Sweet company

2. Deep Impact (1)

アンジェリークは目の前のビルを見上げて、そのあまりの高さに息を飲んだ。

「株式会社 スモルニィ」

確かにビルの入口には、そう書いてある。
少なくとも、間違いなくここは本物のスモルニィ社だし、嘘をつかれたり騙されていたわけではなかった。でも-----

スモルニィは一流の大会社だとは思っていたけど、まさかこれ程までとは。
この、30階はあろうかという巨大な建物が----丸々、1つの会社だなんて。
てっきり製菓オンリーの会社だと思い込んでいたけど、この大きさだったら、他にもいろんな事業を幅広く手掛けているのかもしれない。
私ったら、なんにも知らないでこんな大企業で働こうと思ってたなんて------
もしかしたら、とんでもなく場違いなところに来てしまったんじゃないかしら?

視線をビルの入口に移すと、沢山の男女がせわしなく回転ドアから出たり入ったりしているのが見える。
男性はぱりっとしたスーツに身を包み、自信に満ち溢れて全員がエリート然といった感じ。
女性はお洒落で仕事もできるキャリア・ウーマン風で、垢抜けたタイトなスーツにハイヒールで颯爽と歩いている。
対してアンジェリークはと言うと、野暮ったい白のブラウスに、紺地に白の水玉模様の膝下まであるフレアスカート、歩きやすさを最優先させた丸っこいつま先のローヒール。頭につけたリボンも、ご丁寧にもスカートとお揃いの水玉模様。
自分のワードローブの中ではフリルやレースが少なく、ほんの少しよそいき着っぽい----いわゆるOL風の服を選んだつもりだった。
でもその中途半端さな可愛らしさが、かえって田舎っぽさと幼さを際立たせてしまっている。
こんなイモくさい格好で会社に入っていくのは、ひどく勇気が必要そうだ。

しかも時間も、早く着きすぎてしまった。
午後の3時にここでディアと会う予定だったから、ゆっくり起きて支度しても充分間に合うはずだった。
でも緊張と不安で早くに目が覚めてしまい、何かしていないと不安でたまらなかったから、1時間かけてお風呂に入り、いつもより丁寧にお化粧して(といっても、お粉とグロスしか持っていないのだけど)、髪を綺麗にとかしつけた。
それでも時間はたっぷり余ってしまい、かといってちょっとその辺に観光に出かけるような気持ちのゆとりもない。
それなら早めに会社に行って、近場で昼食でもとろうかな?
会社の雰囲気も見てみたかったし、何よりも騙されてないのか早く確認したかったから、思いついたと同時にホテルを飛び出した。

そうしてタクシーに乗り、ここまでやってきたのだが・・・今はちょうどお昼の12時。
近所のレストランやカフェはランチをとるOLやビジネスマン達で溢れかえっており、どこも席は空いていなそうに見えた。
だからといって、このまま会社の前でぼーーっと突っ立って時間をつぶすには、3時間はさすがに長過ぎる。
アンジェリークは意を決すると、心の中で(よーしっ!)と呟いて、ビルの入口へと向かっていった。



回転ドアを抜けると、ビルの中の空気はひんやりとしていた。
3階まで吹き抜けで総ガラス張りのエントランスホールは、光がたっぷりと差し込んでいるのに、なぜか全く暖かみを感じない。
冷たい大理石の床のせいなのか、それともこういったオフィスビル特有のものなのか。
アンジェリークは緊張でみぞおちのあたりがきゅっと痛くなるのを耐えながら、受付のあるカウンタへと足早に急いだ。

「すいません、秘書室長のディア・ハロウェイさんとお約束しているのですが、少し早く到着してしまったんです。今から取次いでいただく事って出来ますでしょうか?」
「失礼ですが、お名前は?」
「アンジェリーク・リモージュです」
受付に座っている洗練された雰囲気の女性は、にこやかに「お待ちください」と告げると、流れるような手付きで内線電話のダイヤルを押した。
しばらくのやり取りの後、女性は電話を切ると、精一杯申し訳なさそうな表情を顔に浮かべた。
「大変申し訳ありません。アポイントは3時のお約束になっておりますよね?ミズ・ハロウェイはただいま手が離せないようですので、時間通りにお会いしたいとの事なんです」
「そうですか…」

予想していた事とはいえ、アンジェリークは肩を落とした。
これで3時間、どこかで時間をつぶさなければいけなくなった。
とは言うものの、どこでつぶせばいいんだろう?
「あの、今から時間をつぶせる場所ってどこかありますか?このあたりは初めてなんで、ちょっと見当もつかなくて」
思いきって受付の女性に尋ねてみると、彼女は笑顔で奥にあるエレベーターホールを指し示した。
「それでしたら4階に社内食堂がありますし、3階にはカフェもあります。ちょっとざわざわしてますけど、長居しても大丈夫ですし、席数も充分にあるから座れると思いますよ。あちらのエレベーターで行けますので」

とりあえず、座れて時間がつぶせるところならどこでもありがたい。
アンジェリークは受付の女性に笑顔で礼を告げると、奥にあるエレベーターホールのほうへと歩いていった。



大会社のエレベーターは、とにかく驚く程数が多い。
壁の両側にずらりと並ぶエレベーターに、アンジェリークは戸惑いを隠せなかった。
どこのエレベーターが次にやってくるのか、全く見当もつかないのだ。階数表示もないし、あるのはエレベーターが開く直前に点滅するライトだけ。
なのに周りの人間達は、素早く次に来るエレベーターを察知し、迷いなくさっさと乗り込んでいく。
アンジェリークはその流れについて行けず、たまに近くのエレベーターが開いても、あっという間に乗り遅れて満員のランプがついてしまい、いつまでたっても乗り込めずにいた。
(ど、どうしよう………)

アンジェリークは焦る気持ちを押し隠し、とにかく1機のエレベーターの前に立って待ってみよう、と思いついた。
時間はたっぷりあるのだし、立ってればいつかはここが開くだろう。
そう決めた途端、目の前のエレベーターのドアが開いた。

(やった!)
アンジェリークは急いで開いたエレベーターに乗り込もうとしたが、中から沢山の人がどっといっぺんに出てきたので、その人ごみに押し戻されるような格好になってしまった。
「きゃあっ!」
バランスを崩し、お尻から床に叩き付けられるような格好で転んでしまい、痛みに顔が歪んだ。
起き上がろうにも、足元を見ていない人達が、どんどん自分を踏み付けていく。
「すいませーん、踏まないで!ちょ、ちょっとー!」
必死で叫んだが、急いでいる人間達は誰も止まろうとはしてくれない。
沢山の足が自分の身体の上を通過し、苦しくて息すらろくに出来なくなった。

更に鋭いハイヒールで膝のあたりを踏み付けられ、アンジェリークは思わず叫び声をあげた。
「ちょっ、いた、痛ーい!」
しかしアンジェを踏み付けている当の女性は、全く足元に目もくれずに隣にいる男性にしきりに話しかけている。
その時、女性に話しかけられていた男性の動きが止まった。

「おい、大丈夫か?」
アンジェリークの上のほうから長い腕がにゅっと伸びてきたかと思うと、突然その腕が身体に巻き付き、そのまま身体がふわりと宙に浮いた。
(ええっ?な、何?)

突然人ごみから身体が半分くらい上に飛び出し、アンジェリークはようやく息がつけた。
何が起こったのかよく飲み込めないでまわりを見渡すと、そこで初めて誰かが自分を担ぎ上げているのに気付いた。
その「誰か」は、軽々とアンジェリークを片手で抱え込んだまま人ごみを悠々とかき分けて、ホールの隅まで来てからようやくそっとその身体を下ろした。
「怪我はないか?」
そう言って見下ろしてくるその長身の男性を見て、アンジェリークは思わず息を飲み込んだ。

氷のような薄い、薄いブルー。

最初にまず、その『色』が目に飛び込んできた。
そのブルーの色が、じっとこちらを伺うように見つめている。
それが彼の瞳の色だと気付くのに、数秒かかった。
何故なら、その色に吸い込まれてしまったかのように、他の物すべてが見えなくなっていたのだから。

「どうした、頭でも打ったのか?」

その声に、ようやくはっと我にかえった。
見るとすぐ目の前に、眉根を寄せて探るようにこちらを見ている男性の顔があった。
彼は長身の身体を折り曲げ、アンジェリークの目線と同じ高さに顔を落としている。
ものすごい、ハンサムな人だ--------整った顔だちだけど、綺麗という感じではなくて、シャープで男っぽい。
それに、この髪。炎みたいな赤----こんな色の髪は初めてみたけど、奇抜な感じはこれっぽっちもしない。
むしろ、この人の強い個性にぴったりハマってるみたい。
そう、誰もが見とれてしまうに違いない、強烈な個性。

その時急に、彼と自分の顔の間に大きな何かが入り込み、彼の顔が見えなくなった。
「?」
アンジェリークはしばらく自分の目の前の動くものを凝視し、やっとそれが彼の「手のひら」なのだという事に気がついた。
その男性はアンジェリークの目の前で、大きく広げた手を左右に振っている。

「おい、見えてるのか?」

アンジェリークは再びハッとし、すぐに顔を小さく赤らめた。
やだ、私ったら、初対面の男の人に見とれてぼーーっとしてたんだわ!
「あ、あの、頭は打ってないです。急に踏まれたり持ち上げられたりしたんで、何が起きたのか頭がついていかなくて。あの、それより膝が少し痛くて…」
「膝?どれ、ちょっと見せてみろ」

アンジェリークの言葉が終わるのを待たずに、男が足元に跪いた。
その途端、アンジェリークの心臓がどきん、と大きく跳ね上がる。
こんな素敵な男性に、足元に跪かれるなんて。
シチュエーションはちょっと違うけど、昔絵本で見た女王さまと騎士のワンシーンみたいで、思わずどぎまぎしてしまう。

見下ろすと、燃えるような赤い髪がちょうど自分の腰の前あたりにある。
今はつむじがこちらに向いて、あの氷のような瞳が見えない。
これで少しは緊張しないで済むかと思いきや、今度はその----彼の跳ねるような髪が、自分の太股のあたりをスカートの上から一瞬掠めたものだから、びっくりして身体がこわばった。
不思議な熱が、彼の髪が触れた部分から足の付け根に駆け上ってきて、思わず小さく足を閉じた。

しかもそれとほとんど同時に、彼がスカートの裾をまくりあげたものだから----その驚きは叫び声に変わってしまっていた。
「きゃあぁぁっ!」

自分でも驚く程大きな声が出てしまって、膝を見ていた男性もびっくりしたように顔を上げた。
別に彼はスカートを大きくまくりあげた訳ではないし、ちょっとひざ小僧が見えるくらいのほんの10センチくらい、スカートを持ち上げただけだ。自分の太股の微妙な動きにすら気付いていなかったと思う。
なのに、私ったら過剰すぎる程反応してしまったのだ-----

真っ赤な顔をしてスカートの前を抑えているアンジェリークを見て、男性は口元を歪めて苦笑いした。
「すまない、人前でこんな風にするべきじゃなかったかな?だが今ちらっと見た限りでは、膝から血が出ていたぞ。すぐに消毒しといたほうがいい」
「あ、す、すいませんっ、あの、そのっ、後は自分でやりますから」

大声を出してしまった気まずさと、まわりの視線を感じて、アンジェリークはあたふたとそこから逃げ出そうとした。
しかし、一歩踏み出した途端に膝がずきんと痛み、思わずよろめいた。
「無理をするな。骨に異常があるかもしれないから、医務室で診てもらったほうがいい」
そういうと男性は、アンジェリークを両手でひょいっと持ち上げた。

いきなり今度はお姫さま抱っこだ。
あまりの目まぐるしい展開に、アンジェリークはすっかりパニックを起こして真っ赤になりながら手足をバタバタさせた。
「あのっ、お、下ろしてください!」
「下ろしてもいいが、痛いんだろう?それにこの怪我は、俺の連れに踏み付けられたせいだからな。俺にも責任の一端はあるって訳だ」

連れ、と聞いてまわりを見渡すと、エレベーターの前に大人っぽいセクシーな雰囲気の女性が3人、険悪そうな顔でこちらを睨んでいる。
「オスカー!今日はランチを一緒にする約束でしょう?早く行きましょうよ」

オスカーと呼ばれた男性は、アンジェリークを抱いたまま振り返り、笑いながらぱちん、とウィンクを飛ばした。
「すまんが、今日の約束はキャンセルだ。俺は怪我をして困ってる女性を見捨てていけるほど薄情な男じゃないんでな。また今度、埋め合わせするよ」
そう言ったきり女性達のほうには振り返らず、鼻歌でも歌っているかのように軽やかにその場を立ち去った。

「あのっ、いいんですか?あの人達、すっごく怒ってますけど」
「大丈夫だから、君は気にするな」
男性はちらっとアンジェリークを見ると、安心させるように口元をあげて微笑んだ。
だけど気にするな、って言われても、彼女達はずっと私を睨んでるんですけど……
そりゃああなたは背を向けてるからわからないでしょうけど、こっちは針のムシロだわ。

女達の怒りの視線が、波動となって肌に突き刺さってくるように感じて、アンジェリークは身体を縮こませた。