Hell or Heaven

~第6章・Behind closed eyes(3)~


「なん…だって?」

アンジェリークの唐突すぎる別れの言葉に、オスカーは眉を潜めた。
透き通った青い瞳が、さっきまでの穏やかさとはうって変わって氷のように鋭さを増していく。
その射抜くような強い視線に耐えかねて、アンジェリークは思わず目を逸らした。

「どういう事だ?何故そう思った?」
どうしてアンジェリークが突然そんな事を言い出したのか。
オスカーにはまるで見当がつかなかった。
ここ最近、二人の関係は安定していた筈だ。
互いに心を許しあい、心安らぐ時間を共有していたと言うのに。
なのに、何故なんだ?
一体彼女に、何があった?

「この関係を精算したいはっきりとした理由があるのなら、俺もそれを受け入れよう。だから、訳を教えてくれないか」
動揺する内心を押し隠し、出来るだけ穏やかにオスカーは尋ねた。
しかしアンジェリークは何も答えようとはしない。
小さく震えながら、ただ無言で顔を背けている。
オスカーは彼女の震える肩を両手で掴み、その手に力を込めた。

「最近の君は、俺と過ごしている時に幸せそうに微笑んでくれていた。俺は君を救えていると思い込んでいたが、あれは思い上がりだったのか?本当は俺とこうしているのが…苦痛だったのか?」
その絞り出すようなしわがれた声に驚き、アンジェリークは思わず顔を上げた。
オスカーはその整った顔だちを苦しげに歪め、思いつめたようにこちらを見ている。
今まで見た事のない苦悶に満ちた、彼の表情。
自分の発言がオスカーに苦痛をもたらしているという事実に、アンジェリークは衝撃を受けた。

違う、違うの、そうじゃない。全ては私の心が弱いせい。
でも、私がこのまま何も言わなければ…オスカーは、自分に何か非があったと思ってしまうだろう。
きっと私に苦痛を与えてしまったのだと、自らを責めてしまう。
彼は何も悪くなんかない、ただ私の心を救い続けていただけなのに。
オスカーを苦しめたくなんかない、だから…何か、言わなければ。
でも一体───何を言えばいいんだろう?

アンジェリークはしばらく逡巡した後、ようやく口を開いた。
唇がからからに乾き、か細い声が喉に絡みつく。
「違うの…オスカーはいつだって、私を助けてくれた。そんなあなたに甘えて、ずるずるとその手を借り続けていたけど…オスカーにだって自分の人生があるのだし、いつまでも私に振り回されているのも大変なんじゃないか、って気付いたのよ。今のままじゃ気になる女性ができたって、おつき合いする事もままならないでしょう?だから、あなたの為に…この関係をもう、終わりにした方がいいと思ったの」
巧妙に本音を隠したその嘘に、我ながらなんて卑怯なんだろうと胸がむかついた。
オスカーの為になんて言ってるけど、本当は自分の為じゃないの。
愛していますと正直に告げて、彼にキッパリ拒絶されるより、表面だけでも綺麗に別れて傷を小さくしようとしているだけ。

オスカーの両手が肩からゆっくりと上がって頬に添えられ、視線を真っ直ぐに合わせられる。
嘘をついている罪悪感から、再び目を逸らそうとしたけれど、その真剣な色を帯びた青い瞳からは逃れられない。
「俺には、他に付き合いたい女性などいない。こうして君と過ごしている時間こそが、一番大切な物なんだ。君に頼られるのが何より嬉しいし、振り回されてるなんて一度だって思った事はない。君は俺の為にこの関係を終えたいと言ったが、───俺は終えたくなんかない」
ハッキリと言い切られた言葉に、アンジェリークは驚いて大きく目を見開いた。
本当に?オスカーは…この関係を、終えたくないと思っていたの?

「君の本心は、どうなんだ?俺の事など関係なく、君自身は───本当にこの関係を終えたいのか?」
真摯な声が、真っ直ぐ問いかけてくる。
アイスブルーの瞳が熱を帯びて、突き刺すように私を見つめている。
私自身の本心は…もちろん、オスカーの手を離したくなんかない。
だけど、どうしても愛してると自分から告げる勇気が出ないのだ。
どうして私はこんなに自信が持てないんだろう?
───それはきっと、私が嘘つきで卑怯な人間だから。
『強さ』の象徴であるようなこの人が、こんな見え透いた嘘をつく弱い女を愛するはずなどないから───

アンジェリークはオスカーの問いに答える事も出来ず、その真直ぐな視線から逃げるように瞳を伏せた。
思いもかけず涙が溢れ、止めようとする間もなく頬を濡らしていく。
「どうして…泣くんだ?」
オスカーの心配そうな声にも、ただ無言で首を横に振る事しか出来ない。
そうしている間も次から次へと涙が溢れては頬をつたい、しゃくりあげるように肩が震えてしまう。

「アンジェリーク…」
次の瞬間、オスカーに強く抱きとめられていた。
なだめるように優しく背中をさすられ、涙をなぞるように口づけられる。
その優しくて暖かな仕種に、思わず彼の広い胸にしがみつく。
「オスカー…」
涙に濡れた大きな碧の瞳を震わせながら、アンジェリークはオスカーを見上げた。

こうしてただ見つめているだけで、私の心が全部伝わってくれればいいのに。
そんな都合のいい話はあり得ないのに、心の弱い私はついついそんなばかな考えに縋ってしまう。
だって…こうしてオスカーの瞳を見つめているだけで、愛されているような錯覚を覚えてしまうのだもの。

アンジェリークの訴えるような瞳を見ているうちに、オスカーの胸にも熱い炎のようなうねりが沸き起こる。
一体彼女は何を俺に言いたいんだ?
知りたい事はそれだけなのに、その吸い込まれそうな碧の瞳を見ていると何も考えられなくなってしまう。
ただ堪らなく、愛しい。離したくない。このまま終わりになど…したくはない。
その感情の赴くままに唇を重ねると、アンジェリークの細い腕がオスカーに縋り付くように首に回される。
深く唇を合わせると、アンジェリークもそれに応えるかのようにオスカーの舌を受け入れる。
互いに身体を押し付けるように強く抱きあうと、そのまま崩れるようにベッドへと倒れ込んだ。

くそっ。
違う、こうじゃないんだ。
こんな風に身体の関係に持ち込んでしまうだけでは、今までと何も変わっていないじゃないか。
アンジェリークは何故、俺との関係を終わりにしたいと言い出したのか?
その答えも得られないまま、こうしてまた身体の関係にずるずると嵌まっていってしまっても、それは以前の関係に逆戻りしていくだけだ。
こうして身体を重ねてしまえば、彼女が逃れられないのはわかっている。
俺のキスや愛撫に敏感に反応してしまうように仕向けたのは、他でもないこの俺なのだから。

だが、それは俺が本当に求めている物ではない。
俺はアンジェリークを愛している。
そして彼女にも、俺を愛して欲しい、ただそれだけなんだ。
もう、誤魔化すばかりの関係など欲しくはない。
だから、今。
俺の真実を、告げるべき時が来たのだ。
例えそれで、彼女を永遠に失う事になったとしても───


アンジェリークも貪るような激しい愛撫に身を任せ、喘ぐような声を漏らしながらも、心はひどく揺れ動いていた。
オスカーはこの関係を、終えたくないと言ってくれた。
もし心のどこかで私との関係を終えたいと思っていたのなら、私の申し出を一も二もなく受け入れていた筈だ。
そうすれば、本当に後腐れなく簡単に別れられたのだから。
ならば、彼は本気で私との関係を、大切に思ってくれているんじゃないの?
あの熱い瞳に見つめられていた時に感じたのは錯覚でも自惚れでもなく、オスカーも私の事を…少しは愛してくれてるの?

オスカーの愛撫は、今日はいつもに増して激しく、優しい。
この関係を終えたくないと言う彼の気持ちが、真摯な情熱となってその指先や熱い唇から伝わってくる。
私、ずっと瞳を閉じて真実から目を背けていた。
今こそ目を開けて、彼の瞳に映った真実を見るべき時なんだ。
オスカーの瞳に少しでも私への愛を見つける事が出来たのなら…私も、今度こそ勇気を出してオスカーに伝えよう。
愛しています、って。

炎のように熱く昂ったオスカーのものが、自分の体内に侵入してくるのを感じる。
身体中がその熱で蕩け始め、圧倒的な快感に意識が流されていきそうになる。
でも、流されちゃだめ。
一つになった今だからこそ、オスカーの心を、確かめなければ───────!

「アンジェリーク………!」

目を開けようとしたまさにその瞬間、振り絞るようなオスカーの声が聞こえてきた。
今のは…オスカーの、私の名を呼ぶ声?
もう長い間彼に抱かれてきたけれど、繋がりあいながら名を呼ばれたのは初めてだ。
そうだ、私も抱かれながらオスカーの名を呼んだ事はなかったけど、彼も…私の名を呼んだ事はなかった。
一体、何故急にオスカーは私の名前を口にしたの?

無意識のうちにアンジェリークは目を開いた。
最初は薄明かりの中で激しく揺さぶられてぼやけていた視界が、次第にはっきりと焦点を合わせていく。
自分の上にいるオスカーと目があった時、アンジェリークは思わず声をあげた。
「オスカー…?」

オスカーに抱かれるようになってから、こうして一つになってから────初めて目を開け、彼の名を呼んだ。
でもそれは、甘い響きを伴った物ではなく、むしろ戸惑いを色濃く含む物になってしまった。
なぜなら、彼の目は…ひどく暗く、そして切ない程に苦しげだったのだから。


アンジェリークの口からオスカーの名を呼ぶ声が聞こえた途端、オスカーは驚いたように動きを止めた。
「アンジェリーク…」

オスカーの口から洩れる、自分の名前。
こうして交わりながら初めて聞くその声は、ひどく甘い響きを伴いながら、同時に重々しい程の暗さも感じさせた。
オスカーとアンジェリークの視線が、互いを絡め取り合う。
二人とも荒い呼吸に大きく身体を波打たせてはいたが、その視線に互いに縛りつけられたかのように身動きすらせず、ただ黙って互いの瞳を見つめあっていた。

不思議な、沈黙。
オスカーの透明な瞳が、じっと私を見つめている。
怖いくらいに真剣で、焼き尽くされるようなを光を発している。
彼はやっぱり…私の事を愛している、そうとしか思えない程の熱い視線。
なのに、その瞳の奥にある底が見えない程の深い暗闇にも気が付いてしまう。
何故、彼は…こんなに熱く、そして暗い瞳で私を見つめているんだろう?
いつも私を抱く時は、こんな瞳でいるのだろうか?
それは一体、どうしてなの?

混乱したように戸惑いに揺れるアンジェリークの瞳を見て、オスカーは観念したように深く息を吐き出すと、重苦しい程の沈黙を破って口を開いた。
「アンジェリーク……俺はずっと、こうして抱き合いながら君の瞳を見たいと願っていた。君と熱く見つめあい、互いの名を呼び合って、一つになりたかったんだ」
オスカーの瞳が、苦しげに歪む。

アンジェリークは瞬きもせずに目を見開いたまま、オスカーの言葉の続きを待つ。
オスカーは目を閉じて小さくかぶりを振ってから、再びゆっくりと目を開け、強い決意をその瞳に滲ませた。

「俺は、君を愛してる……。君がジュリアス様の事しか見ていなくとも、俺の事を愛していなくても。ずっと、ずっと愛してたんだ。俺は君を離したくなんかない、このまま終わりになんかしたくないんだ………!」

掠れた声で絞り出すようなオスカーの告白に、アンジェリークは激しい衝撃を受けた。
オスカーは、私を愛してくれている。
それだけなら嬉しいだけのはずなのに、その後の言葉がアンジェリークの心に刺のように引っかかる。
ずっと私を愛してた…?ずっとって、いつから?
私がジュリアスの事を好きだった頃から?
「一体、いつから……」

思わず口から零れた言葉に、オスカーの表情が一層苦しさを増していく。
「君が、女王候補だった時からだ。愛されてないのはわかっていたが、俺は諦める事なんて出来なかった。例えジュリアス様の代わりでも、身体だけの関係でも構わないから、どこかで繋がっていたかったんだ。ずっとずっと愛してた、君を…愛してるんだ、アンジェリーク……!」
その言葉に、アンジェリークの顔色がみるみる内に青ざめていく。
次の瞬間、見開かれていた瞳を両手で覆った。

「ごめんなさい………」
そう言った途端に、瞳から涙が溢れて覆った両手の間から零れ落ちていく。
私は、なんてバカなんだ。
オスカーに愛されていたのも知らず、ただ長い間身体だけの関係を重ねていた。
彼はずっと苦しかったんだろう。
だから…私を抱いている間中、あんな暗い瞳をしていたんだ。
もっと早く、私が自分の想いに気付いていたら……ううん、気付いてからすぐにでも彼に心を打ち明ける勇気があったのなら……オスカーをこんなに長い間、苦しめないで済んだのに。
全ては、自分の心と向き合わなかった私がいけなかったんだ。
こんな私の弱さが、オスカーをずっと苦しめてしまったんだ──────

その時突然、自分の体内で熱く脈打っていたオスカー自身が引き抜かれ、身体を覆い尽くしていたオスカーの気配が消えるのを感じた。
あれ程燃えるような熱に包まれていた身体が、急激に冷えていくような感覚に襲われる。
アンジェリークは不安に駆られてそろりと両手を外し、ゆっくりと目線をオスカーに向けると、彼は既にベッドの横に立ち、こちらに背を向けて私服に袖を通し始めていた。
「オスカー……?」

身体を起こして恐る恐る声をかけたが、オスカーは振り向かない。
黙々と身なりを整え、そのまま扉に向かって歩いていく。
「オスカー?待って!」
叫ぶようにかけた声に、オスカーの動きが一瞬止まる。

「………もしかしたら君も愛してくれているかもと、一縷の望みに賭けてたんだ。だが俺の告白は…君には重荷にしかならなかったんだな。今まで俺は、快楽だけで無理矢理君を縛り付けてきた。だがもう、そんな愚かな関係は続けたくはないんだ。君だって、こんな身体だけの関係は空しいと気が付いたんだろう?だから、最初に君が望んだように……この関係は、もう終わりだ。俺はもう、ここには来ない」
抑揚のない言葉でそれだけ言うと、振り返りもせずに扉を開けた。

「オスカー、違う、違うの!!お願い、聞いて!!」
私が言った謝罪の言葉は、あなたの愛を拒絶する為の物なんかじゃないの!!

泣きながら必死でオスカーの方へと手を伸ばした。
でもドアは音も立てずに静かに閉まり、後には静寂と、暗闇に置き去りにされた自分だけが残された。