Sweet company

10. Tie Together (6)

「それでね、マルセルさんが連れてってくれたパイのお店、すっごい美味しかったのよ!」
「…へぇ、そりゃ良かったな」
「ゼフェルさんも一緒に行ったんだけど、甘いものが苦手らしいのに無理して付き合ってくれて。口調はぶっきらぼうだけど、彼なりに一生懸命コンテストに協力してくれてるのよね」
「……かもな」
「ねえ、オスカー」
「なんだ?」
「さっきから、つまらなそうだけど…どうかしたの?」

オスカーは携帯電話に向かって、わざとらしいくらいに盛大な溜息をついた。
「自分の恋人が他の男達と楽しそうに出歩いてる話を聞かされて、面白い訳がないだろう」
「えーーーっ!だって別に遊び歩いてるんじゃなくて、お仕事の一環なのよ?それに何もやましい事なんてないから、こうしてありのままを報告してるんじゃない!」
勢い込んで反論するアンジェリークに、オスカーは思わず苦笑を洩らす。
「わかってるさ、これは単なる男の身勝手ってやつだ。ま、どう考えてもお嬢ちゃんが浮気するはずはないのにな」
「え………」

唐突にアンジェリークが黙り込んでしまったので、オスカーは訝しげに片眉を上げた。
「どうした?」
「…ううん、何でもない。えーっと…そろそろ遅いから、切るね」
「おい、お嬢ちゃ----」
オスカーの問いかけを無視するように、いきなりそこで電話が切れた。

「一体どうしたっていうんだ」
オスカーは電話をかけ直そうとリダイアルボタンに指をかけてから、クライアントとの約束の時間が迫っているのを思い出し、舌打ちしながら立ち上がった。
大股でその場を後にしながら、今の会話を頭の中でもう一度整理する。

アンジェリークは、なぜ急に電話を切ったんだ?
何気ないふうを装ってはいたが、彼女の声には動揺が滲み出ていた。
俺は何か、おかしな事を口走ったのだろうか。
だがいくら考えても、思い当たるフシはない。
じゃあ何故-----まさか、本当に浮気しているとか?

「そんなバカな」
オスカーは思わず足を止めると、苦笑しながらかぶりを振った。
アンジェリークは、俺に隠れてこそこそ浮気をするような器用な女じゃない。
彼女は正直で、真直ぐで----そして何より、一途なくらいに俺だけに愛情を注いでくれている。
そんな彼女が、わずかな期間であっさりと他の男に心変わりするはずがないじゃないか。

そうだ、俺はアンジェリークを信用している。
彼女は悪意の欠片も感じさせず、驚くほど純粋無垢な心の持ち主だ。
他人を信じる事など忘れていた俺だが、彼女に出会って、信じてみたいと思えるようになったくらいなのだから。
電話を切ったのだって、きっと仕事のスランプで疲れてるとか、俺には心配かけたくないとか、そんな事が原因に違いないさ。
つまらない猜疑心で彼女を失いそうになるのだけは、もう二度とごめんだからな。

微かな不安を心から追い払い、オスカーは再び足早に歩き始めた。



アンジェリークは電話を切ると、ふぅーっと肩で大きく息をついた。
急に電話を切っちゃって、オスカーにも変に思われたかもしれない。
さらっと上手に受け流せばいいのにと、頭ではわかっていたんだけど…私にはとてもじゃないけど、そんな余裕はなかった。

だって私が浮気するはずがない、なんて簡単に言うんだもの。
それでオスカーが安心して、他の女性と浮気しまくっているんだとしたら…それこそ私はただの「都合のいい女」でしかないじゃない。

オスカーから見ると私は、放っておいても男が寄り付くはずもない、平凡な田舎娘にしか見えてないんだろうか。
それとも結局は、私の事なんてどうでもいいから----愛してないから、あんなふうに軽く言えるんじゃないの?

私はオスカーが他の女性とキスをして、そのうえベッドに誘われたと知っただけで、嫉妬で気が変になりそうなのに。
彼の無実を信じたくても信じきれなくて、一日中不安に苛まれ、夜も満足に眠れない。
オスカーに愛されているという自信がないから、信じるべき拠り所が持てなくて、苦しんでいる。

私とオスカーの思いの深さは、いったいどこまで違うんだろう。
恋人同士のはずなのに、なぜこんなにいつまでも満たされず、苦しいの?
アンジェリークは絶望的な気持ちになって、手にした携帯電話を暗い瞳で見つめた。

留守番電話に入っていたメッセージの事も…言わなくちゃと思いつつ、結局今日も言い出せなかった。
このアマンダという女性からの連絡を、オスカーは待っているのかもしれないのに。
仕事関係の知り合いかもしれないんだし、私がメッセージを伝えなかった事で、仕事に差し障りが出る可能性だってある。
それでも彼が出張に出ている間には、このメッセージを伝えたくない。
ずるいと言われてもいい、私はオスカーに-----この人と会ってほしくないんだもの。

恋をすると、幸せで優しい気持ちになれるのだとばかり思っていた。
でも実際は、苦しくて惨めで、自分の醜さを思い知らされるばかり。
早くオスカーの胸に抱かれ、こんな不安な感情から解放されたい。

オスカーが出張から戻るまで、あと一週間。
たったの一週間なのに、なんて長い時間に感じてしまうんだろう----



---◇---◇---◇---◇---◇---





アンジェリークはお風呂から上がると、タオルで髪を拭きながら壁のカレンダーに目を向けた。
大きな花丸をつけてある日付を見るだけで、いいようのない安堵感が身体中を駆け巡り、自然と笑みが溢れる。

いよいよ明日、オスカーが帰ってくる!
寂しくて辛かった日々も、今日限りでおしまい。

明日は何時に帰ってくるのかな?すぐ、会えるんだろうか。
さすがに疲れてるだろうから、無理は言えないけど…もし会えるんだったら、精一杯お洒落して、美味しいものでも作って、できる限りゆっくり寛がせてあげなくちゃ。

そんな事を考えていたら、傍らの携帯電話が鳴り響いた。
(オスカーからだっ!)
アンジェリークは飛びつくようにして電話に出ると、思いきり声を弾ませた。

「オスカー?ちょうど今ね、オスカーの事を考えてたの!」
「まだ起きてたのか。夜更かしはダメだぞ…と言いたいところだが、お嬢ちゃんの元気そうな声が聞けて安心した。ここ一週間は妙に元気がなかったんで、気になってたんだ」

オスカーの言葉に、アンジェリークはどきりとする。
いきなり電話を切ってしまったあの日からずっと落ち込んでいたのを、やっぱり見抜かれてたんだ。
自分ではあれからできるだけ明るく話していたつもりだったんだけど、声に出ちゃってたのかなぁ?

「…レシピが全然決まらなくて、悩んでたの。でもオスカーが帰ってくれば、きっとスランプなんて吹っ飛んじゃうから!で、明日は何時頃にこっちに着くの?」
「----それが明日には、帰れなくなった」
「ええええええ~~~っ?!そ、そんなぁ…」

ショックと落胆のあまり声が裏返ってしまったが、対するオスカーは憎らしいくらい平然と構えている。
「なんだ、俺が帰ってこないのが寂しいのか?」
「あ、当たり前じゃないの!すっごく、すっごぉーーく楽しみにしてたんだからっ!」

アンジェリークの声に泣きそうな響きが混じった途端、オスカーがくくっ、と小さく笑い声を洩らす。
「ひどーい、なんで笑うのぉー!」
「いや、そんなに待ち望んでもらってるとは嬉しいもんだな、と思って」

その愉快そうな物言いに、アンジェリークは瞳に涙を溜めながらもぷぅっと頬を膨らませる。
「…どうせ私ばっかり……会えるのを心待ちにしてて…でも……それを笑わなくてもいいじゃない…っ!」
「いや、俺もお嬢ちゃんには会いたくてたまらなかった。言っとくが俺だって、寂しかったんだぜ?」
「う、嘘ばっかり!」
「ひどいな、こっちはお嬢ちゃんに会いたい一心で、必死に帰国スケジュールを調整したって言うのに。これじゃあ俺の苦労も報われないな」
はぁー、とわざとらしいくらいがっかりした溜息が聞こえ、アンジェリークは急に不安になって問い返した。

「帰国のスケジュールって…じゃあ、いつ…帰ってくるの…?」
「もう、帰ってきてる」

「……………へっ?」

「今さっき、セントラル空港に着いたところなんだ。荷物をピックアップしたらすぐにお嬢ちゃんちに向かうから、あと一時間くらいでそっちに行ける」
「ええええっ?ちょ、ちょっと待って!」
いきなりの急展開に頭がついていかなくて、アンジェリークはぐるぐると目を回した。

「なんだ、俺に会えるのが嬉しくないのか?」
「そ、そうじゃなくてっ!帰国って明日じゃなかったの?」
「お嬢ちゃんに早く会いたかったから、仕事を一日分前倒しにして終わらせてきたんだ」
さらりとと言い放たれ、アンジェリークは言葉を失った。

「それで、どうなんだ?今夜は俺がそっちに行っても、構わないのか?」
アンジェリークは慌てて首をぶんぶんと縦に振る。
「も、もちろん大丈夫!何時でも待ってるから!」
「いや、もう遅いから先にベッドに入ってろ。…ああ、でも服は全部脱いどけよ」

かあぁ、と顔を赤らめたアンジェリークの耳にオスカーの笑い声が響いて、そこでいきなり電話は切れた。
しばらくそのままの姿勢で固まっていたアンジェリークは、10分ほど経過してからようやく正気を取り戻した。

「ど、どど、どうしよー!」
さっきまでオスカーが帰ってきたらお洒落しようとか、美味しい料理を作ろうとか計画を練っていたはずなのに、パニック状態の頭からは全てが吹っ飛んでしまっている。

「えっとえっと、とりあえず…ベッドに先に入ってろって言ってたわよね」
ぎくしゃくとベッドに向かってから、オスカーの次の台詞を思い出す。

----服は全部脱いどけよ-----

「えええええええーーーーーーーーっ!?」
まるで今始めて聞いたかのように、アンジェリークは叫び声をあげた。

「それって…やっぱり…えーっと……そういう事…よね?」
ぶつぶつと独り言を呟きながら下を向くと、都合のいい事に自分は裸にバスタオルを巻いただけの姿だ。
「これはオスカーの望んだ事なんだし……えーいっ、女は度胸よ!」
アンジェリークは思いきってバスタオルをがばっ!と投げ捨てると、そのまま勢い良くベッドに潜り込んだ。

5分経過。
ベッドの中でもじもじと身体を曲げたり伸ばしたりを繰り返し、何度も寝返りをうつ。

10分経過。
身体中がかっかと火照ってきて、肌がじっとりと汗ばむ。

15分経過。
下腹部がずきずきと疼き始めて、全身の皮膚が敏感になり、シーツに肌が擦れるだけで妙に感じてしまう。

20分経過。
オスカーに甘く貫かれる映像が頭に浮かんで、脚の間がきゅっと引き締まり、熱い蜜が滲むように溢れてくるのが自分でもわかる。

25分経過------

「も、もうダメ!」
アンジェリークはベッドから飛び出すと、ぷはーっと詰めていた息を吐いた。
全身汗びっしょりで膝はがくがく震えていて、立ち上がった拍子に生暖かい粘液がとろん、と太股の間を流れ落ちていく。
さっきのオスカーの一言で眠っていた欲望が呼び起こされ、3週間も活動を休止していた女性ホルモンが、一気に噴出してしまったようだ。

「こ、こんなんじゃとてもベッドで待ってなんかいられないよ~!」
全身を真っ赤に火照らせながらアンジェリークはクローゼットを開け、急いで白いタオル地のバスローブを取り出した。
ふかふかした厚手の生地に袖を通して前をしっかりかき合わせると、ウエストにぎゅっと共布のベルトを結ぶ。
素っ裸ではなくなった事で、いくらかだけど気分が落ち着いた。

とりあえず、玄関でオスカーが来るのを待っていよう。
ベッドの中でじっとしてるなんて出来そうにないし、何より一刻も早く顔が見たいんだもの。
アンジェリークは玄関に向かったが、結局そこでも落ち着きなくうろうろとその辺を歩き回り、携帯電話を眺めてはバスローブのポケットにしまったり、水を飲んではトイレに行く、を何度も繰り返す羽目になった。

ふと玄関脇にかけられた小さな鏡に映った自分の姿を見て、アンジェリークは青ざめた。
お風呂を出てから髪すらとかしていなかったので、髪はもつれてぐっちゃぐちゃ、もちろん顔はすっぴんだ。
「や、やだ!少しは綺麗にしとかなきゃ-----」
慌てて洗面所に向かおうとした途端、背後で玄関のドアがかちゃりと開く。
ぎくりと凍り付いたように固まってから、恐る恐る振り向くと----そこには少し驚いたように目を見開いて立ち尽くす、オスカーの姿があった。

「お、おかえりなさい!…えっと、こんな格好で…し、失礼しました…」
緊張と恥ずかしさと嬉しさが入り交じり、頭が混乱して支離滅裂な発言をしてしまったら、オスカーがフッと口元を緩ませて、荷物をどさりと床に投げ下ろした。

「ただいま、俺のお嬢ちゃん」
あっという間にオスカーの身体が目の前まで迫ってきて、いきなり強く抱きすくめられた。
広い胸に包み込まれて彼の暖かい体温を感じ、アンジェリークは思わずほぅっと安堵の吐息を洩らす。

「オスカー、すっごく、すっごく…会いたかった……」
もっと言いたい事はあったはずなのに、いざ彼を目の前にしたら、胸がいっぱいでこれしか言葉が出てこない。
両腕をオスカーの背中に回し、言葉にならない思いの丈を全て込めてぎゅっと抱き返すと、力強い鼓動までがはっきりと感じられた。

「俺も、会いたかったぜ…」
掠れた声で囁かれ、顎に指がかけられて上向かせられた。
青い瞳が真剣な色味を帯び、アンジェリークの存在を確かめるかのように視線が顔中を這い回る。
それから触れるだけの軽い口づけが唇に何度も落とされて、それだけでアンジェリークは幸せな感情に満たされていく。
オスカーがここにいる。幻でも夢でもなくて、間違いなく私の側に。
昨日まであれだけ自分を苦しめていた醜い感情や疑惑の数々が、この瞬間に魔法のように消えていくのがわかる。
オスカーはまだ少し湿っている金の髪に顔を埋めながら、楽しげに笑った。

「…遅いから先に寝てろって言ったのに、言い付けを守らなかったな」
「先に寝てろなんて、言われなかったもん。『服を脱いでベッドに入ってろ』でしょ!そんな事言われたら、緊張しちゃって眠れるわけないじゃない」
アンジェリークは顔を赤らめながら、不服そうに口を尖らせてオスカーを見上げた。

「そうだったか?俺はお嬢ちゃんの幸せそうな寝顔が見られればそれでいい、と思ってたはずなんだが」
見下ろすオスカーの瞳が柔らかな光を帯び、ゆっくりと笑みくずれる。
その笑顔から彼の優しい思いがストレートに伝わってきて、アンジェリークはふいに胸を突かれた。

「ここんところお嬢ちゃんは元気がなかったから、心配で一日予定を早めて帰ってきたんだが…急な帰国だったから時間も遅くなっちまったし、まあ今日はお嬢ちゃんの横で静かに眠れればいいな、くらいに考えてた。…そこに裸でいてくれれば最高だなと思ってたのも、事実だがな」
オスカーは楽しそうに笑ってからふと真顔になり、壊れ物を扱うかのようにアンジェリークの頬をそっと両手で包み込んだ。
「少し痩せたな…スランプはそんなにきついのか?」

見上げるアンジェリークの瞳に、透明なブルーの瞳が心配そうに翳っていくのが映り込む。
私はもしかして、とんでもない思い違いをしてたんじゃないだろうか。
オスカーは出張先で浮気して、私の事なんて気にも留めてないと思い込んでいたけど----
今の彼は、心から私を案じてくれている。それが、はっきりと伝わってくる。

それに電話で私の様子がおかしかった事も、気付いてくれていたし。
無理をして仕事を片付けてまで、帰国を早めてくれて、その足で私に会いに来てくれた。
毎日のように電話をくれて、オリヴィエさんにわざわざ私の護衛を頼んで…
そうよ彼はいつだって、私を気にかけて、大切にしてくれてたんじゃない。
なのにどうして、それに気付けなかったんだろう?

「出張先で浮気してる」って噂や、それを裏付けるような留守電メッセージを聞いて、私は簡単にそっちを信じてしまった。
確かにオスカーは浮気していたのかもしれない。でも、していない可能性だってあったのに。
そんなに気になるなら直接オスカーにぶつかってみるべきだったのに、恐いからとそれすらせず、楽な道に逃げ込んでしまってた。
そうして私は愛している人よりも、関係ない他人の噂を信じて、オスカーの優しさや思いやりすら見えなくなっていたんだ----

今から思えば「お嬢ちゃんが浮気するはずはない」と言ったのだって、そのまま額面通りの意味だったのかもしれない。
オスカーが私を信頼して言ってくれた言葉だったのに、私は勝手に悪い意味に解釈して、勝手に落ち込んでしまっていた。
証拠もないのに彼を疑い、浮気という裏切りを受けたと思い込んでいたけど……本当は私のほうこそが、オスカーの信頼を裏切っていたんじゃないだろうか-----

罪悪感が胸を締め付け、まともにオスカーの顔が見れなくて視線を逸らした。
だけどオスカーは、それを「スランプがきつい」という問いかけへの答えだと思ってしまったようだ。
もう一度アンジェリークを抱き締めると、あやすように優しく背中を撫でてくる。

「心配するな、今日から俺がいる。どんな事でも力になってやるから」

頭上から聞こえてくる力強い声に、アンジェリークは泣き出しそうになった。
疑心暗鬼で見る目が曇っていた自分が、恥ずかしい。
形ばかりの「愛している」という言葉を欲しがって、信じてくれていた人に同じ信頼を返してあげられなかった。
オスカーはこんなにも優しくて、私を大事にしてくれていたのに。

この人の優しさに寄り掛かり、何もなかったふりをして過ごすのは簡単だ。
でもそれでは…いつかまた同じ問題にぶつかって、ぐじぐじと悩んでは彼を疑い、解決されない問題はどんどん心の奥に山積みになって、いつか被害妄想の塊へと変わってしまうだろう。

ならば、今。
勇気を出して、オスカーにぶつかってみるしかない。
彼を怒らせて、ここで全てが終わってしまうかもしれない、それでも----
どこかでこの澱んだ流れを断ち切らなければ、私達の仲は永遠にここから進展していかないのだから。

「…オスカー、話したい事が…あるの」
オスカーの胸に顔を埋めたまま、震える声でアンジェリークは呟いた。
「うん?どうした、何でも言ってみろ」
「私、オスカーに…隠してたの。…すぐに、言わなきゃいけなかったのに……」
「何の事だ?」

要領を得ないアンジェリークの言葉に、オスカーは訝しげに眉を寄せた。
アンジェリークは両手でそっとオスカーの胸を押して身体を離すと、バスローブのポケットに入っていた携帯電話を取り出して、彼の目の前に差し出した。

「留守電に入ってたメッセージ、勝手に聞いちゃったの。そのうえ、どうしてもそれをオスカーに…伝えられなかった……」
「メッセージ?別にそんなの、構わないぞ」
言いながらオスカーは携帯に耳を当て、留守電のメッセージを再生する。

最初にオリヴィエからの短いメッセージが数件聞こえ、それからオスカー自身のメッセージが流れる。
「一体これの何が…」
そこで、聞き覚えのある女の声で、メッセージが流れた。

(オスカー?私よ、アマンダ。この前は久しぶりに会えたのに、二人きりになれなくて寂しかったわ。ねぇ、週末が空いてたら、私の家に来ない?この前のキスの続きを、しましょうよ。…連絡、待ってるわ。じゃあね)

オスカーが素早くアンジェリークに視線を投げかけると、彼女は俯いたまま肩を小さく震わせている。
「…嫌な思いをさせちまったようだな。だが彼女とは、何もないから---」
アンジェリークをなだめようと手を伸ばし、その震える肩に触れた瞬間-----彼女はびくっと身体を固くし、逃げるように後ずさった。

「…でも、この人と……キス、したんでしょ?」
聞き取れないくらい小さな声で尋ねてくるアンジェリークに、オスカーは前髪を掻き上げながら、ふぅっと疲れたような溜息をこぼす。
「あんなのは、ただの挨拶だ。それ以上の意味はない」
「でも………!」

アンジェリークは言い淀み、何度も唇を噛んだ。
胸の前でぎゅっと組んだ両手が、小刻みに震えている。
これ以上言えば、おそらくオスカーを怒らせる一線を、超えてしまう。
でももう、後戻りは出来ない。
アンジェリークはぎゅっと目を瞑り、怖じ気付く自分を叱咤した。

「……オスカーは出張先にたくさんの恋人がいる、…って噂を、聞いたの……」



二人の間に、重苦しい沈黙が流れた。
オスカーは何も答えず、アンジェリークも俯いたままだ。
いきなり彼が怒り出すのではないかと、アンジェリークは肩に力を入れてその時を待ったが、その時はなかなか訪れない。
沈黙はやがてじわじわと肺を締め上げ、息が詰まる。

「---なるほど、俺はお嬢ちゃんに信用されてなかった、って訳か」

くくっ、と自虐的な笑いが聞こえてきて、アンジェリークは驚いて顔を上げた。
オスカーは肩を竦め、口の端をあげて笑っていた。
だがそのアイスブルーの瞳は笑っておらず、氷のように冷たい光を放っている。

「全く俺も、とんだ道化だな。初めて信じたいと思える女に出会ったのに、その相手には信じてもらえないんだから。…まあ俺の今までの風評の悪さを思えば、それも無理ないよな?」

オスカーはアンジェリークの顎に指をかけ、ぐいと上向かせて視線をぴたりと合わせる。
彼の瞳には押し殺した怒りが青い炎となって燃えていたが、ほんの一瞬だけ苦しげにその瞳が細められた。
そこに刹那浮かんだ感情に、アンジェリークは衝撃を受けて目を見開く。


彼を、怒らせてしまった。
ううん、怒らせただけならまだ良かったのに。
信じられないけど私は彼を----傷つけてしまったんだ。

怒りに燃え上がる彼の瞳の奥に、一瞬だけ走った「痛み」。
瞬く間にそれは固い殻の中に閉ざされ、見えなくなってしまったけれど。
でも私は、見つけてしまった。
恐らくオスカーが誰にも見せた事のない感情、彼にだけは決してないと思っていた----「弱さ」を。

自分のような平凡な小娘が、オスカーのような完璧な男性を傷つけられるなんて、思いもしなかった。
でもそれだけオスカーは、私を信じてくれていたんだ。
なのに私は、彼を失望させ、落胆させるという最悪の返礼をしてしまった。
どうしよう、どうしたらいいの?
オスカーの痛みを取り除き、彼の信頼を取り戻すには。

相変わらず口元にだけ笑みを乗せ、オスカーはほとんど表情を変えないままでアンジェリークを見つめ続けている。
彼が何を考えているのか、これからどうするつもりなのか、全く読み取れない。

「…俺は浮気などしていないと言い張ったところで、証明するものなんて何もない。つまり今後もお嬢ちゃんは、俺が出張する度に疑い続け、悲しい思いをし続けるって訳だ。どうだ?こんな思いをさせる男など、今すぐ別れるか?」

オスカーの口から突然飛び出した「別れ」の言葉に、アンジェリークはほとんど反射的に、首を横に振っていた。
「いや…!別れたくない、絶対いや……っ!」
喉の奥から叫ぶような声が出て、同時に涙が溢れ出た。

「…い、や、……いや、いや、…いや…ぁ……っ!」
こんな風に惨めに泣いて縋り付くような女など、オスカーは重荷に思うだけだと、わかっていても。
感情が昂り過ぎていて、もう止められなかった。
別れたいなんて、思うはずがない。
どんなに辛い思いをしても、それでも一緒にいたい。
「別れ」という言葉を突き付けられて、初めてわかった。
オスカーのいない生など、もう考えられないのだから。

突然、オスカーに両手首を掴まれた。
かと思うと、次の瞬間には壁に強く背中を押し付けられ、彼の大きな身体が覆い被さってきた。

「んんっ!……ぅ……ふ…ぅ…」
最初は何が起きたのか、わからなかった。
ただ息が出来なくて、目がくらくらした。

オスカーが一度顔を離し、再び角度を変えて俯いた時に、ようやくキスされてるんだと気付いた。
泣きわめいていたアンジェリークをなだめるように、最初は優しく探るようだった口づけは、次第に深く激しさを増していく。
まだ時折しゃくりあげるアンジェリークの吐息を容赦なく飲み込み、体と体が隙間なくぴったりと密着する。
差し入れられた舌がアンジェリークの口腔内を貪り、何もかも絡め取って奪い去っていく。
ようやく口づけから解放された時には、アンジェリークの涙は既に止まっていたが、膝はがくがくと震え、頭はぼうっとしてはっきりとものが考えられなかった。

「…俺もすぐに別れる気などない。だがこのまま疑われ続けるのも、我慢がならないな」
すぐ目の前にあるオスカーの瞳が危険な光を放ち、それから警告を発するような笑みが浮かんだ。
「…3週間も女を抱いてなかったと証明するために、お嬢ちゃんをこれから3週間、この腕に閉じ込めてどこにもやらず、気を失ってもひたすら抱き続けてやろうか?」

「それでも…いいよ」
アンジェリークは茫然自失の表情のまま答えた。
「オスカーを信じられなかった時間は、すごく辛くて苦しかった。だから…オスカーを信じられるのなら、一緒にいられるのなら。そして疑った私を許してくれるのなら----何をされても…構わない」

彼が驚いたように瞳を見開き、その奥にまた何か不可思議な感情が往来した。
だがオスカーはすぐにまた唇を引き結んで表情を消すと、手を伸ばしてアンジェリークのウェストに巻き付くバスローブの紐に手をかける。
ぐいっと強く引っ張られたとたんに、結び目はあっけなく解けて前がはだけ、次の瞬間には手品にかかったように、ローブは床に落ちていた。

いきなりの出来事に反応が遅れ、アンジェリークは体を隠す隙さえ与えられず、一糸纏わぬ姿をオスカーの眼前に晒していた。
未だビジネスシャツにネクタイという姿のオスカーの前で、裸の自分はあまりにも頼りなく感じ、慌てて身を守るように両腕を体に巻き付ける。

「下着も着けてなかったのか。…こんなところだけはちゃんと俺の言い付けを守っていたんだな」
オスカーは皮肉っぽい笑みを浮かべながら、アンジェリークを抱き上げて、大股でベッドルームに向かった。
ベッドにアンジェリークの裸体を横たえ、オスカーはその脇に立ち尽くしたままじっと視線を注ぎ続ける。
彼の視線は謎めいていて、怒っているようでもあるし、物思いに沈んでいるようにも見えた。

オスカーは無言のまま、ゆっくりとネクタイの結び目に指をかけた。
2、3度横に揺すりながら結び目を解くと、しゅるんと首からオリーブグリーンのシルク地を抜き取る。

そこで突然、時間の流れが早まった。
オスカーはいきなりアンジェリークの上に跨がり、華奢な両手首を片手でまとめて掴むと、口を使って器用にネクタイで結んでしまう。
そのまま腕を頭の上まで持ち上げてから、ネクタイのもう片端を素早くベッドのヘッドボードに結びつける。

突然ベッドに縛り付けられる格好になり、アンジェリークは驚きに瞳を見開いた。
その大きな緑の瞳に怯えたような色が走り、唇が小刻みに震えるのを見て、オスカーは残忍な笑みを口元に浮かべた。

「…俺が恐いか?」

アンジェリークは瞬きもせずにオスカーを見据え、必死で首を横に振った。
心臓は早鐘を打ち、指の先まで脈打つ感覚が広がっていく。
「違うの、オスカーが恐いんじゃない。だってオスカーが、私を痛めつけたりするはずがないもの。…恐いのは……私の心、なの」

「お嬢ちゃんの心?」
意味がわからないと言いたげに、オスカーは眉をひそめた。
アンジェリークの瞳は今にも泣き出しそうな程潤んで、ゆらゆらと揺れ動いている。

「そうよ、オスカーを信じられなくて、あんなに疑ってたくせに…これから抱かれるかもと思うだけで、震えるくらい嬉しいの。オスカーになら、何をされてもいいの。でも…こんな風に考える自分がいるなんて、信じられない。私が私じゃないみたいで……恐い」

馬乗りになっていたオスカーの全身が張り詰め、口元がきつく結ばれた。
短い沈黙が流れる。



「…そんなに無条件に俺を信じられるくせに、どうして肝心な時に限って疑うんだ?」
オスカーの口元には嘲るような薄い笑みが乗っていたが、その瞳は絶望的なまでに暗い。

「安心しろ、3週間もかけるつもりはない。だが、そうだな……今晩中には決着をつけてやるよ。どこまで俺を信じられるのか、じっくり見せてもらおうじゃないか」

ぞっとする程冷たく穏やかな声で、彼はそう告げた。