オスカーが海外出張に出かけて、一週間が過ぎた。
たったの一週間、なのにもう寂しくてしょうがない。
1人で食べる食事は味気なく、1人きりの出勤は心細く、1人ぼっちのベッドは広すぎて。
眠れない夜はひつじの代わりに「オスカーが帰るまであと何日」なんて、指折り数えている始末。
こんなにもオスカーという存在が生活の一部になってしまって、彼のいない人生なんてもう考えられなくなっている。
オスカーは今、何をしているんだろう?
そう考える時、まず浮かんでくるのは仕事中の彼だ。
取り引き相手と精力的に商談をこなし、一つの仕事が終われば飛行機に飛び乗り、世界中を股にかける有能なビジネスマンの姿。
続いて----ビジネスの合間に異国の美女達と楽しそうにデートをし、甘い台詞を囁いてる彼の姿も。
アンジェリークは頭を振って、頭の中の嫌な映像を追い払う。
だめだめ、証拠もないのに疑ってばかりじゃ。
たたでさえ仕事がスランプなのに、ますます落ち込んでしまうじゃないの。
何かもっと楽しい事を考えて、気分を盛り上げなくちゃ。
例えば…オスカーは、すっごくマメに電話してくれるじゃない。
あんなに忙しそうなのに、ほとんど毎日。中には日に何回も連絡をくれた時だって。
そうよ、今朝も……彼の声が、目覚まし代わりだったんだもの。
「おはよう、お嬢ちゃん。良く眠れたか?」
まだベッドの中で寝ぼけ眼を擦りながらも、アンジェリークは「おはよう~」と嬉しそうに微笑み、大きなあくびと共に身体を伸ばした。
「ふわわ~、実はあんまりよく眠れなかったんだぁ…」
「やっぱりな。俺という抱き枕がないと、寂しくて寝つけないんだろう」
からかうような口調に、アンジェリークはぷぅっと頬を膨らませた。
もちろん図星もいいところなんだけど、あんまりあっさり認めてしまうのは、こちらばかりが寂しがってるのが見え見えなようで、ちょっぴり悔しい。
「そうじゃないもん!レシピの事で悩んでたら、眠れなくなっちゃって…」
「レシピ?じゃあまだ、スランプは解消してないんだな。たいしたアドバイスはしてやれないが、そうだな…今は充電や研究のための期間と割り切って、お菓子の食べ歩きするなんてのはどうだ?気晴らしにもなるぞ」
「あ、うん…」
強がってついてしまった嘘に、思いのほか真面目な答えが返ってきて、アンジェリークは戸惑った。
正直に言って、出張に行ったら私の存在なんて、すぐにでも忘れられてしまうだろうと思い込んでいたのに。
こうしてオスカーがちゃんと自分の身を案じてくれているのは意外でもあったけれど、単純に嬉しくもある。
「そう…ね、それもいい考えかも。さっそく今日から試してみようっと!」
「ああ、だが絶対に1人では出かけるなよ。オリヴィエにでも話をつけといてやるから、一緒に行くんだ。いいな?」
「はぁーい、わっかりました!」
口では明るく返事をしたものの、オリヴィエさんのお世話になるつもりはなかった。
何といっても彼は、ロザリアの恋人なのだ。
彼だってオスカーと変わらないくらい忙しいだろうし、手を煩わせてロザリアとの貴重な時間を奪う訳にはいかない。
変装でもしてこっそり出かければ、なんとかなるわよね?
「じゃ、オスカーも身体に気をつけて、無理しないでね。…あっ、それと!」
「なんだ?」
「そっちって時差があるのよね。今って何時?」
アンジェリークの問いに、オスカーがほんの少し言い淀む。
「……今は、4時だ」
「午後の4時?それとも午前?」
「朝のほう」
「やーっぱり!妙にまわりが静かだな、とは思ったのよ。電話をくれるのは嬉しいけど、こんな朝早くに無理しちゃダメ!いくらオスカーがタフだからって、油断してると大変な事になっちゃうんだから。わかった?」
まるで母親のような口調に、オスカーは「はいはい、わかったよ」と苦笑いしながら答える。
「お嬢ちゃんに心配してもらえるのは嬉しいが、どうせこれからすぐに荷造りして朝一のフライトに飛び乗らなくちゃならないから、無理して起きてる訳じゃないんだ。それに…」
「それに?」
「……お嬢ちゃんの声が聞けないと、俺が寂しい」
甘く掠れた声が鼓膜を震わせ、いきなり心臓がめちゃくちゃなリズムを刻みだした。
黙り込んでしまったアンジェリークに、オスカーがぷっと噴き出す。
「もうっ!からかったのねっ!」
はははっ、と楽しそうな笑い声が響き、受話器を通しても彼の笑顔が目に浮かんでくる。
電話を切った後も、しばらくはその笑い声が耳に焼き付いて離れなかった。
朝の目覚めから幸せなひとときを過ごせて、アンジェリークの口元は自然と笑みを形づくる。
ぽふん、と枕に顔を埋め、彼の台詞を心の中で何度も反芻しては、幸福な思いに浸った。
オスカーから電話をもらった後は、いつもこう。
優しくて前向きな気持ちになれるし、何よりも彼が浮気してるなんて噂は、嘘なんじゃないかとさえ思えてくる。
だってオスカーは、忙しい中ちゃんと電話もしてくれるし、私の事も思いやってくれているんだもの。
だから、たぶん…浮気なんてしてない。大丈夫よ……きっと。
本当は不安が消え去った訳じゃないけど、無理矢理にでも信じ込まなければ、自分がダメになってしまう。
数分の電話で幸せな気分になっても、オスカーと会えない長い時間が、すぐに不安や猜疑心を運んできてしまうのだから。
でもそんなものに囚われてレシピも作らず時間を無駄にしていると、どうなると思う?
コンテストの決勝はあっという間にやってきてしまい、私はろくなお菓子も発表できずに、結果としてコンテストの権威までも貶めてしまう事だろう。
コンテストのファイナリストに選ばれたというのは、名誉でもあるけれど、そのぶん責任も重い。
私が残った事で、努力をしてきた沢山の優秀な菓子職人達が、涙を飲んでいるのだ。
いい加減な状態で出場するのは、その人達の努力を踏みにじっているのと同じ。
たとえスランプであったとしても、ベストを尽くさなければ。
まずはオスカーの言う通り、お菓子の食べ歩きとか、やれる事から手をつけてみよう。
そこからアイディアが閃くかもしれないし、気晴らしが効を奏してスランプから抜けられるかもしれないんだし。
とにかく今は前に一歩、踏み出さなくちゃ。
そうは思ったものの、やはり1人で外出するのは無謀だったようだ。
アンジェリークはその日の退社後に、サングラスと大きな帽子で変装し、こっそり街へと繰り出してみた。
だが会社の門を一歩出た途端、張り込んでいたと思われるマスコミにあっという間に取り囲まれ、慌てて社内に逃げ帰るハメになった。
仕切り直して今度は社用車に乗り込み、なんとか尾行を振り切って目当ての菓子店へと辿り着いたが----そこでもテレビを見たというにわかファンにサインをねだられ、さらに物見高い野次馬までもが加わって、店内はみるみるうちに黒山の人だかりとなってしまった。
お店側にとってもいい迷惑だろうし、もちろんゆっくりお菓子を食べるどころではない。
アンジェリークは、自分の認識が甘かったのをひしひしと痛感した。
これはやっぱり明日から、オリヴィエさんに同行を頼むしかなさそうだ。
今日の夜にでもロザリアに電話して、相談してみよう----
とりあえずその日はやるべき事を全て諦めて、がっかりしながら帰宅の徒についた。
次の日の退社後。
ロザリアに連れられて地下の駐車場へ出向くと、グレイッシュピンクのシヴォレーの車体に、オリヴィエが寄り掛かっているのが見えた。
こちらに気付くと、にこやかに微笑みながら「ハァ~イ、元気?」と手を振ってくれる。
「すいませんオリヴィエさん、お忙しいのに無理を言っちゃって…」
「まあイイからイイから。オスカーからも話が来てたし、私達のほうもアンジェちゃんに話したい事があったんで、ちょうど良かったんだよ。さ、いこいこ!」
明るく促され、アンジェリークはホッとしながら後部座席に乗り込んだ。
続いてロザリアが、アンジェリークの隣に座る。
ロザリアは助手席に座ると思っていたのに、さも当然のようにバックシートに腰掛けてきたので、アンジェリークは驚いた。
シヴォレーは一応後部座席があるとは言え、実質的には二人乗りを想定して作られている車だ。
後ろの座席は極端に狭いし、およそ快適と言うにはほど遠い。
だがそんなアンジェリークの懸念をよそに、ロザリアは助手席にあった段ボール箱からブランケットを取り出すと、代わりに自分達の手荷物を手際良く詰め込んだ。
「ちょっとアンジェリーク、頭を下げてくださる?」
「えっ?」
なんだか訳がわからず、言われた通りに頭を下げると、いきなりブランケットを頭から被された。
「もっとしっかり下げないと、見つかってしまいますわよ」
「きゃっ!」
ぐい、とロザリアに頭を押さえつけられ、アンジェリークは狭いスペースに無理矢理身体をはめ込まれたような格好になった。
さらにアンジェの上に段ボール箱を乗せてから、ロザリアもブランケットの中に身を潜める。
「オリヴィエ、こちらは準備できましたわ」
「オッケー♪じゃあ出発するよ。少しの間苦しいけど、我慢してよね」
すぐにエンジンがスタートし、派手な排気音と共に車が動きだす。
「ロ、ロザリア…?」
「しっ!静かになさって」
車が一旦停止し、駐車場のゲートで係員にパスを見せながら世間話をするオリヴィエの声が聞こえてくる。
そしてガヤガヤと、人が集まってきたような気配も。
「こんばんわ、シティタイムズの者ですが。あなたはよく、ローズコンテスト出場者のミス・ロザリアと一緒におられますよね?彼女に取材を申し込みたいのですが、今日はご一緒ですか?」
「見てもらえばわかるけど、私1人だよ。悪いけど、『いつも一緒』ってワケじゃないんだ。取材なら私が広報の窓口になってるから、ここにまず電話してもらえるかい?」
記者がオリヴィエから名刺を受け取っている間、一緒にいたカメラマンがさり気なく車の後部座席をチェックし始めた。
だがシヴォレーは後ろが狭くて外からは覗き込みにくい上、リアウィンドウを塞ぐように大きな段ボール箱が置かれている。
カメラマンが諦めたように首を振ったのを見逃さず、オリヴィエは「じゃ、連絡ちょうだいね」とバチンとウィンクを飛ばし、即座に車を発進させた。
「アンジェちゃん、窮屈で悪いんだけどもう少しそのままで待ってて。尾行されてないか、チェックするから」
アンジェリークは毛布を被ったままの姿勢で、おとなしく指示に従った。
オリヴィエは特にスピードを上げるでもなく、何度か左にカーブを切った。
「こうやって一定方向にずっと曲ってると、同じところに戻るから尾行されにくいんだ。…よぅし、もう大丈夫だね」
その声を合図に、アンジェリークとロザリアは毛布から顔を出した。
「驚きました、オリヴィエさんて…すっごく慎重派なんですね」
息つぐ暇もなくそんな言葉が飛び出したが、それもそのはず、これがオスカーだったら記者に見られる事など気にも留めないだろうから。
むしろ堂々と二人でいるところを見せつけるようにして、追いかけてくるマスコミを手慣れたハンドル捌きで振り切り、それすらデートの余興として楽しんでしまうに違いない。
「いや、私が慎重派な訳じゃないよ。ただ、相手が…ロザリアだからね」
「え?それってどういう…」
「アンジェ!それよりあなたの行きたいお店ってどこですの?」
何故か顔を真っ赤にしたロザリアに話題を変えられ、アンジェリークはそれ以上この話題に触れる事は出来なかった。
目当ての菓子店は、こじんまりとしたホテルの一角にあった。
派手な店構えではないけれど、優しい味が働く女性達の疲れを癒してくれると、口コミで評判が広がっているお店だ。
「さっき電話したベルナールだけど」
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
入口でオリヴィエが名を告げると、すぐにオーナーらしきふくよかな女性がにこやかに3人を店内へ招き入れる。
優しい色調で統一された店内を抜けると、奥にあるドアで仕切られた小さなパーティースペースへと通された。
「オーナーさんの御好意で、ここを貸し切ってもらったから」
「ええっ?たった3人なのに、いいんですか?」
アンジェリークが目を丸くすると、オーナーの女性は丸顔にえくぼを浮かべながら、嬉しそうに答えた。
「ええ、もちろん!こちらこそ、ローズ・コンテストのファイナリストがお二人揃って食べに来てくださるなんて、こんな光栄な話はありませんもの。ドアを閉めれば邪魔は入りませんし、お客さまのプライバシーは侵害しませんので、どうぞごゆっくりお過ごしくださいね」
オーナーの心遣いももちろん有難かったが、アンジェリークは何よりもオリヴィエの気配りに感動した。
車に乗った二人の気配を綺麗に隠し、慎重に尾行を排除して、個室も事前に予約する。
オリヴィエさんって見た目の派手さとは対照的に、とても細やかな気配りのできる人なんだ。
さっきもちらっと口にしてたけど、きっとこの配慮の裏には『ロザリアを守る』という大前提があるんだろう。
「いいなぁロザリアは、愛されてて…」
気安い友人と一緒にいる安心感からか、普段なら絶対口にしないような本音が、ぽろりと口から零れる。
「なーに、アンジェちゃんは愛されてる自信がないワケ?」
「うーん…大切にされてる、とは思うんだけど…」
出されたケーキにフォークを刺しながら、アンジェリークは俯いた。
急に鼻の奥がツン、と痛くなり、泣きそうになっている自分に気付いて、慌てて話題を変える。
「あ、それより!「私にも話がある」って言ってましたよね?何ですか?」
今度はロザリアが、真っ赤になって俯く番だった。
いきなり紅茶に砂糖をドバドバ入れ、意味なくスプーンをぐるぐると回し始める。
普段の落ち着いた彼女からは想像できないその姿を、頬杖をついたオリヴィエが優しい瞳で見守っている。
それは見ているこちらのほうがドキドキしてしまうような、愛情のこもった視線。
「…実はね、私達、結婚しようと思ってるんだ」
「けっ?」
アンジェリークはケーキを喉に詰まらせ、ごほごほとむせ込んだ。
「驚いたかい?まあ、すぐってワケじゃない。ローズ・コンテストが終わってから、だけどね。でももう、ロザリアの家にも挨拶に行ったんだよ」
「ええええ!でででも、えっと、そのぉ…」
あまりの展開の早さと驚きに、頭が話についていけない。
狼狽しまくるアンジェリークを見て、ようやくロザリアが口を開いた。
「…わたくしには、親に決められた婚約者がおりますでしょう?ですからもちろん、大反対されましたわ。マスコミに二人でいるところを嗅ぎ付けられないように細心の注意を払っているのも、そのせいですの」
ロザリアはスプーンをかき混ぜる手をとめると、背筋をピン、と伸ばした。
「でもわたくしは、もう立派な大人なんですもの。愛する人は自分で選びたいし、親のお仕着せの人生など嫌。だから…もしローズ・コンテストに優勝できたら、という条件付きで交際を許可してもらいましたのよ。もちろん優勝しましたら、交際どころか結婚まで進めてしまうつもりですけど。ですからアンジェ、例え相手があなたでも、わたくし絶対に負けませんから」
そう言って小さく微笑んだロザリアは、優雅で気高く、自信に満ち溢れていて綺麗だった。
「そっか…突然でビックリしたけど、二人とも真剣にお互いを思ってるんだね。おめでとう、お幸せに!…でも私も、負けないからねー!それとこれとは別!」
テーブルは、和やかな笑いに包まれた。
アンジェリークの口からは「うらやましいなぁ…」という言葉が笑いと共に洩れだし、オリヴィエとロザリアはそれに敏感に反応して、笑顔をぴたりと引っ込めた。
「ねぇ、さっきも『愛されてる自信がない』って言ってたけど。なんでそう思うんだい?アイツ、アンジェちゃんの事をすっごく大切にしてると思うよ」
「そうですわよ、わたくしから見ても、あなた方は何にも問題がなさそうに見えますけど。それとも気になる事でもありますの?」
急に真面目な顔になって身を乗り出され、アンジェリークは困惑した。
相談したいのはやまやまだけど、幸せな二人に『オスカーの浮気疑惑』なんてヘビーな話を聞かせていいものなのだろうか。
それに確かに、オスカーは私を大切にしてくれている。
二人の間には大きな問題はないし、けっこう仲良くやっているとも思う。
それでも、愛されているというはっきりした確信が持てない。
それは自分の恋愛経験値がオスカーに比べて低いとか、彼の昔の女性関係だとか、いろんな要素が複雑に絡み合っているのだけれど。
一番の理由は「愛してる」という言葉をくれない、という事。
彼は付き合った女性には誰にでも「愛してる」と言っていたそうだから、そんな言葉にたいした意味はないのかもしれない。
それでも、そのひとことが喉から手が出る程欲しい。
どうして他の人には言えるのに、私には言ってくれないの?
-----もしかすると、私の愛が重すぎるから、だろうか。
私はいつでも精一杯、身体中で「愛してる」と伝えるようにしてきた。
それだけが私にできる、唯一の愛情表現だと信じて。
でもそれが逆に、オスカーの重荷になっていたのだとしたら?
下手に愛の言葉を返したら、気軽に別れられなくなると思われてるのかもしれない。
本当はもっと後腐れのない、気楽な大人の恋愛がしたいのに。
それでも今別れると昇進がフイになってしまうから、コンテスト終了まではと我慢しているんじゃないの?
考えれば考える程、自信がすり減るように無くなっていく。
アンジェリークはケーキにも口をつけず、ただ深刻な表情で黙りこくってしまった。
オリヴィエとロザリアは心配そうにその様子を見守っていたが、やがてオリヴィエが、場を和ませるように明るく「そうだ!」と話を切り出してきた。
「そう言えばさ、オスカーから携帯電話を預かってるんだって?」
「?…なんでそれを、知ってるんですか?」
「いやさ、昨日留守電にアイツから『アンジェリークが出かけたがってるんで、護衛を頼む』ってメッセージがあったんだけど。詳細を聞きたくてこっちからかけ直してもずーーっと不在で、しょうがないから仕事用の携帯にかけてみたら、プライベート用の携帯はアンジェちゃんに預けてるって言うじゃないか」
オリヴィエはそこで、アンジェリークのバッグから頭を覗かせている携帯電話を指差した。
「お陰でそこに、いっぱい私からのメッセージを残しちゃったよ」
「ええ?ここにオリヴィエさんが電話してくれてたんですか?ごめんなさい、着信表示がない電話は、とらないようにしてたから…」
アンジェリークは慌てて携帯電話を取り出すと、留守電メッセージを再生した。
ピーーーーーッ。
(オスカー、私だけどさ。さっきのメッセージじゃ良くわからないから、折り返し電話してよ)
ピーーーーーッ。
(そっちは忙しいのかい?寝ないで待ってるんだから、早く電話してよね)
ピーーーーーッ。
(ちょっとぉ、そっちから頼んできたくせに、頼みっぱなしはないんじゃないの?)
ピーーーーーッ。
(もーぅ頭にきた!夜更かしは美容の敵なんだよ。目の下にクマができたらどうしてくれんのさ!)
「いやだ、オリヴィエさんったら…」
アンジェリークは思わずくすくすと笑ってしまった。
ピーーーーーッ。
(お嬢ちゃん、もう寝ちまったかな?今日は忙しくて、夜の電話が出来なかったな。寂しいが、俺は夢でお嬢ちゃんに会うとするよ。夢の中でもベッドを温めておいてくれると、嬉しいんだが)
いきなりオスカーのメッセージが入っていたので、心の準備ができていなかったアンジェリークは携帯電話を取り落とさんばかりに驚いた。
電話を耳に当てたまま、笑ったり赤くなったりと百面相を繰り返すアンジェリークの様子を、オリヴィエとロザリアは面白そうに眺めていた。
どうやらアンジェリークが元気を取り戻したように見えて、ホッとしたのも束の間----
突然彼女の身体がびくっと強張り、顔からさぁっと血の気が引いていくのがはっきりとわかった。
「ちょっと、アンジェ?どうしましたの?」
問い詰めたが、アンジェリークは硬直したように動かない。
さっきまで赤みが差していた頬は、今は透き通るように青ざめ、唇が小さく震えている。
ロザリアは咄嗟にアンジェリークの手から携帯を奪い取ると、もう一度メッセージを再生した。
「…なんですの、これ」
ロザリアの顔がみるみるうちに曇り、眉間にきつく皺が寄る。
「オリヴィエ、これをどう思います?」
険のある表情のロザリアから携帯を受け取ると、オリヴィエもメッセージに聞き入った。
オスカーのメッセージの後に続いたのは、艶めいた女の声。
ピーーーーーッ。
(オスカー?私よ、アマンダ。この前は久しぶりに会えたのに、二人きりになれなくて寂しかったわ。ねぇ、週末が空いてたら、私の家に来ない?この前のキスの続きを、しましょうよ。…連絡、待ってるわ。じゃあね)
「アンジェ、大丈夫ですの?アンジェ?」
ロザリアに手首を掴まれ、強く揺さぶられてアンジェリークはようやく正気に帰った。
目の前にあるロザリアとオリヴィエの心配そうな瞳に、慌てて笑顔を取り繕う。
「だ、大丈夫……」
「全然大丈夫なんかじゃありませんわ!一体この女は誰?オスカーは、浮気してるんですの?」
「違、そうじゃなくて…本当に、大丈夫だから…」
激高しているロザリアをなだめようと、アンジェリークは必死で笑顔を作った。
でも目頭が熱くなって、視界が膨張したように歪んでしまう。
下目蓋に大きな水溜まりを作りながらも笑顔を止めないアンジェリークに、ロザリアは怒りを押し殺した。
代わりに静かな悲しみが、青紫の瞳に宿る。
「……そんなに苦しいのに、なぜ笑うの?わたくしでは、あなたの力になれないの?わたくしはあなたの…親友なのではなくて?」
その瞬間、アンジェリークの中でずっと堪えていたものがぱちん、と弾けた。
作り笑いは無惨に崩れ、同時に今まで無理をしてでもオスカーを信じ込もうとしていた虚勢も崩れてしまった。
自分の心の底に1人で抱え込んでいた醜い感情がぶわっと溢れだし、涙と共に外に流れ出ていく。
「ロザリア…!」
アンジェリークは親友の肩に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくった。
意外にもロザリアはそれ以上オスカーを批判する事もなく----ただ黙って、泣き止むまで肩を貸してくれていた。
「…なるほど、じゃあアンジェちゃんは、オスカーが出張先で浮気してるって噂を事前に聞かされてたってワケなんだ」
ようやく涙が落ち着いた頃、アンジェリークは二人に事の成りゆきを厳しく追求され----結局全てを打ち明けてしまった。
でもようやく胸のつかえが取れたような、不思議な安堵感が心を支配している。
濁った澱のように胸の底にわだかまっていた猜疑心や不安感も、思いきり泣いて心情を吐露した事で、吐き出されてしまったかのようだ。
「オリヴィエ、あなたは知りませんの?オスカーが本当に浮気してるのか、とか」
ロザリアに尋ねられ、オリヴィエはかぶりを振った。
「そりゃあアイツには沢山の噂があるけどね。でも、噂はあくまで噂でしかないんだ。どれが真実でどれが嘘なのかは、オスカー本人にしかわからない。そしてアイツを信じるか信じないかも…結局はアンジェちゃん次第なんだよ」
「私…?」
「そう。オスカーは出張先で浮気してるって噂があり、ヤツのプライベートナンバーに女がメッセージを残している。この女とオスカーはキスをして、女はその続きを誘ってる。事実はこれだけで、はっきり浮気したっていう証拠はどこにもないんだ。キスだってさ、そんなの今どき挨拶代わりかもしれないだろ?どうだい、アンジェちゃんはオスカーを信じられる?」
「私は………」
アンジェリークは両の手をぎゅっと顔の前で組み合わせると、絞り出すような声で答えた。
「私は、信じたい…んです、オスカーを。でも『信じる』と断言しきれない」
「なるほど、正直な答えだね。でも、信じたい気持ちがあるなら信じてみればいいんじゃない?」
オリヴィエはにっこり微笑むと、自分の携帯電話を取り出して、何やらダイヤルし始めた。
「どこに電話してますの?」
ロザリアの問いに、オリヴィエが口元をニッと吊り上げる。
「オ・ス・カ・ーの携帯だよん♪」
「え……ええっ!?」
がたん!と椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がったアンジェリークに、まあ落ち着いてとでも言うようにオリヴィエは手をひらひらと上下させた。
「もしもし、オ~スカー?私だよーん。え?今忙しい?いいじゃない、ちょっとくらい。アンジェちゃんの護衛の件で話があるんだから」
オリヴィエは長い指を優雅にテーブルにとんとん、と打ちつけながらにんまりと微笑んだ。
その表情は、悪戯をどうやって仕掛けてやろうかな、と悪巧みを企んでいるようにも見える。
「うん、あんたの要望通り、今日はアンジェちゃんの外出に付き合ったんだけどさぁ。…やっぱ私には、荷が重いわ」
一体オリヴィエが何を言うつもりなのかもわからないまま、アンジェリークは黙って会話を聞いていた。
「だってさぁ、二人が別々の場所に行きたい時とか、同時に危険な目にあった時とかどうすりゃいいのさ?悪いけど私は、ロザリアを優先するよ」
電話口の向こうで、オスカーが何か大声でがなっている。
「あんたの言い分もわかるけどさ、私1人じゃ重大な事態に備えきれないってコト。別に私に頼まなくても、他に手の空いてるスタッフがいくらでもいるじゃないか。ほらリュミちゃんとか、ルヴァとか…あとクラヴィス局長もアンジェちゃんみたいな金髪のカワイイ子が好みらしいから、頼めば護衛くらい喜んでやってくれるんじゃないのぉ?」
オスカーの口調から勢いが削がれたのが、微かに聞こえる音声から伝わってくる。
オリヴィエは笑いを噛み殺し、とどめの一撃を繰り出した。
「それにね、私とロザリアは結婚するつもりなんだけど、彼女の御両親にお許しを得るには『コンテストの優勝』が絶対条件なんだよね。つーまーり!アンジェちゃんのお世話をする事に関して、私じゃフェアに徹しきれるかわかんないだろ?」
これにはオスカーも驚いたのだろうか、完璧に黙り込んでしまった。
その機を逃さず、オリヴィエが一気に畳み掛ける。
「じゃ、代わりの護衛は私が適当に見繕っておくから。じゃあね~☆」
オスカーに答えさせる間もなくさっさと電話を切ると、オリヴィエはまたどこかに電話をかけ始めた。
「あ、あの、オリヴィエさん…」
「ん?アンジェちゃんは心配しなくていいよ、護衛は誰に頼むか、ちゃんとアタリはつけてあるから。…ああもしもし、ランディ?私、オリヴィエだよ。アンタさ、もっとコンテストのスタッフとして責任ある仕事がしたいって言ってたじゃない。うんうん、じゃあさ、今から出て来れる?良かったらゼフェルやマルセルにも声をかけてよ。オッケー、じゃあ待ってるよん」
あっという間に3人の護衛スタッフを確保したオリヴィエは、両の手を顎の下で組み合わせてテーブルに肘をつき、満面の笑みをアンジェリークに向けた。
「さーて、と。30分くらいしたら、アンタの新しいナイト役が来るよ。歳も近いし、やる気もある連中だから、なんでも気軽に頼むといい」
「あの、あの、でも…」
「なーに、オスカーの事は気にしなくていい。アンジェちゃんにこんなに気を揉ませてるんだから、アイツにも少し同じ思いを味わわせるくらいでいいんだよ。さっきの留守電の事は、私達の口からは誰にも言わないから、安心しな」
オロオロするアンジェリークを尻目に、ロザリアは「さ、じゃあ仕切り直しで新しいお菓子を頂きましょう。ここのケーキは、確かに絶品ですもの」などと優雅にメニューを開いている。
そうこうしているうちに、お店にはコンテストのプロジェクトスタッフの中でも最も若い3人、ランディとゼフェル、マルセルがやってきた。
「ランディ、こっちだよ!急に呼び出しちゃって悪かったねぇ」
「いえオリヴィエさん、俺達に声をかけてくれて嬉しいです!」
ランディと呼ばれた青年は、礼儀正しくオリヴィエにお辞儀をしてから、アンジェリークに明るい笑顔を向けた。
「君がアンジェリークだよね、俺はランディ。オスカー先輩の事はすっごく尊敬してるから、あの人の恋人を護衛するなんて緊張しちゃうけど。これからよろしく頼むよ!」
「まぁオレは正直言ってコンテストなんてメンドーくせーんだけどよ。仕事ならしょーがねーから、やってやるか」
「もうっ、ゼフェルったら!あのね、あんな事言ってるけど、本当は嬉しくてしょうがないんだから。あっ、僕はマルセルっていうんだ。嬉しいなぁ、僕ずうっとアンジェと仲良くしたかったんだよ!力になるから、なんでも遠慮なく言ってよね」
「あ、よ、よろしくお願いします…」
いきなりの自己紹介の嵐に圧倒され、アンジェリークはさっきまで泣いていた事すら忘れてあわあわと頭を下げた。
「じゃ、後は4人で親睦を深めておいで。私達はこれで、失礼するからさ」
オリヴィエとロザリアが立ち上がると、アンジェリークが縋るような視線を向けてくる。
でもオリヴィエは「大丈夫だから」とアンジェリークの肩をポン、と叩き、ドアに向かった。
「じゃあさ、早速アンジェの歓迎会をしようよ!」
「おっ、いいな。オレが行き付けのパブに行くか?テーブルが仕切られてるから、他の客の目とかも気になんねーし」
「あのビールとポテトが旨いところだろ?よし、行こう!」
「あーーーっ、二人とも!僕はお酒が飲めないんだよ!」
「だからオメーが帰りは運転するんだろ。じゃ、頼んだからな!」
「ちょっとずるいよ、ゼフェルー!」
3人は喧々囂々と楽しげに騒ぎながら、アンジェリークの腕を引いて外に向かい、あっという間にオリヴィエ達を追い抜いていった。
「ちょっとアンタ達、アンジェは決勝を控えた大切な身なんだからね!決して無理させるんじゃないよ!」
「大丈夫ですよ、オリヴィエさん!俺達に任せてください!」
4人を見送りながら、ロザリアが少し不安そうにオリヴィエを見上げた。
「…本当に、大丈夫ですの?」
「まぁ、あとはオスカーがどう出るかだけどね。なるようにしかならないけど、アンジェちゃんならきっと大丈夫。だから、お姫さまがここにシワを作ってまで悩む必要はないの」
オリヴィエはロザリアの眉間に寄っていた皺をピン、と爪で軽く弾いた。
「んまっ!」
ロザリアは指で眉間を何度かさすってから、ちろりとオリヴィエに冷たい視線を向けた。
「そう言えば女性とのキスは、今どき挨拶代わりなんですって?さぞかしあなたも、たくさん挨拶をされてきた事でしょうね。実はあなたも、女たらしのオスカー部長と中身はあまり変わらないのではなくて?」
見事なカウンターパンチが決まって、オリヴィエの顔からさぁーーっと血の気が引いていく。
それを確認すると、ロザリアはくるりと背を向けて1人で車に乗り込み、後部座席でさっさとブランケットを被ってしまった。
「ちょ、ちょっと話くらい聞いてよ、ロザリア!誤解だってばーーっ!!」