Sweet company

2. Deep Impact (2)

オスカーと呼ばれた男性は、アンジェリークを抱き上げたままの姿でエレベーターに向かっていった。
彼がエレベーターの前に立った途端、スーッとはかったようにドアが開く。
大勢の人間がドアの中から吐き出され、その流れが途切れたところで彼はエレベーターに乗り込んだ。

…やだ、みんながこっちを見てる。
まわりの人間達の好奇の視線を感じ、アンジェリークは恥ずかしさに頬を染めてオスカーの腕の中でうつむいた。
混雑したエレベーターの中で、こんな目立つ男性にお姫さまだっこなんてされてるから、じろじろ見られてもしょうがないんだけど。
でも彼のほうはまわりの視線などどこ吹く風で、平然と前を向いたままだ。
やがてチン、というチャイムの音と共にドアが開き、オスカーは大股でエレベーターから降りた。

人気の少ない廊下を歩くと、奥の方に「医務室」と書かれたドアが見える。
オスカーはノックをしてドアを開けたが、中は明かりが消えていて真っ暗だ。
「…もう、担当医はランチに出ちまったらしいな」
片手でドアの脇のスイッチを押して明かりをつけると、オスカーはアンジェリークを抱いたまま奥のベッドのほうへと向かった。

…あーん、また緊張してきちゃった。
だって、こんな素敵な人が----私をお姫さまだっこして、ベッドまで連れていってくれてるんですもの。
そうは言っても、ここは医務室。殺風景な白いベッドに薬品の匂い、ロマンティックのかけらもないシチュエーションだし-----別にこれから何が起こる、って訳でもない。
この人はただ、治療の為にここに連れてきてくれただけ。
だけど、さっきから妙に身体が熱い。
顔もカッカするし、胸もドキドキするし----それに、なんだか腰のあたりがムズムズする。
なんか変な感じ……気持ち悪いような、気持ちいいような。
私ったら、本当にジョッシュ以外の男性に免疫がないのね。
だからこんなに、全身で過剰に反応しちゃうんだわ、きっと。

オスカーはアンジェリークの身体をそっと下ろすと、ベッドの端に腰掛けさせた。
すぐにその足元にしゃがみ込み、顔を上げてアンジェリークのほうを見た。
「医者がいないから、代わりに俺が見よう。こう見えても怪我の手当ては得意分野だから、安心してくれ」
そう言ってスカートの裾に手をかけると、フッと口元に悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「さっきは叫ばれちまったけど、今度は膝を見ても構わないかな?」

アンジェリークの顔が、かぁっと一気に赤味を帯びた。
「あ、は、はい!……あの、さっきはごめんなさい。それから、あの…助けてくださって、ありがとうございました」
「気にしなくていい。困っている女性を見たら助けるのが当たり前だ」
オスカーは話しながらスカートを持ち上げ、膝を見て顔をしかめた。

「こりゃあひどいな」
「え!何か、ひどい怪我なんですか?」
既に痛みも消えはじめていたのに「ひどい」と言われ、アンジェリークは驚いて自分の膝を眺めた。
そこには大きな青痣ができており、その中心が少し擦りむけて血が滲んでいる。
でも、ケガ自体はたいした事はない。ひどかったのは-----ストッキングの方だ。
びりびりに破け、伝染してるとかそんな生やさしい状態のものではない。

「とりあえず、ストッキングは脱いだほうがいいな」
さらりと言われて、アンジェリークは凍り付いた。
こんなかっこいい人とベッドの前で向き合って、しかも彼は足元に跪いて私のスカートをめくり上げてる。
それだけだって充分恥ずかしいのに、この上彼の目の前で、ストッキングを脱げですって?
そんな、それじゃまるで……これから「事」を始めるみたいじゃないの。
もちろんそんなはずがある訳ないんだけど、恥ずかしさで身体が過剰に反応し、全身がかっと火照って汗ばんだ。

アンジェリークが真っ赤になって固まっているのを見て、オスカーは面白そうに眉を上げた。
「なんだ、恥ずかしいのか?大丈夫だ、俺はお子さまには下心は持たない主義だから。だが、気になるなら後ろを向いてるさ」
オスカーにさっさと後ろを向かれ、アンジェリークはホッとしたような悔しいような、複雑な心境になった。

「お子さま」ですって。オ・コ・サ・マ!
こう見えても私、一応ハタチなんですけど。
そりゃあ童顔だし、格好も田舎くさくて子供っぽいでしょうよ。けど、ちゃんと仕事も持ってるし、恋人だっているし、その上結婚だって迫られてるんですからね!
アンジェリークが内心憤慨しながらストッキングを脱いでいると、オスカーが背中を向けたまま話しかけてきた。
「お嬢ちゃんは、この会社で見かけた事はないが……御両親か家族がここで働いてるのか?」

アンジェリークは、今度こそ本当に怒りだしそうになってしまった。
「お嬢ちゃん」ですって。この人、私が親を尋ねて迷子になった子供にでも見えるのかしら?
反論したいけど、とりあえずピンチを助けてくれた恩人には、丁寧に接しなくちゃ。
アンジェリークは怒りを押し殺し、できるだけ冷静な口調で答えた。
「いえ、お仕事のお話をいただいたんです。うまくいけば、今日からこちらで働かせていただく事になりそうなんです」
「仕事?という事は君は、いくつなんだ?」
本当に驚いたふうに尋ねられ、アンジェリークの小さな自尊心はかなり傷付いた。
「一体私って、いくつくらいに見えてるんですか?」
オスカーに見えていないのをいい事に、彼の背中を睨み付けながら、あくまでも口調は自然なまま問いかける。
「いくつって……17、8ってとこだろう?仕事って、カフェのアルバイトか何かか?」
「違いますっ!ちゃんとした契約社員のお仕事です。私、こう見えてもハタチです!!」

ついに我慢の限界がきて、ついつい大声で言い返してしまった。
でもその大声は、すぐに叫び声に変わった。
だって、突然彼が……振り向いたんだもの。

「ハタチ?」

その時私は、スカートを腰までめくり上げ、ストッキングを太股まで下げた状態で------つまり、パンティーがばっちり丸見えな状態だった。



「きゃあぁぁーーーーーっっ!!」

彼が振り向いたのは、本当に一瞬で、すぐにまたこちらに背中を向けていた。
あんな一瞬だったのだから、下着までは見えていなかったかもしれない。
そうよ多分、見えてないはず。
お願い神様……見えて、いませんようにっ……!

「すまんすまん、わざとじゃないんだ。ただ、女性の年齢を見間違える事はあまりないんで驚いたんだ。悪かった」
彼は謝罪の言葉を口にしてはいたけれど、その口調はいかにも笑いを堪えているといった風で、肩が微妙に震えている。

…笑いを堪えてる…って事は………
絶対、ぜったい、ぜーーーーったいに、見られた!
………お気に入りの、いちご柄のぱんつ………

見ると彼はますます肩を大きく震わせ、クックッと小さな笑い声を洩らしている。
「……ハタチの女でも、いちご柄が好きな人間はいます。笑うのは、失礼じゃないですか?」
精一杯口調に冷静さを滲ませながら、いまいましいストッキングを足から引き抜いた。
彼はとうとう堪えきれずに顔を上げ、はははっ、と大声で笑い出した。
カッコイイ人だと思ってたけど、こうなると彼すらもいまいましい。

「…ストッキング、脱ぎましたけど」
ぶっきらぼうに言い放つと、笑いを納めきれないまま彼が振り向いた。
途端に私の顔が、真っ赤に染まるのがわかる。
全く、ハンサムな人ってそれだけで反則だわ。
ばかにされてるってわかってるのに、笑顔がすっごく素敵なんだもの。
それにさっきまでの口元ニヤリ笑いより、今のほうがずっと自然でいい感じだし。

彼はまだ笑ってたけど、イチゴ柄の件に関しては何も言わなかった。
何事もなかったかのように薬棚から消毒薬や包帯を取り出すと、再びアンジェリークの前に跪いた。
むき出しになった膝に丁寧に触れ、慎重にケガの具合を確かめている。
素足になった事で、アンジェリークはますます落ち着かない気持ちになった。
「傷はたいした事なさそうだし、痣になってる打ち身もすぐ痛みはひくだろう。ひどかったのは、ストッキングだけだったようだな」
そう言って傷口に消毒薬のついたガーゼを当てると、途端にアンジェリークの膝に、ぴりっとした刺激痛が走った。

「痛っ!」
「滲みたか?」

オスカーが膝に顔を寄せ、傷口にふーーーっと息を吹きかけた。
傷のまわりがひんやりとして、痛みが急速にひいていく。
でもなぜか、今度は膝以外の場所が火照るように熱くなってしまった。
だって、なんだか……彼の仕種が、まるで今にも膝にキスしようとしてるみたいなんだもの。
息を吹きかけられた箇所から、ぞくぞくした感覚が両足の付け根に向かって這い上がってくる。
傷の上から包帯を巻く彼のしなやかな指の動きを、魅入られたようにじっと見つめていると、お腹の奥のほうが締め付けられるような変な感じがして、腰がこわばった。
あの長い指で身体をなぞられたら、どんな感じがするんだろう………?

「よし、これで終わりだ」
オスカーが立ち上がり、両手をぱんぱんと軽く叩く。
その瞬間、アンジェリークは奇妙な感覚から引き戻された。

やだ、私ったら一体、何を考えてたの?
アンジェリークは自分の耽っていた空想の恥ずかしさに、思わず俯いた。
膝に目をやると、包帯はきつくもなくゆるくもなく、適度なゆとりを持って綺麗に巻かれている。
彼が言ったように怪我はたいした事がなかったようで、既に痛みもだいぶ納まった。
怪我の手当ては得意分野だと言っていたけど、確かに彼はこういった事に詳しいのだろう。
この人はただ親切に怪我の治療をしてくれただけなのに、私ったらその恩も忘れて変な事を考えちゃうなんて。

アンジェリークは恥ずかしさと気まずさで、俯いたまま顔が上げられなかったが、その頭上から思いもよらない言葉が聞こえてきた。
「お嬢ちゃんは、これからの予定は?時間があったら、一緒に昼食でもどうだ」
急に尋ねられ、アンジェリークはびっくりして目を見開いて顔を上げた。
「お嬢ちゃんの可愛いイチゴ柄を勝手に見ちまったから、せめてものお詫びに御馳走するよ」
途端にさっきの恥ずかしい思い出が蘇って、アンジェリークは再び顔を赤らめた。

「ま、それは冗談だが、さっきのレディ達とのランチの約束がオジャンになったからな。ひとり寂しく食べてもいいんだが、可愛い女性をエスコートして食べた方が、食事も旨く感じるだろうし」
オスカーが肩を竦めて本当に「1人じゃ寂しい」と言うような表情を浮かべてみせたので、アンジェリークは思わずくすっと笑ってしまった。
だってこの人、自分からさっさとあの女の人達を見捨ててきたくせに、いかにも残念です、って顔をしてるんだもの。
しかも「可愛い女性」なんて台詞付き。こんなふうに持ち上げられて誘われたら、断れる女性なんているはずないわよね。
この人って、かなり女慣れしてそう。こんなに自然に女性を誘える男性なんて、今まで見た事がないもの。
……ってそんなの当然か。こんなかっこいい人が女慣れしてなかったら、逆に変よね。

「私は3時に、ここの人と面接のお約束があるんです。それまでどうせ、時間があいてるからいいですよ」
「3時まで?そりゃあまたずいぶん時間があるな。俺も一緒に時間をつぶしてやれればいいんだが、2時には取引先の人間が来ちまうんで、せいぜい1時間半位しか付き合ってやれないな。その後は1人でも大丈夫か?」
腕時計を見ながら本気で心配そうに覗き込んでくれる彼に、アンジェリークは好感を持った。
この人って見た目よりずっと優しいんだな。
まあ、見も知らぬ女の子を助けてくれて、綺麗な女性達との約束をフイにしてまで手当てをしてくれるくらいだもの、優しいに違いないわよね。
「大丈夫ですよ。どうせ1人で3時間つぶすつもりだったんですから」
「よし、じゃあせっかくだから外に旨いものでも食いにいこう。食べたいものはあるか?」
「えーと、軽いものがイイです。サンドウィッチとか、パスタとか」

オスカーが開けてくれたドアから廊下に出ると、そのまま彼は半歩ほど先に立って歩き始めた。歩調はさり気なく、こちらにあわせてくれている。
レディファーストで、リードしてくれて、思いやりも完璧。これが持って生まれた性質なのだとしたら、この人って本物のナチュラル・ボーン・プレイボーイだわ。
さっき一緒にいた女性達も彼を追っかけてるような感じだったし、普通の女性だったら彼を見ただけで目がハートになっちゃうわよね。
私だって最初に見た瞬間、あまりのカッコ良さにぽーーっとなっちゃったくらいだもの。

こんなに素敵な人だけど、私には恋人がいるし、大体この人は全く私を女として意識してない。
これからランチを一緒にしたら、それでもう会う事もないだろう。
残念だな……とか思っちゃうのはジョッシュを裏切ってるようで申し訳ない気もするけど、こんなかっこいい人と一緒にいたら、そう思っちゃうのはしょうがないわよね。
考えるのだけなら、別に罪じゃないんだし。

「そうだ、自己紹介がまだだったな。俺は……」
廊下を歩きながら彼が名刺を取り出した時、廊下の奥のエレベーターホールから女性達のかん高い声が聞こえてきた。
「もうっ、オスカーったらひどいわ!今日こそ一緒にいれると思ったのに~!」
「あの女とどこかに行ったのかしら?許せないわ!」
「医務室に行ったはずだから、まだいるかもしれないわよ!見つけたら、絶対にこっちの約束を優先させてもらわなくちゃ」

声は廊下のかなり奥のほうから聞こえていたし、話している人影すらまだ見えなかった。
でも、アンジェリークにはその声の主が、誰なのかすぐに理解できた。
エレベーターのところにいたあの女性達だ。すごい、この人の事、追っかけてきたんだ……!

「お嬢ちゃん、こっちだ」
突然腕を真横に引っ張られ、アンジェリークは驚く間もなく小さな部屋の中に引き入れられた。
部屋の中は、真っ暗だ。
「きゃ…」
「しっ、静かに」
口元を手で抑えられ、アンジェリークは驚きに目を剥いた。

「さっきの彼女達が、追っかけてきたみたいなんだ。だがせっかくお嬢ちゃんと二人っきりのランチの約束を取り付けたのに、邪魔されたくはないんでな。この部屋で彼女達が通り過ぎるのを待とう」
オスカーは安心させるように優しい声で語りかけ、アンジェリークの口に当てていた手を外してドアを閉めた。
そのままアンジェの小さな手をとると、部屋の奥のほうへと導いていく。
アンジェリークは暗闇の中をおっかなびっくり歩いていたが、やがて少しづつ目が闇に慣れてきた。

ここは何の部屋だろう……結構広いその部屋は天井まで届く棚がずらりと並んでいて、資料やファイルがびっしりと積まれている。窓がない…という事は、いわゆる物置きとか資料室なんだろうか。
あんまり人が使っているような様子はないけど、とりあえず清掃だけはきちんとされているようで、埃っぽいような感じはしない。
なんにも置かれてない、机と椅子が二つづつ。ドアには小さなすりガラスがはめられていて、廊下の明かりが微かに部屋に差し込んでいる。

女達の声が近くなり、アンジェリークはオスカーと棚の後ろに身を隠した。
「ねえ、医務室にはもう誰もいないわよ」
「でもすぐ追いかけてきたのよ!絶対このあたりにまだいるはずよ」
「この部屋とかは?」

突然、バタンと部屋のドアが開いた。
女達が、どやどやと中に入ってくる気配がする。
アンジェリークの心臓は破れんばかりに大きな音をたてており、あの女性達に気付かれてしまうんではないかと一層不安になった。
縋るようにオスカーのシャツをぎゅっと握りしめると、彼は棚の後ろの小さなスペースにアンジェリークを押し込み、その後から彼も窮屈そうにその場所に入ってきた。
狭苦しい場所で、2人の身体がぴったりとくっつく。
女達が近づいてきたので、オスカーはアンジェリークをかばうように腕を回してきた。

なんだか、抱きしめられてるみたい。
そう思った瞬間、アンジェリークの頭の中から女性達の事がすっぽり抜け落ち、違った意味で心臓がどきどきと脈打ちはじめる。
なんだかすごくこの人の腕の中、居心地がいい。
胸板は岩のように固いのに、あったかくて広くって、不思議なくらい安心できる。それになんだろう、とってもいい匂いがする。コロンとこの人の体臭が混じりあった、男っぽくて熱い香り---------

「ねえ、この部屋って電気はないの?真っ暗だわ」
「スイッチが見つからないわね」
「なんだかしんとしてて気味が悪いわ。こんなところにあのオスカーがいる訳ないわよ」
「入れ違っちゃったのかしら?とにかく、他を探しましょう」
そうねそうねと頷く声が、どこか遠くから聞こえてくるようで、奇妙なくらい現実感がなかった。
女達が出ていくと、部屋は再びしん、とした静寂に包まれた。




----◇----◇----◇----◇----◇----





アンジェリークは、ぼんやりと闇を見つめていた。
まだ頭の中がぐるぐるしてて、何が起こったかよく理解できていない。

薄暗がりの中で、彼-----ああ、名前はなんて言ったっけ、思い出せない------が、シャツのボタンを留めているのがシルエットでぼんやりわかる。

「立てるか?」
彼が大きな手を差し伸べてくれたので、その手に掴まる。
でも、膝ががくがく震えて、立ち上がれそうにない。

彼は無言でアンジェリークの身体を支えて立たせると、落ちていた衣服を拾って身につけさせてくれた。
その手付きは優しくて、さっきまでの激しいけれど思いやりに溢れた行為の時と、全く変わらない。

ああ、そうだ-----私ったら、この人と----今日会ったばかりの、名前すら聞いていない男性と----信じられないけどこの部屋で、会社の一室で----セックス、しちゃったんだ-----


しかも、もしかして、これってやっぱり------

私が、誘った事に、なる…のかなぁ…?