Hell or Heaven

~第3章・結婚式の夜(1)~


女王試験終盤の苦難や、恋愛の苦しみを味わった事で、アンジェリークの内面には大きな変化が訪れていた。

即位翌日から聖地内を歩き回り、王立研究院に出向いて各惑星の星間移動後の様子を調べたり、時には女王制度のあり方を見直すべく新しい治世の法整備を提案したりと、その精力的な仕事ぶりは今までの頼りなげな彼女しか知らない人々を驚かせた。
そこにはもう女王候補時代の無邪気な面影はなく、僅かな時間で急速に少女が大人への階段を昇りはじめている事を周りに印象づけた。

「陛下、少し休憩なさりませんとお身体に触りますわ。美味しいお茶とお菓子をリュミエールに頂きましたの。そろそろ休憩いたしましょう」
ロザリアが香り高いお茶をカップに入れているのを見て、アンジェリークは微笑みながら頷いた。
「ありがとう、ロザリア。わあっ、薔薇のお茶とクッキーね!リュミエールさまの事だから、ご自分で作られたのかしら?」
嬉しそうに瞳を輝かせるアンジェリークに、「陛下、守護聖に『さま』付けは不要ですわよ」とロザリアが笑いながらたしなめる。
「いっけなぁい、またやっちゃった!」
舌をちろりと出してえへへ、と照れくさそうに笑う姿は、いつもの明るいアンジェリークそのものだった。

ロザリアはそんなアンジェリークの様子に少しホッとしながら、ずっと言い出しづらくて口に出せなかった事柄を切り出した。
「陛下、明日のわたくしとジュリアスの結婚の儀の件なんですけど…」
アンジェリークは一瞬ティーカップを持つ手を止めかけたが、すぐに何ごともなかったように再びカップを口に運び直した。
「あ、そうね、もう明日に迫ってるのよね。準備はもう終わったの?」
「ええ、実は陛下が出席してくださるとは当初わたくしもジュリアスも思ってもみなかったんですけど、こうして開かれた女王制の一環として陛下が出席してくださるのでしたら、わたくしのブライダルメイド役を陛下にお願いしたらどうだろう、とジュリアスが言っているんですけど…」
最後の方はロザリアも少し言い淀んでしまった。

もちろんわたくしも、アンジェリークがジュリアスを好きだった事は知っている。
こんな事を陛下にお願いするのは、酷なのではないかという事も。
でもジュリアスは「陛下はそなたの一番の親友なのだし、陛下にお願いするのが一番最善だろう」と言っていた。
わたくしだってできればアンジェリークに頼みたい。
人生の一番華々しい瞬間を、大切な友人に一番近くで祝ってほしい。
だけど、彼女の気持ちを考えるとなかなか言い出せなかったのだ。

今日になってジュリアスは「なんだ、まだ陛下に願い出てなかったのか?それなら私が直接陛下に願い出てみよう」と言い出したので、慌ててそれを制した。
ジュリアスとアンジェリークは、とても似たところがある。
ジュリアスはあれだけ一途に思いを寄せてくれていたアンジェの気持ちに全く気付く事がなく、その意識はわたくしにしか向けられる事はなくて、時に彼女に対しては無神経とも思える発言をする。
もちろん女王としては最大の敬意を払ってはいるのだけれど、一人の女性として彼女を顧みた事はない。
そしてアンジェリークもジュリアスだけを一途に追い続け、すぐ側で彼女に真剣な思いを寄せている人物───オスカーの気持ちなど、顧みる事がなかったのだわ。

わたくしとオスカーも、似ているのかもしれない。
ジュリアスとアンジェリークという、心が純粋で曲がった所がなく、好きな人への好意を隠す事が出来なくて、しかも好きな人以外には無神経とも言える二人に、ともに惹かれてしまっている。
わたくしは幸運にもジュリアスと思いを通じ合わせる事が出来たけど、オスカーはその思いの行き場を無くして苦しんでいるに違いない。
せめてアンジェがオスカーの気持ちに気付いてくれれば、少しは報われるんでしょうけど…。

「…ア?ロザリア?」
アンジェリークの呼び掛けに、ハッとしてカップから顔を上げる。
どうやらすっかり自分の考えに嵌まってしまっていたようだ。
「あ、あら、ごめんなさい。それで、ブライダルメイドの件なんですけど、お忙しければ他の人に頼みますが…」
その言葉に、アンジェリークはきゃらきゃらと面白そうに笑い出した。
「いやだぁ、何にも聞いてなかったのね。私、喜んでお引き受けするわ、って言ったのよ」
「そ、そうでしたの。わたくしとした事が忙しいせいかぼんやりしてしまって…」
頬を染めるロザリアをクスクスと笑いながら見つめるアンジェリークの瞳が、ほんの一瞬寂しげに揺らいだが、ロザリアはそれに気付く事は出来なかった。


カチャカチャと音を立てながらロザリアが飲み終わったカップをワゴンに戻し、女王付きの侍女が片付けるのを見ながら、アンジェリークがぽそりと呟いた。
「今日でロザリアも、この女王宮での仮生活もおしまいね。寂しくなっちゃうなぁ」
ロザリアとジュリアスは明日の結婚式を終えるまではけじめとして別々に暮らしており、ロザリアは仮の住まいとしてこの女王宮内にて生活を送っていた。
(私だったら好きな人とはすぐにでも一緒に暮らしたいと思うけどな。まあロザリアもジュリアスも厳しい家庭に育ったらしいし、そういうものだと思ってるのかもしれないわね。でもロザリアがこうして毎日一緒に朝も夜も食事を共にしてくれなくなるのは、やっぱり…寂しいなぁ)

アンジェリークの寂しげな表情を読み取ったロザリアも、同じような表情を浮かべた。
「そうですわね、わたくしもやっぱり寂しいですわ…。そうだ、今日の夜、陛下の寝室に伺っても宜しいかしら?女王候補時代は良く、お互いの部屋で夜更かししておしゃべりしましたでしょう?久しぶりに、あんな時間を持ちたいですわ」
ロザリアの言葉に、アンジェリークの表情がぱあっ、と明るくなる。
「うん、そうね!じゃあ今日の夜、楽しみに待ってるわ!」
その明るい顔つきが、ロザリアは心の底から嬉しかった。


執務を終え、女王の私室に戻ったアンジェリークは部屋着に着替えると、ふぅっと溜息を一つついてベッドにぽすん、と寝転がった。
今日これから、ロザリアがここに来る。
その事は素直に、嬉しかった。

開かれた女王制を目指すとはいえ、何もかもが自由と言う訳にはいかなかった。
どこに行くにも護衛がぞろぞろと後をついてまわるし、気軽に人々に声をかけたくとも皆恐れ多いと言ったように顔を伏せてしまい、とてもじゃないけど普通の会話を楽しむと言う雰囲気ではない。
今までの女王程ではないにしても、やはり孤独を感じてしまうのは否めなかった。
一人でベッドに入っても寂しくて眠れなくて、泣きそうになってしまった夜もある。
それを考えると、ロザリアが来てくれると言うのは本当に嬉しい事だった。

でも心の片隅で、明日にも幸せな結婚をするロザリアに、妬みの感情を持ってはしまわないだろうかと危惧している自分もいる。
女王になってから今日までの一週間、周りが驚くくらい精力的に働き続けた。
夢中になって動いていれば、ジュリアスとロザリアの結婚の事を考えないで済んだからだ。
だけどもう明日にも結婚式は現実としてやってきてしまうのだし、私だって大好きなロザリアの結婚を心から祝福してあげたい。
そう思ったからこそ、ブライダルメイド役も引き受けた。
明日で綺麗に、自分の中の未練やら嫉妬やらの感情とは決別しなくてはならない。
だから今日は、ロザリアとの最後の独身の夜を楽しく笑って過ごせる自分でありたかった。

コンコン、と小さなノックの音が響く。
「ロザリア、いらっしゃい!」
ベッドからがばっと身を起こすと、アンジェは一目散にドアを開けた。
ローブを羽織った姿のロザリアが、右手に小さなワインのボトルを下げて立っている。
「なんだか緊張して良く眠れそうにないから、お酒を持ってきちゃったわ。みんなには内緒で、少しだけ飲みましょう」

二人は楽しそうに笑いながらベッドに入り、サイドボードに置いたワインを時々舐めながらいろんな話を語り合った。
アンジェリークは思いを振り切る為に、お酒の力を借りて様々な話を聞き出した。
ジュリアスとロザリアが、どうやって思いを育てたのか。
どうやってあの日、ジュリアスはロザリアに告白したのか。
ロザリアは少し戸惑いながらも、真直ぐにその質問に向き合い、真実で答えてくれた。

「…ジュリアスはあの日、なんだか様子がおかしかったの。何を話しかけても上の空で…それで突然、『今の私には女王試験などどうでもよいのだ』とおっしゃって…。私はまさかジュリアスが女王試験を放棄しろと言い出すとは思ってなかったから、本当に驚いたけど…でもあの方がそんなに真剣に思いを打ち明けてくれるとも思ってなかったから、嬉しくて…気付いたら、彼の手をとって頷いていたわ」
頬を染めながらひとつひとつ言葉を選び、真摯に答えてくれるロザリアがアンジェには嬉しかった。
ジュリアスの話に心が痛まないと言ったら嘘になるけど、変に気を遣われたり嘘をつかれるより、隠す事なく自分を信頼して真実を語ってくれているロザリアの気持ちが、有り難かった。

少しお酒が入って上機嫌になったアンジェは、ずっと聞いてみたくて聞きにくかった質問を、思いきってロザリアにぶつけてみた。
「ねえロザリア、その…ジュリアスとは、もうキス以上の事はしたの?」

その質問にロザリアは瞬時に首まで真っ赤になり、次いで眉を吊り上げて怒り出した。
「ななな、何を突然言い出すのよ、あんたったら!!」
いつもの上品な言葉遣いでなく、思わず女王候補時代の気軽な口調に戻ってしまったロザリアに笑いながらも、アンジェリークは追求の手を緩めない。
「だってジュリアスだってもう立派な大人の男性なんだし、愛しあってる二人がそうなるのって自然な事でしょ?」

ロザリアは信じられないと言ったような呆れた表情を浮かべながら、恥ずかしそうにふぃっ、とあさっての方を向いた。
「わたくしは小さな頃から、愛する人にこの身を捧げるのは結婚初夜に決まってる、と思ってましたわ。ジュリアスもそう思ってくださってたみたいで…だからわたくし達はまだそんな、ふ、ふしだらな行いはしていませんわよ!あんただって、おんなじように思ってるでしょう?」

ロザリアの剣幕にアンジェは寂しげな微笑みを向けると、「うん、そうだよね、それが普通だよね…変な事聞いちゃって、ごめんね」と小さく呟いた。
「さ、おしゃべりはもうこの辺にして、もう遅いから休みましょう」
ロザリアはそう言いながらベッドサイドの灯りを落とし、毛布の中に身体を滑り込ませた。

「おやすみなさい、アンジェリーク」
「ロザリア、おやすみ…」

暗闇の中で程無くしてロザリアの静かな寝息が聞こえてきたが、アンジェリークは眠りにつく事が出来なかった。
さっきまでの楽しい気持ちが嘘のように消え失せ、今の心は再び重苦しい感情に支配されていた。

別にロザリアが、ひどい事を言った訳じゃない。
私だってほんの一週間前までは、ロザリアとおんなじように好きな人とは結婚初夜に結ばれるのが一番いいと思っていたのだもの。

だけど今の私は…もう、愛する人と初めての夜を迎えるなんて事、不可能だって知っている。
兄のように思っていた男性の優しい気持ちを利用して、嫌な事から目を逸らす為だけに身体を開いた。
そこには愛なんて、存在していなかった。
あったのはオスカーからの同情、そして私の───身体だけの快感。

あの日以来、私はオスカーの顔をまともに見る事が出来ない。
『開かれた女王制度』なんて偉そうな事を言っておきながら、あの人の執務室にだけは足を向ける事も出来ず、会わないようにとひたすらに逃げ続けている。
私を救ってくれた彼の好意を、土足で踏みにじるような真似をしているのだ。

私がこうして開かれた女王制度を目指すようになったのは、オスカーのお陰でもあるのに。
あの日、今までの女王制度のまま誰にも会わないで、孤独の中で幸せなジュリアスとロザリアにだけ会うのなどいやだと、自分の心の奥底にあった醜い感情を全て吐き出し、聞いてもらえた。
そんな私を軽蔑する事もなく、彼はその身体で私を救ってくれたのだ。
あの日、私の中で何かが変わり、何かが吹っ切れた。
そうして新しい世界を創ろうという、勇気が生まれたのだから。
それは間違いなくオスカーのお陰。
なのに私は、あろう事かオスカーに抱かれながらジュリアスの名を呼んでしまった。
こんなひどい人間である私が、どうやって普通に彼と接する事なんてできるんだろう?

アンジェリークは、傍らで安らかな寝息をたてるロザリアの方を見た。
明日、ロザリアは夢見ていた通りに、愛する人にその身体を捧げる。
愛する人と、心も身体も愛しあう───それはきっと、素晴らしく甘美で、幸せに心が震えるような行為なんだろう。

なのに私にとってのそれは、ただ肉体の快楽に支配されているだけの、心の伴わない行為でしかない。
だから自分の心は、こうまでも自己嫌悪に支配され続けている。
私は一体───どこで穢れていない美しいロザリアと、道が分かれてしまったのだろう?

ロザリアの隣にいる自分がひどく汚れた存在に思えて、惨めで涙が出そうだった。
こんなふしだらな自分は、ジュリアスに選ばれなくて当然だったのだわ。

アンジェリークは唇を噛み締めると、暗闇に溶け込んで見えないはずの天井を、じっと睨むように見つめ続けた。



泣く訳にはいかない。
こんな汚れた自分を傍らのロザリアに気付かれる事だけは、何があっても避けたかったのだから。