Hell or Heaven

~第5章・Kiss the planet(4)~


アンジェリークは自室のベッドに横たわり、灯りもつけないまま暗い天井を見つめていた。
外は、冷たい雨が横殴りに降っている。

聖地の天候は、女王の心を鏡のように映している────
この雨が自分の心の揺れを映し出しているのだという事は、わかりきっている。
たぶんこの聖地に住むほとんどの人々が、私の心が不安定なのに気付いてしまっているだろう。
だけど、どうする事も出来なかった。

眠りに付こうと目を瞑ると、眼裏にあの老人達の最後の表情が浮かんできてしまう。
私に救われると信じ切って涙まで浮かべていた、あの笑顔。
そして耳にこびりついて離れない、星の命が消える瞬間の断末魔のような叫び。
死にたくない、まだ生かしてくれ、そう訴えているかのような、悲痛な響き。
耳を塞ごうとも、目を瞑ろうとも、決してその残響が消える事はない。

私のした事は間違っていなかったはずだ。
自分で決断を下した事に、後悔なんかしてはいけない。
わかっているのに、心は決して平穏にはなろうとしてくれない。
頭で考えていた以上に、現実は惨かった。

それでも私はまだ、マシなほうなんだ。
今までの女王達はこういった事態に直面した時、自分1人で決断し、その苦しみを1人で抱えながら過ごしてきたんだもの。
私は守護聖の皆に自分の考えを聞いてもらい、賛同を得る事が出来た。
私の独りよがりなんかじゃない、これが最善の策なのだ───そう背中を押してもらえた。

でも間違っていなかったとはいえ、自分のこの手に星の命を引き上げた時の、あの衝撃を忘れる事など出来ない。
沢山の命の咆哮、涙、悲しみ。
そういった物がまだ身体に残り、心を闇のように覆い尽くして支配している。
私はこの苦しみから、立ち直る事などできるのだろうか?
この弱くてつまらないただのちっぽけな、私が?

そう、私はあの時…惑星の命が消える衝撃や、人々の命を奪った悲しみに耐えきれず、無意識のうちに自分の感覚を全て封じ込めてしまった。
女王のサクリアの持つ特殊な能力を、私は自分の悲しみから逃れる為に使ってしまったのだ。
これが私の正体。
偉大な女王だなんてもてはやされているけれど、私はただの、弱くて子供なだけの人間。

アンジェリークは胎児のように小さく身体を丸め、自分の身体を強く抱きしめた。
泣きたいのに、不思議と涙は出てこなかった。
涙すら出てこない程、心がからからに乾いている。
ただうすら寒くて、身体の震えが止まらなかった。

オスカーに、会いたい──────────

心からそう思った。
いつものように抱かれたいという訳ではない、ただ、オスカーに側にいてほしかった。

女王候補だった時から、いつも苦しい時はオスカーが側にいてくれた。
あの時はそれが空気のように当たり前のように思えていて、どんなに心強くて有り難い事なのか気付きもしなかったけど。
でも私が意識を封じ込めた時、あの何もない暗黒の中でオスカーの声が、私を闇から救い上げてくれた。
呼吸すら出来なかった私の身体に、オスカーが息を吹き込んで命を蘇らせてくれた。
あの時、オスカーと触れあった唇から────彼が必死で、生きろ、帰ってこいと願ってくれている気持ちが伝わってきた。
その気持ちが私に力を与えてくれ、私は土壇場で立ち直る事が出来たのだ。

そして次元回廊を抜けて聖地へ戻る瞬きするようなほんの僅かな瞬間に、確かにオスカーは私の身体を強く抱きしめていてくれた。
あの瞬間、どれだけ心が救われたか。
女王は誰にも頼れない、何もかも自分でやらねばいけないと決めつけていた自分の心の奥にあった孤独、そして押しつぶされそうな程の重圧感が、暖かく溶け出して消えていくような気持ちになった。

でも、彼の手が離れた瞬間───また私の心は孤独へと逆戻りしてしまった。

今、私はあの人の暖かい手を一番に求めている。
あの広い胸に顔を埋めて、思いきり泣いてしまいたい。
小さくてつまらないただの人間である私を、抱きしめて受け止めてほしかった。

けれどここにオスカーが来るはずはない。
この1週間は文字どおり殺人的な忙しさで、私は赤い薔薇を身に付ける余裕などどこにもなかった。
それに…あの赤い薔薇は、私がオスカーの身体のみを求めているという証。
もし今日の朝私があれを身に付けていたとしても、オスカーはただ身体を繋ぐためだけにここに来るのだ。
今の状態で彼に身体を求められても、とてもじゃないけど応じる気分にはなれない。
つまりこの苦しさは、1人で乗り越えなければならない物だという事なんだ。

窓の外で、稲妻が走った。
風は荒れ狂い、雨は窓ガラスを激しく叩いている。
自分の心の有り様が、こうして目の前に現実として晒されてしまうのを見てしまうのは辛かった。

その時、激しい雨音に混じって何か違う音が聞こえた気がした。
────何だろう?
空耳かと思ったが、やはり何か聞こえる。
窓ガラスを叩く雨音とは少し違う、もっとリズミカルな音。
それは次第に大きくなっていき、アンジェリークは思わずベッドから身体を起こした。

まさか。

心臓が早鐘のように鳴り響き、震える足でベッドを降りる。
まさか、そんなはずはない。
これは私の悲しい期待が聞かせる、幻聴に違いない。
そう思いながらも身体は勝手に走り出し、ドアへと向かっていく。
ドアに近付くと、今度ははっきりとノックの音が聞こえた。
アンジェリークはもうドアの外を確かめる事もせず、鍵を開けると同時にドアを開け放つ。
そこにいたのは、雨に濡れた身体を拭う事もせずに立ちすくむ、私が───待ち望んでいた人。


「オ…スカ……」
言葉にならなかった。
オスカーの胸にしがみつくと、さっきまで出なかった涙が堰を切ったように溢れだす。



「オスカー、オスカー……」
泣きじゃくる私の背中を、オスカーの腕が強く抱きしめていた。
彼の身体は雨に濡れて冷えきっていたはずなのに────何故か、とても暖かかった。




小鳥のさえずる声に気が付くと、いつのまにか朝日が部屋に差し込んでいた。
窓の外は夕べの荒天が嘘のように、気持ち良く晴れ渡っている。

アンジェリークは自分の涙が止まっている事に気が付いて、ゆっくりと顔を上げた。
そこには泣きじゃくる自分に一晩中何も言わずに付き添ってくれた、オスカーの穏やかな笑顔があった。
「おはよう」
そう言って優しく微笑むオスカーの、青くて透明な瞳。
彼は…昔からこんなに包み込むような穏やかな目をしていたんだろうか?
今までこんな表情の彼は見た事がなくて、アンジェリークは思わず胸が熱くなる。
オスカーはアンジェリークの髪を優しく撫でながら、窓の外を見た。
「今日はいい天気だ…。もう、君の心も大丈夫だな?」

アンジェリークが頷くと、オスカーは静かに彼女から身体を離した。
「もう、行かなきゃならない時間だ。俺が部屋から出ていくところを誰かに見られたら、大変な事になっちまうからな」
そういって簡単な身支度をし、オスカーはドアに手をかけた。
「オスカー…」
アンジェリークの声に、オスカーが振り返る。
「どうした?」

「うん、あのね…夕べはどうもありがとう。来てくれて、本当に嬉しかった…」
そう言いながら少しはにかむように微笑むアンジェリークの笑顔に、オスカーは思わず見とれた。
それは今まで見た彼女の笑顔の中でも、最も美しくて輝いて見えるものだった。
「俺は…少しは、君の助けになれたのかな?」

「ええ、もちろん!」
花が咲くように輝くアンジェリークの笑顔。
オスカーはそれを見ると、安心したように微笑み返して部屋を後にした。



オスカーがドアの向こうに消え、音もなくドアがしまった瞬間─────アンジェリークは突然その笑顔を顔から消した。
代わりに瞳からは大粒の涙が零れ落ちていく。
アンジェリークは震える手で両目を覆い、流れる涙を押さえつけようとしたが、もうそれを止める事は出来なかった。

どうしよう。
私、オスカーが好き。
彼を、愛してる。

今頃気付くなんて、なんて私は馬鹿なんだろう。
私が待っていたのは、彼の身体だけなんかじゃない。
オスカーを、彼自身を待ち望んでいたんだ。
苦しい時もどんな瞬間でも、オスカーに側にいてほしかったんだ。
彼に抱かれなかった事で、ようやくそれに気が付くなんて。

いつから私は彼を好きになっていたんだろう。
私はオスカーがいてくれたから、ジュリアスへの恋心を消す事が出来た。
今、ジュリアスとロザリアには心から幸せになってほしいという穏やかな思いしか浮かんでこない。
私がここまで辿り着けたのも、いつの間にかオスカーを好きになっていたからこそ、なんだ。

だけど…私がオスカーを愛してしまった事は、幸せな事なのだろうか?
彼と私の関係は、愛のない身体の快楽のみの脆い表面の上で成り立っている。
オスカーが他に好きな女性が出来てしまったら、一瞬のうちに崩れ去ってしまうような危うい関係。
それでも私が女王である事や彼の同情を利用して、この関係だけを続けていくのは可能だろう。
でも、オスカーを本当に愛しているのに─────心のない関係を続けていく事に、一体何の意味があるんだろう?

彼を愛している事に気付けたのに、心はちっとも晴れ渡っていかなかった。
身体から始めてしまった私達の関係が、心に重い枷をはめていた。



オスカーは女王の部屋を辞してから、急ぎ足で女王宮の出口へと向かっていた。
そろそろ女王付きの侍女が彼女を起こしに部屋にやってくる。
姿を見られる前にここを抜け出し、一度私邸に戻って支度を整え直してから聖殿に戻ってくる必要があった。
(時間ギリギリってとこだな)
かなり慌ただしいはずなのに、オスカーは思わず口元に笑みがこぼれそうになり、慌てて表情を引き締める。
だが心を満たしてくる幸せな感情は、抑えられない程に強い。

アンジェリークが一晩中自分の胸に顔を埋め、自分の名を呼び続けていた事。
たったそれだけの事なのに、彼女に心から頼られ求められていた、その事実が驚く程嬉しかった。
いつもの身体を繋いだ後のあの空しさを押し殺してこの回廊を1人で歩いていたのが、全く別世界の出来事のようにさえ思えてしまう。
廊下の細長い窓から差し込む穏やかな朝日が、自分がアンジェリークの心を救う手助けが出来たと言う事実を物語っていて、また一層の喜びが溢れてくる。

俺は何故今まで、こうやって彼女の心と向き合う事をしなかったんだろう。
ただ身体しか彼女と俺の間を繋ぐものはないと思い込んで、彼女の本当の気持ちなど考えもしなかった。
身体などなくとも、こうやってアンジェリークと一緒にいて話を聞いてやるだけでも、充分彼女を救う事は出来るのではないだろうか?

俺と彼女の関係は、新しい段階に足を踏み入れるところまでようやく辿り着いたのだ。
終わりの予感しか見えなかった関係に、新しい希望の光が一筋見えている。
オスカーは幸せな気持ちを心に抱いたまま、女王宮の門をすり抜けた。

その姿を、女王宮の回廊の窓からロザリアの視線が捉えていた事など、オスカーは知る由もなかった。