Sweet company

10. Tie Together (2)

もう何時間、こうして何もせずにぼんやりと突っ立っているんだろう?

アンジェリークは工房の個室にひとりぼっちで立ち尽くしながら、ふぅっと小さく息を吐いた。
長時間動かないでいるせいか、身体中の筋肉が凝り固まって痛い。動かなくちゃと頭のどこかで思ってるのに、気力がなくて、億劫で動きたくない。

レシピが思い浮かばないのなら、今日はもう諦めて家に帰ったほうがいい。
一晩寝て、明日になれば、また新しいアイディアが沸き起こってくるのかもしれないのだし。
そう、明日。明日になれば。

…でも明日になれば、オスカーが出張に行ってしまう。そして別の恋人と楽しく過ごし、きっと私の事なんて綺麗さっぱり忘れ去ってしまうに違いない。
それなら明日なんて、来なければいい。

ああ、もう!またネガティブ思考に落ち入ってる。さっきからぐるぐる同じ所を回ってるだけで、一歩も前に進めない。
そんなに悩んでるなら、さっさとオスカーに真実を確かめればいいじゃない。
「他にも恋人がいるって噂は、本当なの?」って。

でも、そんな事を聞かれて「はいそうです」と正直に答える人なんている訳ない。噂が嘘でも本当でも、「いない」と言われるだけなのがオチ。
どっちにせよ悩むんだし、オスカーの事も信用してないんだと言ってるようなもの。
それならいっそ、聞かないほうがマシだわと、無理矢理自分に言い聞かせている。
結局私は、オスカーに面と向かって真実を聞くのが怖いだけなんだ。
一体いつから、私はこんなに臆病な人間になってしまったんだろう?

それはきっと、オスカーを愛してしまったからなんだ。
本当に好きな人ができると、人間は途端に臆病になる。その人に好かれたくて、失うのが怖くて、自分のいい面だけしか見せられなくなって。
彼をうるさく問い詰めたり、泣き叫んで疎ましがられるくらいなら、そ知らぬふりをして嵐が過ぎ去るのを待つほうがずっと簡単だし、オスカーにとっても楽な相手と思ってもらえるから。

でも、本当にそれでいいんだろうか?
私はオスカーの顔色ばかりを伺うようになり、単に都合のいいだけの女に成り下がる。そしてひとたび関係が破綻してしまえば、仕事はスランプに落ち入り、自分すら見失う。
私の人生はオスカーに左右され、彼がいなければ何も出来ないつまらない人間になっていく。
そんな自分を持ってないお子さまを、彼が真剣に愛してくれると思うの?

私がオスカーとの間に求めているのは、そんな一方的な関係じゃない。
互いを必要とし、信頼しあい、支えあっていける関係。
オスカーという保護者に無条件に庇護される子供なんかじゃなくて、私自身が地に足を着けて、時には彼を守ってあげる事もできる。そんな、対等な存在でありたいのに。

アンジェリークはきゅっと口元を引き締め、顔を上げた。
そうよ、こんなところでうだうだと思い悩んでるヒマがあったら、今の私に何ができるかを考えるべきじゃないの?
だって私がいくら思い悩もうと、オスカーが他の恋人と会いたいのなら、私にはそれを止める事なんて出来ない。
人の気持ちは自由なもので、私が勝手に操れるようなものじゃないんだから。
ならば彼が他の恋人と会っても、また私のところに戻って来たくなるような、そんな努力をすべきだわ。

じゃあどうしたら、オスカーは私の元に戻りたくなると思う?彼が戻ってきたくなるような、私の魅力ってなんだろう?
私は特別な美人でもないし、どこにでもいるごく平凡な女の子だ。でも、そんな私とオスカーがなぜ付き合っているのかと言えば----身体の相性くらいしか、ないんじゃないだろうか。

もちろん、私が他の女性より肉体的に魅力があるとか、技巧に優れてるとか思い上がってる訳じゃない。
どちらかと言えば年齢の割に体つきは幼いし、経験豊富でもない。それにオスカー自身、セックスに不自由するような人じゃないんだし。
それでもオスカーは、いつも私との身体の相性の良さを口にしてくれる。最初のうちは彼一流のお世辞なのだろうと思っていたけど、4ヶ月も付き合いが続いてるんだから、あながちそれも嘘じゃないのかも。

そう、私の身体には----自分でも気付かない、オスカーを惹き付ける「何か」があるのかもしれない。
ならば、今の私に出来る事は一つ。肉体の欲求だけでもいいから、使えるものは何でも使って、がむしゃらに彼の心を繋ぎ止めるだけ。

突然降って湧いてきたその思いつきに、アンジェリークはぶるっと身を震わせた。
大胆かな、やっぱり。でも、これしか私には出来ないもの。
自分に出来うる限りオスカーを愛して、その気持ちを言葉でも身体でも精一杯伝える、それくらいしか。

アンジェリークは壁に掛けられた時計を見上げた。時刻はすでに、夜の10時を回っている。
そうと決まれば、すぐに動いたほうがいい。ぐずぐずしてたら、オスカーに会えなくなる。
努力もしないで悶々としながら、ただオスカーの帰りを待つだけなんていや。彼の心が欲しければ、勇気を出して前に進まなければ。
たとえそれが、勝ち目のない勝負だとしても。

迷いを振り切るようにぷるぷるっと首を振ると、アンジェリークは荷物を持って一目散に工房を飛び出した。


----◇----◇----◇----◇----



オスカーはコンピュータの電源を落とすと、椅子の背もたれにもたれ掛かって深く息をついた。
全ての案件の処理が完了した事を確認すると、すっかり冷たくなったコーヒーを口にして、その不味さに顔をしかめる。

明日からの急な長期出張を前に、残務処理や引き継ぎなど、仕事は多忙を極めている。その上に大きなトラブルまで発生し、解決に一日中奔走していた為、さすがのオスカーも疲れを隠せなかった。
時計に目をやると、そろそろ日付が変わろうとしている。

(アンジェリークは、もう寝ているだろうか)
ふと彼女の気持ち良さそうな寝顔を思い出し、隣に横たわってその寝顔を眺めたい、と切実に思った。しばらく彼女に会えないのだと思うと、今晩くらいはたっぷりと時間をかけて抱いておきたいという欲求もある。
だが、もうこんな時間なのだ。今日は家にいかないと明言したから、彼女もそのつもりで休んでいるだろうし、無理に起こすのも忍びない。
オスカーはかぶりを振ってから立ち上がり、誰もいなくなった静かなオフィスを後にした。

薄暗い地下の駐車場は、すでに車もまばらで閑散としている。オスカーは自分の車に辿り着き、運転席側に回り込もうとしてギョッとした。
ドアの前にうずくまる、黒い影があったからだ。

「…オスカー?お疲れさま!」
黒い影がぴょこんと顔を上げ、嬉しそうな声を洩らす。
「お嬢ちゃん?こんなところで、何をしてるんだ?」
「何って、オスカーを待ってたの。一緒に帰ろうと思って」

にこにこと立ち上がるアンジェリークに、オスカーは戸惑いながらも厳しい視線を向けた。
「こんな時間まで1人で人気のない場所にいるなんて、危ないじゃないか。俺は遅くなるから、先に帰れと言っただろう?一体何時間、ここにいたんだ?」
「…だって、明日からしばらく会えないのよ?今日ぐらい会いたかったし、1人で帰っても寂しいもん」
アンジェリークは不服そうに口を尖らせてから、ちらりと不安げにオスカーを見上げた。
「もしかして、迷惑だった?」

ひとりぼっちで置き去りにされた捨て猫のような瞳で見つめられて、オスカーも思わず口の端を緩めてしまう。
「いや、迷惑じゃないさ。実は俺も、今夜はお嬢ちゃんに会いたいと思ってた」
「ほんとう?じゃ、今日は泊まっていってくれるの?」
アンジェリークの瞳が、ぱあっと明るい光を放つ。
あまりにもわかりやすい喜びの表現に、オスカーもそれ以上は怒れずに、ただ苦笑いしながら頷くしか出来なかった。


家に着いてからも、アンジェリークは休む間もなくいそいそとオスカーにワインを出し、ろくに食事もとっていないという彼の為に、キッチンに立って簡単なおつまみを作り始めた。
「こんな時間まで残業して、疲れたでしょ?しばらく会えないから、今日はいっぱいサービスしてあげるから!」
明るくニコニコと笑いながら、かいがいしく世話を焼いてくれるアンジェリークの気持ちはとてもありがたいと思う。
だがオスカーは、何故かそのわざとらしいくらいの明るさが心に引っかかった。
作り物のような、無理して笑っているような、そんな不自然さが感じられてしょうがない。

「…お嬢ちゃんは、駐車場で何時間待ってたんだ?」
「えーっと……2時間くらい、かな」
アンジェリークは少し言い淀んでから、相変わらず笑顔のままでそう答えた。
「じゃあ、お嬢ちゃんも結構な時間まで残業してたんじゃないか」
「うん、でも…私は残業って言うより、ぼーっと時間を潰してただけだし…」
「じゃあただ、俺を待つ為だけにこんな時間まで会社に残ってたのか?」
オスカーの口調から厳しさを感じて、アンジェリークは慌てて付け加えた。
「あ、そういう訳じゃないの!その、コンテストに出すレシピが決まらなくて…どうやらスランプになっちゃったみたいで…」

しどろもどろと言い訳を口にしながら、アンジェリークは内心ひやひやしていた。
スランプの理由がオスカーにあるとは、絶対に気付かれたくなかったからだ。
有難い事にオスカーも、どうやらこの説明に納得してくれたようだ。厳しい表情を引っ込めると、妙に神妙な顔つきになった。

「そうか、スランプ…か。お菓子に関しては俺は素人だからたいしたアドバイスはできないが、気分転換にどこか連れてってやるくらいなら…」
オスカーはいきなり、くしゃくしゃと前髪を掻きむしって舌打ちした。
「ああでも、俺は明日から出張だったな。くそ、タイミングが悪い」

真剣に悔しがっているオスカーの様子に、アンジェリークは鼻腔の奥がじぃんと熱くなっていくのを感じた。
本気で私の事を、心配してくれてるんだ。ただそれだけの事なのに、こんなに幸せで泣きたいようなな気持ちになってしまうなんて。
どうしよう、私、やっぱりオスカーの言葉に、影響され過ぎなんだろうか。彼はただコンテストのスタッフとして、いち出場者の心配をしているに過ぎないのかもしれないのに。
涙の滲んだ瞳を悟られないよう、慌てて後ろを向いてお皿を片付けるふりをする。

「ありがとうオスカー、心配してくれて…。でもこうやって家にオスカーが来てくれただけで、私にはすっごくいい気分転換になってるのよ」
「ならいいんだが」
オスカーは立ち上がり、キッチンに立つアンジェリークを背後から抱きしめた。
金色の巻き毛を耳にかけるように指でそっと撫で付けてから、耳の後ろの敏感なくぼみにそっと息を吹き掛ける。
「気分転換にいい事は、他にもあるしな」
耳元で囁きながら舌を這わせただけで、アンジェリークの身体がかぁっと熱くなったのが、抱いてる腕越しにもはっきりと感じられた。

「あっ……」
アンジェリークの背中が震えながら反り返り、一瞬だけ丸いヒップがオスカーの下半身に押し当てられる。
それだけでもう、彼女が欲しくてたまらなくなっていた。
細い腰を掴んで引き寄せると、スカートをまくり上げる。両手を前に回して脚の付け根をくすぐるように撫で上げながら、固くなった欲望の証で彼女のヒップを突つき、自らの要望を伝えにかかった。

「オスカー、その…シャワーを浴びてからにしない?」
「じゃあ、一緒に入ろう」
首筋へのキスを続けながらオスカーは低い声で誘うにように囁き、後ろからアンジェリークのブラウスのボタンを外しにかかる。

「だ…め!」
手を押しとどめられて、オスカーは訝しげに片眉を上げながら動きを止めた。
アンジェリークの口調には、恥ずかしさから来る否定ではなく、もっときっぱりとした拒絶の響きがあった。

「どうした?」
オスカーの腕の中で、アンジェリークはゆっくりと振り向いた。
その瞳は、何かを思いつめているように緊張に張り詰めている。
そんな思いを隠すかのように、アンジェリークは殊更ににっこりと笑顔を作った。

「いつもこうして、オスカーがリードしてくれるでしょう?…でもたまには気分転換に、私が全部してあげる、っていうのはどう?」
軽い口調で言いながら、今度はアンジェリークがオスカーのシャツのボタンを外しはじめた。
「全部?」
「そうよ、何から何まで全部。オスカーは何もしなくていいの。今日はいっぱいサービスしてあげるっていったでしょ?」

オスカーは注意深く、アンジェリークの様子を見つめた。
まるで遊び慣れた大人の女のようなセリフだが、そんな言葉とは裏腹に、ボタンを外す指先は小さく震えている。顔色も青ざめ、緊張しているのがありありとわかる。
何かが変だ。仕事のスランプとやらでストレスがたまっているのかもしれないが、それにしてもおかしい。

オスカーはアンジェリークの身体を抱き寄せると、小さな子供をなだめるように背中をさすった。
「一体どうしたんだ?無理はするんじゃない----」
「無理なんかじゃないもの、子供扱いしないで!」
アンジェリークはいきなり怒ったように声を荒げ、オスカーの腕を乱暴に振りほどいた。
「どうせ…どうせ、私は子供よ!オスカーと3週間会えないだけで寂しくってしょうがないし、不安でたまらない。だから、今日くらいは気が済むまで愛してあげたいの!無理なんかじゃない、私がそうしたいのよ。どうしてわかってくれないの?」

初めて見せたアンジェリークの激しい感情に、オスカーは目を見張る。
彼女は涙ぐみ、真剣な瞳でこちらを睨み付けている。
いつもの愛らしい彼女とは別人のようなその表情に、何故かひどく心を奪われた。
本気で怒っているアンジェリークは----ぞくぞくするくらい綺麗で、それがまたオスカーの欲情をひどく刺激した。

「…わかった。お嬢ちゃんの好きなようにしたらいい」
オスカーは「降参だ」と言うように両手を上げ、口の端を押し上げるように笑う。
彼女の肩から緊張感がふっと抜けていくのが、目に見えるようにわかった。
「…ありがとう、オスカー」
そう言って再び震える手を伸ばし、オスカーの衣服を脱がしにかかる。
そんな彼女から、オスカーは目を離せなかった。

この先に待ち受けているものを想像するだけで、身体中の細胞が、期待に膨れ上がっていくような気がした。