Hell or Heaven

~第2章・地上に降りた女王(3)~


聖地はその朝、眩しい程の暖かい日ざしに包まれていた。
新しい女王の強い力そのものの好天に恵まれ、漂う空気も流れる雲も全てが瑞々しく新しさを感じさせ、この宇宙に住む全ての生ける物に喜びの力を与えていた。

守護聖達は女王謁見の間に勢揃いし、女王の支度が整うまでの間、頭上の空間に多数浮かべられたスクリーンを見つめていた。
そこには各惑星で行なわれている、新女王誕生を祝うパレードや祝賀の様子が映し出されている。
喜びに湧く民達、新女王に賛辞の言葉を惜しまない各惑星の首脳陣達。
それを好意的な視線で見守る守護聖達の中で、ただ一人、オスカーだけが別の思いでそれを見つめていた。

アンジェリークの能力に疑いの目を向けていた者達も、いざこうして宇宙の危機が救われると、掌を返したように彼女を賞賛する。
この宇宙を救った全知全能の女神だと敬い、彼女も自分達と同じ人間なのだという事になど、目を向ける者もない。
だが、俺にはあの日の彼女の姿を忘れる事は出来ない。
自分の弱さも醜さも全て曝け出し、もっとも人間らしい涙を流していたあの姿を。
俺に抱かれながらもジュリアスさまの名を呼んだ事すら、彼女が普通の人間らしい欲望を持った一人の女性であるという事実を物語っていた。
そんな彼女を愛おしく思う事こそあっても、憎む事など出来はしない。

俺はあの日以来、消えない罪を背負いながらも彼女を忘れる事は出来なかった。
いや、むしろますますその思いは強く、俺を蝕んでいる。
彼女の白い肌の感触や柔らかい香りが、まだ消えずにこの手に残っているような気さえする。
この手に抱いてしまった事で、かえって俺は、彼女を諦められなくなってしまった。
これから手も触れる事も叶わず、顔を見る事も許されないというのに、俺の思いは消える事すら許されないのだろうか?

衣擦れの音と共に、新しい衣装に身を包んだ女王補佐官・ロザリアが奥から現れた。
「女王陛下がお出ましになります。皆様、御静粛に」
オスカーはその瞬間、一段高い場所にある奥の玉座の前に掛けられた紗のカーテンを、食い入るように見つめた。
やがてその場所に、ピンクのドレスに身を包んだアンジェリークの姿が、うっすらと透けて映る。

そのカーテンの前にまずジュリアスが歩み寄り、祝辞を述べる。
他の守護聖もそれに続き、明るい表情で次々と祝いの言葉を贈っていく。
やがてオスカーの番が来たが、オスカーはその表情を厳しく引き締めたままだった。

「女王陛下、この度は御即位おめでとうございます。この炎の守護聖オスカーは、これからも女王陛下の剣となり盾となり、この身に代えても御身をお守りし、心からの忠誠を捧げる事を誓います」
跪いたままの姿勢で、固い祝いの言葉を述べていく。
その言葉に偽りはなかったが、心は晴れ渡る事はなかった。

「ありがとう、オスカー。今までは守ってもらってばかりでしたが…これからは私も、皆様をお守りできるように、努力していきますね」
その言葉に思わず、オスカーは顔を上げた。
アンジェリークの表情は紗のカーテンに隠れて読み取る事は出来なかったが、その声は微笑んでいるような、穏やかな優しさを秘めていた。

オスカーはこの瞬間、アンジェリークが本当に女王になってしまった事を実感した。
いつも俺の助けを求め、縋って泣いていたあの少女はもう、いないのだ。
寂しさが胸を突き上げたが、これこそが現実だった。

オスカーが女王の前を辞し、残りの守護聖達の祝辞も終わると、ロザリアは添えるように斜めに手にしていた月桂樹の杖を、真直ぐに持ち替えた。
「女王陛下より即位の宣言を行ないます」
しかしロザリアの言葉が終わらないうちに、女王の玉座の前の空間がゆらゆらと陽炎のように歪みはじめた。
「何だ?」
守護聖達に瞬時に緊張が走る。
皆が息を詰めてその揺らぐ空間を見つめていると、やがてその空間にぼんやりと二つの影が浮かび上がった。

「陛下…それにディアさまも!」
マルセルが思わず叫び声をあげる。
二つの影は、やがてはっきりとした姿へと変わっていた。

「どうやら…間に合ったようだな」
前女王が、新女王となったアンジェリークのいる玉座を見つめて微笑む。
ディアも前女王陛下も憔悴しきってはいたが、それでもその表情は明るかった。

「陛下…ディアさま、よく、御無事で…」
アンジェリークが潤んだ声を二人に向ける。
「思ったより手間取ってしまった…。すまない、そなたにも皆にも心配をかけてしまった」
「これで、私達の役目は終わりました…。これからは新女王陛下と新補佐官、二人で力を合わせて宇宙を導いてくださいね」

ロザリアが、涙ぐみながらも前女王に声をかける。
「陛下、まだ…陛下から直接女王の譲位のお言葉を頂いていません。宜しければ今、この場で…女王譲位の宣言をお願いできますでしょうか?」
前女王は微笑みながら頷くと、慣習に則って紗のカーテンの内側へ入り、新しい女王と顔を見合わせる。
「256代にして新宇宙の初代女王、アンジェリークよ。ここに、新女王陛下の即位を宣言する!」
前女王の力強い宣言に、アンジェリークも微笑み返す。
「女王の座、慎んでお受けいたします!」

二人は互いに見つめあったまま、しばらく動く事はなかった。
それはおそらく、この玉座に上った者にしかわからない、不思議な感情の交感だった。
「女王陛下…」
アンジェリークが口にした言葉に、前女王が思わず笑みを零す。
「私はもう、女王ではない。今はただの一人の人間、アンジェリークという名の女性に戻ったのだから」
アンジェリークは、前女王が自分と同じ名前を持っていた事に驚き、そしてこの事実に何か不思議な運命を感じずにはいられなかった。

「それでは、私のこの宇宙での最初の仕事を見ていてください。私はこれから行なう事を、誰よりもあなたに見ていただきたかったんです」
アンジェリークはそういうと、突然玉座の前にかかる、紗のカーテンを両手で押し開いた。

「陛下!一体何を…」
ロザリアの声が響いたが、アンジェリークは動きを止める事なく、幾重にも重ねられたカーテンを抜けて、守護聖達の前にその姿を現わす。
驚いた表情で一斉に自分を見つめる守護聖達の視線の中、アンジェリークは静かに玉座の前の段差を降りていく。

「女王陛下、なりません!例え守護聖の前であろうとも、女王はそのお姿を晒す事は許されていないのです!それが、この宇宙の長きに渡る決めごと、しきたりなのです!」
青ざめた表情のロザリアが駆け寄ってきたが、アンジェリークは笑顔でそれを制した。
「心配しないで、ロザリア。お願いだから、私のやる事を黙って見守っていて」
優しい声だったが、その声には強い意志が滲んでいて、ロザリアはそれ以上女王を引き止める事は出来なかった。

3段程の段差を降り、守護聖達のいる場所まで降りてくると、中央に敷かれた赤絨毯をゆっくりと前に進みでる。
唖然として声もでない様子の守護聖達。
そんな彼らを見るアンジェリークはどこか楽しい気分になりながら、赤絨毯の中程まで辿り着く。
そこで初めて足を止めると、笑顔で両側に居並ぶ守護聖達にぐるりと視線を向けた。

「ふふっ、みんな驚いた?」
アンジェリークの楽しげな笑いに、ジュリアスがはっと我に返り、膝を折って足元に跪く。
「陛下、先程ロザリアも言っておりましたが、今はもう陛下は常人とは違う存在なのです。今までのように気軽にそのお姿を晒す事は許されておりません!どうか、玉座にお戻りください」

アンジェリークはその姿に一瞬寂しげな微笑みを投げかけたが、すぐに凛とした声でジュリアスに告げた。
「ジュリアス、頭を上げて、立ってください。お願いです」
「そのような事はできません」
「それでは…これは、女王命令です。お立ちなさい。そして私の宣言を、聞いてください」
女王の声にジュリアスは驚き、思わず顔を上げた。
アンジェリークの顔は、昨日までの弱々しい女王候補のものではなかった。
柔らかく微笑んでいながらも既に女王としての威厳が滲み出し、ジュリアスは思わず気押されたように立ち上がった。

「…急に私がこんな事をして、みんな驚いたでしょう?でも、これから話す私の考えを包み隠さずみんなに聞いてもらいたくて…。沢山悩みましたが、こうする事が一番良いのではないか、と私なりに辿り着いたの」
アンジェリークはそこで一旦言葉をきり、緊張して溜め込み気味だった息をふうっ、と吐き出した。
守護聖達も緊張した面持ちで、女王の次の言葉を待っている。

「今までの宇宙では、女王は神に等しい存在として、その姿を一般には晒さないのが掟でした。でも、私は神なんかじゃない、ただの人間です。悩みもするし、傷付きもする。そんな時、自分一人でそれを乗り越えていくよりも、皆の力を借りて、助け合って乗り越えていきたい、そう思ったの。だから…これから私はこの宇宙で、新しい『開かれた女王制度』を目指していこうと思っています。守護聖の方々とも活発に意見を交しあい、普通に暮らす人々の幸せや感覚を失わないでいたいんです。そんな中で、少しづつ良い女王として成長していきたい…そう願っています」

アンジェリークの言葉に、皆が一様に驚きを隠せなかった。
「しかし…」
口を開きかけたジュリアスに、アンジェリークが微笑みを返す。
「ジュリアス、あなたの考えもわかります。長年築かれてきたシステムには、もちろん長所もあるでしょう。でも逆に、あまりに長い間同じ掟に縛られているのは、時代の流れに則していないような気もするんです。今、ここは新しい宇宙…。淀んだ流れを断ち切り、新しい風を吹き込むのは今しかない、そんな気がするの。もちろん、私一人ではこんな大きな事は成し遂げられるかわかりません。だからこそ、皆様の力を…私に貸していただきたいんです」

その瞬間、ぱちぱちぱち、と拍手が鳴った。
ランディが顔を紅潮させながら、大きく頷いている。
「陛下、俺もその考えに賛成です!なんで守護聖は女王陛下に会えないのか、ずっと不思議でした。一番女王陛下を信頼して支えなければいけない立場の俺達なのに、そのお顔を見る事も出来ない、考えを話し合う事も出来ないじゃ本当にそのお心を理解するのは難しいって思ってました。だから俺、陛下が俺達の前に姿を現わしてくれるというのは大賛成です!!」
すぐ側のマルセルも、嬉しそうに頷く。
「うん、僕もそう思う!アンジェ…じゃなくって、陛下に会えなくなっちゃうのは寂しいな、ってずっと思ってたんだもの。僕、陛下のお力になれるように頑張るよ!」
いつもはこういう事にはあんまり拘わらないゼフェルも、照れくさそうに小さく拍手する。
「そーだよな、勝手に女王候補だって連れてこられて、いきなり誰にも会えないなんて決まりごと、おかしーよな。おめー…陛下の言ってる事、わかる気がするぜ。オレも賛成だ!」

年若い3人の拍手に続き、オリヴィエやクラヴィスも笑顔を浮かべて拍手の輪に加わる。
次々と拍手の輪が広がる中、最後まで反対の表情を浮かべていたジュリアスも、前女王とディアの二人までもが笑顔で拍手をするのを見てようやく渋々と拍手に加わった。

「みんな、ありがとう。これから今までとは全く違った制度になる事に戸惑いもあるでしょうが、共に力を合わせて新しい宇宙を創り上げていきましょうね」
アンジェリークの心からの微笑みに、守護聖達の拍手が一段と高くなる。

そんな中、オスカーだけが複雑な思いを胸のうちに隠していた。
もう二度とこの手に抱く事は出来ない、見る事すら許されない高みに上ってしまったと思っていたアンジェリークが、今自分のいる場所まで降りてきたのだ。

素直に嬉しいと思う感情と同時に、果たして自分はこの思いを抑え続けていけるのか、いつかこの思いが暴発してしまうのではないか、そして───新しい地獄がこの先に待ち受けているのではないかという漠然とした不安が、胸を掴んで離さなかった。