Sweet company

3. Chasing ! (3)

オスカーが1階のエレベーターホールでアンジェリークを見失っていた、ちょうどその頃。
当のアンジェリークはロザリア達と地下でエレベーターを降りていた。
駐車場を横切り、重役専用の入口に立つ守衛に挨拶をして、中へと入る。

(とりあえず、あのオスカーって人とは会わなかったわ)
アンジェリークはホッと胸をなで下ろした。
社員食堂はびっくりするほど広かったし、本当に混雑していたので、たとえ同じフロアーに彼がいたとしてもお互い気がつく事はなかっただろう。
よっぽどの偶然でもない限り、あそこでそうそう彼と顔をあわす事はないに違いない。
取り越し苦労をしてしまったけど、とりあえずは…良かった。

確かに閉ざされた工房の中に一日中いたら息が詰まりそうになるし、時々息抜き程度に社員食堂やカフェに行くのは、創作活動の上でもいい気分転換になりそうだ。
これからもちょこちょこと利用する事になるだろうけど、オスカーに会ってしまうかもという点では問題無さそうに思える。
でもホッとしているはずなのに、心のどこかで残念だとも思っているのは何故だろう。
私は本当は、彼に会いたかったのかしら?
あんな風に一方的に自分から約束をお断りしたくせに、未練が残っているって事?

なんだか、自分がわからなくなりそうだった。
ジョッシュにもそろそろ連絡しなければならないのに、オスカーって人とああなった後ろめたさも手伝って、いまだに連絡が出来ずにいる。
でも週明けにもこの仕事のお試し期間は終わってしまうし、私の心はもう、ここで頑張ってローズ・コンテストに出場する事で決心が固まっている。
ジョッシュは私がどういう決断を下すのか、ひどく気にしていたし、明日からの週末もこっちに様子を見に来たいと言ってくれていた。
心配してくれる彼のためにも、きちんと連絡をしなくちゃいけない。そうわかっているのに、今は気まずくて、顔を合わす気にもなれなかった。

その上ジョッシュが明日ここに来て、一緒に泊まりたいと言い出したら------私、セックスを拒絶しちゃいそうな気さえする。
まだあのオスカーって人との出来事が生々しくて、まるでついさっきの事のように記憶が鮮明に蘇ってしまうというのに、ジョッシュとすぐに何でもなかったかのように関係を持つなんて、そんな器用な真似は私には出来ない。
でもジョッシュは今まで私に拒まれた事など一度もなかったのだから、怒り出すか…さもなくば、浮気してるかと疑うかもしれない。

それよりもっと心配なのは-----私が不感症じゃなかったとわかった以上、もしまたジョッシュとセックスして、何も感じなかったら。
それどころか、相変わらずセックスが辛くて痛いだけのものに戻ってしまったら-----

私はもう二度と、ジョッシュと恋人同士には戻れないような気がする。
セックスがあんなにも人を熱く心地良くさせてくれるものだと知ってしまった後に、嫌悪感を感じる行為を結婚してまで延々と続けるような事、絶対に出来っこない-----

「アンジェ、何をボーッとしてますの?もう着きましたわよ」
ロザリアの声に、はっと我に返った。
いけないいけない。考えなくちゃいけない事は山積みだけど、とりあえず今は目の前の仕事に集中しなければ。
工房に入ってお菓子の甘い匂いを胸に吸い込むと、昂っていた気持ちが落ち着いてくる。
今日中にジョッシュには連絡して、仕事が忙しいからしばらくは会えそうにないと伝えよう。
少し、自分1人でいろいろ見つめ直す時間を持つ事も、きっと必要だもの。
アンジェリークはエプロンを身に着けると、午後の作業へと没頭していった。



その日の終業後、アンジェリークとロザリアの歓迎会という事で、レイチェルとコレットが小さな食事会兼飲み会を開いてくれた。
そこは高層ビルの上階に位置するお洒落なレストランバー。薄暗い照明に黒が基調のモダンなインテリアが、落ち着いたムードを醸し出している。
フロア中央には艶を抑えたアンティークのジャズピアノが置いてあり、黒人ミュージシャンが奏でるモダンな演奏が、耳に心地よく響いてくる。
秘密保持の問題もあるからと、レイチェルが奥にあるガラス張りの個室を予約してくれていたのだが、そこから見る大都会の夜景は、まさに絶品の美しさだった。

「すっごーい…こんな素敵なところ、初めて来たわ。やっぱり都会は違うなぁ…」
夜景を眺めながら溜息混じりにアンジェリークが呟くと、ロザリアが呆れたように「ちょっと、田舎者丸出しな台詞はやめてくださる?一緒にいるのが恥ずかしいじゃないの」と返す。
その漫才コンビのようなやり取りに、思わずレイチェルが笑い出した。
「なんかさあ、二人って結構いいコンビだよネ。ロザリアってもっとつんけんしたお嬢様かと思ってたけど、アンジェといると面倒見のいいお姉さま、って感じになるし」
その言葉に、アンジェリークが嬉しそうに無邪気な笑顔を向ける。
「本当にロザリアと私っていいコンビに見える?やったー!」
「ちょっと、勝手に喜ばないでよ!わたくしはあんたとコンビを組む気なんて、さらさらありませんからね」
「ええ~そんなぁ、私はロザリアが大好きなのにー!」
素直にロザリアへの好意を口に出すアンジェリークに、ロザリアは顔を真っ赤にしてあさってのほうを向いた。
「全くアンタって子は、プライドってものが欠けてるんだから…」

そんな二人をくすくすと笑顔で見守りながら、コレットがワイングラスを掲げる。
「二人とも親密度を上げるのはそのくらいにして、乾杯しようよぉー」
渋々とグラスを持つロザリアに続き、レイチェルとアンジェもグラスを目の高さまで掲げた。
「ようこそ、スモルニィ社へ。そして正々堂々と、楽しくコンテストの優勝を目指しましょうねぇー」
コレットの音頭に続き、レイチェルが「乾杯!」と大きな声で宣言する。

「カンパーイ!」
4つのグラスがテーブルの中央でちん、と軽い音をたてる。
それを合図にオードブルが運ばれ、女だけの楽しい食事会が始まった。

お酒の弱いコレットが、早々に真っ赤な顔になってきゃらきゃらと笑い出す。
普段は大人しいのに、アルコールが入ると意外なほど笑い上戸だ。
お酒はたしなみの1つ、というロザリアは、ゆったりとしたペースで優雅にグラスを口に運んでいる。
ほんのりと頬が上気してはいるが、酔ったような雰囲気は微塵も感じさせない。
レイチェルは、お酒が強いと豪語しているだけあって、ぐいぐいと水のようにワイングラスを開けていく。
しまいにはボーイがワインを注ぐのが待切れなくて、手酌で飲み始める始末。

対してアンジェリークはというと、決してお酒は強くはないが、実は飲む事自体は結構好きだ。
色とりどりの綺麗なリキュール、香りのいいブランデーやワイン。お菓子にもよく使われる、ラム酒やキュラソー、トリプルセック。杏のお酒や、ライチのお酒も大好き。基本的に甘口のものが好きだけど、ビールやスコッチの水割りも、グラス2杯くらいまでならなんとかいける。
明日が週末という事も手伝って、アンジェリークは快調なペースでくぴくぴとグラスを空けていた。

「ねえねえ、アンジェとロザリアはさぁー、恋人はいるの?」
たったふた口のワインで酔っぱらったコレットが、嬉しそうに聞いてくる。
「あっ、ワタシもそれ、聞きたかったんだヨネ!」

さっきまで優雅に飲んでいたロザリアが、途端にお酒の飲み過ぎのように顔を赤らめた。
「わ、わたくしは…恋人はおりませんわ。小さな頃から決められた許婚がおりますけど、恋人という関係とは違いますもの」
「エエーっ!じゃあさ、ロザリアはその人の事が好きじゃない訳ェ?」
「好きとか嫌いとかいう以前に、会った事もありませんの。だいぶわたくしとは年が離れてるとか、家柄が素晴らしいとか、そんな事ぐらいしかわかりませんわ」
「そんな、会った事もない人と結婚しなきゃいけないなんてー。そんなのロザリアが可哀想ぅ~」
レイチェルとコレットがぶぅぶぅと文句をつける中、ロザリアが寂しそうに呟いた。
「でも小さな頃からそれが当たり前だと言われて育てられてきましたもの…。わたくしは、その方と結婚するのだとずっと思ってきましたわ」

「ねぇじゃあロザリアは、今までに好きになった人はいないの?」
アンジェの問いに、ロザリアがびくりと身体を震わせる。
「それはもちろんですわよ。許婚がいるのに、他の男性を好きになるなんて、許されない事ですもの」
顔を上げてロザリアは気丈に言い放ったが、アンジェリークはロザリアが直前に見せた肩を震わす姿がひどく気にかかった。
もっと詳しく話を聞いてみたかったけど、ロザリアの性格からいって、もっと心を開いてもらってからのほうが良さそうだという気もして、黙っていた。

「ところであんたこそどうなのよ。恋人とか、どう見てもいそうには見えないけど」
「あっひどーい、ロザリアったら!こう見えても一応、故郷に恋人がいる…にはいるのよ」
「何ィ、アンジェったら遠恋ってヤツ?」
レイチェルが茶々を入れたが、それを横からロザリアの鋭い台詞が遮った。
「何よ、その『一応』っていうのは」

何とはなしに自信が無さそうなアンジェの雰囲気を、ロザリアは見逃していなかった。
アンジェは少し躊躇してから、ぽつぽつと正直な自分の気持ちを話しだした。
こういう風に女友達と恋愛の相談をした事自体あまりなかったから、どこまで話していいものか迷ったのだが----ロザリアに心を開いて欲しいのなら、まずは自分のほうから心を開いていくべきだという気もしていたから。

「うん、あのね…ハイスクール時代から3年付き合ってる人がいて、結婚もしようって言われてるんだけど…なんだか最近、本当にその人と結婚したいのか、よくわからなくなっちゃったの」
「何でー?アンジェはその人と一緒にいて、幸せじゃないのぉ?」
コレットに何気なく聞かれた一言が、アンジェリークの胸にぐさりと突き刺さった。

ジョッシュと一緒にいて、幸せだと思った事が、今まであっただろうか?

楽しいと思った事は沢山ある。
優しい人だと思った事もある。
大切にしてくれるし、私を好きでいてくれる。
周りの友達はみんな、「ジョッシュみたいな素敵な人にあんなに思われて、アンジェは本当に幸せ者ね」と言ってくれてたから、自分でもこれが幸せなんだろうと思ってた。
でも、本当にあれが私にとっての幸せだったんだろうか?

お菓子を作っている時や、お店の事を考えている時は『幸せだ』とはっきり断言できる。
なのに、恋人と過ごした時間が幸せと、胸を張って言えないなんて。
むしろベッドの中で過ごす時間は苦痛でしかなかったし、早く逃げて帰りたいと願ってばかりだった。
こんなのが、本当に恋だと言えるんだろうか?

考え込むアンジェに気づかず、レイチェルがコレットを肘で突いた。
「まーったく、コレットったら自分が彼氏とラブラブで幸せだからってさぁー!ちょっと見てよ、この二人の熱々っぷり」
レイチェルは勝手にコレットのバッグを開けると、慣れた手付きで手帳を取り出した。
「やぁだー、やめてよぅ、レイチェルったら~!」
手帳を取りかえすコレットは、だけどとっても嬉しそうだ。
「この子ったらネー、彼氏の写真をたーーーっくさん手帳の中に持ち歩いてて、いっつも私に見せびらかすんだヨー、全く!」
コレットは恥ずかしそうに頬を染めて笑うと、「そんなぁ~」とか言いつつも手帳から何枚もの写真を取り出して、アンジェとロザリアのほうに向けた。

その写真を一瞥したロザリアが、驚いたように目を見開く。
「…コレット、この方って…こう言っては失礼ですけど、あなたと倍くらい年が離れているのではなくって?」
コレットが顔を真っ赤にして、一生懸命抗議する。
「やーんひどーい!ロザリアったらレイチェルとおんなじ事を言うんだからぁ!ヴィクトールさんはね、私と倍も年が違いませんよぅー!」
「そんなこと言って、ほとんど倍のようなモンじゃない!」
「う、違うわよレイチェル…。私は20歳で、彼は39歳だもの……」
「きゃははー!それって倍違うのと同じだヨー!」
語尾が小さくなるコレットに、レイチェルが爆笑する。

アンジェリークはそのやり取りを微笑ましく見つめながら、写真を手にとった。
コレットの横に、がっちりした男らしい雰囲気の大人の男性が写っている。
顔に大きな傷が走っているが、なぜかあまり恐いような雰囲気はない。
…ああそうか、どの写真も、この男の人はコレットを本当に愛おしそうな優しい瞳で見つめているから、ちっとも恐い感じがしないんだ。
そしてこの人を見つめ返すコレットの瞳も、本当に幸福そうにキラキラと輝いてる。

「…この人とコレットは、本当に愛しあってるのね」
アンジェリークが羨ましそうに呟くと、コレットが嬉しそうにうふふ、と微笑んだ。
「ちょっとーアンジェったら、そんな事言うとコレットがまたつけあがってノロケを始めるから、そーゆー事は言わないでくれるゥ?」
「あーっ、レイチェルこそ私にいっつもノロケ話を聞かせるくせにぃ~!あのね、レイチェルの彼ってすっごい大金持ちなんだよー。いっつもね、プレゼント攻撃が凄いの」
「コレットったら、そんな事言うとワタシがお金目当てで付き合ってると思われちゃうじゃないのヨー!チャーリーはね、あの性格がサイコーで愛してるんだからさ!」

喧々ごうごうと楽しそうな二人を尻目に、アンジェリークは再び物思いに沈んでいた。
今こうして恋人の話をしていても、私はコレット達のように頬を赤らめて嬉しそうにジョッシュの事を話す事はない。
3年という月日が私の気持ちを落ち着かせてしまったのかしら?
いいえ、付き合い始めた当初から、私はジョッシュの事を惚気たりするような事はなかった。
まわりの友人達は街一番のプリンスと付き合ってる事実に興味津々で、しょっちゅう彼の事を聞いてきたというのに。

もしかして…私は最初からジョッシュの事、好きじゃなかったんだろうか?
ううん、3年も付き合ってきたんだもの、好きじゃなかったなんてありえない。憧れてた人だし、告白された時は嬉しかったもの。
でも……『愛してるか』って聞かれたら、正直言ってよくわからない。
愛してるってもっとこう、その人の事を想うだけでドキドキして、一緒に息をするだけで幸せを感じちゃうような、そういう事を言うんじゃないの?
もちろんジョッシュと付き合い初めの頃は、デートの度にドキドキと胸を高鳴らせてたけど、それって彼自身に対してドキドキしてたんだろうか。『デートする』っていう慣れなくて楽しい行為に、ときめいてただけなんじゃないのかしら。

ジョッシュとの付き合いに疑問を感じた事は何度もあったけど、彼を愛してなかったのかもなんて考えてしまったのは、これが初めて。
それだけ私は、この短い期間にいろんな経験をし、新しい考え方を身に着け始めたのかもしれない。

母が倒れ、店を1人で支えなければならなくなった事。
自分の才能を認めてくれる人物に出会い、私の中に眠る可能性に賭けてみたくなった事。
仕事を求め、たった1人で都会に出てきた事。
同じ志を持つ仲間と出会い、いい友人が出来そうだという事。
そして、ジョッシュ以外の男性…あのオスカーっていう人に、強い魅力を感じて----自分から彼を誘ってしまった事。

オスカーの事を思い出した瞬間、身体中が急激にかっと火照った。
「アンジェ、顔が赤いけど大丈夫ー?酔っ払ったんじゃないのぉ?」
心配そうに顔を覗きこんでくるコレットを、「酔っ払いに心配されても嬉しくないって!」とレイチェルが笑い飛ばした。
いっぺんに笑いに包まれたテーブルで、ロザリアだけが真面目な顔でアンジェリークの横顔を見つめていた。





「はふ~。ちょっと、飲み過ぎたかな…」
アンジェリークはほろ酔い気分でホテルに戻ると、ふらつく足でソファになだれ込む。
そのままサイドテーブルの電話を取り上げると、いつものようにママの入院先に電話をかけた。

病棟の代表電話に応じた看護婦に、患者の呼び出しを依頼する。
「もしもし、アンジェ?」
受話器の向こうからママの嬉しそうな声が聞こえ、アンジェリークはホッとすると同時に笑顔を浮かべた。
「ママ、身体の調子はどう?そう、良かった!こっちも順調よ。お友達も出来たし、楽しくやってるわ。1週間のお試し期間の仕事もそろそろ終了なんだけど、私、このままこっちで頑張るつもりなの」
アンジェが近況を手短に伝えると、ママもそれをうんうんと頷きながら静かに聞いてくれる。

「アンジェリーク、頑張ってるのね。コンテストに出場すると決めたからには、思いっきり楽しみなさいね」
「うん、頑張るわ!…でもこれからは仕事が忙しくなるし、そっちにもあまり帰れなくなると思うの。けどママに困った事があったらすぐ飛んで帰るから、遠慮しないで何でも言ってね」
「ふふ、これじゃどっちが親かわからないわね。でも心配しないで。今のところは体調もいいし、近所の方達も毎日様子を見にきてくれてるの。アンジェもそこから帰るんじゃ1日がかりになっちゃうし、疲れちゃうから気にしないでちょうだいね」

「ミセス・リモージュ、そろそろベッドに戻る時間ですよ」
会話の途中で看護婦の声が聞こえた。
病院の電話は各病室に備え付けられているわけではないので、看護婦詰め所前の専用電話から入院患者を呼び出してもらう決まりになっている。
長電話はもちろん御法度だし、看護婦や患者がまわりにいる状況では、込み入った会話をするのも難しい。

「呼ばれちゃったから、そろそろ切るわね。あ、そうだ!ジョッシュがね、あなたから連絡がないって心配して私に聞いてきたの。忙しいとは思うけど、一度連絡してあげてね」
「あ…う、うん。わかったわ。じゃあママもゆっくり休んでね」

本当はそのジョッシュとの付き合いで悩んでいるのだとママに相談したかったけど、病院の電話ではそれもままならない。
アンジェリークは電話を切ると、ふうっと重い溜息をついた。
ジョッシュに電話しなければと思うのだけど、気が重い。
さっきまで女友達4人でわいわいと飲んでいた時は、あんなに楽しかったのに。

そう、今日の歓迎会は本当に楽しかった。
年の近い女の子達と、仕事や恋愛やファッションの話できゃあきゃあと盛り上がる。
ハイスクール時代も仕事一筋で、こうやって友人達とゆっくりおしゃべりする余裕すらなかった私にとって、今まさに初めての青春時代を満喫できてるという気がする。

そう思うと、私は今までいろんな楽しい事を見過ごしてきてたんだろうな。
そして今、急に人生の楽しみを知り始めて、自分の中の古い価値観がぐらついてしまっている。
今までは他人が羨むような素敵な恋人がいるという事実で、充分満足できていた。
小さな田舎町に閉じこもっていれば、それでもよかったのだろう。
でもこうして新しい世界に飛び込んで、世界は広いんだという事に気づいてしまうと------他人が羨ましいと言ってくれる事が、本当の幸せじゃないんだって思えてくる。

条件のいい人に「好きだ」と言われて、何となく結婚しちゃうんじゃなくて。
自分が本当に好きで好きでたまらない人に出会って、持てる愛情の全てを相手に注いで。
そして相手の全てを信頼して、自分の全てを委ねて。
そんな胸を張って『愛してる』と言える人に巡り会う事こそが、幸せなんじゃないのかな。
そこで急にオスカーの笑顔が脳裏に浮かび、アンジェリークはいっぺんに酔いが覚めてしまった。

いやだ!私ったらなんで……ここであのオスカーって人の事を思い出してるの?
あの人の事は、何も知らないも同じ。
突然嵐のようにセックスしてしまって、それが気持ち良かったからって-----身体と、恋愛は別物なんだから。あれを恋と錯覚するなんて、バカな事はしちゃいけない。
大体こっちが真剣に愛しちゃったとしても、あんな女性慣れしてる人がこっちを愛してくれる可能性なんて、無いに等しいんだから。

そう、きっとジョッシュとしっくりいってないから、こんな風に思っちゃうんだわ。
彼の事を愛してると自信を持って言えないのは事実だけど、3年間も喧嘩すらせず付き合ってこれたのも、大切な事実。
ジョッシュとは遠距離恋愛になったけど、離れていても心を通じ合わせる事ができるのなら、きっと私達はこの先も上手くやっていける。離れているというハンデを乗り越えられたなら、今までより絆も深くなるし、穏やかに彼を愛していけるかもしれない。
逆に、このまま心が離れていってしまうのなら-----最初から結婚なんて無理だったって事。
私とジョッシュの未来は、きっとこの新しい経験を境に大きく変わる。
-----良くも悪くも。

アンジェリークは溜息をつくと、重い気分を振り切るように頭をぷるぷるっと大きく振った。
そのまま電話に手を伸ばし、ジョッシュの番号をプッシュする。

「もしもし」
「ジョッシュ、元気?遅い時間に電話しちゃってごめんね」
「アンジェかい?ああ良かった、なかなか電話をくれないから心配しちゃったよ」
すぐに聞き慣れた明るい声が、受話器から聞こえてくる。

「ごめんなさい。こっちに来てからバタバタしてて、連絡できなかったの」
「いいんだけどさ、そこは本当にちゃんとした仕事をくれてるのかい?アンジェが辛い思いをしてるんじゃないかと、心配でならなかったよ。でもこうして電話くれたって事は、1週間やってみて気が済んだんだろう?明日にでも迎えに行ってあげるよ。シティを観光でもしてから、のんびり帰ればいいよね?」

もう帰るものだと決めつけているジョッシュの言葉に、アンジェリークはもう一度溜息を洩らした。
「ううんジョッシュ、心配してくれてるのはありがたいんだけど----スモルニィ社から頂いた仕事は、すっごくやりがいがありそうなの。私、コンテストが終わるまでこっちで頑張る事にするわ」
「…えっ、そうなの?でもさ、知らない街で一人暮らしなんだろ?寂しいだろうし、第一危ないよ」
「そうね、全く寂しくないと言ったら嘘になるけど…でも住まいは安全なところを会社が提供してくれてるし、こっちでもいい友達に巡り合えてるわ。だから、大丈夫よ」
「そうじゃなくてさ、アンジェは僕と会えなくなって、寂しくないのかって聞いてるんだよ」

ジョッシュが少し怒ったように聞いてきた言葉に、アンジェリークは答えに窮した。
確かにこの1週間、忙しくて目が回りそうだったけど-----ジョッシュに会えなくて寂しいと思った瞬間は、正直言ってなかったのだから。
ママに会えなくて寂しいと思った事はあるのに、恋人と会えなくても平気だなんて。

「----ごめんなさい、今は忙しくて、寂しいとか思う暇もないの」
「僕はさ、アンジェと会えないなんて嫌なんだ。明日、そっちに行くから。そこは僕が泊ってもいいんだろう?」
少し強引に話を進めようとするジョッシュを、アンジェは慌てて押し留めた。
「ちょ、ちょっと待って。ここは会社が用意してくれた場所だから、勝手に他人を泊めていいのかわからないの」
「でもさ、長くそっちで暮らすんだったら、人を呼べないなんて不便だろ?」
「そうね、確かに。ここはホテルなんだけど、1週間のお試し期間の間の仮住まいだと思うの。こっちに勤める事が決まれば、アパートか何かに移る事になると思うけど…来てもらうとしても、新しい場所に落ち着いてからにしてもらったほうがいいわ」

これは、アンジェの本音だった。
ジョッシュとこれから遠距離恋愛を続けるにしても、今すぐ会うのは避けたかった。
あのオスカーって人との情事の記憶が、少し薄れてからでなければ、とてもじゃないけどジョッシュと平気な顔をして会う事なんか出来そうにない。
-----ましてやベッドを共にするなんて、時間をおかなければ絶対に無理だ。

「…わかったよ、そっちにもいろいろ事情があるんだろうし…だけど、新しい住まいが決まったらすぐ連絡をくれよ。週末だけでもできる限り会いたいんだからさ」
ジョッシュは渋々と言った感じだったけど、なんとか了承してくれたようだった。

アンジェリークは電話を切ると、はーーーっと大きく息をついた。
なんだか、どっと疲れてしまった。今頃酔いが回ってきたんだろうか。
とにかくもう寝て、疲れをとろう。

明日はシティに来て初めての休日。
だけど疲れ切ってて、どこかに出かけようという余裕すら起きない。
でも暇は暇だし---ゆっくり眠って疲れを取ったら、会社に行ってオーブンの使い方を研究しようかな?
休日だから、あのオスカーって人にも会わないだろうし-----


ベッドに入ってうとうととしながら、思い浮かべたのは恋人の顔ではなかった。
仕事と---オスカーの事だったが、それには気づかず眠りに落ちた。