Hell or Heaven

~第1章・禁断の果実(4)~


アンジェリークはジュリアス様に最後の育成を願い出た後、「今日はこれでもうやる事もありませんし、少し疲れているので寮に帰って休んでも良いでしょうか」と伺いを立てた。
顔色の悪い彼女を心配したジュリアス様は、「そうだな。今日の夜に私が育成を終えた後、そなたはすぐに新宇宙への星々の移動を行なわねばならないし、今はゆっくりと身体を休めておいたほうが良かろう」とすぐに帰宅の許可を出した。

「ありがとうございます」
アンジェリークはそれだけ言うと、一瞬だけちらりと俺の方に縋るような弱々しい視線を向け、その後すぐに聖殿を辞した。

その後のジュリアス様のお話は、全く頭に入ってこなかった。
彼女が最後に見せた縋るような視線が気になって、一刻も早く彼女の元に行ってやりたかった。
愛する男の手で女王の座に昇る事で、彼女なりに自分の気持ちに決着をつけようとしている事はわかる。
だが、本当にそんな事で自分の気持ちを簡単に忘れる事ができるのか?
式典の準備の相談もそこそこに、俺はジュリアス様の執務室を辞すると同時に彼女の部屋へと向かった。

彼女が泣いているような気がして、居ても立ってもいられなかった。
部屋に辿り着いた時、俺はノックする事もしなかった。
何故だかわからない、彼女は俺を待っていてくれているような気がしたからだ。
そしてやはり────部屋の鍵は、かかってはいなかった。




アンジェリークは女王候補寮に帰るとすぐに自室のベッドに力なく身を投げ出し、天井をぼんやりと見つめていた。
窓からは強い日ざしが差し込んでいる。
この日ざしが翳って、暗闇が訪れたら…私は、女王になるんだ。
あと、どれくらい時間があるんだろう。
5時間?6時間?どっちにしろ、もう女王の座は目の前にあるのだ。
これで皆の懐疑的な視線や、早く女王になれとの無言のプレッシャーから解放される。
嬉しいはずなのに、心の底からの喜びは湧いてこなかった。

その理由は、わかっている。
私は───未だに、ジュリアス様への想いを消し去れていない。
忘れる為に最後の育成をお願いしたのに、あの時のジュリアス様の言葉───「この宇宙を救う事のできるただ1人のかけがえのない存在」に、ひどく衝撃を受けてしまった。
私は宇宙にとってかけがえのない存在になんかならなくても良かった、あなたにとってかけがえのない1人になりたかったんです!
そう叫んでしまいそうな自分を、必死に抑え込んだ。
こんな中途半端な気持ちのままで、本当にこの宇宙を救う、崇高な存在なんかになれるのだろうか?
私はそんな立派な人間なんかじゃない、ただのつまらない普通の女の子だ。
宇宙と好きな人を比べたら、好きな人を取ると言い出しかねない、自己中心的な欲望の固まりの人間なのに。

アンジェリークの目には涙が溢れだしたが、もはやそれを拭う気も起きなかった。
涙の流れるままに任せ、そっと瞳を閉じる。
閉じた瞼の裏に、エリューシオンの民達の明るい笑顔がぼんやりと浮かんだ。

そう、私だってこの宇宙が大切だし、女王になりたいと願っていた。
その気持ちに嘘はないし、今だって一刻も早く女王になって、この宇宙の全てを守り抜きたいという思いが確かに存在している。
なのに、その思いとはうらはらに、女王にならずにジュリアス様に私を選んでほしかったと願う自分もいる。
その相反する両方の思いに、心が引き裂かれてしまいそうだ。
誰か、こんな醜い私を救ってほしい。

「誰か…」

言葉に出して呟いてみる。
誰も答えてくれるはずがないとわかっているのに。
その時、脳裏に映るエリューシオンの民達の姿と共に、オスカーさまの姿がぼんやりと映った。

いつも暖かい目で見守ってくれた、強くて優しい、兄のような存在。
私が苦しい時も、誰にもわかってもらえない時も、オスカーさまだけは私の味方だった。
ジュリアス様への思いも、醜い自分も、オスカーさまだけが気付いてくれて、受け止めてくれた。

今、1人でこの女王になるまでの時間を過ごすのは辛すぎた。
オスカーさまが、側にいて力付けてくれたら…少しは、気が楽になるのだろうか。
「オスカーさま…」

そう、口に出した瞬間だった。
突然ドアが開き、今まさに側にいてほしいと思っていたその人───オスカーさまが、息を切らして部屋に駆け込んできたのだ。

「お嬢ちゃん…」
「オスカーさま…?」
アンジェリークは身を起こすと、流れる涙を隠す事も忘れて驚きの表情でオスカーを見つめた。
まさか、本当に来てくれるとは思ってもいなかった。
でも優しいオスカーさまの事だ、きっとさっきの私とジュリアス様とのやり取りを見て、心配して来てくださったんだろう。

オスカーはアンジェリークの側に駆け寄ると、何も言わずその細い身体を抱きしめた。
途端にアンジェリークの中で、張り詰めていたものが音を立てて弾け飛ぶ。
「オスカーさま…オスカーさま……!」
アンジェリークは彼の背中に腕を回すとその広い胸に顔を埋め、ただただ泣きじゃくった。

「オスカーさま…私、女王になりたいのに…なりたくないんです。ジュリアス様の事、もういくら思ったって無駄なのに…諦め切れないんです。こんな状態のまま女王になる時間をただ待っているのが辛くて…いっそ気が狂ってしまえばいいのに、なんてどうしようもない事を考えちゃうんです。こんな…こんなどうしようもない人間なのに、私なんかが宇宙の運命を任されてしまってもいいんでしょうか?私のような人間は、女王に相応しくないんじゃないでしょうか?」
アンジェリークは抑えていた心を吐き出すかのように泣きながら一気にまくしたてた。
無理もない、女王候補とはいえ彼女はまだ17歳の少女なのだ。
何もかも自分の感情を押し殺して女王になれる程、出来た人間なんかである訳がない。

「そんな事、君が恥じることはないんだ。この宇宙が、そんな普通の少女である君を選んだのだから。女王だからって生まれながらの神なんかじゃない、悩みもするし傷付きもする。時には理不尽な事も考えてしまうだろう。そんな中で、少しづつ女王として成長していければいいんだ。君は女王に相応しいだけの素晴らしい人間だ、それは俺が保証する」

オスカーの力強い言葉に、アンジェリークは顔を上げて彼の瞳を見つめた。
いつも氷のような鋭さをたたえたオスカーの瞳は、今は本当に優しく、包み込むようにアンジェリークを見つめている。
「本当に…そう思ってもいいんでしょうか?」
オスカーを見つめるアンジェリークの瞳にも、輝きが戻りはじめる。
そのきらきらとした碧の輝きが、オスカーの胸に痛いくらいに染み込んでくる。

「ああ、何と言ってもお嬢ちゃんは、この俺にここまで親身になって心配をかけさせる希有な存在だ。この俺がこうして1人の女性の為だけに心配して走り回るなんて事は、今までなかったんだぜ?」
そのおどけたような物言いに、アンジェリークの顔にも笑顔が戻る。
「ふふっ、そうですよね。宇宙一のプレイボーイと言われたオスカーさまに、お兄さんのような存在になってもらっちゃったくらいですものね」
あどけない泣き笑いの笑顔で見上げるアンジェリークに、オスカーは息苦しささえ覚えながらも、強い意志の力で自分の心を押さえ付ける。
「そうだ、お嬢ちゃんは…俺にとって、家族のように大切な、愛する存在だ」
その言葉に嘘はなかったが、『家族のように』という言葉を外せない臆病な自分が、情けなかった。
だが本当の事を今ここで言ってしまっても、彼女にとっては何の慰めにもならない事もまた、わかっていた。

少し和らいだ空気の中、オスカーはアンジェリークをその胸に抱いたまま、優しく背中を撫で続けていた。
最初に抱きしめた時の張り詰めたような感覚が、彼女の背中から抜け出しているのがわかる。
こんな情けない俺でも、アンジェリークの為になれた、その事実だけでもう十分だ。
そう、この瞬間までは、こうして彼女を心穏やかに女王として送りだしてやろうと思えていたのだ。
だがどうして運命は、このまま俺達を穏やかなままでいさせてくれなかったんだ?

突然アンジェリークの背中がびくんと強張り、強い緊張が走り抜けた。
彼女の視線は窓に向けられ──そこで、凍り付いたように動かなくなっていた。
オスカーが窓の外に視線を走らすと、そこにはロザリアを寮まで送り届ける、ジュリアスの姿があった。

愛おしげにロザリアを見つめる、ジュリアスの瞳。
ほんのりと頬を染めながら見つめ返す、ロザリア。
互いの瞳には今、他のものは何も映り込んでいないんだろうと思わせる程、二人はじっと互いを見つめあっていた。
ロザリアが小さく礼をし、寮の門に足を踏み入れた時───突然ジュリアスは右手を伸ばし、ロザリアの手首を柔らかく掴んだ。
そのまま、彼女の白い額にそっと小さな口づけを落とす。
ロザリアはうっとりと顔を赤らめながらも、微笑んで寮へと戻って行く。
その姿が見えなくなるまでじっと門の前に佇む、ジュリアスの穏やかで優しい瞳。
ジュリアスがその場から立ち去るまで、アンジェリークの視線はそこから剥がれる事はなかった。

「オスカーさま…。今、私が何を考えていたかわかりますか?」
アンジェリークは窓から視線を外さないまま、表情のない青ざめた顔でそう尋ねた。
オスカーの背中に回された手が、マントを掴んで小さく震えている。
「今、私の心の中は…醜い、嫉妬でいっぱいです。ロザリアの事、大好きなのに…憎い、です。憎みたくなんかない、本当は祝福してあげたいのに…。これから女王になって、誰とも満足に会えないような孤独の中、私が会えるのは女王補佐官のロザリアと、首座の守護聖のジュリアス様しかいないんです。自分が孤独に苛まれている時に、幸せそうな二人だけを見て…私は本当に二人を憎まないでいられるんでしょうか。そしてそんな心を持つ私が、本当にこの宇宙の全てに愛を注いでいけるんでしょうか。私…自信なんか、ありません!」
そう言ってオスカーの方へと振り向いたアンジェリークの顔は、自分への怒りと深い悲しみにわなわなと震えていた。
俺は───こんな風に思う事はおかしいのかもしれないが、そんな彼女の全てを曝け出したような表情を、この上なく美しいと感じていた。

「こんな醜い私、オスカーさまだって呆れてしまうでしょう?私ってずるいんです。さっきだって1人でいるのに耐えられなくて、オスカーさまに来てほしい、って願ってました。オスカーさまの優しさに付け込んで甘えているけど、本当はそんな資格なんてない、心の汚い人間なんです。でも自分でももう止められない、オスカーさまに救ってほしかったんです。お願い、オスカーさま、助けて、助けて…!」
アンジェリークは再びオスカーの胸に顔を埋めると、嗚咽を洩らしながらとめどなく涙を流し続けた。
さっきまで窓から差し込んでいた真昼の日ざしは、今は少し柔らかく斜めに部屋に差し込み、ベッドの上で抱き合う二人のシルエットを細長く床に映し出している。
その影は、アンジェリークが女王となるまであと僅かしか時間が残されていない事を物語っていた。

その瞬間、オスカーの胸に強い一つの決意が宿った。
苦しんでいる彼女が今、俺に助けを求めている。
彼女を助ける事ができるのは、この俺しかいないのだ────!

オスカーは泣きじゃくるアンジェリークの頬に手を添えて上向かせると、突然その唇に自分の唇を押し付けた。
一瞬彼女は驚いたように目を見開き、身体を捩ったが、オスカーはその背中を強く抱え込んで離さなかった。
その唇に強引に舌を割り込ませ、彼女の泣き声の全てを飲み込んでしまうかのように深く口づける。
やがてアンジェリークの唇から嗚咽が洩れなくなってから、オスカーはそっと唇を離した。

「オスカーさま…」
アンジェリークは何が起こったかわからない、といったように涙に濡れた目を見開いたまま、オスカーを見つめて震えていた。
「アンジェリーク、俺が君を救ってやる。何もかも、忘れさせてやる。だから目を閉じて、俺に……全てを任せるんだ」
オスカーは彼女の涙を拭うようにその顔に唇を滑らせた。
頬に、瞼に、唇に。
2度目の唇へのキスを、もう彼女は拒む事はなかった。

「いい子だ……」
オスカーは再びキスを深めていくと、そのままアンジェリークの身体をベッドの上に横たえた。

そうして俺は────これから宇宙の女王となる崇高な存在を、文字どおりこの手に『奪って』しまったのだ。