Hell or Heaven

~第5章・Kiss the planet(3)~


惑星『ミラルディ』では既に地殻の変動が始まっていた。

立っていられない程の強い揺れを伴う地震、そして無気味な鳴動とともに地表面が盛り上がり、そこかしこから亀裂が入って地下のマグマを吹き出している。
歴史の古い美しい建造物が一瞬にして溶岩に飲み込まれ、姿を消していく。
空気が軋み、空は黒い雲に覆われて、時折閃光が走る。
いつも日が沈む美しい姿を見せてくれる西の海も、今は荒れ狂う津波に覆われて、以前の面影はない。
残された老人達は眼下に広がる信じられないような光景に、震えながら身を寄せあっていた。

シャトルの発着場があった場所は高台にあり、この惑星で最も安全な場所とされてはいたが、既に足元には強い揺れが伝わってきており、程なくしてここにも眼下と同じ事態がやってくる事を予感させていた。
もうここ以外には人間は残されてはいないはずなのだが、それでも眼下で起こっている壮絶な地獄のさなかには、主のいない動物達や昆虫、植物などの声なき小さな命が取り残されている。
それらを一瞬にして飲み込む、禍々しい程に紅い溶岩の流れ。
そのあたかも最後の悲鳴が聞こえてくるかのような恐ろしい眺めに、老人達は恐怖のあまり涙を流した。
自分達が望んで選んだ結末とはいえ、その光景は想像の範疇を遥かに超え、皆の顔には恐怖しか浮かんでいない。

その恐怖に支配されていた視界に、突然金色の光が映った。
空中に浮かぶ、金色の光の固まり。
やがてその光は二つの人の形を為しながらゆっくりと地上へと降りてくる。
女王アンジェリークとオスカーがその地に現われた時、老人達は驚きに目を見開き、先を争うようにその周りに跪いた。
「女神だ、女神様が現われた…」
「私達を救いに来てくださったんだ、なんとありがたい…」
皆が両手を合わせ、感謝の涙を零しながら女王に向かって祈りを捧げる。

アンジェリークは静かに微笑みながら、皆の前へと歩を進めた。
老人達の顔からは先程までの恐怖が消え失せ、美しい女神への憧憬と、救いへの期待を孕んだ笑顔でアンジェリークを見つめている。
アンジェリークはその笑顔を1人1人、ゆっくりと見回した。
老人ばかりかと思っていたが、思ったよりも若い人間も───子供すらいる。
アンジェリークの心に鋭い痛みが襲ったが、それを顔には出さず、落ち着いた優しい声で語りかけた。

────あなたがたの命に、永遠の祝福を─────

そう言うとアンジェリークは静かに膝を折り、地面に両手を付けた。
後ろに立つオスカーの視界に映るアンジェリークの背中が、小さく震えている。
彼女の心に渦巻いているであろう凄まじいまでの葛藤を、真に理解する事は不可能だろうと思う。
まさに今、彼女はその手でこの期待に満ちた人々の命を止めようとしているのだから。

アンジェリークは目を伏せ、動きを止めていた。
だがこの手に感じる揺れは、どんどん強さを増している。
もう躊躇している猶予などない、決断しなければ────!!

アンジェリークは目を開けると、今度は迷いなく顔を地面に近付けていった。
その唇が、静かに大地に触れる。

その瞬間、後ろに立つオスカーの全身を、冷たい波動のようなものが物凄いスピードで駆け抜けた。
心までが凍り付くような、強烈な悪寒。吐き気を伴う激しい目眩。
その時オスカーは、この星の最後の命の叫びを聞いた気がした。



悪寒と目眩が治まり、辺りを見渡すと…先程まで吹きすさんでいた強い風が止み、足元の揺れもおさまっている。
大地を揺るがす鳴動も、地表を舐め尽くす溶岩の光も、何も感じない。
空気すらも動きを止めたような、無気味なまでの無機質な空間。
無風、無音、深い闇。
その闇に、アンジェリークとオスカーの二人だけが浮き上がっている。
オスカーが目を凝らすと、アンジェリークの周りを囲むようにしていた老人達が、崩れ落ちるように大地に横たわっているのがぼんやりと見えた。
皆、穏やかに微笑みながら涙を流し、祈りを捧げた格好のままで事切れていた。

まさに、『死のキス』だった。
惑星はその生命活動の一切を停止し、後は自らの重力で崩壊してブラックホールに飲み込まれるのを待つのみとなっていた。

アンジェリークは、跪いた格好のままぴくりとも動かなかった。
声をかけるのもはばかられるような雰囲気の中、それでもオスカーはアンジェリークの肩に手をかけた。
「陛下、よく頑張りました。…後はすぐにでもここを脱出しなければ、崩壊に巻き込まれる危険があります。さあ、急ぎましょう」
しかし、アンジェリークは動かない。
「陛下?」

泣いているのか、と最初は思った。
だがオスカーはアンジェリークの顔を覗き込み、そのただならぬ雰囲気に息を飲んだ。
アンジェリークは目を見開いたまま一切の動きを停止していた。
呼吸さえ、していない。

「陛下!!」



オスカーはアンジェリークの細い身体を抱え起こすと、両肩を強く揺さぶった。
しかし見開かれた瞳は深い虚無の闇のようで、何の反応もない。
無理もない、この星の最後の叫びを聞いた時、この俺でさえ膝を折って倒れ込んでしまいそうな感覚に襲われたのだ。
まだ17歳の少女である彼女には、あの死の断末魔を直視するのは惨すぎた。
彼女は自ら全ての感覚を封じ込め、何も見えない、何も聞こえない状態に自分を追いやってしまったのだろう。

だが、今は非常事態だ。
このまま時間が立てば、彼女は次元回廊を開く事も出来ずブラックホールに飲み込まれ、その命は消えてしまう。
何があっても、そんな事はさせられなかった。
「アンジェリーク!起きろ、起きるんだ!!」
もはやオスカーは尊称を使う事もしなかった。
とにかく今は、彼女の意識を取り戻す事が先決だ。

オスカーはアンジェリークの頬を、ぱしんと平手で強く叩いた。
今まで女性に手などあげた事がない、しかも相手は心から俺が愛する女性だ。
オスカーは自分が打たれたような痛みを感じながらも、赤く腫れた頬のアンジェリークの肩を強く揺さぶり続ける。
「アンジェリーク!君が今ここで死んでしまったら、残された他の惑星の民達はどうなるんだ。見たくないと言う気持ちはわかる、だが現実を見ろ、見るんだ!!」
アンジェリークの木偶人形のような瞳が、オスカーの言葉に微かに反応する。

───ソウダ、他ノ民達ノ事モ、考エナケレバ───
───私ハコノ宇宙ノタダ1人ノ、女王ナノダカラ───────!!
アンジェリークの意識が、強い意志の力で急速に現実へと引き戻される。
だが、呼吸する事まで拒否していた身体が、急に動く事を許してはくれない。
「オ…スカ…」
苦しげに言葉を発し始めたアンジェリークにオスカーはホッとした表情を浮かべたが、今度は呼吸が正常に行なわれていない事に気が付いた。

オスカーは彼女の頭に手を回して自分の方へ引き寄せると、その唇に自分の唇を押し当て、呼吸を助けるために息を送り込んだ。
この惑星での映像は聖地に届いている事はわかっていたが、そんな事を気にしている余裕など、既に残されてはいなかった。
オスカーが息を送り込む度に、アンジェリークの灰色だった瞳に色が戻り、青白い頬に血色が蘇る。
アンジェリークの息が自分に伝わってきたのを感じて、オスカーはそっと唇を離した。

「オスカー、私…」
アンジェリークの瞳に、涙が浮かぶ。
オスカーは優しく微笑むと、彼女の手を取った。
「さあ、一刻も早くここを出よう。君はまだやらなくちゃいけない事がある、そうだろう?」
アンジェリークは涙をためた瞳のままで頷いた。

次元回廊が開き、オスカーとアンジェリークの姿が惑星上から消えた。
聖地へ戻るまでのほんの僅かな時間、アンジェリークはオスカーに抱きしめられたような気がした。


聖地に戻ったアンジェリークはハッと我に帰った。
オスカーに確かに抱きしめられていたと思っていたのに、今はもう彼の身体は自分から離れている。
思わずオスカーを振り返る女王に、他の守護聖達が大急ぎで駆け寄って出迎えた。
皆が口々に「陛下、よくぞやり遂げられました」「陛下の行いは、間違ってなどいません。あれで良かったのです」と声をかけてきたが、今のアンジェリークの耳には良く聞こえてこない。

足元がふらつく女王を見たオスカーが、ロザリアに声をかける。
「補佐官殿、陛下は心身共にかなり消耗している。すぐにでも休ませたほうがいい」
その言葉にロザリアは頷くと、女王の肩を抱くようにして奥へと消えた。

その姿を見届けた後、オスカーも疲れた身体を引き摺るように謁見の間を後にした。
背後からジュリアスに声をかけられ、「そなたはよくやった。あのような事態、そなたでなければ陛下をお救いする事が出来たかどうか…」と労わられたが、オスカーの脳裏にはアンジェリークの打ちのめされた姿しか浮かぶ事はなかった。

外は冷たい雨が降り出していた。
女王の心の痛みを現わすような、冷たい小糠雨。
オスカーは空を見上げ、アンジェリークを思った。
今すぐ彼女を、抱きしめてやりたい。
何もしなくていいから、ただ抱きしめて、慰めてやりたかった。
だがふと思い出したように口元に笑みを浮かべると、小さくかぶりを振った。

彼女は今日、赤い薔薇を身に付けていなかったのだ。
呼ばれてもいないのに、のこのこと出かけてどうする気だ?

オスカーは私邸へと馬を走らせた。
雨足は次第に肌に刺さるように強くなり、オスカーの心をも掻き乱していた。