Sweet company

3. Chasing ! (2)

金曜日、アンジェはいつものように社内の専用工房でのお菓子作りに精を出していた。

今週初めの月曜日から働き始めたから、ここに来るのも今日で五日目。
同僚の3人の女の子達とも打ち解けてきたし、そろそろ会社の雰囲気にも慣れてきた。
でも、相変わらずこの工房の素晴らしい施設を使いこなせていないというのが、アンジェの目下の悩みだった。

この菓子工房は、最新の機器が備え付けられた超一流の施設だという事はわかっている。
だけれど今まで家の小さな工房でケーキを作っていた自分には、この広い場所のどこに何があるのかを把握するだけで、まだまだ頭が一杯だ。
家だったら目をつぶっていてもどこに何があるのかはわかってたけど、ここではいちいち作業の手を止めて必要な物を探しにいかなくてはならない。
その間にケーキの生地がダレてしまったり、湯せんが固まってしまったりなんて事もしょっちゅうだった。

それと、この素晴らしいオーブンもまだ使いこなせていない。
アンジェの家のオーブンの2倍近くありそうな大きなそれは、複雑なスイッチが一杯あって設定すらも上手く出来た試しがない。
いくつも焦がしてしまったり生焼けにしたりの失敗を繰り返し、ようやく設置の仕方に慣れてきたと思ったら、今度は焼き加減のクセが掴めないときてる。

オーブンには、機種によっていろんな焼き加減のクセがある。
アンジェが店で使っていた物は、父の生前から使っていた古いものだ。
そのせいか、奥のほうが早く熱くなったり、余熱時間は通常より少し長くかかったりするなどの様々なクセがあった。
そのクセをしっかり見抜いて頭に叩き込んであったから、スポンジ台ならこのくらいの色になった時に一回オーブンから出して前後を逆にしたほうが良いとか、シュー生地は奥に並べる物は少しカリッと焼き上がるので、中に詰めるクリームは逆にふわふわのホイップにして感触の違いを楽しんだり…などの工夫を楽しんでいた。
でもこの工房にあるオーブンは、電子制御で内部にファンがついている、ほとんど焼きムラの出ないタイプ。
焼きムラの持つ手作りならではの素朴な雰囲気が好きだったアンジェには、あまりに綺麗に焼き上がるこのオーブンに、なかなか馴染みが持てなかった。

でも、そんな事でへこたれてなんかいられない。
今までは自分のお店でしかお菓子を作った事がなかったんだから、新しいものに戸惑うのは当たり前。
時間をかけて練習すれば、必ず自分の好みの焼き上がりが見つけられるはず。
これも新しいチャレンジなんだし、これを乗り越えたらきっと、今までとは違うお菓子作りへの視野も開けそうな気がする。

それに、困っているとさり気なく手を差し伸べてくれるロザリアの存在も、大きかった。
「また焦がしたんですの?あなた、本当にそれでもローズ・コンテストに出場するおつもり?」
口調は厳しいながらも、「オーブンの使い方がわからないんでしたら、ミズ・ディアに言って説明書を借りてらっしゃいな。失敗作を試食して批評しなければならないこっちの身にもなってちょうだい」と、アドバイスをいつも出してくれる。
お陰ですっかりアンジェはロザリアに懐いてしまい、同い年だというのに尊敬まで抱くようになっていた。

「さ、お昼休みの前に批評会をいたしましょう」
ロザリアの声に、全員がそれぞれお菓子を持って中央のテーブルに集まる。
作業自体は個人個人で別個に行なっているが、出来たお菓子を一日2回、こうして皆で試食して批評しあう。
こういった批評会はアンジェリークには初めての経験だったが、刺激にもなるしとてもいい勉強になっていた。

「ウーン、アンジェのチェリーパイは生地が焼き過ぎで固いネ!もうちょっとオーブンに慣れないと、これじゃまだまだダヨ」
「そうですわね、デコレーションもちょっとありがちな感じだし」
「でも、味は美味しいよねぇ。なんていうか、ふんわりして幸せな味、かなぁー?」
皆がアンジェのお菓子について、思い思いに批評してくる。
アンジェはそれをしっかり心の中に受け止めつつ(40点ってとこかな?よし、じゃあ次はデコレーションも勉強しなくちゃ!)と、自己採点して目標を立てていた。

それにしても、みんなのお菓子はそれぞれの性格を映したように個性的だわ。
ロザリアのは、外見も味も完璧で、品があって高級感が感じられる。特にデコレーションの美しさは特筆もの。宝石のように豪華でありながら繊細さも感じられて、見ていてうっとりしてしまう。
レイチェルのお菓子は斬新で、見た事もないような変わった素材を使ってきたりする。だけども味のバランスとか全てが計算され尽くしていて、食べる人に『変わったもの』ではなく『新鮮でモダンな味』と思わせる。
コレットのお菓子は誰にでも好まれる味----ベーシックなんだけど、これぞお菓子本来の美味しさといった感じがするし、デコレーションもシンプルだけど細部まで丁寧に仕上げられていて好感が持てる。

こうしてみると、みんな本当に自分のお菓子の世界を持ってるんだなぁと感心させられてしまう。
それじゃあ、私のお菓子の個性って何だろう?
お店に来てくれるお客さんは、最初の頃は口を揃えて「パパの味にそっくりで美味しい」と言ってくれていた。
それが何年か経つうちに、「アンジェらしい味で、美味しいわ」と言ってもらえるようになっていた。
でも-----一体何が私らしいのか、実は当の私がわかっていない。
今まではただ、皆が美味しいと言ってくれればそれで満足だったけど、ここに来て初めて『自分ならではの味』が何なのかを考えるようになった。

私ならではの味。それが何なのかわかれば、もっと個性を生かしたレシピを考えたり、いいところを伸ばしていける。
世界に一つだけの味を、創り出す事だってできるかもしれない-----
そう思うと心が弾んだが、残念ながら今はまだその段階まで自分が達していない事もわかっていた。
もっとお菓子作りを勉強し、たくさんの人に食べてもらい、意見を聞いた上で客観的に自分の味を見れるようになる必要があった。


批評会が終わり、各自が昼食の支度をしていた時。
「ねぇねぇ、せっかく新しい仲間が出来たんだからさ、親睦を深める為にも歓迎会とかしようヨ!今日の夜なんて、みんなどう?」
レイチェルが、嬉しそうに提案してきた。
コレットも、横でうんうんと頷いている。
「そうねぇ、私達一日中こうして一緒に過ごしているけど、お互いのプライベートな話なんかした事がないよねぇ?良かったら、そういうのもしたいなぁー」

二人の言葉に、アンジェは即座に反応した。
「うんうん、大賛成っ!私ももっとみんなと親しくなりたいと思ってたところなの。ねぇ、ロザリアも行くでしょ?」
そう言って振り向きざまにロザリアの手に自分の手を重ねると、彼女の顔がかあっと紅潮したのがわかった。
「ちょっちょっと、手をお離しになって!全くあんたったら遠慮がないと言うか、図々しいと言うか…」
「あ、ごめんなさい~!でもでも、ロザリアにも一緒に行って欲しいんだもの。…ねっねっ行けそう?」
ちょっとおどおどしつつも一生懸命尋ねてくるアンジェリークに、ロザリアもついつい笑ってしまう。
「…わかったわよ。わたくしもご一緒すればよろしいんでしょう?」
「わーい、嬉しい!今日の夜が、楽しみだわ!!」
「ちょっと、抱きつかないでったら!」

仲がいいのか、悪いのか。たぶん仲が良くなりつつある、そんな二人を眺めながら、レイチェルとコレットも嬉しそうに顔を見合わせた。
「じゃあ早速だけどさ、お昼休みに詳しい事を決めようヨ!」
「そうねぇ、いつものようにここで昼食を食べながらでもいいけど、たまには気分を変えて社員食堂に行くのなんてどうー?」

コレットの提案に、ロザリアが不安そうに眉を潜める。
「社員食堂って、一般の社員の人と一緒になる訳でしょう?わたくし達の存在はあまり外部に洩らさないほうがよろしいんではなくって?」
「ヘーキヘーキ、外に出る訳じゃないんだし。それに4人一緒なら変な人とか近寄ってきてもわかるでしょ?ワタシとコレットもたまに社員食堂を使ってるけど、誰も気にも留めてないよ、ダイジョーブだって!」
「そうそう、ここの社員食堂やカフェテリアって陽が差し込んで気持ちいいんだよぉ。一日中箱みたいな工房に閉じこもってるんだから、たまには気分転換しようよー」
明るく笑い飛ばすレイチェルとコレットを見て、ロザリアは「それなら…」と、渋々ながら納得したようだった。
しかし、アンジェリークは別の意味で不安が頭をもたげ、心がざわつきだしていた。

----あのオスカーって人に会っちゃったら、どうしよう…

あの日以来、アンジェリークは極力オスカーの事を考えないように努力してきた。
もちろん、あんな強烈な出来事は、簡単に忘れる事なんかできる訳がない。
気を緩めるとふっと思い出してしまい、バスタブの中やベッドの中で急に鮮やかに「あの」シーンが蘇って、「いやー!恥ずかしい~!!」と叫びだしてしまった事も一度や二度ではない。

いやまだ、「恥ずかしい」とか言ってるうちは良いのだ。
一度蘇ってしまった記憶を頭から追い出すのは難しい。
たいていそのままオスカーの優しい手付きや情熱的な動きを思い出し、身体中が燃えるように熱くなって眠れなくなってしまう。
ようやく眠りについても、夢の中までオスカーが登場してくる事すらあった。
Hな夢の時もあるし、ただ単に彼とデートしてるような普通の夢の時もある。
でも朝目覚めた時には、彼の顔がしばらく脳裏から離れなくなってしまうのだ。

これでは忘れるどころか、かえって彼を思い出の中で美化してしまい、余計忘れ難くしてしまっている。
だからなるべく忙しく過ごして、極力思い起こさないよう、家に帰って疲れてすぐに眠れるよう努めてきた。
社内で偶然会ったりしないように、通勤の足は会社の用意してくれた送り迎えの車を利用し、重役専用の駐車場からのみ出入りして、それ以外はこの工房から一歩も足を踏み出していない。

社員食堂は広くて混み合ってると聞いたから、あの人が偶然そこにいる可能性も高い。
でも逆に、混んでたら簡単には見つからないだろうし…それに、私みたいな女の子の事なんて、とっくに忘れ去られちゃってるかもしれないんだし。
平気よね、ちょっとくらいなら。
アンジェリークは自分を無理矢理そう納得させると、「早く早くー」と手を振るコレット達の後に、慌てて続いた。



オスカーは4人ほどの女性達に囲まれながら、社員食堂の大きな円テーブルに座っていた。
あれからリュミエールからは、目新しい情報も入ってこない。
あのお嬢ちゃんの居場所をなんとか突き止めたいという気持ちは少しも衰えてはいないものの、今の状況では動きようがなかった。

だからと言って、1人で寂しく飯を食おうなどと思う気も毛頭ない。
仕事の合間の気晴らしとして、華やかな女性達に囲まれるのはオスカーにとっては当たり前の事。
ましてや今、オスカーが恋人と別れてフリーだというのは、彼を狙っている女達にとっては有名な話だ。
少しでもオスカーの時間が空くと、こうして垢抜けた美女達がオスカーの周りに群がってくる。

オスカーは女達と笑いあい、洒落た会話を交しつつも、どうにも心の底から楽しむ事が出ないでいた。
あのアンジェリークという少女の事がわからない以上、他に恋人を探すほうが時間の無駄がないというのはわかっている。
そして目の前には社内でもとびきりの美女達が、しなを作ってオスカーの誘いを心待ちにしている。
だがどの女性も、今の所はあのお嬢ちゃんほど自分の心を動かしてはくれないのだ。

周りの連中は俺の事を遊び人だのプレイボーイだのと好き勝手に呼んでいるが、綺麗な女だったら誰でも恋人にしたいと思ってる訳じゃない。
俺の心を動かしてくれて、恋人として大切にできるかもしれないと思えなければ、付き合う事は出来ない。
そんなだから、今一番興味のある存在が他にいるのに、お手軽に目の前の女性達に手を出す気にはなれなかった。

もちろん俺だって健康的な若い男だから、セックスが必要になる時もある。
だが、そういう時は相手も遊びだときちんと割り切れる、大人の女性がちゃんといるものだ。
今は取り立ててそっち方面が切羽詰まってる訳ではないし、やはりここはあのお嬢ちゃんの所在を何とかして知る事が先決だ。

オスカーは腕時計にちらりと視線をやると、席を立った。
「そろそろ俺は仕事に戻らなくちゃならん。美しいレディ達と同席できたお陰で、午後の仕事もはかどりそうだよ」
「あん、オスカーったらもう行っちゃうの?今日の夜『ハリーズ・バー』に行こうと思ってるんだけど、良かったら一緒に行かない?」
「悪いな、今日は忙しくて何時に終わるかわからないんだ。また、機会があったら誘ってくれ」
オスカーはパチン、と綺麗なウィンクを投げかけると、片手に持ったスーツの上着を肩にかけて歩き出した。

食堂のドアを抜け、奥にあるエレベーターホールに向かう。
オスカーの10メートルほど先に見えるホールでは、ちょうど一台のエレベーターがドアを開けているところだった。
(今からじゃ、急いでも間に合いそうにないな)そう判断したオスカーは、ゆったりとした足取りのままエレベーターを見送ろうとした。
だが、そこに乗り込む女性の集団を見た途端、オスカーの顔色が変わった。

(あれは…アンジェリーク?)
見なれない4人組の女性グループの中に、金色のふわふわした髪を赤いリボンでまとめているアンジェリークの姿がちらりと覗いた。
オスカーは思わず駆け出したが、エレベーターはアンジェリークとおぼしき女性を乗せてすぐドアが閉まった。

「くそっ」
目の前で閉まったドアを睨み付けてから、オスカーは素早くエレベーター上の階数表示に目をやった。
エレベーターは、下降している事を示す緑のライトが点滅している。ここは4階、行くとしたら出入り口のある1階だろうか?
オスカーは素早く判断すると、すぐ脇の非常階段を1階に向かって一気に駆け下りた。

1階のエレベーターホールに辿り着いた時、アンジェリークを乗せたエレベーターは既に到着してドアが閉まり、別の階へと移動を始めていた。
オスカーは踵を返し、広いエントランスホールに出て辺りを見回した。
しかし、それらしき人物はどこにも見当たらない。
一体どこに行ったんだ?

だがあれは、絶対に彼女だった。
一瞬だったが、見間違いはしない。
あまり見覚えのない女性達と一緒にいたが、彼女達が仕事の仲間なのだろうか?

どっちにしろ、やはりあのお嬢ちゃんは、間違いなくこの社内で働いているのだ。


そうとわかれば、何が何でも探しだしてやる。