Sweet company

2. Deep Impact (5)

秘書室に通されてディアが来るのを待ちながら、アンジェリークは落ち着かない表情でそわそわと室内を見渡していた。

最上階の会長室に隣接するディア専用の秘書室は、まるで高級ホテルのラウンジのように広く、インテリアも調度品も一級品なのが、素人であるアンジェリークにすらはっきり伝わってくる。
ソファの張り地も光沢のある糸で凝った織模様が浮き出ており、こんなところに座って汚しやしないかと不安になって、深く腰掛けられないので疲れてしょうがない。
出されたティーセットも、シンプルだけどいかにもな高級感があって、恐くて口がつけられない。
素敵で落ち着きのあるインテリアの筈なのに、かえって落ち着かない気分になってしまう自分の貧乏性も、ここまでくると悲しくなる。

大会社の秘書室長だから、ディアさんってすごい女性なんだろうとは思っていたけど。
どうやらこれは、ケタが違いそう。

ここに来る時だって、重役専用の直通エレベーターを使った。
下の受付についた時、約束の時間の5分前で-----あの沢山あるエレベーターの事を考えたら、もう絶対に時間には間に合わないだろうと覚悟していたのに。
高速の広いエレベーターをたった1人で使い、余裕で時間に間に合った。

私みたいな名もない子娘にこんなにいい話をくれるなんて、と少しばかり疑っていたけれど、ここを見たらもうすっかりそんな疑惑は消えてしまった。
もしかしたら私、本当に夢のようなお話を頂いちゃったのかもしれない------

「大変お待たせしましたね」
優雅に微笑みながら、ディアが部屋に入ってきた。
アンジェリークは慌ててソファから立ち上がると、急いで深くお辞儀する。
「あ、こんにちは!えーと、この度はいろいろお世話になりまして、ありがとうございました!」
「まあ、気に為さらないで。あまり緊張せずに、リラックスしてくださいね。それじゃ早速ですが、これからあなたに使ってもらう工房や、コンテストに出場する予定の仲間達を紹介しましょう。どうぞこちらへ」

ディアの後をついて部屋を出ると、2人は重役専用のエレベーターに乗り込んだ。
「これからお見せするお菓子作り用の工房は、このエレベーターでしか行けない場所にあります。コンテストの出場者やレシピの情報は、他のライバル企業には絶対洩らしたくないからなんですよ」
その言葉の持つ重大さを感じて、思わずアンジェリークの身体が小さく震えた。

私ったらなんにも考えないでここに来ちゃったけど、ローズ・コンテストに出場するのってそれだけ大変な事なんだわ。
この国では一流のパティシェと認められる事は大変な名誉だとされているし、一流になる最短の方法は、このコンテストに出場していい成績を残す事だというのも周知の事実。
ライバルは社内外に一杯いてしのぎを削っているし、スモルニィのような大会社の情報はみんな欲しがっているに違いない。
ここで働くっていう事は、ただお菓子を作ってればいいって事じゃない。
秘密を遵守し、この会社の代表としてコンテストに出場するという誇りを失わないようにしなければいけないんだ。

緊張で顔色が青ざめているアンジェを見て、ディアが安心させるように優しく微笑んだ。
「そんなに難しく考える必要はないのですよ。情報の漏えいや外からの妨害行為を察知して排除するのは、こちらの仕事ですから。私や選ばれたスタッフ達が、あなた方が安心して製作作業に打ち込めるよう、環境を整えてお守りしますので心配しないでくださいね。ただ、中にはその網の目をかいくぐってあなた方に接触しようとする輩もいるかもしれません。そういった不安やわからない事があれば、遠慮なくおっしゃってくださいね」

エレベーターを降りると、ディアはそこに立つガードマンに軽く会釈を送る。後に続くアンジェリークも、慌てて頭を下げた。
奥にある大きな耐火扉の前に立つと、ディアは傍らにある掌紋認識のロックシステムに、軽く手のひらをかざした。かちりと金属音が響いて、ロックが解除されたのがわかる。
「ここがあなたの働く場所になります」
そう言って開かれたドアの奥には、3人の若い女性がケーキ作りに励んでいた。

「皆さん、少し手を休めていただけますか?今日から新しいコンテストの候補者がもう1人、増える事になりましたよ」
ディアの呼び掛けに、エプロン姿の女性達が一斉にこちらを見る。
「あ、アンジェリーク・リモージュです。どうぞ、よろしくお願いいたします!」
慌てて挨拶をしたが、緊張のせいか必要以上に声が大きくなってしまった。
そんなアンジェの様子を察したように、ディアが他の女性達との間に入ってくる。
「さあ、皆さんも良かったら自己紹介をしてあげてください。アンジェリークは二十歳ですが、皆さん歳が近いですよね。きっと仲良くしていけると思いますよ」

ディアの言葉に、まずは3人の中から一番大人びた雰囲気の綺麗な女性が前に歩みでた。
「わたくしはロザリア・デ・カタルヘナと申します。あなたとは同い年になりますわ。わたくしも今日ここに来たばかりですけど、この仕事が受けられて大変光栄に思っておりますの。どうぞよろしくお願いいたしますわね」
「ワタシはレイチェル・ハート。私だけ1つ下になるのかな?言っとくけど、優勝するのはワタシだよ。正々堂々と戦いまショ!」
「……えぇっと、アンジェリーク・コレットです。同じ名前なんだぁ、すごい偶然ね。私はみんなにコレットって呼ばれてるから、あなたの事はアンジェって呼んでもいい?同じお菓子好き同士、仲良くやりましょうねぇー」
次々に自己紹介する3人と顔を見合わせながら、アンジェリークは期待と不安の両方を感じて、ぎこちない笑顔を浮かべた。

どんな人達が候補として来てるのか、会ってみるまでは想像もつかなかった。
男性ばかりかもしれないし、年輩の気難しい人もいるかも、とか考えていた。
でもここにいる女性達は、歳も近いし、少なくともとんでもなく気を使うような事はなさそうだ。
ライバルではあるけど、もしかしたらいい友達にだってなれるかもしれない。
3人とも私とは全くタイプが違うから、話とか合うかは心配だけど------お菓子作りとコンテストという共通の目的があるのだから、そんなに心配する必要はないのかもしれない。

それにしても、3人ともそれぞれ違った魅力があって、個性的だわ。
ロザリアって人は、私と同い年には見えないくらい、大人っぽい美人。気品があって、育ちが良さそうで---ちょっぴり、近寄り難い。
レイチェルは今時のお洒落でハキハキした女の子。ミニスカートからすらりと伸びた綺麗な足と灼けた肌はどちらかというとスポーツウーマンって感じで、お菓子をつくるような雰囲気はあまりしないけど---自信に溢れてて生き生きしてる。
それから、私と同じ名前のアンジェリーク・コレット。おっとりしてそうで、優しい笑顔が印象的。この2人に混じると普通の少女っぽさが際立つけど、案外こういう子のほうが芯は強かったりするものだ。

うん、彼女達なら、仲良くやれそうかも。
会社勤めは初めてだから、人間関係がうまくいかないと、働くのが辛くなる。
早く馴染めるように、こっちからも懸命に努力しなくちゃ。

「さ、アンジェリーク。こちらがあなた専用の工房ですよ」
ディアに促されて振り向くと、今4人が立っている広い工房に隣接して、小さな個室が4つあった。
「この工房には4人で共有する広い部分と、個人で使える部屋があります。秘密のレシピを作りたかったら個室を使用するのもいいですし、共有部分で相談や批評を互いにしながら作り上げてもいいのですよ」
個室は中央に大きなアイランドカウンタがあり、周りにはオーブンやシンク、ガステーブルなどが使いやすく配置されている。
「調理に必要な用具は一通り揃ってますが、必要なら言っていただければ買い足します。材料は基本的なものは共有部の食品庫や冷蔵庫に入ってますけど、より上質な素材や特殊な材料を求める場合は、専属のスタッフと探しに行ってもらう事になります」

「専属のスタッフ?」
アンジェリークの問いかけに、ディアは少し思案してから答えた。
「ええ、社内で特別に専属チームを編成し、このコンテストの補佐をお願いする事になってるんです。ちょうど1週間後にはメンバーが確定する予定ですから、あなたがその時にここで正式に働く事を決めてくださったら、ご紹介できるはずですわ」

個室付きの工房に、専属のスタッフチーム。
何から何まで大きなプロジェクトなんだわ、とアンジェリークは改めて実感した。
でも、こんなにやりがいのある環境と仕事にはめったに出会えそうにない。
この大きな最新型のオーブンを使って、早くお菓子を作ってみたくてたまらない気分になった。

「他に何か質問はあります?なければ、これでおしまいにしましょう。こちらに来たばかりで疲れてるでしょうから、今日はゆっくり休んで、明日からよろしくお願いいたしますね」


---◇---◇---◇---◇---◇---




アンジェリークはまだ、迷っていた。
ディアとの仕事の話を終え、今は1人で社員用のカフェテリアに来ている。
バッグからオスカーの名刺を出しては眺め、さっきから1人でドキドキしたり溜息をついたりの繰り返しだ。

夕食の約束を受けるべきか、断るべきか。

常識的に考えれば、断るほうがいいとわかってる。
自分には恋人がいるし、二股をかける趣味はない。
良く知りもしない男性とセックスフレンドになる気も、これっぽっちだってない。

なのに、どうして迷ってるんだろう?
カッコイイ人だからって、それだけでこんなに迷うものだろうか?
もしかしてもしかすると、あの強烈な快感が、また欲しいとか思っちゃってるの?

そんなのダメ。セックス目当ての関係なんて。
あんな風にセックスが気持ちいい事なんだって知ってしまったからって、それに惑わされてしまうなんて絶対にいけないわ。
初めて「イク」って事を経験しちゃったから、身体が好奇心を感じてるだけに違いないのよ。

自分はこの20年間、真面目に人生を過ごして来た。
道を踏み外す事もなく、いつだって自分の欲望よりも常識や理性を優先してきた。
大好きな人と真面目におつき合いして、パパとママのような幸せな結婚をするというのが私の夢だもの。

------でも、ジョッシュと結婚したいのかと言うと、そうじゃない。
3年も付き合ったのに、彼とは何かが違う、と思い始めてる。
価値観や、考え方や-----身体の関係も。

ああ、なんで良く知ってるジョッシュより、あの何も知らないオスカーって人のほうが身体が合っちゃったんだろう。
身体だけの関係なんてダメだと言いながら、ジョッシュとは身体が原因で上手くいかないとも思ってる。
どうしてこんなに、矛盾してるの?

アンジェリークはちらりと壁の時計を見た。
そろそろ6時。
あの人がもし私からの電話を待ってくれてるのだったら、もう連絡しなければ。
でも、まだなんにも決められないのに!

アンジェリークは立ち上がると、のろのろと公衆電話のある一角へと向かった。
目の前に電話を見れば心が決まるかもと思ったのだが、どうやらそう上手くはいかなかったらしい。
電話の前でうろうろと歩き回っていると、後ろに1人、電話待ちらしい男性がこちらを訝しげに覗いている。
「あ、す、すいません!あの、お先にどうぞ」
慌てて電話を男性に譲ると、アンジェリークはすぐ横にある女性用の化粧室に飛び込んだ。
用を足したくもないのに個室に入り、便器の蓋を閉めてその上に座り込む。

(はあ、どうしよう…)

溜息をついて考えあぐねていると、がやがやと数人の女性が化粧室に入ってくる気配がした。
「ねえあなたさぁ、あのオスカーと別れたって本当?」

その会話に出てくるオスカー、という名前にびっくりして顔を上げた。
どうやら女性達のうちの1人が、最近オスカーと別れた、という内容の話をしているらしい。
(オスカーって…もしかしたら、あの人の事かしら?)
どきどきしながら、会話に耳をそばだてる。

「もうオスカーは連絡をくれる気はないみたいだから、終わったって事なんでしょうね」
「えーっ、勿体無い!こっちから電話すればいいじゃない」
「そうもいかないのよ。彼は一度切り捨てた女性には、もう興味がなくなっちゃうらしいの。こっちからしつこくしたって、可能性はゼロよ」
「そっかー、残念ね。でもあんな素敵な男性とおつき合いできるチャンスなんて、一生に一度あるかないかよね」
「そうそう、超一流のハンサムで、仕事もできる出世頭。あの歳で部長でしょ?将来は重役間違いなしよ。あんな男と並んで歩けただけでも、ラッキーと思うべきなんじゃない?」
「そうね、私も散々楽しませてもらったんだし、これで満足だと思うようにしてるの」

どうも会話を聞いてると、やっぱりあの「オスカー」って人の話のような気がしてしょうがない。
名刺にも確か、『部長』ってあったし。
あの若さで部長なんて、なんだかすぐにはピンとこなかったけど、これだけの大会社で1つの部署を任されるなんて、考えてみたら大変な事だ。
そうすると、今ここにいる女の人は、あの『彼』の恋人だったって事よね?

「……ねえねえ、ここだけの話だけど。オスカーのセックスって、どうだった?やっぱり噂通り、凄いの?」
1人の女性が声を潜めて尋ねた。が、しんとした化粧室ではいやでも会話が丸聞こえになってしまう。
アンジェリークは思わず息を飲んだ。
「ふふ、そうね。はっきり言って、あんなスゴイのを経験しちゃうと、他の男性とはつまらなく感じちゃいそうよ。もうあんな素晴らしいセックスには一生出会えないかもね」
「やっぱりねぇ。彼ってふるいつきたくなるような素敵な身体してるじゃない?私も一度でいいからお願いしたいわー!」
「私も私も!彼って1人の女性と1ヶ月以上付き合った試しがないって噂だけど、そんなにイイなら1日だって充分だわよね」
「結局あなたはどのくらいつきあったの?」
「そうね…2週間たったかな、ってとこかしら」

女性達はきゃあきゃあと楽しそうで、なかなか化粧室から出ていきそうにない。
アンジェリークはどうしようか悩んだ挙げ句、思いきってそろりと個室から顔を出した。
だが女性達は話に夢中で、アンジェリークの存在には全く気付いてないようだ。

その脇をすり抜けて手を洗い、ちらりと鏡越しに女性達を盗み見た。
4人程の輪の中に、背が高くて飛び抜けて綺麗な黒髪の女性がいる。
(きっと、あの人だ)
アンジェリークは自分と彼女を見比べて、一気に暗い気分になった。

あんな綺麗でセクシーな女性ですら、たった2週間でお別れされちゃうんだ。
じゃあ私なんて、何日持つの?
そんなすぐに捨てられる事がわかってても、それでも彼と身体の関係が持ちたいの?

答えは、ノーだ。
今まで真面目に一生懸命生きてきたのに、ここで一時の欲望に眩んで道を踏み外しちゃいけない。
慣れない都会にやって来て、今までとは180度違う生活に戸惑ったから、ついつい訳のわかんない事をしちゃっただけで----本当の私はこんな事はしないはずだもの。
だから彼との約束は、ちゃんときっぱりお断りしよう。
あんなに女性にもてる人なんだから、私1人に断られたってきっとどうって事もないだろうし。

アンジェリークは足早に化粧室を後にし、そのまままっすぐ公衆電話に向かった。
公衆電話の前に立つと、深呼吸を1つしてから受話器を取り上げる。
震える手をなだめながら、名刺に記載されている携帯電話の番号をプッシュした。
社内のダイレクト・ナンバーも書いてはあるが、これから話す内容は全くのプライベートだし、自分でもどんな展開になるのか想像もつかない。ならば、携帯にかけるほうが間違いはないだろう。
呼び出し音が鳴り始めると、もうアンジェリークの口の中は緊張でからからに乾いてしまっていた。

「カークランドだ」
ワンコールで彼の声が響き、アンジェリークは心臓が飛び上がりそうになった。
「あ、あの…」
「ああ、お嬢ちゃんか。連絡が遅いから心配したぜ」
耳に優しく響く甘い低音に、アンジェリークはこれから言おうとしている事も忘れて、ついついぼぉっと聞き惚れてしまった。
顔が見えない状況で声だけ聞いてると、どうしてもさっきの「あの出来事」を思い出してしまう。
思わずはっと我に返り、ぷるぷるっと首を振って頭の中に浮かんだ考えを振り払った。
いけないいけない。断わりの電話をかけにきたはずなのに、このままじゃあ逆に「会いましょう」と言ってしまいそう。
さっさと用件を言って切らないと、断る勇気がくじけてしまいそうだった。

「あの、カークランドさん、今日の事なんですけど…」
「オスカーだ」
「は?」
「名字で呼ばなくていい。名前で呼んでくれ」
「…は、はい…あの、じゃあ、オスカーさん…」
「オスカーだ。『さん』はいらないぜ、お嬢ちゃん」

受話器からくっくっと笑う声が聞こえてくる。
もうっ!いつのまにか、すっかり彼のペースにはまってる。
電話の向こうで面白がってる彼の姿が、目に見えるようだ。
「あの、私の名前も『お嬢ちゃん』じゃありませんけど!」
なんとかペースをこっちに引き寄せたくって、ちょっと怒った口調で言い返した。
でも彼は全く動ずる様子もなく、相変わらず人をくったような笑い声が聞こえてくる。
「俺の名前がちゃんと呼べたら、こっちもちゃんと名前を呼んでやるよ」

最初に『お嬢ちゃん』と呼んだのはオスカーの方なのに、アンジェリークは緊張で全くそれに気付けない。
「えと…じゃあ、…オスカー…」
「なんだ、アンジェリーク?」

腰が、抜けるかと思った。
名前を呼ばれただけなのに、もう身体が熱くなって膝ががくがく震えてる。
何か言わなくちゃ、と思うのに、今しゃべったら声が震えているのに気づかれてしまいそうだった。

アンジェリークが黙りこくってしまい、短い沈黙が流れる。
「…こうやって顔が見えなくて声だけ聞いてると、さっきの事を思い出すな」
沈黙を破ったオスカーの声が、欲望に低く掠れていた。

彼も、同じ事を考えてるんだ。
そう思った途端、子宮の入口がびくん、と1回大きく痙攣した。
ああ、もう信じられない!
電話で話してるだけで、いきそうになるなんて。
しかもここは、会社の公衆電話なのよ?こんなとこで感じちゃうなんて、私ったら一体どうなっちゃったの?

「今すぐに出て来れるのか?俺は地下の駐車場に車があるから、表に回しておく。何か行きたい店や食べたい物はあるか?」
さっさと話を進めていくオスカーに、アンジェリークは慌てて首を横に振った。
電話では見えないのはわかっていたけど、何か拒否の動きをしなければこのまま流されてしまいそうだったから。

「あの、私、夕食は行きません!」
ようやく出た声は、微かに震えて声がひっくり返りかけていた。
「なんだ、食欲がないのか?じゃあ、どこかバーに行ってもいいし…ああ、お嬢ちゃんはこの街はまだ来たばかりなんだよな。じゃあ、繁華街を案内するから少し観光でもするか?」
次々に提案してくるオスカーの言葉に、心が揺さぶられるのがわかる。
大人びた素敵なバーで、彼の横に座ってカクテルを飲む私。ネオンが煌めく大都会の夜の街を、二人で歩く姿。
どれもひどく魅力的に思えて、決心がぐらぐらと鈍る。
えーい、こうなったら一気に断ろう!もう、それしかないわ!!
「オスカーさん、私、今日のお誘いはお断りしたいんです!」

受話器の向こうで、彼が一瞬だけ戸惑ったような空気が伝わってくる。
「今日は都合が悪いのか?しょうがないな、じゃあお嬢ちゃんの空いてる日を教えてくれないか」
わかってくれない彼に、思わず脱力しそうになった。
この人って、きっと女の人から断られた事なんかないんだろう。
でもそれなら、なおさらきっぱり断らなければ。
そんな遊び慣れてる男性にいいように弄ばれて、後で傷つくのは私なんだから。
「もう私たち、会わないほうがいいって言ってるんです」

「なんだって?どういう事だ?」
優しかった彼の声が突然鋭さを帯びて、アンジェリークは一瞬怯んだ。
でも、決意が挫けないように一気に先を続ける。
「私、さっきはどうかしてたんです。その…あんな事、しちゃって。でも、あの事はなかった事にしたいんです。だから…もう、会いません」
「おい待てよ、お嬢ちゃん」
「すいません。さようなら!」

オスカーに何か言われないうちに、アンジェリークは急いで電話を切った。
ホッとしたのと同時に、ひどく勿体無いような気分にも襲われる。
でも、もうこれで終わり。あんなに女性にもてそうな彼の事だから、明日にはもう私の事なんて忘れてるだろう。
これだけの大会社だもの、そんなにしょっちゅう社内ですれ違うって事もないだろうし、ましてや私の職場は重役専用の入口からしか行けないんだから、一般の社員の人に会う事は滅多にない。
きっとこれで良かったんだわ。そうよ、絶対。

「おい、お嬢ちゃん?」
耳障りなツーツーという音が、オスカーに電話が切れた事を知らせてくる。
「くそっ」
オスカーは口の中で小さく毒づくと、乱暴に携帯を切った。

まんまと、してやられた。
まさかあんなお嬢ちゃんに、この俺がやり逃げされるとはな。
自慢じゃないが、今まで狙った女性に断られた試しがなかったし、ましてやセックスの後は向こうからしつこくされる事はあっても、逃げられた事など一度もない。
あれだけ俺をその気にさせながら、あっけなくするりと逃げられてしまうとは。
あのお嬢ちゃんは、俺が思っている以上に男の扱いに長けてるのかもしれん。
ふむ、と考え込むようにオスカーは腕組みし、椅子に深くもたれて天井を見上げた。

面白い。
あのお嬢ちゃんは、久々にひどく興味をそそられる存在だ。
今までにない、珍しい獲物。外見とかじゃなく、もっと奥深いところで俺をその気にさせてくる。 その上追えばするりと逃げ、捕らえ所がない。
だが、そんな獲物だからこそ、追うのが楽しいんじゃないか?
オスカーの内にある雄の狩猟本能に火が灯り、瞳の輝きが増していく。

あのお嬢ちゃんは、確か今日からここで契約社員になる話をもらうと言っていた。
そっち方面から探りを入れれば、なんなく彼女を見つけられるだろう。
オスカーは楽しげに口元に笑みを浮かべた。


この俺から逃げられると思うなよ?お嬢ちゃん。