Hell or Heaven

~第7章・もう一度、初めから(1)~


アンジェリークは執務机の上に大量に置かれた書類に目を通しながら、小さく溜息を付いた。
こうして書類を見ていても、ちっとも頭に内容が入ってこない。
ただ文字の羅列が頭の中を素通りしていくかのようだ。
プライベートの悩みをこんな風に仕事に持ち込むなんて、今までなかったのに。

ジュリアスの事で悩んでいた時だって、ここまで心が混乱するような事態にはならなかった。
仕事だけは頑張ろうと自分に言い聞かせ、きちんとこなしてきたと自負している。
だけどそれだけ、私の中でオスカーが大きな存在になってしまったんだ。

アンジェリークは書類から目を外すと、ドレスの胸元に付けた赤い薔薇をそっと指でなぞった。
あの惑星崩壊の夜から、赤い薔薇を付けなくても、オスカーは自分の元へとやってきてくれた。
だけど───あの愛の告白以来、彼はぷっつりと部屋を訪ねてこなくなった。

あの謝罪は誤解なんだと話したくて、私からもオスカーの執務室に何度も足を運んでみたりもしたけれど、彼は絶対に秘書を部屋から下げようとはしてくれない。
お陰でプライベートな話をしたくとも叶わず、事務的な態度で仕事の話だけをされて体よく追い返されるだけの日々が続いている。
もう彼が部屋に来なくなってから、1ヶ月が過ぎようとしていた。

思いきって今日、朝の定例謁見の時に、赤い薔薇を身につけた。
私はオスカーの身体が欲しい訳じゃないから、とても迷ったけど…とにかく彼と会う機会を作らなければ、話をする事も出来ないのだから。
彼と向かい合って、私もあなたを愛しているのだと伝えたかった。
あれだけ長い間オスカーを苦しめておきながら、今また彼の愛を拒否したと思われるのだけはどうしても避けたかった。

だけど今朝、赤い薔薇を身に付けた私を見た瞬間の、オスカーの表情が忘れられない。
私がカーテンを開けて姿を表わした瞬間、彼の身体が僅かに揺れ動いた。
胸元の薔薇にほんの一瞬だけ視線を走らせた後、その瞳は…なんていったらいいんだろう、情熱もなく、怒りもない…まるで何も映していないかのように空虚な色へと変わっていった。
あんなオスカーは、初めて見た。
いつも自信に満ち溢れていて、何も恐れる物がないかのような光を放っていた彼の瞳に初めて浮かんだ、例えようもない暗い闇。

オスカーは今日、私の元へは来ないかもしれない。
いつも赤い薔薇を確認した時に見せる情熱に満ちた視線は、今日の彼からは微塵も感じられなかったのだもの。
でも、もう残されたチャンスはこれくらいしか考え付かない。
今日彼が来なかったら、私は一体、どうすればいいんだろう?

アンジェリークはもう一度深い溜息を付くと、思い直したかのように書類に再び目を通し始めた。
その思いつめたような表情を、ロザリアが心配そうな瞳で見つめている事にも気付かずに。



オスカーは執務が終わると、まっすぐに私邸へと帰っていった。
部屋に戻るなり、酒棚から強い酒を出して呷るように飲み干す。
1杯では到底酔えそうにない。
次々に酒を継ぎ足し、一気に呷っていく。
そのまま酒瓶とグラスを掴むと、ソファにぐったりと身体を沈めた。

今日、アンジェリークが身に付けていた、赤い薔薇。
あの鮮やかなまでの赤さと彼女の白い肌、そして縋るようにこちらを見つめる潤んだような碧の瞳が頭から離れない。
彼女を見た瞬間、身体中の血液が逆流して沸騰するような喜びと、心まで凍り付いて身動きできないような苦しさを同時に味わわされた。

彼女は俺を求めているのだという喜び、しかしそれは俺の身体だけを求めているのだという冷酷な事実───

アンジェリークの部屋に行かなくなって、もう1ヶ月が経とうとしている。
彼女は1人の夜に耐えきれず、俺に抱かれたくなったのかもしれない。
残酷だ、アンジェリーク。
俺は君に愛を告げた。俺の弱味も全て、曝け出して君を求めたのだ。
だが、君は俺の愛を拒絶した。
なのにまた、俺の身体だけを求めるというのか?

だが───そういう風に仕向けたのもまた、この俺なのだ。
俺の身体無しではいられないくらいに悦びを教え込み、キスの受け止め方すら知らなかった無垢な天使を快楽で縛り付けていたのは、他ならぬ俺自身なのだから。
こうして彼女に苦しめられるのも、結局は自業自得なんだろう。

オスカーは再びグラスを酒で満たし、喉に流し込んだ。
味など全くわからない、ただ喉を焼くような感覚だけしか感じないような滅茶苦茶な飲み方を無理矢理続けていく。
こうでもしていないと、彼女の部屋に向かってしまいそうな気がしたからだ。
酒が強いと自負してはいたが、今日だけは何もかも忘れて正体不明になるまで酔っぱらってしまいたかった。

その時、来客を示すチャイムの音がした。
立ち上がる気力もなかったのでそのままにしていたが、やがて応対した執事がオスカーの元へと伺いを立てに来た。
いつも冷静な執事には珍しく、その顔に戸惑いをはっきりと浮かべている。
「夢の守護聖さまが、お見えなのですが…」
執事の言葉が終わらないうちに、その後ろからオリヴィエがひょい、と顔を出した。
「ハロー☆外は寒いからさ、勝手に上がらせてもらったよ。あ、やっぱりもう飲んでるんだね?私もちょうど飲みたいところだったんだ、一緒に飲もうよ。ねっ、いいだろ?」
前にいる執事を押し退け、笑顔で強引に部屋に上がり込んでくる。
そのいつになくハイテンションな様子に、執事同様にオスカーも一瞬圧倒された。
だが、とてもじゃないが今日は楽しく飲みたいような気分じゃない。
断ろうと口を開きかけて、オスカーはふと考え直した。

こうして1人で飲んでいても、いつか誘惑に負けて彼女の部屋へと向かってしまうかもしれない。
そして愛もない関係を、ずるずるとまた始めてしまわないとも限らないのだ。
それならオリヴィエに一晩中でも付き合わせて飲んでいた方が、ここに留まれる口実ができるんじゃないだろうか?
オスカーはソファに預けきっていた背中を少し起こすと、「いいぜ。そのかわり、今日は朝までとことん付き合ってもらうからな」と笑みを浮かべてオリヴィエに座るよう促した。
「おや?今日は、出かける予定はないのかい?てっきりこの間みたいに、2時間くらいで追い返されるかと思ってたよ」
しれっとした顔でそういうオリヴィエに、オスカーは苦笑いを返した。
「俺だっていつもいつも出かけてばかりって訳じゃあないさ。たまにはどこにも行かず、朝までゆっくり飲んでいたい時だってある」
ふーん、とオリヴィエはつまらなそうに相槌をうってきた。

しかしそこからはいつものオリヴィエらしい、楽しい酒になっていった。
ハイペースで二人のグラスに酒が注がれ、あっという間にそれが空になっていく。
ばかばかしいくらいに他愛ない会話に笑い声を上げ、オスカーの陰うつな気分もほんの少しだが軽くなっていく。
時間は刻々と過ぎていき、気付くと時計の針は深夜を指し示していた。
オスカーは心の中で小さく息をつく。
もう、さすがにアンジェリークも俺の事を待ってはいないだろう。
寂しさが胸を通り過ぎたが、これで良かったのだとも思う。

「…さっきから、時計ばかり気にしているね?」
かなり酔いが回った風情のオリヴィエが、ソファに横たわりながらにやりと笑った。
「本当は誰か、あんたを待ってる女性がいるんじゃないのかい?私なら別に構わないから、行ってきなよ」
オスカーもかなり酒が回ってはいたが、まだ冷静さを失う程ではなかった。
「何を言ってるんだ?さっきも言ったが、今日はうちでのんびり飲みたい気分の日なんだ。お前も変な気を回してないで、約束通り付き合えよ」
軽くいなそうとしたオスカーに、オリヴィエの視線が冷たく突き刺さる。
「…今日、陛下は久しぶりに赤い薔薇を身に付けてたよね。あんたを待ってるんじゃないのかい?」

思わずオスカーの息が止まる。

「…お前は一体、この間から何が言いたいんだ?」
オスカーはグラスを掴み直すと、威圧するような強い視線でオリヴィエを睨み付けた。
オリヴィエはそんな視線などまるで気にする風でもなく、ただ肩を竦める。

「ま、あんたにも色々事情があって、言えないんだろうけど」
手にしたグラスを目の前に掲げ、中で揺らめく琥珀色の液体を見つめながら、淡々と言葉を繋げる。
「これから言うことはさ、私の勝手な妄想話だと思って聞いててくれればいい。……飛空都市での女王試験中、炎の守護聖は金の髪の女王候補を愛した。でもその少女は、首座の守護聖に心を奪われていた。そして首座の守護聖は───もう一人の女王候補と愛し合い、結ばれた。愛を得られずに残された二人は、赤い薔薇の花をサインとして秘密の逢瀬を続け、互いに慰め合っていた…。どうだい、なかなか具体的な妄想だろう?」
オリヴィエはちらりとオスカーの様子を伺った。
オスカーは真一文字に口を引き結んだままこちらを睨みつけ、微動だにしない。
だがグラスを握りしめる指先が、白くなるくらい力が込められている。

「女王となった少女と炎の守護聖は、惑星崩壊の事件をきっかけに心を通いあわせ、本物の恋人同士となり幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし…とこのお話を結びたかったんだけど」
オリヴィエはソファから上体を起こし、グラスの中身を飲み干した。
「ところが今日、女王陛下は久しぶりに薔薇を身につけて現れた。あの時の陛下の、必死に縋るような瞳を見たかい?なのに当のあんたは陛下の視線を受け止めてもやらず、無視に近い態度をとってたときた。一体、あんた達の間に何があったんだい?」
タン、と硬い音を響かせて、オリヴィエはグラスをテーブルに戻した。
鋭い視線で、オスカーの瞳を挑むように見据える。
だが当のオスカーは、それを無視するかのように視線を外し、グラスの中身を黙々と喉に流し込みだした。
空になったグラスを見て顔をしかめ、ボトルを掴んで酒をなみなみと継ぎ足すと、再び口へ運ぶ。

「ねえ、聞いてるの?そりゃあちょっとお節介だったかもしれないけどさ、私は真剣に二人を心配してるんだよ!」
オリヴィエの怒ったような問いに、オスカーはグラスに口をつけたままちらりと目線だけをよこして笑い返した。
やはり、オリヴィエには自分達の関係を見抜かれていたのだ。
そう思った途端に急に酔いが回ってきたような、全てがどうでもいいような投げやりな気分がオスカーの心を支配していく。

「お前の想像力の逞しさには、本当に恐れ入るよ。だがな、残念ながら俺と陛下は本当の恋人同士になんか、一度もなった事はなかったのさ。そこだけはお前の、読み違えだな」
そう言いながら、喉の奥でくっくっと自虐的な笑い声を微かに洩らす。
その荒んだ笑顔に、オリヴィエの表情が曇っていく。
「え?だって…あんた達は一時、間違いなく互いに愛しあってる雰囲気だった。私がこの前ここにきた理由は、心が通じてないんだったらさっさと愛してるって言っちまいな、って伝えたかったからなんだ。そしてあの後───あんた達はようやく思いを通じ合わせた、そうじゃなかったのかい?」

オリヴィエの問いにも、オスカーはしばらく空を見つめたまま答えなかった。
やがて静かにグラスを置き、疲れ切ったように大きな溜息を一つつく。
「…せっかくだから俺もその妄想話の続きに付き合ってやろう。炎の守護聖は女王陛下に一方的に懸想し、愛を伝えたが、拒絶されて全てが終わった。…それだけだ、もういいだろう?この話はこれで終わりにしてくれ」

オスカーは立ち上がってドアまで歩くと、小さく振り返った。
「俺は疲れたから、先に休ませてもらう。お前も酔ってるんだったら客間を用意させるから泊ってもいいし、帰りたければそうすればいい」
それだけ言ってドアの外に消えようとするオスカーの背に、オリヴィエが声をかけた。

「陛下があんたを拒絶したなんて、信じられないよ。それならなぜ今日、陛下は赤い薔薇を身につけて泣きそうな瞳であんたを見てたんだい?ちゃんと陛下と───アンジェリークと向き合って、話をしたのかい?」
その問いにも答えず、オスカーは無言でドアの向こうに消えた。

一人取り残されたオリヴィエは、納得いかないと言うように肩を竦めて小さく息を吐き出すと、渋々と帰り支度をしてオスカーの私邸から立ち去った。