Sweet company

10. Tie Together (4)

目覚ましが鳴り響いた時、アンジェリークはベッドに1人きりだった。

「……オスカー…?」
眠い目を擦りながら名前を呼んでみたが、返事はない。
手を伸ばしてシーツを探ると、人の温もりのない冷たさだけが感じられ、アンジェリークは不安に襲われてがばっと飛び起きた。

「オスカー?オスカー!」
寝室を飛び出し、リビングやバスルームを見て回ったが、やはり人の気配はない。
オスカーが昨日着ていた服も荷物も、もうどこにも見当たらなかった。

「うそぉ…もう、行っちゃったの?」
がっくりと肩を落としながら、アンジェリークはその場にへたり込む。
何も言わずに行かれちゃったなんて、かなりショックだ。
オスカーにとっての私って、その程度の存在だったの?
昨夜私がやった行為は、結局たいした意味を為さなかった、って事なんだろうか?

その時、ダイニングテーブルの上に紙切れが置いてあるのが目に入り、慌てて走り寄った。
メモには、走り書きのような筆致。
『早朝に仕事で緊急の呼び出しがかかったから、先に行く。後で電話するから』

たったそれだけの文章だったが、アンジェリークは胸を撫で下ろした。
良かった、何も言わないで行ってしまった訳じゃなかったんだ。
とりあえずこうしてメモを残してくれたんだし、今の私にはそれだけで充分。
ホッとして初めて、アンジェリークはテーブルの上に乗っているもう一つの物体に気付いた。
それは見慣れたシルバーグレーの、小さな携帯電話。
「大変っ!オスカーったら大事なものを忘れてるわ!」



アンジェリークは会社に着くとすぐ、オスカーの部署に顔を出した。
秘書のアリシアが、すぐに気付いてにこやかな笑顔を向けてくれる。
「あら、アンジェリークさん。部長は外出中なんですが、何か?」
「こんにちは。あの、部長がこれを忘れていったんで、届けにきたんです。携帯がないと、仕事にも支障が出るんじゃないかと思って…」

差し出した携帯電話を、アリシアはあら、と不思議そうに眺めた。
「おかしいですわね、部長はちゃんと携帯は持って出たはずですけど…。ちょっと確認しますので、お待ちいただけます?」
アリシアはデスクの受話器を取り上げると、短縮ダイアルのボタンを押した。
程なくして電話が繋がったようで、相手と話し始める。

「もしもし、今こちらにアンジェリークさんが見えてて、部長が携帯電話をお忘れになったと持ってきてくださったんですが…はい、お待ちください」
アリシアは保留ボタンを押すと、アンジェリークに向き直った。
「部長がお話ししたいそうです。部長室に電話を回しますので、どうぞ」
「え?い、いいんですか?」
微笑むアリシアに促されて個室に足を踏み入れると、デスクの上で電話の内線呼び出しランプが点滅しているのが見える。
アンジェリークはどきどきしながら、受話器をとった。

「もしもし…?」
「お嬢ちゃんか。今朝は先に出ちまって、悪かったな。一声かけたんだが、起きなかったから」
張りのあるバリトンが耳に響き、アンジェリークの心拍数はさらに上昇していく。
「ううん、お仕事ならしょうがないもん。でも私、そんなにぐっすり眠ってたの?」
「ああ、昨日はかなり頑張ってたから、さぞかし疲れてたんだろう」
「!」
アンジェリークは真っ赤になって立ちすくみ、言葉を失った。
くっくっとからかいを含んだ笑いが聞こえてきて、ハッと我に帰る。

「そ、そんな事より!オスカーったら忘れ物が…」
「ああ、それは忘れたんじゃない。お嬢ちゃんに持っててもらおうと思って、置いといたんだが」
「どうして?携帯がなかったら、お仕事とか困るでしょう?」
「仕事用の携帯は今使ってるのがそうだから、心配するな」

苦笑したような響きに、アンジェリークの頭は一気に混乱してぐるぐると回り出す。
「えっ?じゃあうちにあったのは…」
「あれはプライベート専用のだ。どうせ出張中は使わないんだし、お嬢ちゃんも今どき携帯くらい持ってないと不便だろう?何か緊急で問題が起きた時とかも、あれば安心だぞ」
「そ、それはもちろんありがたいけど、オスカーは?この電話に、お友達とかからかかってくるんじゃないの?」
「今はほとんどお嬢ちゃんとの連絡用くらいにしか使ってないからな。用事があれば仕事用の携帯を使えば事足りるし」
「………」

本当にいいのかな、と押し黙ってしまったアンジェリークを察して、オスカーが軽い口調で続ける。
「遠慮するな、俺が持ってて欲しいんだから。これならいつでもお嬢ちゃんと連絡がつくし、安全も確認できる。ま、俺とお嬢ちゃんだけの専用ホットラインとでも思ってくれればいいから」
相変わらず気恥ずかしいセリフをさらっと放たれ、アンジェリークは再び顔を赤らめた。
途端に手にした携帯電話が、呼び出し音を鳴らす。

「な、何?」
びくっと飛び上がったアンジェリークの耳に、笑いを噛み殺したオスカーの気配が伝わってくる。
「ほら、早速ラブコールのお出ましだ」

携帯電話の着信表示には、「01:OSCAR」と表示されている。
慌てて携帯を耳に当てると、いきなりオスカーの大きな笑い声が響いた。
アンジェリークは思わずぷぅっと頬を膨らます。
「…オスカー!もうっ、脅かさないで」
「すまんすまん、だが俺からの電話はこんな風に表示されるし、他の人間からかかってきた場合は何も表示されないように設定しといたから、出なくてもいい。どうだ、これなら気軽に使えるだろう?」

まだ笑いを納めないままオスカーは、その他の簡単な使い方を説明してくれる。
アンジェリークはぷんすかと怒りつつも、なんだかんだと気遣ってくれる彼の好意を、有難く受け取る事に決めた。
携帯電話を貸し与えてくれるって事は、オスカーが自分を信頼し、気にかけてくれている証のようにも感じたから。

「俺はこのまま空港に行くから、残念だが今日はもう会えそうにない」
「そっかぁ…寂しいけど仕方がないね。じゃあ、気をつけて…」
「ああ。あとそれから、昨夜の事なんだが……」
オスカーは言いかけた言葉を、さり気なく途中で止めた。
「え?何?」
「いや、なんでもない。夜にでも、また電話する」

オスカーがさらりと流してしまったので、アンジェリークもこのやり取りをさほど気には留めなかった。
ゆうべ泣きながらオスカーの胸で意識を手放してしまった事など、彼女自身も気付いていなかったのだから。


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オスカーの出張スケジュールは、かなりハードだ。
3週間という期間で主要な取り引き国を全て回り、新しい担当部長の紹介や、取り引き最中の大口商談の引き継ぎ、さらに接待や、個人的な付き合いのための飲み会や会食までこなさなければならない。
まさに分刻みでスケジュールをこなさなければ、この出張は仕事として成立しないのだ。
オスカーは最初の国へと到着するとすぐ、部下を引き連れて精力的に動き始めた。


「…ミスター・カークランドのような優秀な方が現場を離れるとなると、うちもやりにくくなりますでしょうなぁ」
「そりゃあどうも、ミスター・アルデス。だが俺の後任のヘンダーソンも、非常に優秀な人材です。きっとそちらにとっても、有益な人選になると自負していますよ」

アルデスと呼ばれた丸顔に濃い髭面の中年男性と、オスカーは会食の席を囲んでいた。
この男は腰が低く、いかにも商売人といった親しみを感じさせる笑顔の持ち主だが、その内面は一代で貿易会社を興して成功させ、巨額の富を得ている凄腕の実業家だ。
アルデスはオスカーの傍らにいる新任の部長にちらりと視線を走らせ、「あなたがそう言うのですから、さぞかし彼も優秀なんでしょうね。期待してますよ」と明るい笑顔を向けた。
だがその言葉は上っ面で、本音はまだこの人選をどこまで信頼していいのか計りかねているといった感じだ。

新しく部長に昇格するヘンダーソンは、間違いなく優秀な男だ。
物静かなためあまり目立つ存在ではないが、冷静で常に落ち着いており、どんな難問も慌てず騒がず丁寧に処理できる。
オスカーより7つほど歳が上になるが、年齢に関係なくオスカーの仕事に敬意を表し、裏方の仕事に徹する事も厭わず、コツコツと地道にキャリアを築き上げてきた。
信頼し得る存在だからこそオスカーも自分の後任に彼を推したのだが、いかんせん印象が地味なのと、チャンスに喰らい付いていく貪欲さにやや欠けている。
社内での人間関係や信頼度、能力の高さでは文句のつけようがないのだが、こういった大物実業家達から見ると、頼りなく見えるのも事実なのだろう。

自分と並ぶとますます印象が薄れてしまうこの男に、なんとかして大企業の部長らしい風格を身につけてほしいと、オスカーは願っていた。
その為には、この出張中に彼の顔を少しでも売って、印象づけなくてはならない。

「そう言えばカークランドさんが欲しがっていた高品質のカカオですが、農園のほうでも拡張資金さえあれば輸出用にまわせるかもしれない、という話がでてますよ」
「カカオというと、もしや『イグレス農園』の?」
アルデスが振った話題に、オスカーの瞳が強い光を放った。

「はい、そうです。あそこのカカオは世界一の品質を誇りますが、なにせ小さな農場で家内工業的にやってますんで、大量生産のラインには乗せられなかったんですよ」
「…その話、もう少し詳しく聞かせてもらいたい。店を変わりませんか?俺が行きつけにしてる、いい店があるんです」
オスカーは商談のチャンスを嗅ぎ付け、自分から接待へと持ち込んだ。
レストランを出ながら、ヘンダーソンに目線で合図を送る。
チャンスを即座にものにするやり方を見ていろと、その目は語っていた。


オスカー達一向を乗せたリムジンは、夜の街を華やかにライトアップする繁華街の1画で停まった。
広大で肥沃な土地に恵まれた富裕な国情を反影して、この辺り一帯はセントラルシティにも見劣りしないほどの大都市の様相を呈している。
高級そうなナイトクラブが立ち並ぶ目抜き通りの中でも、一際豪華な造りの店に、オスカーは足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ、カークランドさま」
品の良い黒服のボーイが上着を預かり、店の奥へと案内する。
1年前に訪れたきりだというのに、ボーイは即座にオスカーの名前を呼び、別の客を接待していたホステスにさり気なく合図を送った。
たちまち数人の美女がオスカー達の回りを取り囲み、艶めかしい笑顔を浮かべながら男達の腕に自分の手を絡ませ、席へと導いていく。

その中でもとびきりの美女-----女優と言っても通用しそうな-----が、オスカーに意味ありげな視線を投げ付けながら腕を差し出し、隣の席に付いた。
「お久しぶりね、オスカー。1年ぶりかしら?」

その美女に笑顔を返しながら、オスカーの頭の中では凄いスピードで記憶の再構築が行なわれていた。
さっきまで頭の片隅にもなかった彼女の記憶が、瞬時に呼び起こされていく。
差し出された手の甲に流れるような仕種で口づけながら、目線だけ上げて笑いかけた。
「しばらくだな、アマンダ。相変わらず、目が覚めるように美しい…いやむしろ、1年前より磨きがかかったかな?」
「まぁ、お上手ね」

女は上品な仕種でオスカーの飲み物を手早く用意しながら、白いレースのハンカチでグラスを拭ってオスカーに手渡した。
男達が乾杯したのをきっかけに、美しいホステス達は場を和ませるように、さりとて出しゃばり過ぎずに男達との会話に加わっていく。

「今日は、どちらがご接待なの?」
周りに聞こえない程度の小声で、アマンダがオスカーに尋ねる。
「さっきまでは俺が接待を受けていたが、この店は俺のおごりだ」
アマンダはそれだけでわかったわ、というように小さく目だけで笑い、反対側に座るアルデスに酒を勧めながら、名刺を差し出して自己紹介を始めた。
彼女の美しさに大抵の男がそうなるように、アルデスもニヤついて大いに鼻の下を伸ばし切っている。

この大都市で指折りの高級店であるこのクラブでも、アマンダは1、2を争う売れっ子だ。
豊かな黒髪をエキゾチックに結い上げ、ベージュに金糸を織り込んだ高価そうなスーツに、グラマラスなボディーを包み込んでいる。
露出度はそれほど高くなく、むしろ控えめで上品な雰囲気にもかかわらず、その全身からは匂いたつ大輪の花のような色気が常に漂っている。
陶磁器のような滑らかな肌に、ブランデーのような深い茶色の瞳と、ワインカラーの紅を差したふっくらした唇が絶妙のバランスで配置され、完璧な美しさを作り上げていた。
男ならあの瞳に見つめられ、あの唇に語りかけられただけで、くらくらと酔っ払ってしまうに違いない。

完璧なのは仕事のほうも同様で、オスカーが商談をしたければ即座に席を外し、会話が途切れた頃合を見計らってまた二人の間に戻ってくる。
売れっ子の彼女はほぼ満席の店内を蝶のように次から次へと飛び回っているのに、その辺のタイミングや気配りは絶妙で、非のうちどころがなかった。
これならアマンダを指名しに大物政治家や実業家が引きも切らないというのも、納得がいく。

商談もある程度まとまりかけ、これは利益になると判断したところで、オスカーは部下のヘンダーソンを呼びつけた。
ここから先は部下に一任したほうがいい、ヘンダーソンは契約締結のプロだ。
見事な手腕を発揮してくれるだろうし、ミスター・アルデスもそれを見れば彼に対する見方も変わるだろう。

オスカーが仕事の話から外れたのを見て、アマンダが再び彼の隣へと舞い戻ってきた。
「もう、お仕事の話は終わり?」
「ああ、お陰さまで有益な話ができた」
「それじゃ…これからは、仕事抜きの時間ね」

アマンダがしなを作って身体を寄せ、テーブルの下でオスカーの内腿をゆったりと撫で上げる。
パールベージュに塗られた上品な爪が、男の欲望を知り抜いたように股間の手前で動きを止め、焦らすように軽くつねってくる。

「1年間連絡もくれないんですもの。寂しかったわ」
上目遣いにオスカーを睨み、それから少し寂しげに睫毛を伏せる。
そのまま上唇を一瞬だけ嘗めて、誘うような甘い視線をオスカーに向けてきた。
「ねぇ、仕事が終わってから…飲みにいかない?あなたと過ごせるなら、他のお客さまとの予定は全部キャンセルするから」

遠回しにベッドに誘ってくる女の意図を、オスカーは即座に理解した。
この店に訪れる度にこうして誘われ、自分はそれをいつも有難く受け入れていたからだ。
お陰で部下達には「現地妻」などと揶揄された事すらあったが、オスカーは気にも留めなかった。
仕事を成功させる為にも彼女は申し分ない存在だったし、その後のベッドでも気のあう相手なのだから。
客なら誰でも寝る訳じゃない、女としての本能が反応しなければ、どんな上客とも寝ないと言い切る彼女は、オスカーのような上昇思考を持った男のプライドを満足させるのに、最高の相手だった。
そう、今までは。

「…悪いが今日は、戻って片付けなくちゃならない仕事があるんだ」
オスカーはさらりと言い放つと、心からすまなそうな表情を浮かべた。
勘のいいアマンダはそれだけで察したのだろう、しつこく食い下がる事はなく、オスカーの太腿からそっと手を離す。
「…そう、残念ね」
「俺は先に帰るから、後を頼むよ。あのミスター・アルデスは、うまくすればいい客になってくれる。隣にいるヘンダーソンは、これから俺に代わってこの国の仕事を受け持つ事になるから、奴にも顔を売っておいたほうがいい」
「わかったわ、有難う」

立ち上がって店を出るオスカーを外まで見送りながら、アマンダはそれでも少し未練を含んだ表情を見せた。
「あなたはもう、この国での仕事には関わらないの?」
「そうだな、現場からは離れる事になったんだ。先の事はわからないが、当分はこっちに来る事はないだろう」
「…残念ね。あなたみたいな男とは、2度と知り合えそうにないもの。最後に少しくらい、本当に時間が作れない?」
店の前に横付けされたリムジンに向かいながら、オスカーは肩を竦めた。
「俺も君みたいないい女とはそうそう出会えないとわかってるんだがな。俺を待ってる山積みの仕事が、恨めしいよ」
車に乗り込む直前に、オスカーは頭を下げて軽くアマンダにキスをした。
以前のような恋愛ゲームの始まりを告げる濃厚な口づけではなく、友人にするような軽いキスに、アマンダは心底残念そうに溜息をついた。

「それじゃ」
ドアが閉まり、オスカー乗せた車が夜の街に消えて行く。
アマンダは少し複雑な瞳でそれを見送ってから、踵を返して店内へと舞い戻った。



ホテルの部屋に戻ると、オスカーは手にした上着と書類をテーブルにばさりと投げ、ネクタイを緩めながら携帯電話を手にとった。
アンジェリークに電話しようかと考えたのだが、時差を考えるとあちらは深夜の3時頃だ。
これじゃ無理だなと首を振り、備え付けのホームバーから氷を満たしたグラスと酒を取り出して、深々とソファに身を沈める。
ローテーブルの上に長い脚を無造作に投げ出し、天井を見上げると、ようやく長かった一日が終わった実感が湧いてきた。

忙しい一日ではあったが、仕事は順調で達成感もあり、気分も高揚している。
そのせいか、早朝に到着してから休み無しに働き詰めたにもかかわらず、肉体的な疲労はさほど感じられなかった。

こんな夜は大抵、女が欲しくなる。
気分が高揚している時は目が冴えて眠れなくなるものだが、そういう時程いいセックスができるものだし、残ったエネルギーを使い果たして心地よい疲労を得て、満足感とともにゆっくり眠りにもつける。
なのに、アマンダの誘いに乗る気にはなれなかった。
彼女となら素晴らしい一夜が過ごせると、知っていたはずなのに。

理由はわかっている。
アンジェリークの事が気になって、片時も頭を離れないからだ。
仕事中でもふとした瞬間に、彼女と過ごした最後の夜が思い起こされ、その度に身体が熱くなった。
全裸の彼女が足元に跪いて奉仕している姿や、湯舟の中で飛沫を弾かせながら上下している映像が唐突に頭に浮かび、しかもその残像はなかなか消えていこうとはしない。
意識して記憶を締め出さねば仕事が手につかなくなる、そう己に自戒しなければならない程だった。

そして、あの涙だ。
彼女は一体、何の為に泣いた?

単に俺と離れるのが寂しいのか、それとも仕事のスランプが思ったよりもきついのか。
だがどう考えてもしっくりこない。
彼女は寂しいなら寂しいとはっきり言う、ごく正直な人間だ。
だけどもあの時の彼女は、何か言いたい事が言い出せなくて泣いた、そんな感じだった。

一体何を隠してる?俺にも言えないような事なのか?
アンジェリークに聞いてしまいたかったが、出来なかった。
彼女が泣いたのは俺のせいだ、よく理由を考えろ----そんな直感が、彼女に聞こうとする自分を阻んでいた。

俺が原因で泣いたのだとしたら-----思い当たる理由は一つしかない。
あれだけ何度も彼女から愛してると告げられながら、俺は一度もそれに答えていない、それだけだ。
どうして俺は言ってやらないんだ?
たった一言、彼女の愛に答えを返してやればいいだけなのに。

今まで付き合ってきた女には簡単に『愛してる』と言えたじゃないか。
なのにどうして、アンジェリークにだけはその一言が言えないのだろう。
他の女達よりも、彼女が下だとでもいうのか?
いいや、そうじゃない。

彼女の思いが、本物だからだ。
真剣に俺を思い、全てを俺に与え、全身全霊でぶつかってくる。
そんな思いに、いい加減な気持ちで答える事などできない。

じゃあ俺の本当の気持ちは、どうなんだ?
彼女が欲しくて、一日中気も狂わんばかりだったくせに。
今だって声が聞きたくて、時差も考えずに彼女に電話したくてうずうずしている。
それはもう、アンジェリークを本気で愛し始めている証拠なんじゃないのか?

自問自答を繰り返しても、いつも答えは出ない。
彼女を愛しているのかもしれないが、単に彼女とのセックスに嵌って、溺れているだけなのではないのかという疑念もあるからだ。
その証拠にこうして彼女を思うだけで、股間が熱を帯びて反応を始めている。

「くそ」
オスカーはきつく目を瞑り、じりじりと沸き上がる己の反応を抑えようと努めた。
しかし眼裏に浮かびあがるアンジェリークの姿が、逆に熱を煽っていく。

ぎこちない動きで俺を脱がせていく、彼女の小さな手。
色気のない仕種で脱いだ下着の下から現われた、柔らかな乳房。
シャワールームに足早に向かう彼女の、真っ白な背中。
折れそうに細い腰、歩く度に跳ね上がる張りのあるヒップ、柔らかそうな太股。

オスカーは湧いてきた唾をごくりと飲み下した。
既に下半身は痛いくらいに張り詰め、スラックスの前を窮屈そうに押し上げている。
無意識のうちにオスカーの手は股間に伸び、己の欲望を押さえつけている邪魔なジッパーを外し、勃起した自身を掴んで取り出していた。

恥ずかしげに身体を洗い、シャンプーした髪をくるくるとねじ上げ、おどけて見せた時の愛らしさ。
泡まみれの全身を俺に押し付け、脚を絡めて擦り付けてきた淫らな動き。
そして俺の足元に跪き、口で俺の全てに愛撫を施した時の、あの信じられないような快感。

「アンジェリーク……」
知らぬ間に、彼女の名を呼んでいた。
オスカーはアンジェリークの舌の動きを思い浮かべ、同じように自分の指で彼女の痕跡を辿った。
透明な蜜が洩れ始めた先端の穴に指を押し当て、塗り広げるようにしながら竿の部分まで指で辿る。
彼女の熱い舌が絡み付いてくるさまを想像するだけで、身体中の筋肉が硬直した。

脳裏に映るアンジェリークが愛らしい唇を開き、柔らかくオスカーを飲み込んでくる。
苦しげに眉を寄せ、涙を滲ませながら、それでも深く。
彼女の口の奥に侵入していく時の背徳的な歓びと、抜かれる時に感じる喪失感。
オスカーの手は、いつしか欲望に膨れ上がった己を握りしめ、ゆっくりと上下に動きだしていた。

頭の中にはいくつもの映像が、フラッシュバックのように浮かんでは消えていく。
湯舟の中で彼女の中に入った瞬間に唇から洩れた、安堵のような甘い吐息。
バスルームに反響する、可愛らしい喘ぎ声。
柔らかな襞に包み込まれ、溶けていくようなあの感覚。
深く腰を沈め、また立ち上がる。
その度に彼女の秘部が水面上に現われ、俺と繋がっている部分までがはっきりと見えた。
そして切なげに俺を見下ろしてきた----あの瞳。
そうだ、あの時彼女は、何かを言いたそうにしていた。
一体俺に、何を言いたかった?

だが思考は快感の渦に飲み込まれ、探していた答えは闇の向こうに押しやられていく。
浮かぶのは、彼女の切ない瞳だけ。
彼女の瞳が見守る前で、オスカーの手は自らを激しくしごき上げた。
やがて切ない瞳は、暖かな愛情に溢れてオスカーを見つめてくる。
オスカーのものを飲み干した後の、アンジェリークの瞳。
全てを受け入れ、純粋な愛情に輝いていた、あの笑顔。

「……ああ、アンジェ………アンジェリーク……」
あの笑顔に見つめられた瞬間、オスカーの心は無防備な状態に晒された。
もはや自分を押しとどめるものはなく、ただ夢中になって彼女の名を呼び、握りしめた手を力強く動かしていく。
クライマックスが訪れる直前、オスカーは空いたほうの手を握りしめたペニスの先端にかぶせると、躯を激しく震わせた。

「く……ぅ…ッ」
噛みしめた奥歯から苦しげな声が洩れ、首が大きく後ろに仰け反った。
耳の奥でどくどくと血が流れる音が聞こえ、かぶせた手のひらの中に生暖かい感触がじんわりと広がっていく。
握りしめた手の中で欲望が激しく脈打ち、最後の一滴を絞り出すまでそれは続いた。

オスカーは、しばらくそのまま動けなかった。
やがて潮が引いたように静かなひとときが訪れると、ふぅと息を吐いて目を開ける。
部屋の空気はしんとしていて、清潔で洒落たインテリアのだだっ広い部屋がやけに寂しく感じる。

自慰の後特有の、奇妙な虚しさが心を襲ってきた。
昇り詰める絶頂感よりも、堕ちていく失墜感のほうが強いのは、ここにアンジェリークがいないからなのだろう。
萎え始めたものから手を離すと、ねばついた白い液体で己の手が汚れている。
自分の不様な姿に、オスカーは苦く笑った。

この俺とした事が、女性からの誘いも断って独りで部屋に籠り、自慰に耽っているとはな。
男のプライドもへったくれもあったもんじゃないが-----それでもきっと、俺はこのまま毎日同じ行為を繰り返すに違いないという、確信にも似た予感がある。
他の女を代用に抱いて、自分を誤魔化す事などもはや出来ないとわかっているからだ。

俺が欲しいのは----アンジェリークだけ、なのだから。