Hell or Heaven

~第3章・結婚式の夜(2)~


結婚式の朝、聖地は好天に恵まれていた。
アンジェリークはロザリアの支度を手伝う為に控え室へと向かう途中、廊下の窓から外の明るい日ざしを見てふと足を止めた。

今日が、雨でなくて良かった────

女王の心の不調は、敏感に天候に反影されてしまう。
その事を知っていたアンジェリークは、務めて二人を祝福する気持ちだけを心に抱くよう、強く念じ続けていた。
ジュリアスに対する断ち切り難い恋慕の情、ロザリアに対する嫉妬、そういった感情を出さない為に、自分がいかに二人を愛しているのか、そして結婚を祝福してあげたいと思っているのか、ただその事だけを考えるように心を砕いた。
その結果が、この美しく晴れ渡った青空に表われている。

でも本当に私の心は、この空のように澄み切っているのだろうか?
少しでも気を緩めたら、たちまち白い雲は灰色の影を帯び、自分の本心としての冷たい雨を降らせてしまうだろう。
だから、何があっても今日は動揺してはならない。
心を強く持って、こんどこそジュリアスへの思いを断ち切り、二人を心から祝福してあげなければ…。
アンジェリークは再び歩き出すと、ロザリアの待つ控え室のドアを開けた。

「陛下…?」
純白の総レースが長いトレーンを引く細身のウェディングドレスに身を包み、窓辺に顔を向けていたロザリアが、ゆっくりとこちらを振り向く。
そのあまりに幸福そうで美しい表情に、アンジェリークは一瞬本気で見とれてしまった。

「…陛下?どうかなさいましたの?」
ロザリアの声に、はっと我に帰る。
「ごめんね、あんまりロザリアが綺麗だったからついつい見とれちゃったわ」
素直に思ったままを口にされ、思わずロザリアの頬にも朱が差す。
「ジュリアスもますます惚れ直しちゃうでしょうね。こんな綺麗なお嫁さんをもらえるジュリアスは、本当に幸せ者だわ!!」

アンジェリークの口からは、自然に二人を祝福するような言葉が流れ出た。
そう、この時は本当に心からそう思う事が出来た。
やっぱり私は、ロザリアが大好きなのだもの。それは間違いようのない真実。
大好きな人が幸せになる事は、私にとっての幸せでもあるのだから。

アンジェリークの心からの言葉に、ロザリアの瞳にもうっすらと涙が浮かぶ。
「陛下、本当にありがとう…わたくし、必ず幸せになりますわ」
「いやだぁ、ロザリアったらお式の前に泣いちゃったらせっかくのメイクが台無しよ。涙はお式が終わってからになさいよ」
そういうアンジェの瞳にも、涙が溜まり始めている。

二人は互いに見つめあうと、くすくすと笑いながら指で涙を拭った。
心を分かち合った親友同士の、心暖まる時間。
アンジェリークは本当に優しい気持ちの中、きっと大丈夫、無事に結婚式を祝ってあげられるわ、と確信を抱いていた。



結婚式は主星の慣習に則り、聖地内に特別に設けられた礼拝堂で行なわれる事になっていた。
主星では女王に祈りを捧げる礼拝堂にて結婚の誓いを立てる事が一般的である。
赤絨毯の敷かれた通路を花嫁が最も親しい人物───この日でいえばブライダルメイドのアンジェリーク─── とともに祭壇まで歩き、そこで待つ花婿に花嫁を引き渡す。
花嫁は白いドレスに身を包み、女王の代理人である神父に誓いを立て、指輪を交換し、キスを交す。
最初はごく簡素な式を希望していたジュリアスだったが、主星で少女時代を過ごしたロザリアがこういった式のスタイルを夢見ている事を知り、愛する女性の為にこのような形式の式を執り行うように配慮したのだ。

祭壇の前では、礼装に身を包んだジュリアスがオスカーと最後の打ち合わせを行なっていた。
赤絨毯の両側に設えられた長椅子には、守護聖や王立研究院、聖殿のごく限られた職員達が座り、花嫁の登場を今か今かと待ちわびている。

「ロザリアさまのお支度が整いました」
侍女の言葉に、出席者のざわめきが止まる。
オスカーもジュリアスの側を離れ、長椅子の最前列に座り込んだ。
皆の視線がドアに向けられ、幸せな花嫁の姿を早く見たいという期待の色に縁取られる。

だが、オスカーだけは皆とはまったく違った視線をドアに向けていた。
オスカーが待っているのは、ブライダルメイドとしてロザリアをこの祭壇の前まで導く役割の女性───アンジェリークただ一人だけだった。

アンジェリークはあの夜以来、俺を避け続けている。
まだ17歳の少女でもある彼女の気持ちに立ったら、それもしょうがない事だとは思う。
愛もないのに身体だけを繋いでしまった事に、自己嫌悪や後悔の感情を抱いてしまっているのかもしれない。
あるいは意識を手放す前にジュリアス様の名前を呟いてしまった事で、俺に対して罪悪感を感じているのかもしれない。
ただどういった理由であれ、アンジェリークに避けられているという事実が辛かった。

俺はあの日から、アンジェリークを忘れようと必死で努力した。
それは彼女が手の届かない高みに行ってしまうと思っていたからだ。
しかし、意外な事にも彼女は「開かれた女王制度」なるものを目指すと言い、俺達のいる場所まで自ら降り立ってきた。
そこで彼女が他の守護聖と同じように俺と接してくれていたら、あるいは俺も忘れる事が出来たのかもしれない。
彼女は俺との行為で救われて、今は穏やかに日々を送っているのだと思えれば、俺もこれ以上彼女の気持ちを乱すような真似などしたくはないのだから。
静かに身を引いて、いつか時間が苦しみを取り除いてくれるのを待つつもりだった。

だがアンジェリークは、謁見の間でも俺には視線を合わす事はない。
毎朝必ず守護聖を一同に集めて定例会見を行なっているのだが、彼女はぐるりと視線を守護聖の間に巡らせながらも、俺の直前で視線は止まってしまう。
他の守護聖達の執務室には気軽に訪問するのに、俺の所には絶対来ようとはしない。
これでどうやって、気にせずにいろと言うのだ?
かえって彼女の事ばかり考えてしまい、心はいつまでもアンジェリークに囚われたままだ。
俺は彼女を救ったつもりでいたのに、本当は苦しめているのではないか?
だから彼女は、俺を避けているのではないか?
そんな疑念が心に沸き起こり、消し去る事ができない。
とにかく少しでもいい、二人きりで話をしたかった。
俺のとった行動は彼女を少しでも救ったのだと、信じたかった。

礼拝堂のドアが静かに開き、逆光に照らされて二人の女性のシルエットが浮かび上がる。
ゆっくりと歩いてくる二人の表情が、やがて礼拝堂の蝋燭の薄明かりの中に浮かび上がる。
純白のベールに顔を覆われながらも、その薔薇色の頬が隠し切れないほど美しい幸福を身に纏ったロザリア。
その隣には花嫁の衣装を引き立てるような、淡いラベンダー色のシンプルなワンピースに身を包んだ女王・アンジェリーク。
アンジェリークは少し緊張しているのか、視線を足元に落としながら、ゆっくりと一歩づつ前に進んでいる。
しかしオスカーが心の底で懸念していたようなこの結婚式に対する不安定な感情は、アンジェリークからは伺えない。
その表情はごくごく穏やかで、時には嬉しさすら覗かせている。
オスカーはその穏やかなアンジェリークの表情を、眩しい物でも見るかのように目を細めて見つめた。

アンジェリークは、もう大丈夫だ。
きっと彼女なりに辛さを乗り越え、この結婚を祝福する決意を固めたのだろう。
俺が心配する事など、もう何もないのだ。
後は彼女と話をするチャンスを伺えばいい。
そうして俺も心配事が取り除かれれば、いつか彼女を忘れていけるに違いない。

アンジェリークとロザリアは祭壇の前まで辿り着くと、ゆっくりと顔を上げた。
そこには笑顔でロザリアにブーケを差し出す、ジュリアスの姿があった。

ドキン。

アンジェリークの胸が、高い音をたてる。
ジュリアスの正装姿は、自分で考えていたよりもずっと素敵で、胸の高まりが抑えられない。
クリーム色がかった光沢のある白の丈の長いシルクジャケットに、揃いのベスト。
クラシックな柄のシックなボウタイをふんわりと首に巻き、長い金髪はゆるやかに後ろで一つにまとめられている。
いつもとは全く違う、貴族的でしかも男らしい雰囲気を漂わせるその姿に、アンジェリークは釘付けになり、息が止まりそうになった。

しかしジュリアスの視線は真直ぐにロザリアだけに当てられ、その瞳はあまりに美しい花嫁の姿に驚いているかのように僅かに見開かれて止まっている。
ロザリアがアンジェリークの手を離し、ジュリアスの持つブーケを受け取る。
優雅な手付きでロザリアはブーケから青い薔薇を1本だけ抜き取ると、それをジュリアスのジャケットの胸元に差し、それから互いの瞳を見つめて微笑みあった。

そのあまりに似合い過ぎるくらい美しい二人の姿にもアンジェリーク心は揺らいだが、一番自分の心を打ちのめしたのは…ジュリアスの視線は一度も自分に向けられる事はなく、その熱い瞳はロザリアにのみ向けられていた、という事実だった。

でもそんな事、当たり前なんだもの。
こんな事で動揺していちゃ、いけない───
アンジェリークはそっと二人から離れると、最前列の長椅子に腰掛けようと足を向けた。
しかしそこに座っているオスカーの姿に、一瞬足が止まってしまった。

ずっと避けていたオスカーの隣に座るのは、さすがに気が引けた。
でも、考えてみたらオスカーはジュリアスと一番親しいんですもの、最前列に座って当たり前なんだわ。
そしてロザリアと一番親しい私が最前列に座るのも、他の人から見たら自然な事。
ここで急に他の席に移ったら、かえって不審がられてしまうかもしれない───

アンジェリークは瞬時にそう判断すると、止めかけた足を再び動かし、オスカーの隣に腰掛けた。
オスカーは普段と全く変わらない自然な様子で、口元に笑みを浮かべてアンジェリークにちらりと視線を寄こし、その後すぐ何ごともなかったように祭壇のジュリアス達に視線を移してしまった。

私が気にしている程、オスカーはあの日の事を気にしている訳じゃないのかしら?
私は一人で気にして避け続けていたけど…

何故だか無性に、彼と話がしたかった。
あの日の事や、自分が避けていた事をどう思うのか、聞いてみたかった。
だけど今は厳粛な式の最中だ。
こんな場所で、ぺらぺらと話しかける訳にもいかないわ。

アンジェリークは姿勢を正すと、すぐ目の前にいるジュリアス達へと視線を戻した。
「…汝ら、聖なる女王の御前にて真に夫婦たる契りを結ばんが為に、誓いの言葉を述べよ」
神父の重々しい言葉に続き、ジュリアスが誓いの言葉を述べる。
「私はロザリアを妻とし、生涯愛し抜く事を誓います」
ジュリアスの誇らしげで深みのある声が甘く響き、アンジェリークの心を掴んで揺さぶる。

だめだ。こんな事で、動揺しちゃいけない。
あの私の心をいつも揺さぶる甘い声は、私に愛を囁いてくれる訳じゃないんだから。
アンジェリークは膝の上に置いた手を、思わずぎゅっと握りしめた。
何かしていないと、身体の震えを回りに悟られてしまいそうだった。

オスカーは視線を正面に当てたまま、しかしすぐ隣にいるアンジェリークに抜かりなく気を配っていた。
さっきまで穏やかに入場してきたアンジェリークは、明らかにジュリアス様の姿を見た途端、動揺を見せていた。
頭の中では割り切れているつもりでも、実際に本人を目の前にしたらやはりまだ心が揺らぐのだろう。

オスカーはちらりと横目でその姿を確認した。
気丈に顔を上げて目の前の二人の姿を見つめているが、その細い顎の線が微かに震えている。
アップに結い上げられた金の髪、白いうなじ。
そこから一筋零れ落ちる後れ毛が、彼女の身体の震えに合わせて小さく揺れている。
その瞬間、自分の身体の下で小さく震えていたアンジェリークの姿が鮮やかに脳裏に蘇り、オスカーは身体が熱くなるような感覚に襲われた。

震えている彼女を、もう一度この手に抱いてしまいたい───

唐突に頭に浮かんだ考えを、慌てて振り払った。
ばかな。俺は一体、何を考えているんだ?

傍らのアンジェリークはますますその白い顔を蒼白にし、見なくともわかるくらい震えが大きくなっている。
まさに今、ジュリアスがロザリアの眼前のヴェールを持ち上げ、誓いのキスを交そうとしているのだった。
うっとりと頬を染め、幸せそうにジュリアスを見つめるロザリア。
その薔薇色の頬にジュリアスの指が愛おしげにかけられ、その唇が近付いていく。

だめ。
もう見てられない。やっぱりまだ無理よ!
アンジェリークは声にならない叫び声を心の中で上げ続けていたが、それももう限界だった。
私、このまま叫んでしまう───
やめて、私の前で幸せそうにしないで、って言ってしまう─────!

もうだめだ、と思った瞬間。
アンジェリークの震える手を、オスカーの大きな手がしっかりと包むように握りしめていた。
驚いてそちらへ顔を向ける。
だが彼は何ごともないかのように平然と、ただ前を見続けている。



アンジェリークの身体からはさっきまでの震えが嘘のように消えていき、代わりに安らぐような安心感が心を支配していく。
(オスカーの手…暖かい…)

どうしていつもこの人は、私が苦しい時に何も言わずにわかってくれるのだろう。
本当に血の繋がった家族のような無償の愛を、注ぎ続けてくれるんだろう。
私…またオスカーに縋ってしまいそうで、自分が恐ろしい。
この人のくれる大きく包み込んでくれるような愛情───そこには同情もあるのかもしれないけど───に比べたら、私のオスカーに対する感情は打算や甘えなどの汚い物ばかりで、この優しい人を利用しているだけだというのに。
でも、この暖かい手を心地よいと思ってしまう。
彼がこっちを向いてくれればいいのに、なんて勝手な事を考えてしまう。

パイプオルガンの調べと共に、美しい賛美歌が聞こえてくる。
圧倒的な音の渦の中、アンジェリークは頭の中がくらくらするような感覚に囚われる。
オスカーの手がその熱さを増したような気がして、思わず自分もその手を握り返す。
その瞬間、彼の無表情な横顔が、僅かに震えたような気がした。




気がつくといつのまにか式は終わっており、出席者達はジュリアス達を見送りに三々五々に立ち上がっていた。
オスカーの手も、いつのまにか外されている。

少し寂しい、と思いながらもアンジェリークも席を立とうとした。
立ち上がるほんの一瞬の間、オスカーの唇が自分の耳元に近付き、聞き取れない程の低い声で短く囁いた。
アンジェリークは驚きのあまり立ち上がる事もできずにオスカーを見上げたが、彼は視線も合わさずに立ち上がり、一人で出口へと向かっていった。

アンジェリークは、身動きもせずに彼の言葉を反芻した。
聞き間違えなんかじゃない。確かにオスカーは、こう言ったのだ。


───────今日の夜、君の部屋に行く、と。