Hell or Heaven

~第2章・地上に降りた女王(1)〜


オスカーはアンジェリークのベッドの傍らに立ち、黙ってその寝顔を見つめていた。
既にその身体は守護聖の正装に包まれ、もう後はこの部屋を辞するだけとなっていた。
窓からは夕日が柔らかく差し込みはじめ、彼女が女王となる瞬間が目の前に迫っている事を知らせている。

この部屋を去り、しばらくすれば…アンジェリークは、女王になる。
俺の手の届かない場所に行き、その愛はもう宇宙の全てにしか向けられない。
だがきっと、これで良かったのだ。
俺は一生消えない罪を背負っていくのだろうが、後悔はない。
あのまま泣いている彼女を見捨てる事など出来なかった。
今こうして穏やかな寝息を立てている姿を見れば、俺のやった事は間違ってなかったとも思う。

オスカーは立ち去り難い気持ちを振り払うと、安らかな顔で眠るアンジェリークの唇に、小さな口づけを落とした。
「愛してるぜ、アンジェリーク……」
最後まで言えなかった言葉を口に出す。

この俺とした事が、泣きたい、と思った。
実際に涙を流しはしなかったが、思いきり泣いて全てを吐き出してしまいたかった。
だが今更、そんな事を考えてもしょうがないのだ。

拳を握りしめると、溜息を一つついて部屋を立ち去った。
外に出て夕日の翳り出す美しい空を仰ぎ見たが、俺の心には何も響いてはこなかった。


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アンジェリークは夢の中で、宇宙空間をゆったりとたゆたっていた。
暖かくて気持ちがよい、久しぶりに感じる解放感。
今の自分の心には、醜い嫉妬も、諦め切れない恋心も、女王となる事への不安や戸惑いも、何一つ存在していなかった。

────アンジェリーク。

微かに聞こえる女性の声に誘われるように、アンジェリークは星々の間を泳いだ。
私を呼ぶのは、誰?



────アンジェリークよ、こちらだ。

永遠とも思える程深い空間の奥に、その声の主の姿があった。
「女王陛下!」

────アンジェリーク、いや、256代目の女王にして新宇宙の初代女王よ。

その声を聞いた瞬間、背筋に衝撃が走り抜けた。
私、女王に、なったんだ…
きっと何も考えずに眠りに落ちている間に、ジュリアスさまの育成が為されたのだろう。
でも、さっきまで感じていたような女王になる事への戸惑いや恐怖は、今は何故か微塵も感じなかった。
自分の中に女王としてのサクリアが満ち溢れているのが、はっきりとわかる。

────新女王よ、そなたは…今すぐ、この旧宇宙の星々を新宇宙に移動させてほしい。

「陛下、一体それはどうすれば…」
アンジェリークは不安な面持ちで前女王を見つめた。
何しろ自分の中に女王のサクリアが満ちている事はわかっても、それをどうやって使ったらいいのか皆目検討がつかないのだから。

────案ずる事はない。そなたの心で、この宇宙を救いたいと念ずるのだ。そなたなら、必ずできる。自分の力を、信じるのだ────

自分の力。一体どのくらいの力があるのか、自分でも全くわからない。
でも今、陛下は『私にならできる』とおっしゃってくれた。
陛下の信頼に足るかはわからなかったが、とにかく一刻も早くこの宇宙を救う為に、自分にできる限りの事をしてみよう。

アンジェリークは目を閉じ、この宇宙を脳裏に思い浮かべた。
広い広い、どこまでも限りがない程広い宇宙。
その全てを包み込むように両手を広げる。
体内に暖かい熱が沸き起こり、それは次第に身体中に広がって、やがて皮膚の表面から滲むように溢れて外に向かっていく。

アンジェリークは、エリューシオンのある新宇宙を思い浮かべた。
私の心血を注いで育成を行ない、私の喜びも苦しみも全て受け入れてくれた愛する大地、エリューシオンを抱く宇宙よ。
私が生まれて育ったこの宇宙の星々を、全て受け入れて──────!!

そう強く願った瞬間、アンジェリークの身体がかっ、と光を放った。
眩い光に包まれた身体はその輪郭が見えない程に発光し、その光は瞬く間に広大な宇宙の隅々にまで広がっていく。
やがてその光が暗闇に吸い込まれ、身体が元に戻った時…目を開けると、さっきまで広がっていた無数の星々は全て消えており、何もない暗黒の中に、アンジェリークと前女王の二人だけが佇んでいた。

────新女王よ、良くやった。これで宇宙は、救われたのだ。

アンジェリークはその声に我に返ると、思わず辺りを見回した。
確かに先程まであった星々の姿は、今ここにはない。
私は、やり遂げたのだろうか?宇宙の危機を、この私が?
実感はなかったが、女王の微笑みが全てを物語っていた。

────そなたはすぐ、新宇宙に行かねばならない。この旧宇宙から移動した星々の中には、滅びる寸前だった物もある。すぐに女王がサクリアを与えなければ、例え新宇宙にあろうとも滅亡する星も出てしまうだろう。

「でも、陛下、陛下はどう為さるんですか?」

────私はこの旧宇宙のあった空間を、閉じなければならない。このまま虚無の空間にしてしまえば、外部から魔の種が入り込み、この場所に巣食ってしまうかもしれぬ。私はこの宇宙の最後の女王として、この空間を閉じねばならない義務がある。

「それならば、私もお手伝いします!陛下お一人に、そんな危険な事はさせられません!」

────ならぬ!!

前女王の強い声に一喝され、アンジェリークは思わず怯んだ。

────先程も言った通り、新宇宙にはそなたのサクリアがすぐにでも必要なのだ。この旧宇宙にいる限り、そなたのサクリアは新宇宙に届かない。この宇宙を閉じるのは、私の最後の勤め。それに、私は独りではない。ディアが手伝ってくれる。必ず二人でこの空間を閉じ、そなたの女王就任の儀に向かってみせる。だから…早く、行くのだ。

アンジェリークは女王の言葉に頷くと、力強い視線で「わかりました」と答えた。
しかし、旧宇宙の暗黒の空間は急激に圧迫感を増している。
このまま陛下とディアさまがこの空間を閉じられる事に失敗した場合、二人とも暗黒に飲み込まれ、宇宙の塵と化してしまうだろう。
それでも二人は、新宇宙の女王である私を巻き込まないようにと気遣ってくれている。
アンジェリークは零れそうな涙を堪えながら、前女王に背を向けた。

────新宇宙の女王よ。

その場を去ろうとするアンジェリークの背中に、前女王陛下の声がかかる。

────そなたが創るのは、今までと表面上は同じようでありながら、全く違う宇宙。これからは、そなたが全てを決断し、全てを新しく創り上げていくのだ。これはそなたにしか出来ない事。今までの古い慣習に囚われる事なく、自由で新しい世界を創るのだ──────

アンジェリークは小さく振り向いた。
自由で、新しい世界?
その言葉はすぐにはっきりとしたイメージをもたらす物ではなかったが、漠然とアンジェリークに進む道を示しているようにも思えた。

「わかりました。必ず、新しい宇宙を創り上げてみせます。ですから、陛下も御無事で…必ず、新しい宇宙にいらっしゃってください。お待ちして…います!」

前女王が笑顔でそれに答えるのを確認すると、アンジェリークは後ろ髪を引かれるような思いを振り切りながら、その場を後にした。