し、彼女に思い知らせてやりたくなった。

「なあ、お嬢ちゃん。ここがなんで『秘密の恋人達の木陰』と呼ばれてるか、知ってるか?」
俺はそう言うなり彼女の背中を大木に押し付け、両腕を木に付けて彼女の身体を身動きできないように閉じ込めた。
「こちらからは公園の様子が良く見えるが、公園の中からはこっちの様子は全く見えない。たとえ何をしようとも、だぜ?」
ゆっくりと上体を倒すと鼻先が触れそうなくらい顔を近付け、アンジェリークの瞳をじっと見つめる。

しかし、彼女は全く動ずる事なく俺の瞳を不思議そうに見つめ返している。
俺に何かされる事など、考えてもいないのか。
大きく見開かれた碧の瞳に俺の姿だけが映りこむのを見ていたら、何の事はない、俺の方が息苦しくなってきてしまった。
このままキスでもしてやろうか。
それともこの場で、めちゃくちゃにしてやろうか。
そうすれば少しは、俺の気持ちが伝わるのかもしれない。

「…オスカーさまの睫毛って、すっごく長いんですね!こんな近くで見たの初めてだから、気がつきませんでした!」
突然のアンジェリークの明るい声音に、オスカーの暗い考えは一瞬にして掻き消された。
はっとして彼女を見つめると、相変わらず曇りのない瞳でにこやかに笑顔を返している。

俺は今、何を考えていたんだ?
慌てて彼女から顔を離す。
その時、彼女の視線が俺の顔の横を素通りし、途端にその瞳に切ない色が浮かんだ。
「ジュリアスさま…」

振り向くと、公園の中程の噴水の前で俺の尊敬する光の守護聖・ジュリアスさまがもう1人の女王候補、ロザリアを連れて談笑していた。
いつも厳しい表情のあの方には珍しい程の柔らかい微笑みを浮かべ、楽しそうに寛いでいるのがわかる。

もう一度視線をアンジェリークに戻すと、彼女の顔からはいつもの向日葵のような輝く笑顔が消え失せていた。
その横顔は屈託のない少女のものではなく、寂しげで、少し大人びてさえ見える。
伏せられた睫毛が微かに震えているのを見て、思わず彼女を抱きしめてしまいそうな衝動が湧き起こり、オスカーは視線を外した。

抱きしめて、それでどうなると言うんだ。
彼女が兄と慕ってくれる信頼さえも失う事になるんだぞ、それでいいのか、オスカー!!

ありったけの理性と気力を総動員してアンジェリークから身体を離すと、気付いたように彼女もジュリアスさま達から視線を戻した。
「…ごめんなさい、何だかぼーっとしちゃいました。えーっと、それで、なんでここって『秘密の恋人達の木陰』って呼ばれてるんですか?」
今頃になってそんな事を聞いてくる彼女に、オスカーはほろ苦く笑いながらかぶりを振った。

「…そのうち教えてやるさ。今日はもう、帰ろう」
そう言って差し出した手に重ねられた彼女の手を取り、女王候補寮までの道のりをゆっくりと歩いた。
沈み始めた夕日が彼女の金の髪をオレンジに染め、少し冷たくなった風がその髪を悪戯するようにかき乱す。
アンジェリークは繋いだ手をぱっと離すと、風を避けるように顔の前にかざしてから、ごく自然にまた俺と手を繋ぐ。



俺がどんなに愛おしい思いでその姿を見つめているかなど、彼女は知りもしないのだろう。
その事は繋いだ掌になんの緊張感も感じられない事からも、悲しいくらいに伝わってくる。

彼女の心は、俺には向いていないのだ。
その一途な思いは、俺がこの宇宙で女王陛下と同じくらいの重さで敬愛する、首座の守護聖───ジュリアスさまのみに向けられているのだから。

だが、俺は知っていた。
ジュリアスさまの心もまた、アンジェリークには向けられていない事を。
だから、心のどこかで油断していたのだ。
こうして仲良くして信頼を積み重ねていけば、いつか彼女の心がこちらを向いてくれるだろうと。
彼女のジュリアス様への思いは真剣ではあっても、まだ幼さの残るものだと言う事もわかっていたし、自分の入り込む余地は十分に残されているとたかを括っていたのだ。
それは女性との恋愛に関しては百戦錬磨だと自負してきた俺の、自信でもあり、驕りでもあった。

だから、まさか女王試験があんな結末を迎えるとは。
俺とアンジェリークの関係があんな風に急にどろどろとしたものに変わってしまう事も、この時の俺には想像する事すら出来なかったのだ。