Sweet company

3. Chasing ! (4)

「アンジェリーク、ちょっとよろしいですか」

ディアの声に、アンジェはお菓子作りの手を止めた。
「あ、はいっ!ちょうど今一段落したところなんです」
「そう、良かったわ。それではお話がありますので、こちらへ」

微笑むディアの後に続き、アンジェは工房を出た。
そのまま奥の応接室に入り、促されるままにソファに腰掛ける。
「あなたがこちらにいらしてくれて、今日でちょうど1週間になるでしょう?どうですか、ここは気に入っていただけたかしら?」
「はい、とても!設備は素晴らしいし、他の職人の方達もいい人ばかりですし。このまま、こちらでコンテストまで頑張らせていただきたいと思ってます。…って、本当に私なんかでいいんでしょうか?まだこっちに来てから、自分で満足いくお菓子も作れてないのに……」
少し不安げなアンジェに、ディアはにっこりと微笑んだ。
「もちろん、あなたが決心してくださって嬉しいわ。慣れない環境ですからまだ上手くいかない事もあるでしょうけど、そのうちあなたらしいお菓子が作れると思いますよ。この週末も、休日出社してこちらでお菓子を作ってらしたんでしょう?その気構えがあれば、問題ありませんよ」
その言葉に、アンジェリークもホッとしたように明るい笑みを浮かべた。

「それではこれから契約社員として登用させていただきますので、いくつか事務手続きを行なって欲しいんです。まずはこちらの契約書をよくお読みになって、サインをいただけますか」
ディアの差出した数枚の書類に目を通す。
雇用契約に関する条項、金銭的な面や保証面での決まりごとなど、契約書は多岐に渡っていた。
その中の『住居』に関する条項で、アンジェリークは目を止めた。
「あの、すいません。この『住居は会社が定める』という一文なんですが…」
「ええ、今のホテル暮しはやっぱり落ち着かないでしょう?こちらでセキュリティの確実な、4LDKの高層マンションをご用意いたしましたから、そちらで腰を落ち着けていただければ、と思ってますよ。広さも100平米近くありますから、ゆったり使っていただけるのではないかしら」

4LDK? 高層マンション?ひゃ…100平米???
アンジェリークはだだっ広いマンションの隅っこで、落ち着かなく身体を丸めている自分を思い浮かべた。
「あの、すばらしいお話だとは思うんですが、高層マンションなんて住んだ事がないんで、私にはちょっと落ち着かないんじゃないかと…」
「あら、そうでしたか?それでは、ここから車で15分ほどの高級住宅エリアにある、一軒家のほうがよろしいかしら。お庭もあるし、素敵なところですよ」

アンジェリークは絶句した。
高級住宅街の庭付き一軒家ですって?そんなところ、もっと自分には合いそうにない。
「あ、あのっ!もし良ければ、自分で住むところを選んじゃダメでしょうか。もちろんお家賃は自分で払います。…その、住むところが落ち着かないと、仕事にも集中できませんし」
その言葉に、ディアが少し心配そうに眉を曇らせる。
「あなたがそういうなら、もちろんご自分で選んでいただいてもよろしいんですが……でも、セキュリティや管理がしっかりした住居でないと、こちらとしてもOKは出せないのですよ」
「もちろん気に入ったところが見つかったら、契約する前にこちらにご相談します。最終的には会社のOKを頂いてからで構いませんので」
「そうですか…そういう事でしたら。でも、お家賃は心配しないでくださいね。こちらで予算を出しますから、予算内に納まるようにしていただければ結構ですよ」
「はいっ!我が儘を聞いていただいて、ありがとうございます!」

アンジェリークは何枚かの書類にサインをし、ディアに手渡した。
「それでは、手続きはこちらで終了です。あと以前お話しした、コンテストを補佐する社内の専属チームのお話を覚えてらっしゃるかしら?メンバーとなる社員には、本日通達を出してますから、明日は重役専用会議室で顔合わせをしたいと思ってます。詳しい事はその場でお話ししますので、わからない事があったら遠慮なく聞いてくださいね」
「は、はいっ!」

重役専用の会議室で、専属スタッフとの初顔合わせ。
緊張するけど、やる気も出てくる。よし、頑張ろう!
アンジェは身体の脇で小さなガッツポーズを作った。
それに気づいたディアが、思わずふふ、と笑みを零していた。



オスカーは自分のオフィスに戻ると、どかりと椅子に腰を下ろした。
少し疲れたように天井を見上げて前髪をかきあげると、秘書のアリシアがコーヒーを持って入ってくる。
「お疲れさまです。契約、無事に終了したようですね?ものすごい巨額の契約になったって、会社中の評判ですよ」
「そうだな。大変だったが、実りは大きかった」
オスカーはコーヒーカップを口にしながら、満足げな笑みを浮かべた。

「それとお疲れのところ申し訳ないんですが、会長秘書のミズ・ディアから重要書類が回ってきてます。目を通したら、すぐに連絡が欲しいそうですよ。もしかして、今回の契約の件で会長賞でも出るんじゃないですか?」
「いや、さすがにそれは早すぎるだろう。契約はさっき決まったばかりなんだぜ?」
オスカーは書類の入った封筒を受け取ると、笑いながら中の書類を取り出した。
内容に目を通すオスカーの瞳が、途端に輝きを帯びる。

「…報奨ではなかったが、それに匹敵するくらい面白い話だな。ちょっと俺は、広報課のオリヴィエのところに行ってくる」
オスカーは勢い良く立ち上がると、書類を片手にドアに手をかけ、それから急にアリシアのほうに振り向いた。
「ああ、君も明日から忙しくなるぞ。あとで説明するから、家族に上手く言い訳する方法でも考えておいてくれ」
楽しげにパチン、とウィンクを飛ばすと、オスカーはドアの向こうに消えた。



「やっぱりオスカーのところにも、話が行ってたんだね」
広報課の応接室で、オスカーと向かい合うような形でオリヴィエは座っていた。
「ああ、これは絶対お前にもお呼びがかかってるはずだと思ってな。で、一体どんな内容だと思うか?」
「会長命令の極秘プロジェクトでしょ?明日の説明会に行ってみなくちゃ、いくら勘のイイ私でもわからないよ」
「そうだな…。まあでも、これは俺達にとって大きなチャンスだ」
オスカーはソファに背を預けると、手にした書類を手の甲でぽん、と叩いて小さく笑った。

詳細はまだわからないが、会長から直々に選ばれたという事には、大きな意味がある。
1つは、昇進の大きなチャンスであるという事だ。
書類によると、このプロジェクトの期間は4~6ヶ月。
通常業務と平行して行なうとあるが、基本的にはプロジェクトを最優先しなければならない為、自分の仕事の決済代理を務める事のできる人物を推薦せよ、とある。
つまり、俺が推薦した部長代理が、次期食品輸入部の部長となる可能性が大きい。
そしてこのプロジェクトを無事に成功させる事ができれば、俺にも新しいポストが巡ってくるという訳だ。
輸出入統括部長か、営業局長あたりか。どちらにしろ、滅多にないチャンスに違いない。

そしてもう1つのチャンスは、行き詰まっていたあのお嬢ちゃんに関する情報を、得られる可能性があるという事だ。
彼女が会長か社長権限で採用された人物なのだとしたら、一般の社員には会う事も不可能だろう。
重役達のオフィスは一般社員にとっては雲の上の世界のようなもので、足を踏み入れる事すら出来ないからだ。
だが、こちらも会長に関わる仕事に就けるのであれば、その雲の上にあがり込める。
そこで探りを入れれば、彼女に関する情報も何か掴めるかもしれない。

「よし、今日は前祝いと行こうじゃないか。お前も一杯付き合えよ。この前言ってた女の話も、なんなら相談に乗るぜ?」
「全く調子のイイ男だね。アンタこそ、この前の『アンジェリークちゃん』とは上手くいってるのかい?」
オリヴィエの言葉に、オスカーが眉を顰める。
「…なんだ、しっかり覚えてるんだな。まあこっちの話は別にいいだろう?」
「あっ、そのカンジだと進展がないんだね。キャハハ、天下のプレイボーイさんを手玉に取る女の顔を見てみたいよ~☆」
嬉しそうにからかわれ、オスカーはむっつりとした表情で立ち上がった。
「…飲みたくないんなら、俺1人で行くぞ」
「あっ待ってよ!全く冗談が通じないんだからさ~」
すたすたと先を歩くオスカーに、オリヴィエが肩を組むようにひっついてくる。
「…俺は男と引っ付く趣味はないんだ」
じろりと睨みをきかせたが、もちろんオリヴィエは気にも留める様子はなかった。



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「…以上がこのプロジェクトのおおまかな概要となります。ここまでで御質問はございますか?」

ディアの声に、集まったメンバー達は質問を投げかけたり、手元の書類に目を通したりしている。
オスカーは書類から顔を上げると、集まったメンバーをぐるりと見渡した。

…なるほど、ローズ・コンテストに関わるプロジェクトだったのか。
スモルニィ社は一流の大商社だが、その基盤となった製菓部門には別格と言えるほど力を注いでいる。
役員候補の社員は必ず一度は製菓関連の仕事を経験させられるし、ましてやローズ・コンテストに関する仕事となれば、このメンバーにかけられる会社の期待も大きいだろう。
次期社長候補とも言われているジュリアス監査局長やクラヴィス財務局長が選ばれているのを見ても、このプロジェクトの重要度がわかろうというものだ。
他にも総務部トップのルヴァ、人事部エースのリュミエール、情報産業部の法人営業を担当する若手のランディや輸送機ビジネスの技術者ゼフェル、レジャー企画事業室のマルセルなど、年齢こそ様々だが皆この会社では注目されている人物ばかりだ。

「皆さんの任務としては、コンテストに出場する4名の職人への活動サポート、情報の漏えいを防ぐためのチェックやガード、コンテストに関する情報収集や広報活動など、非常に多岐に渡ります。会長も皆さんには大変期待をかけておりますよ」
ディアはにこやかに説明しながら、正面の大きなプロジェクター画面を手で指し示した。
そこには会長室で、皮張りの椅子に深く腰掛けた会長の後ろ姿が映し出されている。
「4年に一度のこのコンテストは、製菓業界のみならず国を挙げての名誉ある一大イベント。前回は惜しくも優勝を他の国に攫われてしまったが、今回こそ我が社に栄冠を持ち帰られるよう、皆も最善を尽くして努力して欲しい」
会長と呼ばれた女性は、後ろ姿のまま威厳のある話し方で皆を激励した。

オスカーはプロジェクターに映る椅子の背から、僅かに覗く金色の髪を見つめていた。
会長はまだうら若き女性らしいと言う噂は聞いた事があったが、その姿を一般の社員に見せたがらないという噂も、どうやら本当らしいな。
ミズ・ディアにもひけを取らない大変な美女らしいという事だが、さすがにこれではわかりようがない。
まあそのうち、その御尊顔を拝める時が来るだろう。

「ミズ・ディア、わたくし達がサポートする4人の職人ですが…」
リュミエールの質問に、ディアは「そうですね、これから皆さんに4人をご紹介しますわ」と言って入口のドアを開けた。
まだ若そうな雰囲気の女性達が、緊張の面持ちで会議室に入ってくる。
「こちらが、当社を代表する職人の方達です」

オスカーはその顔ぶれを見て、驚きのあまり手にした書類を落としそうになった。
あのお嬢ちゃんが、なんでここにいるんだ?

「それでは1人づつ紹介いたしますね。まず、こちらがロザリア・デ・カタルヘナさん。ご実家は王室御用達の一流パティシェを数多く輩出されている家系で、ミス・ロザリアはその中でも突出した才能をお持ちです」
ロザリアと呼ばれた青い髪の女性が、前に歩み出て「よろしくお願いいたします」と優雅な仕種でお辞儀をした。
しかしオスカーの視線は、その隣にいる緊張で青ざめた表情のアンジェリークにぴたりと当てられている。
彼女は俯き気味で、オスカーの存在には全く気づいていない。
「そしてこちらが、アンジェリーク・リモージュさん。まだお若いですが、5年間もケーキ店の職人をされておりましたので、経験はとてもおありですよ」
「よ、よろしくおねがいいたしますっ!」

ぎくしゃくと前に進みながら、アンジェリークは顔を上げて大きな会議テーブルに座るメンバーの顔を見渡した。
みんなすごい美形の人ばかりだけど、この会社って入社する時に顔のオーディションでもあるのかしら?
そんな場違いな感想を抱きつつ、端からぐるりと目線を動かして------そして奥のほうにいる、燃えるような赤い髪のところで視線が止まった。

「オ、オス………!」
思わず名前を叫びそうになり、慌てて口元を抑えた。
「オス?」
ディアが不思議そうに顔を向け、アンジェリークは真っ赤になりながら「ごごごめんなさい、なんでもないです!」と言って、再び下を向いた。

どうしてあの人が、ここにいるのーーーーーっ!???

ディアがレイチェルやコレットの紹介に移ったので、アンジェはおそるおそる顔を上げた。
オスカーはむっつりと怒っているようで、刺すような鋭い視線をこちらに向けている。

お、怒ってる……?そりゃあ約束を一方的に断ったのは私だけど、あんなモテそうな人、私みたいな田舎娘に断られたって気にも留めないだろうと思ってたのに。
アンジェリークは視線から逃れるように再び俯くと、いたたまれない気分のままモジモジと両手を組んだり離したりを繰り返した。

「それではこれで、会議を終わります。プロジェクトは明日からスタートしますので、本日はこれで解散にいたしますね」
ディアの声に、テーブルについているメンバー達が立ち上がる。
アンジェリークははっとして顔を上げると、一目散にドアに向かって駆け出した。

「あれっ、アンジェったらどーしたのヨー!」
レイチェルの声が聞こえたけど、とりあえず今はここを逃げ出さなくては。
今後の事は、とりあえず1人になってから対策を考えよう!
必死で走ってエレベーターに辿り着くと、ボタンを押してドアが開くのをイライラと待つ。
ああ、早くしないとあの人が来ちゃう!

オスカーは立ち上がると、話しかけてくるオリヴィエとリュミエールを無視して大股で出口に向かう。
「アンジェったら、突然どうしたのかしら?」
訝しそうにドアの前で話しているロザリア達の集団を追いこすと、後は早足でエレベーターの方向に向かった。

残されたリュミエールが、「あの少女がアンジェリーク・リモージュ…」と呟くのを、オリヴィエが目敏く聞き付けてやってくる。
「ねぇリュミちゃん、あのアンジェリークって子の事、知ってるの?」
「…ええ、オスカーから彼女の事を調べて欲しいと頼まれていたんですが、わたくしでは見つけられなかったのですよ。まさか、ローズ・コンテストに出場する職人だったとは……」
呆然と出口のほうを見つめるリュミエールを横目に、オリヴィエは嬉しそうにに~んまりと微笑んだ。

出口にはまだロザリア達が談笑している。
オリヴィエはロザリアに向かって目線で会釈すると、彼女の頬が僅かに紅潮するのがわかった。

「うふふ、アンジェちゃんに、ロザリアか。ちょっとこれは、面白くなりそうだね」