Hell or Heaven

~第9章・女王補佐官、首座の守護聖~


「…ク、アンジェリーク、起きろよ」

オスカーの声とともに首筋にくすぐったいような感触を感じ、アンジェリークは寝返りをうちながらうーんと小さく伸びをした。
朝の日差しがベッドに差し込んで、ぬくぬくと気持ちがいい。
もう少し…このままでいたいなぁ…。

「お寝坊な女王陛下、恐れながらそろそろ俺は退出の時間が迫っているんですが」
耳元で囁かれる声に、アンジェリークは夢から引き戻されたようにぱちりと目を開けた。
オスカーは既に守護聖の正装に隙なく身を包み、ベッドの横に腰掛けてアンジェリークの顎先を指で軽くくすぐっている。

「きゃあぁぁっ!い、今って何時?」
がばっとアンジェは身体を起こしたが、次の瞬間自分だけが全裸なのに気付いて慌ててシーツを胸元まで引き上げた。
「おやおや、昨夜は全てを見せてくれたってのに、朝になったら急にしおらしいんだな?」
くっくっとオスカーが意地の悪い笑みを向ける。
昨夜の情事の記憶が蘇り、アンジェは恥ずかしさに頬を染めながらオスカーを睨み付けた。

「もうっ、オスカーの意地悪!あの時はあの時でしょ!すっかり仕事の顔に戻ってるオスカーの前で、自分だけ裸で寝起きなのは恥ずかしいに決まってるじゃない!」
「すまんすまん、だがそろそろ君に起きてもらわないと本当にまずい時間だからな。寝かせてやりたい気もしたんだが、何も言わずにいなくなられたら寂しいだろうと思ったし」
まだ笑いを治めないまま、オスカーがアンジェリークの金の髪を梳くように撫でつける。
その仕種にようやく落ち着きを取り戻したアンジェリークは、傍らの時計を見て驚いた表情になった。
「やだ、もうこんな時間なの?そろそろ私付きの侍女が来ちゃうわ!!」
「そういう事だ。俺はもう行くが、体は疲れてないか?なんだったら俺からロザリアに言っておくが」

アンジェリークは大慌てで首を横にぶんぶんと振った。
「う、ううん!身体は全然大丈夫よ!!」
本当はまだ眠いし、身体も重く感じて起き上がるのも億劫だ。
でもそんな事ロザリアに言ったら、オスカーとの一夜が激しかったです、って白状しているのと同じ。

「ならいいが…無理はするなよ」
オスカーはアンジェの頬に小さなキスを落とすと立ち上がり、ドアに向かって歩き出した。
その途端、ベッドサイドのヴィジホンが呼び出し音を鳴らす。
この女王陛下の寝室に直接電話をかけてこられる存在は1人しかいない。
その存在とは女王の補佐官───ロザリアだけだ。

「はっはい、もしもし?」
慌ててスイッチを押すと、画面にはロザリアの優美な笑顔が映し出される。
「お早うございます、陛下。昨夜はゆっくりおやすみになれまして?」
にっこりと微笑むロザリアに、アンジェリークは胸元のシーツを首の辺りまで大急ぎで引き上げて身体を隠す。
「う、うん、もちろんよ!!そ、それよりこんな朝早くからどうしたの?何か、問題でも起こった?」
「問題と言う訳ではありませんけど…昨日はオスカーにもきつーく言っておいたんですけど、陛下がちゃんと充分な睡眠と休息をとっているのか確かめておこうと思いまして」
「やだー!心配しないで、私ならこの通りもうバッチリ、元気ハツラツよ!」
アンジェリークは慌てて元気そうな笑顔を取り繕ったが、その顔はもう風呂にのぼせたように真っ赤に染まり、尚かつ寝不足のせいか緑の瞳もいつもより赤く充血している。
ロザリアはその表情を目を細めて注意深く見つめると、突然神妙な顔つきになった。
「…そこにまだ、オスカーはいるのでしょう?代わっていただける?」
ロザリアの真面目な顔つきと声音に、アンジェリークはどきりとしながらオスカーを手招きする。
やだ、なんだろう?もしかして───昨日ほとんど寝てないのを見破られちゃったのかなあ?オスカーにお咎めがなければいいんだけど…

既にドアの近くまで歩いていたオスカーが、訝しげな表情でアンジェの側まで戻ってくる。
(ロザリアから!)
小声でヴィジホンを指し示し、画面をオスカーの方にくるりと向けた。
「…代わりました、オスカーですが」

ここから見ているオスカーは、必要最小限の受け答えや頷きしかしないので、一体何を話しているのか良くわからない。
すると突然オスカーが苦笑し、「…わかった。すまなかったな」と一言謝罪してから電話を切った。
「ロザリアに怒られたの?」
不安げにオスカーを見上げると、彼は穏やかに微笑みながらもう一度ベッドサイドに腰を下ろし、楽しいような困ったような何とも形容し難い表情を浮かべた。

「怒られたと言うか、補佐官殿には全てお見通しだった、ってところかな。『どうせ陛下はろくに眠ってないんでしょうから、朝の女王定例の謁見は午後に変更にしました。陛下には午後までゆっくりお休みになってとお伝えくださいませ』って言ってたぞ。ただし俺は定時に出仕するように、きつーくお灸を据えられたがな」
「えっ、ええっ?!」
アンジェリークの顔がさっきまでよりも更に真っ赤になり、頭から湯気が昇っているかのようにカッカと火照る。
結局ロザリアには全部ばれちゃってるんだと思うと、気恥ずかしさやら何やらで言葉も出ない。
オスカーは真っ赤になったまま固まって動かないアンジェリークの頭を大きく撫でると、笑いながら立ち上がった。

「まあこれも、補佐官殿がいかに君の事を理解してくれているかの証のようなもんだ。話のわかるいい友人に恵まれたと思ってありがたく今日は寝ておくんだな」
そのまま執務室から出ていこうとするオスカーに、アンジェリークは慌てて声をかけた。
「あ、でもオスカーは?疲れてるんじゃないの?」

その言葉にオスカーは振り向くと、不敵な程ににやりと微笑んだ。
「俺は全然問題ないぜ?なんだったら、今すぐ昨夜の続きを始めても構わないんだが」
もう一度真っ赤になって固まってしまったアンジェリークを見て、オスカーは楽しそうに笑い声を上げながら部屋を立ち去った。


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それから聖地の時間で3年の時が流れた。
アンジェリークは二十歳(はたち)になり、守護聖の顔ぶれも若干変わった。
クラヴィスとルヴァが聖地を去り、若い守護聖が新しくこの地を踏み───それでも宇宙は何の滞りもなく、平和に時が過ぎていった。

そして────ついに、この日がやってきた。


女王謁見の間には、守護聖達がずらりと勢揃いしていた。
やがて一段高い場所にある玉座に女王の姿が現われる。

いつも繰り返される謁見と同じような光景。
しかし、いつもと大きく違うのは───女王の玉座の斜め前に凛とした姿で控えているはずの女王補佐官の姿が今朝に限ってはそこにはなく、玉座の下の赤い絨毯の中央に控える首座の守護聖のすぐ隣にある事だった。

アンジェリークは静かに玉座を離れると、段差を下りてジュリアスとロザリアのすぐ前まで歩み寄る。
女王の謁見の時は必ず盛装であるはずの二人は、今は私服でそこに佇んでいる。

「ジュリアス、ロザリア。───長い間、この聖地で私に仕えてくれてありがとう。もう、出立の準備は全て終わりましたか?」
「はい、新しい光の守護聖への引き継ぎも滞りなく終了いたしましたし、館のほうも全て引き払いました。後はこの謁見の後、執務室で最後に残した仕事を確認すれば全て終わる手はずとなっております」
ジュリアスの言葉を女王は噛み締めるように静かに頷き、落ち着いた表情で「そうですか…。今まで本当に御苦労さまでした。もう、ここを出てからの落ち着き先なども全て決まっているのですよね?」と問いかけた。
「はい、主星の私の生家に戻ろうと思っております。もちろん守護聖になる前の私を知っている者はもうおりませんが、充分な土地と館が用意されているようなので、そこにロザリアと二人で腰を落ち着けるつもりでおります」

その言葉にアンジェリークは安心したような微笑みを浮かべた。
確かジュリアスの生家は主星でも名の通った大貴族だと聞いた事がある。
ましてや守護聖を輩出した家柄なら、今も繁栄していると考えて間違いないだろう。
そのような家なら間違いなくジュリアスも、そしてその奥方であるロザリアも───丁重に扱われるに違いない。

ジュリアスのサクリアが衰えを見せ始めた時、ロザリアは自身の処遇について悩み苦しんでいた。
もちろん愛する夫と共に聖地を下がり、穏やかな人生を送りたい気持ちが一番だったとは思う。
でも、陛下を1人残して聖地を去るのは忍びないと、毎日のように悩み抜いていたのを私は知っている。

だけれども私には支えてくれる愛する人が今はいるのだから、安心してジュリアスについていって欲しい、と伝えた時───ロザリアは私の肩に顔を埋め、ありがとうございます、と繰り返し言いながら涙を流し続けていた。
気が強くて、気高くて────人前で涙など流した事のないロザリアが見せた、初めての大粒の涙。
私だって大切な親友が側からいなくなるのは寂しい。
でも、大切な人だからこそ…一番幸せな道を、選んで欲しい。

もう私もロザリアも、主聖に戻っても既に自分達を知っている人間などいない。
家族も、友人も───その全てがとうの昔にいなくなっている事だろう。
女王や補佐官を輩出した家であれば、その名前や家系は残っているとは思う。
でも、誰も知る人のいない世界に戻るのであれば、やはり自分の一番大切な伴侶と二人でいられる事が一番心強いのは間違いないのだから。

アンジェリークはロザリアのほうに向き直ると、涙を堪えて精一杯の明るい笑顔を向けた。
「ロザリアも、本当に今までありがとう。───ジュリアスと、これから幸せな生活を送ってね。聖地にいても、あなた達の事は絶対に忘れない。二人が幸せに暮らせるよう、私も頑張ってこの宇宙を守り抜いていくわ」
ロザリアが耐えきれないように口元に手をやり、必死で嗚咽を堪えている。
私服のミディ丈の上品なワンピースに身を包み、髪を下ろしたロザリアはいつもの補佐官姿よりも若々しく、まるで少女のように弱々しくすら映る。
いつも年齢よりも大人びて見えて、神々しい程の威厳すら感じられる女王補佐官の姿はそこにはない。
そこにいるのは、任務を終え、重圧感から解放された1人の若いただの女性の姿だった。

「陛下も、いつまでもお健やかで幸せであられますように…わたくしも聖地を離れても、いつも陛下のお幸せを祈っておりますわ………!」
ロザリアの目からぼろぼろと涙が零れ落ちていく。
それを見つめるアンジェリークの瞳にも大粒の涙が溜まっていくが、必死でそれを堪えて晴れやかな笑顔を浮かべるように努める。

そう、これは悲しい別れなんかじゃない。
大切な人達の新しい門出なのだから、私もでき得る限りの笑顔で送りだしてあげたい。

泣いてしまって言葉もでないロザリアの肩を、ジュリアスがなだめるように優しく撫でてあげている。
今まで公式な場では、二人は人前で寄り添う姿すら見せた事はなかった。
今こそ縛られていたものから解放され、ようやく本当に互いの為に生きていく事ができるのだ。
別れは寂しいけれど、こんな二人の姿は少しうらやましくもある。

ロザリアの涙が落ち着いた頃を見計らったように、ジュリアスが女王に向き直って穏やかに口を開く。
「陛下、最後になりますが───これからの執務について、私から実は一つ提案したい事があります」
ジュリアスはほんの一瞬ちらりとオスカーに視線を投げかけると、何か含みのあるような意味ありげな微笑を浮かべた。
二人の別れの挨拶を真剣に聞いていたオスカーは、そのジュリアスの微笑みに思わず面喰らったような顔つきになる。

アンジェリークは滲んでいた涙を慌てて指先で拭うと、にこやかに微笑んでジュリアスに応えた。
「ジュリアスからの仕事の提案だったら喜んで意見を聞きたいわ。何と言ってもあなたは、この私よりずっと長くこの聖地に携わってきた人なんですもの」
その言葉にジュリアスは「ありがとうございます」と短い礼を述べてから、隣に立つロザリアと目を合わせて微笑みあった。



「これから女王陛下は補佐官という片腕であった存在を失い、仕事上の負担が今まで以上に大きくなると予想されます。補佐官のいない女王の治世では通常、首座の守護聖がその責を肩代わりしてまいりましたが…私の後任となった光の守護聖はまだ年幼く、これから守護聖としての仕事を覚えていくだけで当面は手一杯なのではないかと思われます。そこで炎の守護聖であるオスカーに光の守護聖の後見役を務めさせ、首座の代行として女王の補佐役を任せてはいかがかと存じます」

その言葉にオスカーは驚いたように目を見開いて目の前に立つジュリアスを見つめた。
代々首座は年齢や任期に関係なく光の守護聖が勤め上げるとの決まりごとがあったのだ。
それを、ジュリアス様自らが覆そうとおっしゃるのか?

「オスカーは残った守護聖の中では任期も一番長くなる訳ですし、これからは一番の年長者として守護聖全員のまとめ役を任せるのに相応しい人物ではないかと思われます。幸いな事に今まで長年私の片腕として仕事を傍らで手伝ってくれておりましたし、首座の仕事について理解が深いという点ではオスカーと比肩できる者はいないでしょう。今までの聖地での決めごとと異なる解釈にはなりますが、実務の面からではこれが最もスムーズに女王の補佐を引き継ぐ最良の案ではないかと思いますが、いかがでしょうか?」
淀みなく意見を述べていくジュリアスの後に続いて、涙をおさめたロザリアも口を開く。
「陛下、恐れながらわたくしもこの件に関しては賛成しておりますの。オスカーが仕事に関して有能である事は皆が認める所ですし、彼でしたら立派に首座を代行して陛下のお力になれると思っていますわ」

二人の提案に、アンジェリークの顔にもぱあっと明るい光が宿る。
「そうね、二人の意見はすごく理に叶っていると思うわ!私も女王補佐官と首座の守護聖の二人が同時にいなくなるのは正直にいって心細い部分もあったのですもの。後は他の皆の意見も聞いてみなくちゃならないけど…みんなは今の提案について、どう思う?」

女王が言葉を言い終わらない内に、既にオリヴィエが笑顔で拍手を始めていた。
それに続いて今や守護聖の中でもオスカーに次ぐ古株となったリュミエールも穏やかに微笑みながら拍手に加わる。
年中組となったランディやゼフェル、マルセルもそれに続き、新しい闇と地の守護聖、そしてジュリアスの後任となったばかりの幼い光の守護聖も、顔を紅潮させながら拍手の輪に加わっていく。
大きな拍手の輪の中、女王は満面に笑みをたたえながら満場一致で提案を裁決する事を宣言した。

「それではオスカー、後程私の執務室に立ち寄ってくれないか?出立の前に簡単にではあるが引き継ぎたい事もあるのだ」
今まで誰にも見せた事がないような楽しそうな笑みを瞳に乗せて謁見の間を退出したジュリアスに、オスカーは頷きながら深々とした礼を返した。



「失礼いたします、ジュリアス様」
オスカーが引き継ぎの為にジュリアスの執務室を訪れると、ちょうどジュリアスは長年愛用した羽のついたペンや優雅な彫り模様の入った銀のトレイ、象牙で出来たチェスのセットなどを秘書に指示して運び出している所だった。
見なれた執務室が様子を変え、何かがらんとした寂しい佇まいへと変わっている。

「お持ちになる物は、それだけですか?」
オスカーはジュリアスの運び出している荷物の少なさに驚いたような声を上げた。
ジュリアスは私物から小さな手荷物一つ分だけを出発の馬車へ運び入れ、その他の物は処分するように、との指示をだしていた。

「ああ、物心ついた時から聖地にいたので愛用していた物は数多くあるのだが…外界に出れば不必要な物も多いだろうし、必要な物があれば向こうに着いてからロザリアと相談して少しづつ揃えていくほうが良いのではないかと思ってな。私は外界の事は良くわからないので、むしろ積極的に向こうで生活を整えていくほうが良いようにも思えるのだ。だが、これは持っていこうと思っている」
そう言うとジュリアスは、茶色いスエードのケースにくるまれた小さなペーパーナイフを引き出しから大切そうに取り出した。
「それは…」
オスカーの瞳に、懐かしい色が浮かぶ。

そうだ、あのナイフは俺がまだ守護聖になって間もない頃、ジュリアス様に敬愛の気持ちを込めて差し上げた物だ。
銀の柄の部分に炎の紋章が刻まれたそれは、長年丁寧に使い込まれ磨き込まれた物だけが持つ、柔らかい輝きを放っていた。
「そなたがこれをくれたのは、もうかなり以前の事になるな。あの頃からそなたは行動的で仕事に有能な、頼りになる男だった。ただ、若さ故の夜遊びが少し過ぎるのではないかとも思っていたのだぞ」
笑いながらオスカーに視線を当てたジュリアスに、オスカーも少し罰が悪そうな笑顔を向けて返した。
「御存知でしたか。俺としてはジュリアス様には気付かれないように立ち回っていたつもりだったのですが」

「まあ、そなたはどんなに遊ぼうとも仕事はきちんとこなしていたし、執務時間中に羽目を外すような事はなかったので見逃していたのだ。だが、いつまでもあのままでは困るとも思っていた。だから、そなたが陛下と真剣に愛しあうようになったのも───それはそれで良い事だと思えるようになったのだ」
ジュリアスはそう言うとふっと柔らかく微笑んだ。
それは信頼するオスカーの前ですら今までほとんど見せた事がなかったような、穏やかで優しい笑顔だった。

「昔の私だったら女王と守護聖が恋愛するなど、とんでもない事だと反対していただろうな。だが、私も女王候補であったロザリアと恋愛して結婚し、初めて気付いたのだ。心休まる存在が自分の一番近くにいてくれる事の幸福を。例え女王や守護聖であっても、人を愛する気持ちは止められない事を。それを気付かせてくれたのが、ロザリアであり、女王陛下であり───そしてオスカー、そなただったのだ。今はそなたと陛下にも、心から幸せになって欲しいと願っている。立場や責任に縛られる事なく、互いの存在を支えにして助け合っていってほしい。それがきっと陛下とそなたの幸せでもあり、宇宙の幸せにも繋がっていくと信じている。私は、そんな幸せな陛下が創っていく宇宙の下で新しい生活を始められる事が、楽しみでしょうがないのだ」
そう言いながら新しい生活に思いを馳せるように遠くを見つめるジュリアスの瞳は、オスカーには希望の光に満ち溢れているように見えた。

そんなジュリアスの姿を少し眩しいように感じながら、オスカーが静かに口を開く。
「───ジュリアス様、先程はありがとうございました。首座の代行などという恐れ多い提案をしていただけるとは思ってもいませんでしたが、女王陛下を一番身近でお守りする権利を戴けた事は、心からの感謝にたえません」
「…あれはこうする事が一番良い道だと思ったから提案したまでだ。そなたは私とロザリアの代わりを努めるに足るべき人間だし───陛下もそなたに側で支えてもらうのが一番心が休まるであろうからな」

ジュリアスは机の上に置かれた書類の入ったファイルを取り上げると、オスカーに手渡した。
「これは首座の守護聖として私が関わっていた仕事に関する書類だ。後はそなたが引き継いで処理をしていって欲しい。あとは…こっちのファイルは、ロザリアから預かっている物だ。女王の私室に直結する電話回線は、そなたの執務室や私邸から通じるように引き直してあるそうだ。その他にも女王の執務室に出入りする為の鍵やセキュリティチェック用のパスワードなども預かっている。他に何か、必要な物はあるか?」
オスカーは受け取ったファイルの中身を確認しながら、そのあまりにも手際良く揃えられた引き継ぎの数々に驚きを隠せなかった。

昨日や今日の準備で、これだけの事が用意できるとは到底思えない。
きっとジュリアス様とロザリアは、この日の為に何か月も前から周到に準備を重ねてきてくださったのだろう。
自分達が聖地を去った後も誰も困らないように仕事を片付けていくだけでなく、目の回るような忙しさの中でも、その後の俺と陛下の幸せの為にも心を砕いてくださっていたのだ────!

オスカーの心に、熱い物が込み上げてくる。
この方についてきた俺は、間違っていなかったのだ。
守護聖として聖地に召されたその日から、憧れにも似た尊敬の気持ちをずっと心に抱いてきた。
守護聖の中の守護聖といった風格に満ちた振る舞いや、誇り高い言動、自分にも他人にも厳しい妥協を許さない姿勢や光に満ちた佇まい。
その全てが俺の目標だった。
女王陛下をお守りする守護聖として、いつかこの方のようになりたいと願ってずっと側に仕えてきた。

「…ありがとうございます、ジュリアス様。あなたは俺の行く先を照らしてくれる、大きな目標であり憧れでした。あなたのお側にお仕えする事が出来て光栄でしたし、…本当に幸せでした。俺も必ず、あなたのような素晴らしい守護聖となって女王陛下とこの宇宙をお守りしてみせます」
そう言いながら深く頭を下げて礼の姿勢を取るオスカーに、ジュリアスは顔を上げるよう促した。
「もう私はそなたの上に立つ人間ではないから、顔を上げてくれないか。これからはそなたが、守護聖達の上に立つ立場になるのだ。私の後任の守護聖───あれは、そなたに憧れている。そなたこそが自分の思い描いていた守護聖の姿を体現していると言っていたぞ。あれの後見として、立派な守護聖に導いてやってくれ」
「お任せください。必ずやこのオスカーが、ジュリアス様のご期待に添ってみせます」

力強いオスカーの視線に安心したようにジュリアスが微笑みを返すと、ドアの外から出発の用意が出来たとの従者の声が聞こえてきた。
「それではオスカー、女王陛下とこの宇宙、そして守護聖達をよろしく頼む」
そう言ってドアの外へと歩き去るジュリアスの背中に、オスカーはもう一度深く礼をしながら声をかけた。
「ジュリアス様も、お元気で…!」

ジュリアスの背後でドアが重々しい音を立てて閉まり、オスカーの声がその奥で掻き消されるように聞こえなくなった。
ジュリアスは一度立ち止まって振り返りかけたが、すぐに思い直したように顔を真直ぐに前へ向けると聖殿の外に待つ馬車に向かって歩き始めた。

オスカー、私こそそなたの存在にどれだけ救われ感謝していた事か。
そなたは男も女も関係なく誰もが見とれてしまうような颯爽とした魅力を振りまき、風を切るように歩きながら聖殿に新しい空気を吹き込んでいた。
そんなオスカーに心から慕われていた事が、私には何よりも誇らしい事だったのだ。

そなたが陛下を女王候補時代から愛しながら私に一言も相談がなかったのを知った時は、正直に言って信頼されていないようでひどく寂しくも感じたものだ。
だが、今ならそなたの抱えていた苦しみも少しは理解できる。
女性の気持ちを汲み取る事に疎かった私が陛下の心に気付く事もせず、自分とロザリアの事だけにとらわれていた時、他人の気持ちに聡すぎるそなたは私と陛下の間でどうする事もできずに板挟みになっていたのだろう。
そんなそなたに、今からでもいいから力になりたいとずっと考えていた。
私とロザリアの提案が、少しはオスカーの力になれたならそれだけで充分だ。

馬車には既に、生涯の伴侶である愛しい存在が乗り込んで私を待っている事だろう。
もう後ろを振り返ってはならない、ここから先は───私とロザリアの新しい光に満ちた人生が、待ち受けているのだから。



ジュリアスとロザリアを乗せた馬車が聖地の門へと向かっている頃、アンジェリークは女王宮の窓から門のある方角にじっと視線を向けていた。
警備上の問題で門まで見送る事は出来なかったけれど、意識を集中させると自分の半身である金のサクリアを持つロザリアの存在が微かに感じられる。
その金のサクリアはジュリアスの身体に僅かに残る光のサクリアと寄り添うように溶け合い、暖かく小さな光を放っているようにも感じられた。

いつか、私とオスカーもあんな暖かい光を二人で溶け合わせながら聖地を後にする日がくるのだろうか。
そう考えれば、いつか来るサクリアの衰えもそんなに悪いものじゃないかもしれないわ───


小さく笑みを浮かべて遠くを見つめるアンジェリークの意識から、二人の溶け合ったサクリアが遠ざかり、やがて消えていった。