Sweet company

1. Turning Point (2)

「はぁ…」

アンジェリークはケーキを陳列したガラスケースの奥に立ちながら、今日何度目になるかわからない溜息を洩らして目を伏せた。
その瞳は疲れて生気がなく、目の下には青黒いクマがうっすらと浮かんでいる。

ママは今、ひどい過労で入院している。

一週間前にママが倒れたのを見た時は、自分の心臓が止まってしまうのではないかと思った。
気が狂ったようにママの肩を揺さぶり続け、お店の事も一切が頭から消えていた。
どのくらいそうしていたのかも、良く覚えてはいない。

気がついた時は、救急車のサイレンがうるさいくらいに聞こえていて、救命士の男性が私を母から引き剥がしていた。
「命に別状はありませんから、落ち着いてください」
その言葉を聞いて、ようやく正気にかえった。

誰が救急車を呼んでくれたのか、あれからどうやって病院まで行ったのか、混乱し過ぎていて記憶がところどころ抜け落ちている。
記憶が正常に戻ったのは、あの日の深夜、母の意識が戻った辺りから。

「…心配かけて、ごめんなさいね…」
ママは薄く目を開けると、その一言だけ呟いてからまた眠りに落ちた。
私の中でその瞬間、張りつめていたものがぷつりと音をたてて切れ、涙がぼろぼろと零れ落ちていた。

パパが死んだ時でさえ、泣く事はしなかった。
ママを助けたくて、泣く時間すら惜しんでママを支え続けた。
綺麗で華奢で優しくて、少女のようなママ。私は金髪以外はママに似なかったけど、こんな素敵なママがいるのをいつも誇りに感じていた。
そのママが死んでしまうかもしれないと思った瞬間、恐怖にも似た感情に襲われ、全身がパニックを起こした。
ただひとり、この世に取り残されてしまうかもしれない-----そんなのいやだ、いかないで、と心が悲鳴をあげていた。

しかも、よりにもよってママをここまで過労に追い込んだのは私なのだと言う事実が、余計に自分を追い詰めた。
カフェを作ろうとか、自分の夢ばかり優先して、ママの身体にどれだけ負担をかけてるのかを考えなかった。
あの日、倒れていた母を抱き起こし、その軽さに呆然とした。こんなに痩せていたのに、自分の事で一杯一杯で、気付いてあげられなかった。
ごめんなさいと謝らなければならないのは、私の方なのに。
そのまま病室で一晩中泣き続け、パパが死んだ時の分まで涙を流したような気がする。

せめての罪滅ぼしにと、お店は私1人でなんとか開けようと頑張っている。
けれどそれは、思っているよりずっと大変な事だった。
朝は4時に起きてお菓子を焼き、お店を開けて掃除もカフェもテイクアウトも全部1人でやり、店じまいしてからは洗い物とゴミ出しをしてレジを集計し、次の日の材料注文をしてから眠りにつく。 はっきり言ってもう、自分の能力の限界を超えていた。
お店を一人で開けるようになってまだ一週間しかたってないのに、すでに頭がぼうっとして物事がじっくり考えられない。
失敗こそまだしていないけど、このままではいつか大きな事故を起こしてしまいかねなかった。
でもママの入院費もかかるのに、バイトを雇っている余裕なんてないし。
結局ママが戻ってくるまで、自分1人だけで持ちこたえるしか道はないんだわ。

「…せん。すいませんが、よろしいかしら?」

カフェから呼ばれる声に、アンジェはハッとして顔をあげた。
私ったら、またぼんやりして……!今はまだ、営業中でお客さまだっているというのに!
「は、はい、すいません!ただいま参りますね‼︎」

アンジェリークは慌ててカウンターを抜けると、客席の方に急ぎ足で向かった。
寝不足と疲労で、足がもつれる。転ばないように必死の思いで意識を集中させていると、テーブルにいた女性客がゆったりとした微笑みを向けてきた。
「あら、ごめんなさい。そんなに急いでいただくような事ではなかったんですよ」
その美しい女性に、アンジェリークは思わず急いでいた事も忘れ、息を飲んで見とれてしまった。

…こんな綺麗な人、いままで見た事がない…!うちのママもこの街では一、二を争う美人だって言われてるけど、そのママが普通に見えるくらいのすごい美女だ。
芙蓉の花のような薄紅色の髪をゆったりと肩の辺りまで編み込み、優美そのものの仕種でケーキを味わっている。
顔も、スタイルも、物腰も完璧。
女優さんとか、モデルさんとか・・・そういう類いの人なんだろうか?

「…かしら?」

「は、はははいっ?」
いつの間にか女性に話しかけられていたのに気付き、アンジェリークは驚いて飛び上がった。
「ご、ごめんなさい!あの、あなたがとても綺麗だから、思わず見とれちゃって…えっと、それで、今なんておっしゃったんですか?」
女性相手だというのに真っ赤になってどぎまぎとするアンジェに、その女性はふふ、と柔らかく微笑んだ。
「まあ、そんなふう言っていただけて嬉しいわ。あのね、ここのお菓子はどれもとても美味しいんですけれど、どなたがお作りになったのか教えていただけたらと思いまして」

『どれも』と言われて、アンジェは思わず女性の前に置かれたケーキの皿に目を落とした。
そこにはなんと、7枚ものケーキ皿が重ねられている。
どう考えてもこの美しい女の人が1人で7つもケーキを食べたとは思えない。
という事は、前のお客さまのお皿を下げ忘れていたのだろうか?

「きゃあっ!わわ私ったら、ぼんやりしててお皿をさげるのを忘れちゃってたんですね、すぐに片付けますっ、ごめんなさい~!」
慌てて伸ばしかけた手を、女性にやんわりと遮られた。
「いいんですよ、私が一人で7つもケーキを頼んだんですから。私ね、ケーキには目がなくて。皆に驚かれるんですけど、味が気に入れば、何個でもあっという間に食べられるんですよ」
そう言われてアンジェリークは、さっきケーキを7個出した事をようやく思い出した。
どうやら本当に疲労がたまっているに違いない。
こんな綺麗な人がお店にいたことも気付かなかったし、ケーキを出した事すら忘れているのだから。

「それよりも、こんな素晴らしいケーキを作られた職人の方に一言お礼を言いたいのですよ。素朴でどこか懐かしい味で…こんな美味しいお菓子をいただいたのは久しぶりですもの。あの奥にいらっしゃるのかしら?」
女性は立ち上がってショーケースの奥にある工房を覗こうとした。

「あ、あの、ケーキは私が作ってるんです!」
「まあ、あなたが?もしかして、これ全部がそうなのかしら?」
「は、はい、あのお気に召していただいたなら嬉しいですっ!」
アンジェリークは頬を真っ赤に紅潮させながら、ぴょこんとお辞儀をした。

「まあ、あなたのような若いお嬢さんが…もしかして、お店も1人で経営なさってるの?」
「い、いえ!お店は母と2人でやってるんですが、たまたま今は母が病気で休んでるんで、私1人でやってるんです。…あの、ちょっと1人じゃサービスとか行き届かない部分もあると思うんですけど…すいませんっ!」

「そう、お母様が…それは大変ですね……」
その女性はそう言ったきり、しばらく何かを考えているかのように黙り込んだ。
沈黙が息苦しくなる程長く続き、アンジェリークがそわそわとし始めた頃、女性は唐突に名刺を差し出した。

「わたくしはディア・ハロウェイと申します。よろしかったら、あなたと少しお話したいのですが、お時間をいただけますかしら?」



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アンジェリークは車窓の外を凄いスピードで流れていく景色を、不安げな面持ちで眺めていた。
足元には、大きなボストンバッグが1つ。
今、自分はこの国の首都・セントラルシティに向かう高速のリニア鉄道に乗っている。
既に5時間も座席で揺られており、ようやく終点まであと15分程で着くというアナウンスが流れてきた。
窓から見える景色は、自分が出発した時とは明らかに趣を変えており、近代的な高層ビルが隙間なくびっしりと立ち並んでいる。
そのビル群に押しつぶされそうな圧迫感を感じて、思わず大きく深呼吸をして気持ちを落ち着ける。

アンジェリークの住んでいる街は、この国の中では少し田舎の部類に入る。
ドがつく程の田舎ではないけど、洗練された都会ともいい難い。
大きな建物といえばショッピングモールや映画館、ホテルに学校や病院といった施設くらいで、大抵は2階建ての一軒家がぽつんぽつんとと続いている。
自然も多いし、街の中心以外には畑や田んぼも見受けられる。
住人達は近隣の商業都市などに職を持っている事が多く、この街自体はあまり商業は発達していない。
少し垢抜けてなくて、でも静かで安全。そんな典型的な田舎の住宅地、それがアンジェリークの育った街。

でもこれから向かおうとしているセントラルシティは、文字どおりの大都会だ。
政治も経済もそこを中心に回っており、流行もこの街から生まれだす。
アンジェリークもハイスクール時代に修学旅行で訪れた事はあるが、あの時と今では訳が違う。
何といってもこれからここに、就職して住む事になるかもしれないのだから。
アンジェリークは小さく溜息をつくと、手に握りしめた一枚の名刺を見直した。

『株式会社スモルニィ 秘書室 室長 ディア・ハロウェイ』

この名刺をくれたディアと名乗った女性は、来年の春に開催されるお菓子作りの一大イベント、「ローズ・コンテスト」に、会社を代表して出場できる優れたケーキ職人を探していたのだという。
もちろん、ローズ・コンテストの事はアンジェリークも知っている。
お菓子を作る仕事に携わっている人間なら誰でも憧れる、名誉あるコンテストなのだから。
でも自分のような小さな街の名もないケーキ屋の娘が、出場できるなんて考えた事もなかった。
しかも、あのスモルニィ社----この国最大の製菓会社-----から、出場できるかもしれないなんて夢のような話だ。

ディアは、仕事の内容を事細かく説明してくれた。
社内にいる他のお菓子職人の候補達と一緒に、出品するケーキのレシピを考えたり、実際にそのレシピを作って社内の審査機関に試食をしてもらうのが主な内容で、4ヶ月後に開かれるコンテストの予選に出品し、そこを通過すると決勝に進めるという事。
決勝はさらに2ヶ月後に開かれる為、短くて4ヶ月、長くて6ヶ月の間、会社の契約社員として活動して欲しいし、コンテストの終了後、会社が望んだ場合は、そのまま正社員として契約し直す場合もあるそうだ。
住むところも会社が用意するし、身1つで来てくれて構わない、と言われた。

その後に給料と契約金を提示されたのだが、その額を聞いてアンジェリークは驚きに目を見張った。
とにかく、20歳の女の子が受取る額としては高額すぎるのだから。
もちろんそれが本当なら、母親の入院費だって出せるし、銀行の借金もかなり返済できる。
お店を6ヶ月閉める事になっても、充分にやっていける。
それにローズ・コンテストに出場したとなれば、お店を再び開けた時に大きな宣伝にもなる。
何よりも6ヶ月間、ママにゆっくり身体を休めてもらえる…!
アンジェリークの心は大きく揺れ動いた。でも長年苦労した事で培われた慎重さが、承諾したがる自分に待ったをかけた。

「あの、とっても素晴らしいお話で光栄なんですが…今すぐは、お返事が出来ないんです。もうしばらく、待ってもらってもいいでしょうか」
おそるおそる、と言った様子で切り出したアンジェリークに、ディアはにっこりと微笑んだ。
「もちろん、急いで答えを出す必要はありませんよ。お母様に相談して、心が決まったら連絡してくれれば構いません。もし新しい環境が不安なのであれば、とりあえず一週間こちらで働いてみて、それから決めてくださってもよろしいのですよ」

何から何まで、信じられない程都合のいい話に思えた。
ディア曰く、腕のいい菓子職人を確保するのは、会社のトップからの至上命令なのだという。
このお店に来たのも単なる偶然からではなく、「素晴らしく美味しいお菓子を作る、名も無い小さなお店があるらしい」という噂を聞き付けてやって来たのだそうだ。
コンテストの予選を通過するだけで、会社にとっても大変な名誉になるし、莫大な利益に繋がるから、と。
他にも各地からスカウトされている歳の近い職人も多くいるから、きっと働いてみれば不安はなくなると思う、とも言っていた。
「いいお返事を、お待ちしてますよ」
そう言ってディアは、優雅な足取りで店から去っていった。

アンジェリークは、すぐに母親に相談した。
病床の母は、驚いた事に一も二もなく賛成してくれた。それも、顔色を輝かせ、本当に嬉しそうに微笑みながら。
「アンジェリーク、これはきっとあなたにとって大きなチャンスだと思うわ。あなたは確かに、素晴らしいお菓子づくりの才能があるとママは思っていたの。でも、こんな小さな街にいたらそれも埋もれてしまうだけ。まだあなたは若くて可能性が沢山あるのですもの、とにかく1週間、行ってご覧なさいな。お店の事やママの事は、心配しないで。あなた1人でお店を切り盛りしている事のほうが、ママには辛いし、心配なのよ」

その言葉に後押しされて、こうしてアンジェリークは決心し、ひとり列車に揺られている。
不安も大きいけど、期待もそれに負けないくらい大きい。

何か新しい人生が、この先に待ち受けているような気がして、胸が高鳴った。