Sweet company

3. Chasing ! (5)

チン、というベルの音と共にエレベーターのドアが開き、アンジェリークは大急ぎで中に乗り込んだ。
「CLOSE」ボタンをがしがしと何度も押し続けると、ドアがすっと閉まり始める。
アンジェリークはそこで、ようやくホッと息をついた。

あそこにオスカーがいたなんて-----あまりにも驚いたんで、思わず逃げてきちゃったけど。
考えてみたら、彼とはこれから仕事でしょっちゅう顔を突き合わさなくちゃならないんだ。
それなら逃げずに、あの場に留まった方が良かったのかもしれない。
でもせめて、心の準備がつくくらいには時間の余裕が欲しかったんだもの。
今逃げ出すのは単なる時間稼ぎに過ぎないけど、これから彼とどう接するのか、考えるくらいの時間は必要…よね?

その時、閉まりかけたドアの間に、すっと大きな手が差し込まれた。
その手はドアをがしっと掴むと、僅かな隙間を力任せにこじ開けてくる。

アンジェリークがびっくりして目を見開くその前で、ようやく人が一人入れそうなくらいドアが開き、背の高い人物がさっとその隙間に滑り込んできた。
その人物はエレベーターの中央で呆然と立ちすくむアンジェリークの目の前に立つと、振り返りもせずに後ろ手で素早く「CLOSE」ボタンを押す。
遠くからがやがやと他の人達がこちらに向かう声が聞こえたが、ドアはそれ以上誰も乗せる事なく、小さな電子音とともに閉じていった。

ドアが完全に閉まって、静寂がエレベーターの中に訪れてから-----ようやくアンジェリークは、その人物がオスカーである事に気がついた。
オスカーはドアを背にしてアンジェと向かい合うような格好で、無言でアンジェリークを見下ろしている。
アンジェリークのすぐ目の前にはオスカーのブルーのネクタイが揺れているのが見えるが、恐くてそれ以上顔を上げる事は出来なかった。
普通のエレベーターに比べて広いはずのこの空間が、ひどく狭く感じて息苦しい。

「…どうして突然、逃げ出したりした?」
静寂を破るように、オスカーの低い声が頭の上から聞こえてきた。
その声は抑揚がなくて一見冷静な感じもするが、やはり怒っているような感じも否めない。
「あ、あの…あ、あなたが怒っているように見えたから……」
目線を合わせないままおどおどと言葉を発するアンジェに、オスカーは微かないらだちを覚えて語気を強めた。
「今さっきの事をいってるんじゃない。先週、俺との約束を一方的に逃げ出した時の事を言ってるんだ」

「それは……」
アンジェリークはそれ以上答えられず、青ざめながら床を見つめた。
なんて答えたらいいのか、自分でも全くわからない。
とにかく二人きりのこの空間から逃げ出したかったが、エレベーターはなかなか止まる気配も見えなかった。

いたたまれない気分が最高潮まで達した時、ようやくベルの音が鳴り響いてドアが開いた。
こうなったら走って逃げ出そう、そう思った瞬間。
「きゃっ?!」

突然オスカーに手首を掴まれ、ぐいっと力強く引き寄せられた。
何が起きたか理解する間もなく、アンジェリークは腰に巻き付いた逞しい腕に抱え上げられるような格好で廊下を前に進んでいた。
「あ、あの…?」
「お嬢ちゃんに、話がある」
片腕で軽々とアンジェリークを持ち上げるオスカーに目を向けると、彼は表情を変えないままこちらも見ずにずんずんと先を急いでいる。
一直線に引き結ばれた唇と、力が入って浮き上がった顎のラインが、彼が怒っているだろう事を伝えてくる。
(オスカー、やっぱり怒ってる…ど、どうしよう……!)

そのままオスカーは廊下の先のドアを開けると、そこに立つ守衛に顎の動きだけで挨拶を交した。
目の前にはがらんとした薄暗い空間が広がり、高級車が何台か停まっているのが見える。
(ここ、地下の駐車場だ)
アンジェリークが毎朝通っている見慣れたその場所をオスカーは突っ切り、奥にある『非常口』と書かれたライトのついたドアを開ける。

その途端、風がびゅん、と吹き込んできた。
そこは外階段に繋がる狭い通路で、頭上には雨除けの小さな屋根が付いていて薄暗い。
右側に錆びた鉄製の外階段が見え、夕方の西日が斜めに差し込んでいる。
アンジェリークは思わず片手をかざして眩しい光を遮った。

オスカーは後ろ手にドアを閉めると、くるりと身体の向きを変えた。
そのままドアにアンジェリークの背中を押し付けるように立たせ、両腕を彼女の両脇について、逃げられないようにしっかりと閉じ込める。
人ひとりが通るのがやっとのような狭苦しい場所で、2人の身体がぴったりと密着した。



「さて、ゆっくり話を聞かせてもらおうか。どうして、俺との約束から急に逃げ出したんだ?」

オスカーはアンジェリークの細い顎に指をかけて上向かせると、その緑の瞳をじっと見つめた。
アンジェリークは怯えたように小さく震え、不安そうに揺れる瞳でオスカーを見上げている。
明るいところで見る彼女の瞳は、緊張と恐れの為か瞳孔が狭まり、緑の色が薄く見える。
オスカーはそこで初めて、自分の声が怒りを孕んでいる事に気がついて驚いた。

何を俺は、こんなに怒っているんだ?
女性に対してはどんな時でも優しく接するというのが俺の信条だったのに、こんな弱々しいお嬢ちゃんに声を荒げ、力づくで詰め寄るなんて。
見ろ、彼女はすっかり怯えてる。

今まで彼女を探していた時は、見つけたら笑って約束の事は水に流してやろうと考えていたはずだ。
なのに今日、彼女は俺に気づいた途端、まるで襲われるんじゃないかというような勢いで逃げ出した。
そうだ、それでカッとなった。逃がすものかとムキになり、いつもの冷静さも何もかも失って彼女を追いかけたんだ。
このままじゃ彼女だって、怯えてろくに話も出来ないだろう。
これじゃあ何の為に、彼女を探していたのかわからないじゃないか。

「あの、私…ごめんなさい、ろくに理由も言わずに約束を破っちゃって…」
じっと氷のような瞳に見つめられる緊張と沈黙に耐えかねて、アンジェリークはようやく口を開いた。
もうこうなったら、私も覚悟を決めよう。
どうせ今後も仕事で顔を合わせなくちゃいけないんだし、このままにしておける訳がない。
ならば、正直に自分の気持ちを打ち明けよう。

「…この前の事、自分でもどうしてあんな事をしちゃったのかよくわからないんです。私には、その、初めての経験だったし…」
「初めての経験?」
「あっ、その、初めてって言っても、なんて言ったらいいのか…。上手く言えないんですけど、出会ったばかりの人と、…あんな…事を…」
「つまり、お嬢ちゃんはああいう出会ってすぐのセックスは初めてだった、って事か?」
アンジェリークは真っ赤になりながら、こくこくと小さく頷いた。

「自分から誘っておいてこんな事言っても、信じてもらえないかもしれないんですけど…でも今まで、自分から男の人を誘ったりした事なんてなかったし、ましてや自分の職場になるかもしれない場所で、名前すら知らない人と、…その、しちゃう、なんて…」
しどもどと言葉を続けながら、アンジェリークは恥ずかしさのあまり視線を落とした。
あまり知らない男性と鼻が触れそうなくらいに近づいて、セックスの話をするなんて、とてもじゃないけど落ち着いてなんていられない。
だけどオスカーは顎に置いた指に力を込めると、強引に顔を上向かせて視線を合わせてくる。

「なるほど、お嬢ちゃんの言い分はわかった。言っておくが俺も、普段なら出会ったばかりの女性と社内でセックスするなんて考えられないんだ。だがあの時は-----自分にも止められないような強烈な衝動に見舞われた。だから、お嬢ちゃんも同じだったと言われればわからなくもない。だからと言って、いきなり逃げ出す事はないんじゃないのか?」

オスカーの声から抑えたような怒りが消えたのを感じ、アンジェリークはようやく伏せていた目を上げ、オスカーの瞳を覗き込んだ。
さっきまでは確かに怒っていたはずの冷たいアイスブルーの瞳は、いつの間にか穏やかなものへと変わっている。
アンジェリークの唇はまだ緊張の為に震えていたが、オスカーが怒っていないとわかっただけで、不思議なくらい怯えていた感情が消えていく。

「あの…こんな事言ったら失礼かもしれないんですけど、あなたはこういった事態に慣れてそうに見えたけど、私は本当に全くの初めてだったんです。自分でも訳がわからなくてパニックになりそうだったし、その後あなたと平然と会って話すなんて事、出来そうになかった。だから、逃げちゃったんです…」
「だからって、君は心配じゃなかったのか?」
「心配?」
アンジェリークは不思議そうに目をぱちぱちとしばたいた。

「そうだ。あの時は暗がりで、お互いの姿もよく見えなかった。君は俺が避妊したのかどうかも、わからなかっただろう?もしもの事があったら、どうするつもりだったんだ?」
「あっ……」
「もちろん俺はあの時、ちゃんと避妊はしていた。だが君はそれを知らないままだったら、しばらくの間は不安を抱えて過ごさなくちゃいけない。俺の名刺は渡してあったが、それで不安がなくなるという訳じゃないだろう?」

オスカーがそんな事まで考えてくれてたとは思ってもみなくて、アンジェリークは驚くと同時に嬉しくも感じた。
やっぱりこの人、ちゃんと避妊してくれてたんだ。
あんないきなりのセックスで、しかも何の義務も責任もない、見知らぬ田舎娘に対して。
その上、約束を断った私の身体や気持ちの事まで心配しててくれた。
この人は、遊んでそうに見えるけれど、決して無責任な人じゃない。
むしろとっても女性に対して真面目な人なんだ----

「あの、ごめんなさい、私も避妊用のピルを飲んでたから…」
「ピル?」
穏やかだったオスカーの視線が急に鋭くなり、アンジェリークはびくんと身を縮こませた。

ピルだって?
この清純そうで初心な外見のお嬢ちゃんが、避妊用のピルを飲んでいるだと?
あまりに意外な発言に、オスカーの心に衝撃が走り抜ける。

女性がピルを飲むのは、ちゃんと決まった理由があるものだ。
身体に問題があるか、定期的にセックスをする恋人や夫がいるか------あるいは無差別に男と遊んでいるか。
まさかとは思うが、このお嬢ちゃんの天使のような見かけは作り物で、中身は男を食い物にでもしてるのか?
出合い頭のセックスは初めてだなどとうそぶいて、本当はあちこちで男を誘いまくっているのだろうか。

突然言葉にならない強い怒りが沸き起こり、冷静な思考を片隅に押しやっていく。
もし本当にそんな乱れた女なのだとしたら、この場で彼女をめちゃくちゃにしてやりたい。そんな凶暴な感情と欲望が、身体中を駆け巡っていく。

オスカーの射抜くような視線に縫い止められたように、アンジェリークも身動きする事すら出来なかった。
冷酷な光を放つ薄いブルーの瞳だけが、アンジェリークの視界に移る。
その瞬間、初めて出会った日の記憶が鮮やかに蘇った。

あの時もこうやって、彼の瞳を見つめていたら変になっちゃったんだ。
そしてあの日と同じように、今も彼に壁に押し付けられ、身体を寄せあっている。
あの時は暗くて良くは見えなかったけど、このすぐ目の前にある唇が、私の身体中を這い回ってたんだ。
私の顎に置かれてるこの長い指が、私の感じやすい部分をやすやすと探り当て、私を初めての絶頂に導いたんだ。
それから-----

身体の奥深いところが、どん、と音を立てた。
体内に熱いうねりが沸き起こり、あっという間に全身に広がっていく。
立っていられないくらい足が震え、息をするのも苦しくて、小さく口を開けて喘ぐように呼吸を繰り返した。

オスカーも、アンジェリークに起こった変化に気づいた。
さっきまで緊張で閉じていた瞳孔が欲望で大きく開き、瞳の色が森の奥のように深みのあるグリーンに変わっている。
頬が薔薇色に紅潮し、洋服の上からでもはっきりわかるくらい乳首がつん、と立ち上がっている。
あの感度のいい乳首も、唇と同じような淡いピンク色なんだろうか。
あのブラウスの前を剥ぎ取って、その胸を直に見てみたい。
小さく震える唇に口づけ、清楚なラベンダー色のフレアスカートを捲り上げて、今すぐ彼女の中に押し込みたい------ 今やオスカーの下半身も勃起して、欲望に全身が張りつめて強張っていた。

アンジェリークはあまりに強い欲望のせいで、動く事すら出来なかった。
まぶたがとろりと重く垂れ下がり、頭がぼんやりして物事がハッキリ考えられない。
いけない、このままじゃ-----また私から、誘ってしまう。
でもここは会社なの、しかも----非常口の階段下、外なのよ!
何か、何かこの場を納めなくちゃ!
霞む思考の中で、アンジェリークは僅かに残った理性を振り絞って口を開いた。

「……私、恋人がいるんです……」

その言葉に、オスカーもはっと我に帰った。
今俺は、何をしようとした?
ここは駐車場脇の非常階段、めったに人は来ないが-----全く誰も来ない、って訳じゃない。
こんないつ人が通るかわからないところで、いきなりおっ始めるつもりだったのか?

オスカーは慌てて身体を離したが、アンジェリークはまだ熱に浮かされたようにぼんやりとしたままだった。
その蕩けているような瞳や、誘うように小さく開いている唇、そして浅い呼吸で上下する胸元を見ていると、また下半身が熱くなってくる。
オスカーは軽く目を瞑って気を鎮め、身体の中の嵐をやり過ごす事に集中した。

全く----どうもこのお嬢ちゃんにかかると、俺は普段の俺ではなくなるらしい。
いきなり本能の塊になって、動物並みの行動しか取れなくなる。冷静さもなくなるし、カッとなって見境すらつかなくなるときてるし。
だが、だからこそひどく興味をひかれ、手に入れてみたいのだ。

それに彼女も、どうやら俺と同じ事を考えてるらしい。
彼女も俺とのセックスを、欲しがっているのは間違いない。
だが恋人がいるという理由で、俺を避けていたのだろう。

恋人か。それが一体どうした?
本当にその男を愛してるのなら、俺にこんなに反応してこないもんだろう。
このお嬢ちゃんは、恋人と上手くいってない。間違いない、賭けてもいいな。

それに恋人がいるならそれはそれで、好都合だ。
誰とでもやりまくる為にピルを飲んでるというのでは困るが、恋人の為にやってる事ならむしろ、きちんとした分別のある女性だという事になる。
俺の恋人として狙いを定める相手としては、かえって申し分ないんじゃないか?

だがこのお嬢ちゃんは、あんまり急いでこっちが押していくと、ダメなようだ。
警戒して、この間のように逃げ出されるからな。
押してダメなら、引くが勝ちだ。
そしてゆっくり、可愛くて臆病なウサギを罠にかけてやろう。
自分から恋人と別れ、俺の元に飛び込んできたくなるように。

目を開けた時には、オスカーはすっかり楽しい気分になっていた。
まだぼんやりしてるアンジェリークの目の前で、指を軽くパチン、と鳴らす。
その合図で、アンジェリークは魔法が解けたようにはっと目を見開く。
オスカーは安心させるように優しい笑顔を浮かべると、肩を小さく竦めた。

「…すまない、怯えさせるつもりじゃなかったんだ。俺はデートに誘った女性に逃げられたのは初めてだったもんで、冗談で軽くお仕置きしてやろうかと思っただけなんだが----少し怖がらせ過ぎたかな?」
何事もなかったようにさらりと言い放つオスカーに、アンジェリークは拍子抜けして身体の力が抜けた。

やだ、私ったらまた、勝手に一人で熱くなっちゃってたのかしら。
この人は別に、何とも思ってなかったみたいなのに。
まあでも…またこっちから誘いかけたりしなくて、本当に良かった。
どうもこの人といると、私はいきなり女性ホルモン分泌過多になるみたい。
いつおかしな気分になるかわからないから、これからは仕事中でも気をつけなくちゃ。

「驚かせちまったお詫びに、今度こそ夕食でも御馳走させてもらえないか?もちろん、恋人がいるっていうお嬢ちゃんに変な気は起こさないよ。これから仕事でも付き合いがある事だし、友達としてって事でどうだ?」

アンジェリークは考えた。
確かにこの人とはこれから、仕事で重要な付き合いを持つ事になる。
それだったら、早くこの人と友人として普通に付き合えるようにしておくに越した事はない。
私の身体を気遣ってくれるくらい責任感のある人だし、無理矢理どうこうするようには見えない。
こっちから誘い掛けるような真似さえしなければ、そうそうおかしな事にはならないだろう。

アンジェリークは小さな声で「わかりました、じゃあ友達として…」と答えた。


「よし、じゃあ俺は車を回しておく。支度が済んだら、正面玄関前に来てくれ」
そう言って笑顔でウィンクを投げかけながら、オスカーは車へと向かっていった。