Sweet company

10. Tie Together (1)

ローズ・コンテストの予選を勝ち残った瞬間は、確かに嬉しかった。
信じられない思いと、自分の味が認めてもらえた喜びで、胸がいっぱいになって。
でも、わずか2ヶ月後には決勝大会がやってくる。
いつまでもこの幸福に浸っている訳にはいかない。


「アンジェリークさん、コンテスト決勝への抱負をお聞かせ願えますか?」
いきなり目の前にマイクが差し出され、アンジェリークは驚いて通勤途中の足を止めた。
「あ、あの…?」
困惑しながら前を見ると、そこにはテレビの女性リポーターとカメラマンらしき人物が、アンジェリークの行く手を塞ぐように立ちはだかっている。

「すいません、その…会社に遅れちゃいますから、通してもらえませんか?」
「一言でいいんです、是非コメントを!それからこっちを向いて、笑ってもらえますかぁ?」
マイクが口元にぐいぐいと押し付けられんばかりに近づいてきて、アンジェリークは閉口した。
テレビリポーターは明るい笑顔を顔に張り付けてはいるが、やってる事はかなり図々しく、こちらの事情などお構い無しだ。

「すまないが、取材は会社を通してもらえないか」
ずい、と大きな手がマイクとカメラを押し戻し、アンジェリークはほっと息をついた。
横にいたオスカーが、いつの間にかカメラからアンジェリークを守るように立ってくれている。

「あなたはいつも、アンジェリークさんとご一緒されてますよね?もしかして、恋人ですか?」
「彼女のプライベートに関わる事は、ノーコメントだ。コンテストに関する取材であれば、広報にまず申請してくれ」
オスカーはリポーターの女性ですら見とれるような極上の笑みを浮かべると、彼女がぼーっとした隙にアンジェリークを胸元に隠すように抱き寄せて、いきなり大股で歩き出した。
「あっ、待ってくださいよ!」
慌てて追いすがるテレビクルーを悠々と振り切って、二人は会社の門をくぐり、顔を見合わせて苦笑しあった。

「昨日は大手製菓会社からの引き抜きで、今日はテレビの突撃取材か。毎日これじゃ、大変だな」
「ごめんね、オスカーにまで迷惑かけちゃって…」
「こういうのもサポートスタッフの仕事なんだから、気にするな」

受付を通り抜けると、今度は社員達からも次々に視線を浴びる。
「頑張ってください」と声をかけてくれる人や、こちらを指差して何やらひそひそと噂をする人達。
予選を勝ち抜いた事で、アンジェリークはいまや『時の人』になっていた。
まわりの見る目も大きく変化し、「オスカーに相応しくない」と陰口を叩かれる事も少なくなった。

でも、有頂天にはなれなかった。
そこには喜びよりももっと厳しい現実が、待ち受けていたのだから。


「おはよう、コレット、レイチェル……あれっ?二人とも、こんな朝早くから何してるの?」
始業よりだいぶ早くに出社したアンジェリークは、何やら荷物をまとめている二人に声をかけた。

「おはよぅー、アンジェ。私達ね、今日でこことはお別れなの」
「えっ?ど、どういう事?」
「ワタシ達はさ、決勝に勝ち残れなかったから、もうここにいる訳にはいかないんだヨネ。ま、これが勝負の世界の掟ってヤツかな?」

アンジェリークは、言葉を失って茫然とした。
「そんな、じゃあ…これから二人とも、どうするの?」
「ワタシはスモルニィ社の製菓研究室にスカウトされたから、そっちに行くヨ。一から勉強し直して、次のローズ・コンテストにまた挑戦するつもり!」
「私はねぇー、ヴィクトールさんと結婚して、彼の故郷で暮らすの」

「け、結婚???」
コレットの電撃発言に、アンジェリークはさっきまでとは違った意味でショックを受けた。
「うん、元々コンテストが終わったら結果に関わらず、結婚するつもりだったし。それに…今回やってみて思ったけど、私にはコンテストみたくお菓子で競ったりとか、そういうのが向いてないんじゃないかなぁーって。好きな人のためにお菓子を作るのが一番幸せだから、これからは彼のためにおうちでお菓子を作るんだぁ❤︎」
「まーったく、コレットは欲がないんだからさ!私には理解できない生き方だけど、ま、本人がいいって言ってんだからしょーがないヨネ」
レイチェルは呆れたように肩をすくめてみせたが、コレットに向ける視線は暖かい。

「そっか…二人とも、しっかり自分の進む道を決めてるんだ…。寂しくなるけど、頑張ってね」
「アンジェこそ、頑張ってねぇー。私達はロザリアもアンジェも同じように応援してるし、どっちが優勝しても自分の力を出し切ってくれればいいなぁー、と願ってるんだよ」
「そ、つまらないお菓子なんか作ったら、許さないんだから!ワタシ達の分まで、頑張ってヨネ」
「うん、ありがとう…二人とも、気をつけて……」

二人が去ると、工房はいきなりがらんと静まり返った。
4ヶ月も毎日一緒に過ごした仲間だから寂しいけれど----これが現実。
勝負に負けたら去らなくちゃいけないし、勝ったら勝ったで前に進まなくちゃいけない。
感傷に浸って同じ場所に留まってる事は、許されないんだ。

それでも、ここにロザリアがいてくれるだけ私は恵まれている。
普通なら勝負の世界は自分自身との戦い、孤独な世界なんだから。
今は、同じ職場で働く親友と勝負できるという幸運に感謝しよう。
残された2ヶ月を、お互いに高めあいながら何かを得られるような、素晴らしい時間にしていきたいから。

しんとした空気の中で、アンジェリークはお菓子を作り始めた。
コンテスト決勝の課題は、予選とはうって変わって『自分の一番得意なお菓子と飲み物を1品づつ作る』というもの。
つまり何の制約もなく、時間もたっぷりかけて、本当の意味で好きなもので勝負できる。
でもその自由さが、逆に難しくもあった。
アンジェリークも新しいレシピを作っては、何かが足りないような気がしたり、逆にごてごてし過ぎのように思えたりと、そのバランスの取り方に悩んでいた。

新しいレシピがなかなかイメージが固まらず、悩んでいる、そんな時に限って。
----追い討ちをかけるように、恋愛面でも大きな問題が起こってしまった。



「出張?」
「ああ、急に決まったんだが明日の夜から3週間、諸外国を回らなければならないんだ」
社員食堂の1角で、オスカーとアンジェリークは食後のコーヒーを飲みながら話し込んでいた。

コンテスト決勝に勝ち残ったのが二人ともスモルニィ社所属であった事から、どうやらオスカーの昇進話も決定的になったらしい。
食品輸入部の現部長である彼は、次期部長となる部下を連れて、今までの取り引き国に引き継ぎも兼ねて挨拶周りにいかなければならないのだそうだ。
それでなくても急に忙しくなった二人の生活は、すれ違いが続いているというのに。

「3週間か…結構、長いね……」
「なんだ、寂しいのか?」
子供扱いするような笑みを向けられて、アンジェリークはちょっぴりムッとした。
寂しいに決まってるじゃない!オスカーは、全然平気なの?
そう言おうと口を開きかけた途端に、オスカーの携帯が呼び出し音を鳴らした。

「カークランドだ。…ああ、わかった。すぐ行く」
オスカーは電話を切ると、席を立ち上がった。
「すまないが、仕事でトラブル発生だ。すぐに戻らなくちゃならん」
「あ、うん…じゃあ、また帰りに……」
「今日は遅くなりそうだから、送ってやれないかもしれない。代わりに社用車を手配しておくよ」
「わかったわ…。あ、今日は家に来る?」
「いや、かなり遅くなりそうだから、遠慮しておく。明日の朝、迎えに行くから」
オスカーは軽いウィンクを飛ばすと、スーツの上着を肩にかけて颯爽と歩き去った。
その後ろ姿を見送りながら、アンジェリークは不安な表情になる。

3週間も会えないなんて、私は寂しくてたまらないのに。
オスカーはちっともそんな素振りは見せないし、どうって事もなさそうだ。
彼にとっては私と離れる事なんて、たいした問題じゃないのだろうか?

残ったコーヒーを口にしたが、苦いばかりでちっとも美味しくない。
アンジェリークが溜息をこぼすと、急に周囲のざわめきが大きくなった。
「?」
顔を上げると、人々の目が一斉に食堂の大画面テレビに向けられているのに気付いた。
つられるようにテレビを見て----あまりの驚きに、アンジェリークは危うく手にしたコーヒーを落としてしまうところだった。

画面に映っていたのは有名なゴシップ系のワイドショー番組。
そしてその内容は----今朝のアンジェリークとオスカーの通勤風景の一部始終だった。
マイクを顔に向けられ困惑するアンジェリークのどアップが映し出され、次いでそれを隠すようにオスカーがカメラの前に立ちはだかった。
『あなたはいつも、アンジェリークさんとご一緒されてますよね?もしかして、恋人ですか?』
リポーター女性のかん高い声が、社員食堂のざわめきを切り裂くように響き渡る。
オスカーがアンジェリークを連れ去った後も、リポーターは会社の門の前で延々と喋り続けていた。

『今年のローズ・コンテストのファイナリストは、二人ともこの名門・スモルニィ社から輩出されております。お二人ともなんとまだ20歳という若さ、しかも素晴らしく魅力的な女性という事で、世間の関心も大変高く……モデルのような素敵な恋人と一緒に通勤したりと、まさに現代のシンデレラ・ストーリーとも言え……』

テレビに向けられていた視線が、少しづつアンジェリークの存在に気付き、こちらに向き始める。
アンジェリークは恥ずかしさにいたたまれなくなり、席を立って足早に出口に向かった。
エレベーターホールに辿り着き、震える指でボタンを押すと、なるべく目立たないように俯いて隅のほうに立つ。

「すっかり有名人気取りじゃない?いい気なもんね」
俯いた視線の先にグレイのハイヒールが映り、驚いて顔を上げた。
そこにはいつぞやの、アンジェリークに嫌がらせしてきたオスカーファンの女性が立ちはだかっている。

言い返したい気もするけど、ここは相手にしないが勝ちだ。
アンジェリークは何も聞こえなかったように視線を外し、素早くとなりのエレベーターの前に移動した。

「オスカーの恋人として認められたつもりかもしれないけど、彼はそんな気はないわよ」
女性はしつこく食い下がってきたが、アンジェリークは無視してエレベーターのランプをじっと見つめ続けた。
赤いライトが点滅し、まもなくエレベーターがこのフロアに到着するのを告げている。
アンジェリークがホッとしながら足を前に踏み出すと、同時にドアが開いて中から大勢の人間が吐き出された。
それをやり過ごし、足早にエレベーターに乗り込んだ瞬間----背後から、悪意のある鋭い声が突き刺さってきた。

「彼、あちこちの出張先に恋人がいるらしいわよ。いわゆる『現地妻』ってやつよね」

そこでドアが閉まり、それ以上の悪意はシャットダウンされた。
でも、アンジェリークを傷つけたいのだとしたら、今の一撃で充分だった。

アンジェリークは茫然としたまま地下の駐車場まで行き、重役専用の入口を通って工房へと戻った。
身体がいつもの道を覚えていてくれたから、機械的にここまで辿り着けたけど----頭の中はからっぽで、どうやってここまで帰ってきたのかも覚えていなかった。

----現地…妻?----

ううん、妻って言っても、オスカーは正真正銘の独身だもの。
それは単なるものの例えで…ただ、出張先には決まった恋人がいるって事で…
しかもそれがあちこちにいて…
じゃあオスカーは……出張した時はいつも、各地の恋人達と過ごしてるって事なの?
私は、彼の恋人になれたと思い込んでいたけど…本当は、「大勢いる恋人の中のひとり」に過ぎなかったの?

急に、吐き気がした。
頭がぐらぐらして、目が回って気持ちが悪い。
立っている事も出来なくて、思わずしゃがみ込んで口を押さえる。

「愛してる」と言ってもらえない事が、今頃になって重く心にのしかかってきた。
そう、オスカーに愛されてるという自信があれば、こんなのただの噂、と笑い飛ばせるのに。
彼の本心が掴めないから、こんなつまらない悪意に、振り回されて傷ついてしまうんだ。

ダメよ、こんなくだらない噂に惑わされちゃ。
何の根拠もない、ただの悪意に決まってる。
オスカーはそんな人じゃない、そんな------

信じようとしたけれど、信じきれない。
先程のオスカーの姿が蘇って、むしろ不安がどんどん色濃くなってしまう。
3週間も離れるというのに、彼は寂しそうにするどころか、実にあっさりとしたものだった。
それは、私というマンネリの付き合いから解放されて----短期間だけの後腐れない恋人と、楽しく過ごせるからじゃないの?

「アンジェリーク?どうしましたの、大丈夫?」
休憩を終えたロザリアが、真っ青な顔でしゃがみこんでいるアンジェリークに気付いて、慌てて駆け寄ってきた。
「ひどい顔色ですわよ。体調が悪いなら、今日は帰ったほうがよろしいんではなくて?」
「あ、う、ううん、大丈夫。ちょっと貧血気味だっただけ。このくらいで休む訳にはいかないわ」
アンジェリークは青ざめた顔に無理矢理笑みを浮かべると、「さ、仕事を頑張らなくちゃ!」と明るく言ってロザリアに背を向けた。

そう、私にはやらなくちゃいけない事が山積みなんだから。
恋愛問題に振り回されて、仕事をおろそかにする訳にはいかない。
それに嫌な感情に支配されてる時は、お菓子を作るのが一番だ。
どんな辛い時も苦しい時も、お菓子を作っていれば幸せな気分になれて、乗り越えられたのだもの。

アンジェリークは目を閉じて大きく深呼吸すると、頭の中に作りたいお菓子のイメージを描き始めた。
私がいつも目指す味、それは幸せな味。
優しく暖かい気持ちになれる、そんなお菓子----

しかしイメージはぐにゃぐにゃとした形のままで、どんなお菓子にも結びついていかない。
アンジェリークは必死でイメージの具現化を試みたが、いくら頑張ってもその状態は変わらず、むしろ焦りからどんどんイメージが崩れ去ってしまう。

諦めて目を開けると、今度は材料の棚を開けてみる。
スモルニィ社にいる事で、田舎にいた時とは比べ物にならないほどの上質で高級な材料や、素晴らしい製菓用器材がそこには並んでいる。
これを見ているだけでワクワクした気分になれて、いつもなら新しいアイディアが湧き出てくるはずだった。

でも今、それらを目の前にしても、どんなお菓子を作ったらいいのか、何一つ思い浮かばない。
頭の中が真っ白で、からっぽだ。
こんな事、初めて。
お菓子を作ろうとして、何のイメージも沸き出してこないなんて事。

-----スランプ。

その言葉が頭に浮かんできて、アンジェリークは愕然とした。
お菓子作りは自分にとって楽しいだけのもので、今まではスランプなんて言葉は縁のないものだったのに。
でも間違いない、私はスランプという壁にぶち当たってしまった。
あまりに高い壁を茫然と見上げているだけで、そこから立ち去る事すら出来ない。

アンジェリークは作業台を凝視したまま、身じろぎもせずに何時間も過ごした。
やがて終業の時間が来て、ロザリアが帰り支度をする音が聞こえてくる。

「アンジェリーク?帰りませんの?」
ロザリアが心配そうに個室の窓から覗き込んでいたが、もう作り笑顔すら返せなかった。
ただ金縛りにあったように、そこに立ちすくむだけ。

アンジェリークは生まれて初めて経験する、『スランプ』の重圧に----今や押し潰されそうになっていた。