Hell or Heaven

~第1章・禁断の果実(3)~


ロザリアが女王候補を降り、アンジェリークが女王に決まったと言うニュースは、瞬く間に飛空都市を駆け抜けた。
しかし、だからと言ってすぐにアンジェリークが女王の座に就けると言う程、宇宙の女王の座は簡単なものではなかった。

まだ女王試験は終了しておらず、大陸にもまだ新しい力が満ち溢れていない。
滅びゆく旧宇宙を受け入れる程には新宇宙は熟しきっていないのだ。
そこでアンジェリークは、1人で大陸の育成を続行せざるを得なかった。

その辛さを、一体誰が理解し得ただろう?
愛していた男と親友が目の前で結ばれ、その幸せそうな光景を横目で見ながら、もはや女王になると決まった既定路線の上で目標さえなくやみくもに育成を進めていく。
回りの人間は既に女王に決まった彼女に慇懃な態度を崩さず、ただ一刻も早く育成が終了する日を待ちわびている。
彼女の苦労などに思いを馳せる者はなく、早く女王になってこの宇宙を救ってくれ、と勝手に彼女に宇宙の運命の全てを押し付ける。
その過大な期待を一身に受けるには、この急展開過ぎる運命は彼女にとってあまりにも過酷なものだった。

あの時既に女王試験は大勢が判明し、彼女の頭には女王補佐官としてロザリアを支えるという選択肢も、現実の一つとして浮かび上がっていただろう。
いくら頑張っても自分はこの試験に勝てないのだ、と自ら負けを認め、そんな現実を受け入れる為の準備をしていた時に──突然運命は逆転し、今度は女王になれと言われる。
しかもそれは実力で決まった女王の座ではないのだ。
ロザリアが試験を降りたから、消去法で残ったアンジェリークが女王になるしか道は残されていなかった。
女王になる誇りもプライドも、そして喜びすらもそこには存在していなかった。
それを17歳の少女がすぐに笑顔で受け入れる事など、できるのだろうか?

ただでさえ苦しんでいる彼女に対して、無神経な視線を投げかける者もいた。
元々女王試験はロザリアが優位に立ち、彼女が女王に決まっていたはずだったのに、劣っているほうの女王候補が女王になるらしい、という偏見も根強くあった。
そんな劣っている素質しかない女王に、この宇宙の一大事が救えるのか?と言う無神経で侮蔑的な視線。
女王となる事が決まった少女にはっきりとそんな言葉を口にする者こそいなかったが、その棘のある空気の中で育成を続けるアンジェリークには、その視線の持つ意図は伝わってしまっている事だろう。

だが、彼女の女王としての素質は決してロザリアに劣っていた訳ではない。
たまたまロザリアが候補を辞した時にアンジェリークの育成が遅れをとっていたというだけで、逆転の可能性だって全くのゼロという訳ではなかったのだ。
最初から素質に大きな違いがあったのだったら、こんな手の込んだ女王試験をわざわざ行なう必要などなかっただろう。
二人の女王候補としての素質は全く互角だったからこそ、この試験は行なわれたのだ。
だが──今となってはそんな事実を思い出す者もいない。

彼女は今現在、女王に決まっていながら女王でないという大変なプレッシャーと戦いながら、更に親友の幸せを横目に、自分の思いは永遠に封印しなければならないという十字架も背負わされている。
それでも必死に頑張るアンジェリークの姿は、見ていて痛々しいほどだった。

「オスカーさま、こんにちは…」

力ない声でオスカーの執務室を訪れたアンジェリークの、その血色の失せた顔色に驚いた。
傍目から見てもはっきりとわかる程にやつれ、それでもその青白い顔に無理に笑顔を張り付かせている。
「今日は、育成をお願いします。それから…この間は、みっともないところをお見せしちゃって、すいませんでした。でもあれで私、吹っ切れたんです。これから立派な女王になる為に頑張りますから、オスカーさまもどうか、あの事は………忘れてくださいね」
早口でそれだけ言うと、アンジェリークは身を返した。
「すぐ次の育成依頼に行かなくちゃならないんで、今日はこれで失礼します」
そそくさと立ち去ろうとするアンジェリークの背中に、オスカーは思わず声をかけた。
「お嬢ちゃん!」
アンジェリークの肩が、びくりと震える。
「教えてくれ、お嬢ちゃんは何故…そんなに身を削ってまで、頑張っているんだ?そんなに急がなくとも、いずれ女王になる事は決まっているんだ。何故、そんなに無理をする?」

アンジェリークはしばらく無言のまま、動かなかった。
やがて決心したかのようにほんの少し、肩ごしにオスカーを振り返る。
だがその表情は、揺れ動く金の髪に隠れて、読み取る事は出来ない。
「………ジュリアス様が、早く良い女王になって欲しい、っておっしゃったんです。そのくらいしか、私はジュリアス様のご期待に添えないから……」
表情は見えなかったが、その声は深い悲しみに濡れていた。
オスカーはそれ以上返す言葉もなく、ただアンジェリークがドアの向こうに消えるのを見つめる事しかできなかった。


その日以来オスカーは、育成の依頼がない日も、欠かさず大陸に力を送り続けた。
今までは、どうせ彼女が手の届かない存在になってしまうのなら、一日でも一緒にいられる時間を引き延ばしたいと願っていた。
だがそれは、この地獄の中に彼女を引きずり落とすのに等しい愚行だったのだ。
今は一刻も早く彼女をこの状態から救い出してやりたいと、それだけを願うようになっていた。

そして、その時がようやく訪れたのだ。



アンジェリーク1人の女王試験となってから1ヶ月あまり、ついにエリューシオンの育成は終了を目前とするところまで辿り着いた。
その日の朝、オスカーは聖地での女王就任の式典と結婚式の準備の為、ジュリアスの執務室を訪れていた。
女王即位の儀の一週間後、ジュリアスはロザリアと簡素な結婚式をあげ、聖地で共に暮らす予定となっている。
プライベートな事だからと、ジュリアスは自分の式の準備に関しては、オスカー以外の人間には相談してはいなかった。
その信頼がいつもなら嬉しいだけのものであったはずなのに、今のオスカーにはただの気の重い相談でしかなかった。

「アンジェリークの育成は、今日にも終わりそうだな。そして、ついに新しい女王の誕生か」
ジュリアスの笑顔にオスカーは固い笑みを返した。
そうだ、新しい女王の誕生───それはこの宇宙の危機の終わりという事でもある。
そして彼女の───アンジェリークの、長かった地獄のような苦しみの終わりでもあるのだ。
彼女が地獄から救われる事は嬉しいのだが、同時にそれは────アンジェリークを一生この手に抱く事が出来なくなるという、俺にとっての地獄の始まりでもあった。

その時、力ないノックの音と共に、アンジェリークがジュリアスの執務室に入ってきた。
「こんにちは、ジュリアス様…あ、オスカーさまも、こんにちは…」
そのあまりのやつれように、先程まで新女王誕生の喜びに溢れていたジュリアスの顔色も一変する。
「どうしたのだ、アンジェリーク。ひどく顔色が悪いぞ」
アンジェリークは青黒い隈に縁取られた瞳に無理矢理笑顔を浮かべると、「大丈夫です。ちょっとここ数日頑張り過ぎちゃって。一刻も早く女王になりたかったんで、夜も勉強の時間に当てて寝不足なんですよ」と気丈に言ってみせた。
「そうか、頑張るのは良い事だが…そなたはこの宇宙を救う事のできるただ1人のかけがえのない存在なのだ。健康にだけは充分留意しなければならないぞ」

その言葉に、アンジェリークの笑顔が一瞬だけ翳りの色を見せた。
だがそれは本当に一瞬で、すぐに背筋を伸ばすと真直ぐな瞳でジュリアスを見据えた。
「はい、ご心配をおかけして申し訳ありません…。今日は、ジュリアス様にお願いがあってきました」

オスカーの心臓が、どくりと高鳴った。
アンジェリークのお願いごとというのが、どんなものなのか瞬時に予想がついたからだ。
いつの間にか掌は固く握りしめられ、汗がじっとりと滲み出していた。
彼女の口からその言葉が出るのを聞きたくはないのに、視線は唇から外す事が出来ない。
その唇が、小さく開いて言葉を紡ぎ始める。

「女王試験最後の育成を、本日…ジュリアス様にお願い致します」

そう言いながら頭を下げるアンジェリークの姿が、ぐらりと歪んで見えた。