Sweet company

3. Chasing ! (1)

「おはようございます!」

アンジェリークは元気良く、だが少し緊張した面持ちで入口に立つ警備員に挨拶した。
ここはスモルニィ社の重役専用入口。今日から1週間、ここで新しいチャレンジが始まる。
まだとりあえずの試用期間で、正式に契約するかはその後に決める事になるけど、自分としては既にここの社員になったような気持ちだった。
1週間で逃げ帰る事など、頭の片隅にも考えてはいない。

身分証明カードをエレベーター前のセキュリティボックスにかちりと差し込んでから、エレベーターに乗る。
高速の重役専用エレベーターは、最上階の会長室とその3つ下の各フロアにノンストップで直接アクセスしている。
社長室と各取締役員室、秘書室と金庫室、会議室の他に社外秘の施設-----昨日案内された、菓子職人用の工房など----が、そこには存在している。

昨日ホテルに帰ってから、ディアに渡された会社の資料に目を通した。
株式会社スモルニィは、創業200年の長い歴史と伝統を誇る一流の総合商社。
創業者であるフランク・スモルニィ氏は、製菓職人からこの会社を興して一代で成功した大人物だ。

当時この国は砂糖の生産能力が低く、菓子職人達は質の悪い砂糖を使ってお菓子を作らざるを得なかった。
事態を憂慮したスモルニィ氏は、上質な砂糖の生産国に粘り強く働きかけ、輸入に成功した。
しかもこの生産国とは国交関係がなかった為、国交を結ぶ立て役者となって政府から勲章を授かった。
これをきっかけに氏は次々と諸外国との貿易に成功し、スモルニィ社は一躍大企業へと成長したのだ。

しかしどんなに巨大企業になっても、スモルニィ氏は製菓分野への情熱を忘れる事はなかった。
子会社として製菓分野を独立させ、常に国内でトップレベルの職人達を揃え、上質なお菓子を提供し続けた。
「美味しいお菓子を食べると、幸せになれる」そのポリシーのもと、今やスモルニィブランドは世界でも有数の高級菓子として、各国王室の御用達にまでなっているのである。

アンジェリークは製菓会社としてのスモルニィ社しか知らなかったが、今ならそれも納得できる。
これだけの大企業になると、逆に一般の市民には縁がない世界になってしまうだからだ。
会社の資料にはエネルギー産業や輸出入貿易に航空機ビジネスなど、様々な分野のビジネスを手掛けていると書かれていたが、一体どんな事をやっているのか、アンジェリークのような庶民には考えも及ばない。
こんな大企業に自分が認められた事自体、いまだに信じられないような話だった。

でも間違いなく、これは現実なんだわ。
自分にそんな実力があるがどうかはわからないけど、ここに来たからにはチャンスを生かして精一杯頑張りたい。
来たしょっぱなからいろんな事が起こってびっくりしてしまったけど…もうオスカーって人との事は終わったんだから、すっきり忘れて気持ちを切り替えなくちゃ。


工房の扉を開けると、もう既にロザリアが先に来て作業を始めていた。
お菓子が焼き上がる甘い匂いが、ふんわりと工房に立ちこめている。
「おはよう、ロザリア。ずいぶん早いのね?始業1時間前だから私が一番乗りかと思ってたんだけど」
ロザリアはきびきびと作業する手を止めないまま、視線だけチラリとアンジェリークによこした。
「おはよう、アンジェリーク。わたくしは昨日からようやく来る事ができたのですもの。コレットとレイチェルの二人は結構前からここに呼ばれていたらしいし、早くここに慣れてその差が埋められるようにと思ってますのよ。あなたもそのおつもりで早くいらしたんでしょう?」
「ええっ?そ、そうなんだ。私は単に、緊張しちゃって夕べは良く眠れなかったから早く来ちゃったんだけど…。なんだか会社が用意してくれたホテルのベッドにまだ、馴染めないみたいで。ロザリアもこっちに1人で呼ばれてるの?」
「…わたくしはここから車で30分ほどのところに家がありますの。毎朝家の車で送り迎えしていただいてるのよ」
「へぇ~、そうなんだ!すごいね、ロザリアっていいところのお嬢様ぽいなーとは思ってたけど…」

アンジェリークは少しどぎまぎしながらロザリアの手元を見た。
普段からお菓子作りをしているとは思えないほど滑らかな指と、綺麗に整えられた爪。
まさに「白魚のような」美しい手によって、焼き上げられたスポンジ台の上に、見事な細工のデコレーションが施されていく。
普段から家庭的な雰囲気のお菓子ばかり作っていたアンジェには、それはまるで魔法のように見えた。

「…すご~い、綺麗…」
うっとりとした目つきで手元を見つめるアンジェを見て、ロザリアはほんの少し顔を赤らめた。
「くだらないおしゃべりなんかしてないで、あなたも支度してらしたら?ぐずぐずしてるとすぐに終業時間になってしまいますわよ」
「あっ、そうね、私も用意しようっと!」

ぱたぱたと個室に入っていくアンジェリークの後ろ姿を、ロザリアは複雑な表情で見送っていた。
あの子ったら、あんなに親しげに接してきてどういうつもり?
わたくし達は皆、ここではライバルなのよ。
必要以上に親しくする必要もないし、むしろ自分の情報を知られないように、ガードを固くするべきではないのかしら?
その上、お世辞でしょうけどライバルの作ってる物を「綺麗」なんて褒めたりなんかして。
なんだか…やりづらい事この上ないわ。

作業用のエプロン姿に着替えて個室から出てきたアンジェリークは、しばらく所在なさげに辺りをきょろきょろと見回していた。
ロザリアが横目で様子を伺っていると、アンジェリークはあちこちの引き出しや戸棚をそろ~りと開けたり閉めたりを繰り返している。
「…なんなんですの?うろうろされると、目障りで気になりますわ」
その声に、びくうっ!としたようにアンジェが振り返る。
「あ、ごめんなさいっ!まだ何がどこにあるのか全然わからなくて…えと、なるべく静かにやるようにするから、ロザリアは気にしないで作業を続けててね」

「何を探してらっしゃるの?わたくしは朝一番に大体の場所は確認したから、教えて差し上げますわよ」
ロザリアは少し眉根を寄せて溜息を洩らしながら、渋々と呟いた。
これからライバルになる子に親切にしてもしょうがないかもしれないけど、目の前をちょろちょろされるのは気になってもっと我慢がならない。
どうせだったら早く慣れてもらって、お互いお菓子作りに専念できる環境にしたほうが、結局は自分のためにもなるはずですもの。

「え、いいの?あのね、ボウルとスパチュラと、泡立て器と…」
「ボウルはその棚の中。スパチュラはカウンターの上のツール立ての中に。泡立て器もそこにありますわ。他にわからない事は?」
次々と正確な場所を教えてくれるロザリアに、アンジェリークは驚いて目をまん丸にした。
「えっと、後は…小麦粉とかバターってどこにあるかなぁ?」
「基本的な物は共有部分の冷蔵庫にあるけど、あなたの個室にも冷蔵庫と備蓄庫がありますでしょう?個人で使う分は、そこに保管しても良いみたいですわよ」

「ロザリアも私と同じく昨日に来たんだよね?もうそんなにきちんと把握してるんだ、すごいね~!」
瞳を輝かせて尊敬の表情を向けてくるアンジェリークに、ロザリアはまた落ち着かない気分にさせられた。
「そんなの当たり前ですわよ。さ、道具も揃ったんだしさっさと始めてちょうだい」
「うん、ありがとうロザリア!親切にしてもらって嬉しいわ。これからも仲良くやっていきましょうね!」

にこにこと爽やかな笑顔を向けられてロザリアが返答に詰まっていると、工房のドアが開いてレイチェルとコレットの賑やかな笑い声が聞こえてきた。
「あっ、二人とももう来てたんだぁ、早いねー」
「オッハヨー!二人とも気合い充分だネ。ワタシ達も負けてらんないや、早く支度しようヨ!」
一気に工房内は華やいだ雰囲気になり、ロザリアはホッとしながらアンジェリークに背を向けて作業を再開させた。
…わたくしはローズ・コンテストで優勝する為にここに来てるのですもの。
期待してくれてる家族のためにも、頑張らなくては。ライバルと仲良くする為に、ここに来ている訳ではないのよ。
自分にそう言い聞かせてはいたけれど、何故か心が浮き立つような気分になるのを止める事は出来なかった。

アンジェリークも、うきうきとした気持ちになっていた。
一番近寄り難そうに見えたロザリアが、とても面倒見が良くて親切な女の子だとわかったのだから。
口調はすましていてちょっとキツイけど、心の奥はきっとすごく優しい人なんだろうな。
あとで、ランチでも一緒にどう?って誘ってみよう。
ロザリアともっと話してみたい、なんとなく彼女とはいい友達になれそうな気がする----
アンジェはうふふ、と微笑むと、ボウルの中に割り入れた卵と粉を混ぜ始めた。



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オスカーは、思い立ったら行動が早いのが自分の利点だとわかっている。
アンジェリークに電話で断られた次の日に、仕事の空いた時間を見計らって即、行動を起こした。

人事部の広いオフィスに足を踏み入れると、そのまま奥にあるパーテーションで区切られた一角に大股で進んでいく。
「リュミエール、いるか?」
ノックと同時に響くオスカーの声に、リュミエールと呼ばれた人物がパソコンから顔を上げた。
「…なんだ、あなたですか。何か御用ですか?」
そのつっけんどんな物言いに、オスカーは思わず苦笑いした。

リュミエールはオスカーの同期で、人事部の課長を務めている。同期ではオスカーに次ぐ出世株だ。
誰にでも優しい言動に丁寧な仕事ぶりで、老若男女問わずに社内では人望が厚い。
しかし、何故か同期のオスカーとは相性が悪い。
まるで炎と水のごとく、ことごとく二人は意見があわないのだ。
でも、何となく気に入らないけれど互いに相手の仕事は評価しているし、敬意も払っている。
二人の間には冷たい火花が飛び散ってはいるが、それは互いに対等だと認めあっている証でもある。

「おっと、お優しい人事課長さまにしては冷たい言い方だな。ちょっと頼みたい事があるんだが、忙しいんだったら出直したほうがいいかな?」
「別に仕事の話でしたら構いませんが」
「それが残念ながら、私用で頼みたい事があるんだ」
「それでしたら、他を当たってください」

冷たく言い放ってパソコンの画面に視線を戻したリュミエールの顔の前に、オスカーが茶色の紙袋をぶら下げた。
「まあ、そんな冷たい事を言うなよ。もちろんタダでとは言わないさ。報酬はこれでどうだ?」
リュミエールは紙袋を受取ると、疑い深く探るようにオスカーを見上げた。
オスカーは開けてみろよ、と片手で促すようなジェスチャーをしている。
渋々と紙袋を開けたリュミエールの瞳が、みるみるうちに驚きの色に染まっていく。
「これは…!」

中に入っていたのは、一見何の変哲もない四角い黒い缶だった。
しかしリュミエールは、その缶に吸い付けられたように顔を寄せ、何度も確かめるように表面に貼られたラベルの文字を読んでいる。
「これは、エルニエ公国の王室でのみ飲まれていると言う、幻の紅茶の葉ではありませんか…!一体どうやってこれを…?」
「気にいってもらえたか?俺もこう見えても食品輸入部の部長だからな。ちょっとしたコネで手に入れたんだ」

リュミエールは観念したようにふうっと息を洩らすと、さも大切そうに紅茶の缶をデスクの脇に置いた。
「…いいでしょう、その頼みとやらを聞きましょうか」
オスカーは口元に笑みを浮かべると、デスクの前に歩み寄った。
紅茶フェチのリュミエールを釣るにはこれに限る、と選んだのだが、正解だったようだな。

「実は、ある人物がこの会社で契約社員として働く事になってるんだが、どこの部署にいるのか調べて欲しいんだ」
「そんな事でしたら、お安いご用ですよ。それで、その人物のお名前は?」
「アンジェリーク・リモージュ。年齢は二十歳だ」
リュミエールの眉が、ぴくりと上がる。
「若い女性ですね」
「だから私用だと言っただろうが」

悪びれもせずに堂々と言い切るオスカーに、リュミエールは再び溜息を洩らしながらキーボードに名前を打ち込んだ。
「全く、あなたの女性に対する情熱には頭が下がりますよ」
そう言いながら、検索のキーを押す。
「アンジェリーク…そのような名前の女性は、契約社員のリストにはありませんね」

オスカーはずかずかとデスクの後ろに回り込み、パソコンの画面を覗いて顔をしかめた。
「おかしいな、そんなはずは…ああ、そう言えば昨日が面接日だとか言ってたな。まだ採用が決まってないのかも知れん。そういった場合でも、調べられるか?」
「もちろんです。この人事部にはアルバイトに至るまで、全ての面接希望者の情報が即日で上がってきますから」
そう言ってリュミエールは別のファイルにアクセスし、同じように検索をかけだした。
「おかしいですね…やはり、そのような名前の女性はいませんよ」

オスカーはデスクに手をついて身を乗り出し、コンピューターの画面に目を凝らした。
確かに、そこにはアンジェリークという名前も、リモージュという姓も見当たらない。
「そんなバカな。確かに昨日、彼女は面接に来たといっていたのに」
リュミエールも何度もいろいろなファイルにアクセスして検索をかけ直していたが、やはり結果は同じだった。



「おいリュミエール、この人事部に情報が来ないで面接を受ける人物がいるなんて事は、あり得るのか?」
リュミエールはしばらく思案した後、小さく頷いた。
「基本的には不可能ですが、全くあり得ない訳ではありません。例えば役員より上のクラスの人物が、極秘で面接を行なっているような場合は…一般のデータベースには名前は載らないはずです。その女性は何か特殊な技術を持っているとか、そういった人物なのではないですか?」
「極秘の面接だって…?」

何から何まで、オスカーには不可解な事だらけだった。
どうみてもあのお嬢ちゃんは、田舎から出たての純朴な若い少女という感じだ。
特殊な技術を持っているような切れ者には見えなかったし、ましてや役員クラスに極秘で雇われるような大人物にも見えない。
いやしかし、あんな純情そうな外見からは想像も出来ない大胆な所もあった事だし、全くあり得ない話ではないんだろうか。

「例えばそういった極秘で面接を受けたような人間だったとしたら、情報はここでは調べられないのか?」
リュミエールは少し眉を寄せ、申し訳なさそうに首を振った。
「そうだとしたら、人事部ではお手上げです」
「…そうか、ならばしょうがない。また何か、他の手を考えてみるさ。リュミエール、いろいろすまなかったな」

そう言いながら足早に立ち去ろうとするオスカーの背に、リュミエールは声をかけた。
「オスカー、この紅茶は…」
「ああ、それは手間賃として貰っておいてくれ」
一瞬だけ足を止めて振り返ったオスカーに、リュミエールはもう一度声をかけた。
「それなら、引き続き私のほうも調べてみましょう。あなたに借りを作ったままなのは、気に入らないですからね」
「ああ、じゃあ何かわかったらよろしく頼む」

オスカーは笑ってそう言うと、あっという間に人事部から立ち去っていった。
だが笑っていたその表情は、人事部を出た瞬間に厳しい物へと変わっていた。


くそっ、もう行き止まりか。
一体あのお嬢ちゃんは、何物なんだ?