Sweet company

1. Turning Point (3)

セントラル・シティの駅に降り立つと、埃っぽい空気が舞い上がった。
昼過ぎに出発したのに、既にこちらでは日没が間近な時間になっている。

アンジェリークは改札を抜けてから、タクシー乗り場を探す為に立ち止まって、頭上の案内板を見上げた。
途端に何人もの人にぶつかられ、身体がよろける。
こんな人ごみの中を1人で歩くのは初めてで、全く流れについていけない。
でもここで不安そうにきょろきょろしてたら、田舎者と見抜かれて荷物や財布を狙われるかもしれない。
都会は恐いところだから、気をつけなくちゃ。
アンジェリークは手にした荷物をしっかりと抱え直すと、精一杯田舎者に見えないように背筋をしゃんと伸ばし、タクシー乗り場へと足早に向かっていった。

「メテオーラ・ホテルまでお願いします」
タクシーに乗り込み、ディアから言われていた当面の宿泊先であるホテル名を告げる。
運転手は無言で頷き、そのまま静かに車を発進させた。

アンジェリークは、タクシーの運転手がずっと無言でいる事に居心地の悪さを感じ、もじもじと身体を小さく揺すると、気を紛らわすように外を見た。
地元ではタクシーに乗ると、運転手がうるさいくらいに話しかけてくるのが普通だ。
それが鬱陶しく感じる事もあったけれど、こうして全くの無言と言うのも不安になる。
でも、これが都会の流儀ってものなんだろう。
これから長く住む事になるのなら、いちいち気にしていては身が持たないが、やはり簡単には慣れそうにない。

窓の外の景色は、ひどく寒々しい感じがする。
威圧するように立ち並ぶ高層のビル群と、対照的に派手派手しいネオンが瞬く店。
こんなに沢山の人がいるのに、何か生命的な物を感じさせない、冷たい街並み。
雨も降っていないのに、何故か空気が灰色がかって見える。そう、無機質で硬質なグレーの空気。
息をするだけで、肺の辺りが重苦しく感じさえする。

そして道路から溢れんばかりの車と人。その全てが、恐いくらいのスピードで縦横無尽に動き回っている。
一見無秩序で滅茶苦茶な動きに見えるけど、混乱も起きずに人も車もスムーズに流れていく。
どうやら都会には、ある一定の見えないルールが存在して、秩序を保っているらしい。
そして、私は-----そのルールを知らない、よそ者だ。
このルールはきっと、大都会を生き抜いていくパワーのある人間にしかわかり得ないのだろう。
アンジェリークは急に、自分がひどく場違いな田舎者のように感じて、この場から逃げ出したくなってしまった。
でも実際には、黙って目的地に着くのをひたすら待っていただけなのだけど。

ようやくタクシーが目的地に辿り着き、運転手が金額を口にした時、アンジェリークは思わずホッとしながら急いでこの居心地の悪い空間から抜け出した。
しかし、目の前にある豪華なホテルを見た途端、その安心感は塵となって消え去っていた。
「何、ここ……」

宿泊するのはビジネス・ホテルのような、簡素なところを想像していた。
なにせまだ、社員として契約だってしてないし、とりあえず1週間の「お試し期間」に泊まるだけの場所だったから。
だけど目の前にあるホテルは-----ホテルと呼んでいいものなのか------白亜の洋館、と言った方が相応しい感じがする。そう、昔読んだ本に出てくるような、貴族の人達が住んでいた、クラシカルなお屋敷。
白い巨大な円柱に挟まれたエントランス、前庭にはギリシャ様式の彫刻が立ち並び、客室の窓には丸く張り出した小さなバルコニー----映画のロミオとジュリエットに出てくるような----がついている。
都会の灰色のビル群とは、ここだけが全く違う世界のように見える。まるで避暑地の高級リゾートにやってきたような感じ。
どこからどう見ても、これは大変な高級ホテルだ。
本当に、ここが私の泊まるホテルなのだろうか?

いつまでも車寄せに佇んで目をぱちくりさせていると、ドアボーイが近づいてきて声をかけてきた。
「ご予約のお客さまでいらっしゃいますか?お荷物を中にお運びいたします」
「あ、は、はい…」
ぼうっとしながらボーイの後につき、入口へと続く階段を昇る。
歴史を感じさせる重厚なドアをくぐると、中もまた、都会の喧噪とは全くの別世界だった。

アンティークのソファや家具が並べられたラウンジは、ホテルと言うより豪華なリビングとか客間といった趣だ。
天井まである小高い窓には繊細な細工のステンドグラスが埋め込まれ、何段にも折り上げられた天井には複雑な幾何学模様が描かれている。
かかとまで埋まりそうなふかふかの絨毯に足をとられてよろめきながら、アンジェリークはようやくフロントデスクに辿り着いた。
黒いフォーマルなスーツをぴしりと決めているホテルマンが、にこやかに挨拶してくる。
「あの、今日から宿泊するアンジェリーク・リモージュです」
「伺っております。スモルニィ社のお客さまですよね?当ホテルで最上のお部屋を用意しております。どうぞこちらへ」

最上の、という言葉にアンジェリークはにわかに不安になった。
ただでさえ豪華なこのホテルの雰囲気に、圧倒されて寛げそうにないのに。
ボーイとポーターに挟まれる格好で旧式な鉄製の飾り扉がついたエレベーターに乗り、さらに細くて迷路のように入り組んだ廊下を延々と進む。
実際にはそんなに歩いていないのだろうが、緊張感のせいでアンジェリークにはその廊下がひどく長いように感じられた。
ようやく部屋に辿り着くと、ポーターが先にドアを開けてくれ、アンジェリークは中へと進んだ。

部屋に入ったアンジェリークは、そのままドアのすぐ前で呆然と固まってしまった。
これは、話には聞いた事があるけど、超高級スイートルームってやつだ。
しかもホテルの客室とは思えないくらい、プライベートな暖かい雰囲気もある。ホテルと言うより、高級なコンドミニアムといったほうがぴったりとくる感じ。
だだっ広いリビングに、客間に書斎。大きなアイランドカウンターが付いたキッチンに、続きのダイニング。
キッチンには食器や調理器具、簡単な調味料までもが備え付けられていて、材料さえ買ってくればいつでも料理が始められるようになっている。
寝室は2つもあって、それぞれにシャワールームとトイレがついている。それとは別に独立したジャグジー付きのバスルームもあるし、しかもベッドは…どちらもキングサイズだ。
はっきりいって、私の家を全部合わせたよりこの部屋の方がずっと広い。

部屋の説明をしているボーイの言葉も、よく頭に入ってこなかった。
とにかく、部屋の持つ高級感や広さ、雰囲気といったものに圧倒されてしまっている。
ふと気がつくと、説明を終えたボーイとポーターが、ドアの前でじっと立ち尽くしていた。
なんだろう、早く出ていってくれないのかな?
そこでハタ、と気がついた。
そうか、こういう高級ホテルではチップってものを渡すんだ!

あわててハンドバッグの中を探り、お財布を掴む。
でも、一体いくらくらい渡したらいいんだろう?なにせ初めての経験だから、全く勝手がわからない。
10ドル…じゃあげすぎなんだろうか。25セント硬貨じゃきっと、少ないわよね。えーい、ちょうど2枚あったから、5ドル札でいいわ!
アンジェリークは5ドル札を2枚掴むと、ボーイとポーターの手に押し付けるように握らせた。
しまった、もう少し手慣れてるふうに渡せば良かったかも、と思ったけどもう遅かった。
でもボーイ達が顔を見合わせて嬉しそうに目配せをしたところを見ると、金額的には悪くなかったに違いない。

ボーイ達が部屋を出て、ようやっと1人になると、アンジェリークは大きく溜息をつきながらリビングのソファにへたり込んだ。
「はあ~、なんか疲れた……」
クッションを手にとり、頭の下に押し込んでからごろりと横になる。
窓からはよく手入れされた広大な中庭が見えている。暗くなりはじめた庭にはキャンドルが灯され、ロマンティックなムードの音楽も流れる中、それに合わせて踊るカップルの姿も見えた。

1人でこんな広い部屋にいると、急に寂しさやら不安やらがどっと押し寄せてくる。
いくらローズ・コンテストに出場させるからとはいえ、会ったばかりの無名の子娘に、いきなりこんな高級な部屋をあてがうものなんだろうか?

-----アンジェは、騙されてるんだよ。
ジョッシュの言葉が急に頭に浮かび、アンジェリークは慌てて頭を振ってその考えを追い払った。

上京を決めてから、ジョッシュにも電話で報告した。
恋人だから、離れて生活する事になるかもしれないならきちんと伝えるのが当然だと思ったし。それに、こんなチャンスを目の前にしながら少し怖じ気付いていた私を、力づけ励ましてくれるんじゃないかと期待したのもあったから。
でも、彼は……残念ながら私の期待していたような励ましの言葉はくれず、ただこの仕事についてあからさまに反対してきただけだった。

「アンジェ、考えてもご覧よ。そんなうまい話がそうそうあると思うかい?アンジェは簡単に騙されそうな雰囲気があるから、そこに付け込まれたのかもしれないよ。なにもそんな就職なんかで遠くに行かなくても、僕と結婚すればいいじゃないか。君もお母さんも、うちにくれば仕事なんかしないでのんびりできるし。僕が大学を出てから、って思ってたけど、少しくらい早めたっていいんだからさ」
この言い方に、私は少しカチン、ときてしまった。
「騙されやすそうって…いつも私の事、しっかりしてるのが魅力だ、って言ってくれてるじゃない」
「そりゃアンジェは僕の周りにいる女の子達よりも、中身は数倍はしっかりしてるよ。でも見た目が子供っぽくて頼りないのも事実なんだから、そこに付け込んでくる奴らがいたっておかしくないんじゃないかい?」

アンジェリークは「あなたがいつも子供っぽい格好をさせたがるんじゃない」と言いたくなるのを我慢してぐっと堪えた。
確かにジョッシュは、私の事を心配してくれてるんだろう。それはわかるけど、騙されやすそうだとか、結婚して仕事をするなとか、そんなふうに言われるのは心外だった。
私は童顔で頼りなく見えるかもしれないけど、仕事して苦労もしてるし、同年代の遊び回ってる友人達にくらべればしっかりしているほうじゃないかと思う。
それをずっと見て知ってくれてるはずなのに、見た目で騙されてるなんて言う事自体、私を本当に理解してくれていないんじゃないの?
それに仕事は私の生き甲斐なんだから、結婚したせいでやめなくちゃいけなくなるなら、結婚なんてしたくない!

変な話だけど、この時のジョッシュの一言で自分の歩きたい道がハッキリわかった。
この話を、お受けしよう。 ジョッシュとは遠距離恋愛になってしまうけど、それでダメになるような付き合いなら、元から結婚なんて無理に決まってるんだし。

何よりも自分の直感が、ディアという女性を信じてみろと言っていた。
このチャンスを逃したら、二度ともうこんな幸運には巡り合えない。
そんな自分の直感を信じて、ここまでやってきた。

だけど……やっぱり1人ぽっちは寂しいし、不安にもなってしまう。
ジョッシュの言葉が、急に真実味を帯びて聞こえるのもきっとそのせいだ。
アンジェリークは不安を振り切る為にソファから勢い良く立ち上がり、キッチンに行って暖かいココアを飲んで心を落ち着かせた。

騙されてるにしてもそうじゃないにしても、とにかく明日会社に行ってみなければ何も始まらない。
間違いなくそこがスモルニィの本社だとわかれば、安心できるだろうし。
もし怪しげなマンションの一室に会社があるような場合は、すぐに逃げだせるようにしておこう。
護身用に何か武器でも持っていたほうが安心かしら?
アンジェリークはぐるりと辺りを見回して、キッチンの調味料入れの棚に目を止めた。
とりあえず、七味唐辛子の小瓶でもポケットに入れておこう。危ない目にあっても、これを顔めがけて振りかければ、効果は抜群。
唐辛子が目に入って泣きまくる悪漢の姿を思い浮かべ、アンジェリークは少しだけ、心強い気分になれた。

「あ、そうだ!大事な事を忘れるところだったわ」
アンジェリークは荷物を詰めたボストンバッグから小さなピンク色のポーチを取り出すと、それを洗面台の脇に置いた。
ポーチの中には、銀色のシートに包まれた白い小さな錠剤が入っている。
アンジェはシートを押し破って錠剤を1つ取り出すと、口に放り込んでコップの水で飲み込んだ。

毎日必ず寝る前にしている、大切な習慣------避妊用のピルを飲む、という事。
恋人のジョッシュとは遠距離恋愛になったのだから、もしかすると必要がないのかもしれないけれど。
でも、彼は休日にはできるだけこっちに様子を見に来る、と言っていた。
そうしたら彼の事だ、特にホテルをとらないで、私のいる所に当然泊まるものだと考えるだろう。
うん、やっぱりピルは飲み続けるほうが安心だわ。

ジョッシュはあんまり、避妊の事を考えてくれない。
初めて彼とそうなった時、いきなり避妊もせずに中に入ってこようとしたから、びっくりして散々抵抗した。
ジョッシュは「中には出さないようにするから大丈夫だよ。今まで失敗した事なんてないし」とあっけらかんと笑っていたけど、私はその言葉にひどくショックを受けた。
子供が出来ちゃったらどうするの、と言ったら、「じゃあその時は結婚しようよ。アンジェとだったらいつだってオッケーだからさ」と、悪びれもしなかった。
だけど…あの時の私はまだ17歳、ジョッシュだってまだハイスクールを卒業してなくって、お互い親の脛かじりの身。
しかも付き合い始めてまだ1ヶ月足らずだったのに、簡単に結婚とか言い出されても嬉しいとは思えなかった。

「とにかく、避妊しないんだったら絶対にHしないから」
そう頑固に言い張ったら、ようやくジョッシュはしぶしぶとコンドームを着けていた。
「大抵の女の子は結婚しようと言ったら喜ぶのに、アンジェは違うんだね。でも、そんなとこが君の魅力なんだけど」
ああそうだ、あの瞬間、私ったらなんで彼と付き合ってるんだろうという疑問が初めてわいたんだっけ。
後悔が胸をよぎったけど、もう遅かった。
ジョッシュはもう、途中で止める事など出来なかったから。
私は彼との一夜を心から喜ぶ事が出来ず、ただ身体の痛みを耐えながら初めての瞬間をやり過ごした。
恋人との初めての夜は、きっとロマンティックな物なんだろうと夢見ていた私。
でも現実は惨めで、苦い後悔だけが胸に残った。

それでも事が終わった後、彼は私が処女だった事にいたく感動したようで、優しく労ってくれた。
「僕はアンジェの初めての男になれたんだね、こんな嬉しい事はないよ!ずっと大切にするからね、本当だよ」
一生懸命そう言いながら私を抱き締める彼を見て、私もきっと経験を重ねれば体も痛くなくなるのだろうし、セックスも気持ち良くなって二人の心も身体も強く結ばれる日が来るのだろうと信じる事にした。

でもその後もジョッシュは避妊せずに事を進めようとした事が、度々あった。
「ゴムを忘れた」とか「今日は大丈夫な日なんだろう?」とかいろいろ理由をつけてきたけど、そのうちただ単に彼は避妊具を着けるのが嫌いなんだ、という事がわかってきた。

まだ彼とすぐ結婚する気もなかったし、ましてや彼との間に子供を作る事など考えもつかなかった。
子供は大好きだけど、誰でもいいから父親になってほしい訳じゃない。
ジョッシュは優しいし、ボーイフレンドとしては申し分のない人だけど、結婚するかどうかはもっとじっくり付き合ってからじゃないと決められない。
もちろん今どき、結婚までは処女を守るべきだとは思わないけど、体を許した人と必ずしも結婚しなければならないとも思ってない。
時間がかかってもいいから、本当にこの人と一生を共にしていいと思えなければ、結婚は考えられない。
例えどんな苦労があろうとも、この人と一緒なら乗り越えられる、そう思えなくちゃ。
それが愛しあっていたパパとママの幸せな姿を見ていた、私の結婚観だった。

それならば、結婚するまでは自分の体は自分で守らなければいけないんだわ。
そう思った私は、すぐにピルを処方してもらう為に産婦人科のドアを叩いていた。
もちろん恥ずかしくなかった訳じゃない。まだ高校生だったし、誰かに知られたらと思うと気が気じゃなかった。
だからわざわざ電車に乗って隣町の医者まで行き、生理不順だというもっともらしい理由をつけて薬を出してもらったのだ。

もちろん、この事はジョッシュには内緒。
彼の事だから、私がピルを飲んでると知ったらこれ幸いとばかりに避妊しなくなるだろうし。
もちろんピルをちゃんと飲んでいれば妊娠する可能性は低い。
それでも彼には避妊の大切さをわかってほしいから、秘密にする事にしたのに…
残念ながら今のところは、あんまり効果がないみたい。

いまだにジョッシュは避妊を面倒くさがるし、その事で私がどんなに不安に感じてるかもあまり考えてくれようとしない。
お陰で私は彼と身体を繋げば繋ぐほど、どんどん彼を信用できなくなっている。
優しい人だし素敵な恋人だとは思うのだけど、全てを信じて彼に心を委ねられない。
もう3年も付き合って結婚の話まで出ているのに、まだこんな風に彼を信じきる事ができないなんて、この先うまくやっていく事なんてできるんだろうか?

アンジェリークは溜息をつきながら、窓の外を見た。
すでに日はとっぷりと暮れており、濃い闇が中庭を覆い尽くしている。

「いっけない、もう寝なくちゃ!明日から仕事始めなんだし」
アンジェはそう呟くと、広すぎるベッドに潜り込んだ。
会社の事も心配だけど、とにかく今日はもう寝よう。

全ては、明日から。