Hell or Heaven

~第4章・a fair affair(1)~


ジュリアスとロザリアが華燭の典を挙げてから、1ヶ月近い時が流れていた。
しかしアンジェリークは、未だ赤い薔薇を身に付けてオスカーの前に現れない。

オスカーの心には、焦りが生じ始めていた。
すぐに呼ばれる事は無いにしろ、1ヶ月も間が開くとも思っていなかったからだ。
あの結婚式の夜、アンジェリークの方から激しく求めてきたのもあって、必ず彼女は自分を呼ぶ、そう確信していた。
しかし今ではそれも根拠のないものだったとしか思えなくなる程、自分の中の自信が揺らいでいる。

彼女に会えなければ、俺は一歩も進んでいく事が出来ないのだ。
それはいつも欲しい物は思うがままに奪ってきた自分とは思えない程、アンジェリークに関してだけは手探りでしか進んでいけない臆病な自分を実感させられる瞬間だった。

俺は何故、こんなにもアンジェリークにこだわっているのだろう、と不思議に思う時もある。
別に彼女じゃなくても美しくて優しくて楽しくて───そして、俺を愛してくれる女はいくらでもいる。
だが今まで俺はどんな女性にも固執しなかったし、どこか醒めた目で冷静に見ている自分がいた。
どんな気のあう美しい女でも、決して自分からのめり込んでいく事などなく、あっさりと別れを受け入れてきた。

いや、昔から俺はこんな醒めた人間だった訳じゃあない。
守護聖になる前までは沢山の夢や希望や、青臭い程の野望やら情熱を持って人生を謳歌していた筈だ。
だが守護聖として聖地に召され、瞬きする程の刹那に両親も友人達の命も消え、幼かった兄弟が老いていき、そして土へと還り─────
そうした命の儚さを目の前でいやと言うくらい見せつけられているうちに、俺の心から情熱が失われていってしまったのだ。
どんなに愛しても、人は必ずいつかいなくなってしまう。
それならいっそ誰にもこだわらず、ただこの一瞬だけを楽しませてくれるだけの存在がいればいい、いつしかそう思うようになっていった。

だがそんな俺に、忘れていた情熱を思い出させてくれたのが、アンジェリークなのだ。
彼女を初めてこの手に抱いた時、宇宙が滅んでもいいからこの手に奪いたいとすら思った。
アンジェリークと愛しあい、新しい命を育み、そしていつか互いの命が尽きる日まで共に人生を歩みたいと心から渇望した。
自分の心の奥底にこんな熱い思いが流れていた事を知って、今さらだが驚かされる。

僅かでもいい、彼女と接するチャンスを持てれば、この関係にも光が見えてくるかもしれない。
そう思って空しいだけとわかっていながらも、身体だけの関係を再び持ってしまった。
しかし、アンジェリークがこのまま自分を呼ぶ事がないのだったら───自分の中に沸き起こってしまった情熱の行き場を、どこに求めればいいのだろう?

このままでは自分の心が暴発してしまう時が来るかもしれない。
そうなったら俺ですら自分がどうなってしまうのか、想像も付かないのだ。
オスカーは溜息を一つつくと、朝の定例会見に向かう為、執務室を後にした。
今日こそ彼女が、赤い薔薇を身に付けて現われる事を願いながら。



アンジェリークは、今朝も自室の鏡の前で迷っていた。
オスカーとベッドを共にした日から、毎朝こうやって花瓶から一輪の赤い薔薇を手にとっては、溜息とともにまた花瓶に戻している。
独りで夜を過ごして───もう1ヶ月経つ。
今までは、どんなに寂しくてもそれが当たり前なのだ、と理解していた。
なのにオスカーと熱い一夜を過ごしてからは、この寂しさが堪え難いものへと変わってしまった。

オスカーを呼んでしまいたい。
そう思いながらも、それは身体を繋ぐだけの愛のない行為を自ら誘っているようで、今一つ踏み出していく勇気が出ない。
ジュリアスやロザリアとの事で悩みがあればそれを口実に呼び出しやすいけれど、実際はいつ薔薇を身に付けるかで頭が一杯で、あの二人の事すら頭に浮かんでこないのだ。

アンジェリークはもう一度薔薇を手に取ると、鏡の前で髪や胸元にそれをあてがってみる。
だけどどこに飾っても何となくとって付けたように不自然な気がしてしまう。
女王の正装だから、おかしいのかな…?
アンジェリークは思いきって女王のドレスのファスナーを引き降ろすと、クローゼットからそれなりに品格の感じられる薄いクリーム色のくるぶし丈のドレスを取り出した。

それを身体に当て、胸元にもう一度赤い薔薇をかざしてみる。
うん、こっちなら自然な感じで、いいかもしれない。
アンジェリークは勇気を出して、クリーム色のドレスに着替え始めた。

どっちにしろ、女王の正装では聖地を歩き回るのに不便でしょうがないと思っていたところだった。
諸惑星のお偉方とかと謁見がある日ならともかく、普段の執務まで正装でいなくたっていいんじゃないかな?
自分をそうやって納得させると、少し開いた胸元に赤い薔薇を留め付ける。
鏡の中の自分の顔が、薔薇の色を映し込んだようにほんのりと上気していた。



「女王陛下のお出ましです。御静粛に」
ロザリアの声が謁見の間に響き、奥の玉座にアンジェリークの姿が現われる。
紗のカーテンの奥にうっすらと映る彼女の姿が、いつもと様子が違うように感じられてオスカーは目を凝らす。
やがてゆっくりとカーテンが開き、女王が守護聖のいる場所までやってくる。
その姿に、ロザリアも守護聖も驚きを隠し切れなかった。

薄いクリーム色のシルクシフォンの、ワンピースと言ってもいいようなドレス。
それなりにフォーマル感はあるとはいえ、普段の女王の正装よりはかなり軽い感じがする。
しかし守護聖達は、服装よりも彼女自身の放つ輝くようなオーラに圧倒されていた。

神話の女神を思い起こさせるような少し肌を露出したデザインのドレスに身を包んだアンジェリークは、いつもよりずっと大人びて見える。
シルクの生地に溶け込みそうに輝く真珠のような肌、細い肩、すんなりと伸びた白い腕。
深く開いた胸元はたっぷりとドレープが寄せられ、意外な程豊かな胸のふくらみを感じさせている。
胸のすぐ下の切り替えから細かいギャザーがふんわりとフレア状に広がり、歩く度にアンジェリークの細い身体が中で泳ぐように動いているのが布越しに微かに感じられる。
そして何よりも、今日のアンジェリークの全身から放たれている匂い立つような色香が、皆の視線を奪っていた。
少女のような儚い愛らしさと、成熟した大人の女性のちょうど中間にいるような、不思議な危うさ。
いつもはアンジェリークに対して女性としての興味を示した事がなかったジュリアスでさえ、批判する事も忘れて惚けたようにその美しさに見とれている。

そしてオスカーも───その美しさに見とれていたのももちろんだったが、何よりも───その胸元に飾られた一輪の赤い薔薇に心を奪われていた。
視線をアンジェリークに移すと、彼女は少し恥ずかしそうに、だがはっきりと熱を帯びた瞳でオスカーを見つめていた。
オスカーも食い入るような強い視線で、彼女の瞳を見つめ返す。
二人の視線が一瞬絡み合ったが、それは女王の後ろから慌てて駆け寄るロザリアの声に掻き消された。



「陛下、これは一体どういう…」
ロザリアが問いただす声も、もはやオスカーの耳には入って来なかった。




こうして二人の関係は、再び始まった。
闇に紛れて彼女の部屋へと通い、身体を重ねるだけの関係。
だが俺は、このチャンスを逃す気などさらさらなかった。

時に本当の恋人同士のように甘く優しく彼女を抱き、また時には卑猥な言葉で羞恥心を煽りながら、刺激的な体位で荒々しく彼女の肉体を貪る。
彼女の白い肌を埋め尽くすようにキスの雨を降らせ、身体中に快楽の種を植え付けていく。
その種は俺の愛撫であっという間に花開き、アンジェリークは快感に溺れ、俺との行為に夢中になっていく。
そうして彼女が赤い薔薇を身に付ける感覚は次第に短くなっていった。
最初は1ヶ月に一度だった逢瀬が、半月に一度になり、週に一度になっていく。

こうして俺から離れられないようにアンジェリークを快楽で縛り付けながらも、こんなのはおかしい、間違っているという考えもどうしても消せなかった。
俺が本当に求めているのは、彼女からの真の愛だ。
なのに身体ばかりを深めていっても、何の解決にもなっていないんじゃないのか?

そうは言っても、じゃあどうやればアンジェリークの心に入っていけるのか、俺には答えがわからなかった。
部屋に入るとすぐに抱き合い、彼女が意識を手放すと部屋を出る。
その繰り返しの中で、彼女が本当は何に喜び、何に苦しんでいるのかを、真に理解する事など不可能だった。
だが今の俺には身体しか、アンジェリークに近付いていく手段はないのだ。

しかし彼女もいつか、身体だけの関係など、空しくて意味のない物だという事に気付くだろう。
その空しさは、沢山の女達と身体だけを繋いできた俺にはわかり過ぎるくらいにわかっている。
焦燥感が余計に俺を駆り立て、彼女にその空しさを感じさせないよう次から次へと新しい快感を与えていく。
そう、身体だけの関係を長続きさせる為に必要なのは…ただの、未知の刺激だ。
その刺激で目を眩ませていられる間は、この関係を続けていく事ができるだろう。
その間に俺は、アンジェリークの心を開かせる事が出来るのだろうか?

相変わらず彼女は行為の間中ずっと瞳を閉じ、俺を見ようとはしない。
俺の名を呼ぶ事もない。
その度に俺の心はジュリアス様への嫉妬に苛まれ、それを振り切る為に一層激しく彼女を貫く。

そして俺も、アンジェリークを抱きながら彼女の名を呼ぶ事はない。
もし名前を呼んでしまったら、そのまま愛していると口に出してしまいそうになるからだ。
だが彼女が心の中でジュリアス様の姿を思い浮かべているのなら、俺の愛など重荷になるだけだろう。
だから彼女の名を口に出さない為にわざと、肉体の刺激を呼び覚ますような卑猥な言葉を投げかけてしまったりもする。

ひどい悪循環だ。
だが、こうして彼女の近いところにいる事さえできれば、いつか光が見えてくる事もあるかもしれない。
オスカーはアンジェリークを組み敷きながら、自嘲するような薄い笑いを浮かべた。

彼女を快楽に溺れさせているつもりでいたが、案外溺れきっているのは俺の方なのかもしれないな─────