Sweet company

4. Love Trap ? (1)

2人が再び巡り会った、その日の夕方。
アンジェリークは帰り支度を終えると、オスカーとの待ち合わせの為に会社の正面玄関を出た。

車で溢れんばかりに混み合う道路、足早に通り過ぎる大勢の人間達。
でもオスカーの車は、探すまでもなかった。
すぐ前の大きな道路を挟んだ向い側に停まっている、硬質なシルバーグレーのスポーツカー。
オスカーはその大きくて滑らかな車体に、ゆったりともたれ掛かるような姿でアンジェリークを待っていた。

夕暮れの薄暗い街並の中でも、オスカーの立っているそこだけは、スポットライトでも当たっているみたいに際立って見える。
ごく自然に腕を組み、軽く足首を交差させ、肩の力を抜いてリラックスしてる感じなのに。
でもその反面、どこかぴしりと1本筋が通っているような、見る者を圧倒するような存在感も同時に漂わせている。

街ゆく女性達が皆ちらちらとオスカーを振り返って見ているけど、そうしたくなる気持ちも良くわかる。
だって今の私も、目の前にいる彼の姿に釘付けになったように視線が動かせないのだもの。
アンジェリークはそんな自分に気づかれないよう、無理矢理笑顔を作って大きく手を振った。

「お待たせしちゃってごめんなさい!」

小走りに近づくと、オスカーは慣れた手付きでアンジェリークの荷物を持ち、助手席のドアを開けてくれた。
そのスマートなエスコートにどぎまぎしながら車に乗り込む。
スカートの裾が乱れてシートの乗り口に引っかかっているのを、彼はごく自然に片手で直しながら、静かにドアを閉める。
その一連の流れるような動きを、アンジェリークはただぼうっと車内から見つめていた。

…こういうシーンを見ちゃうと、オスカーって本当に女性の扱いに慣れてるんだと実感するなぁ。
私みたいな田舎娘と食事なんかいかなくても、それこそ彼だったらどんな美女でもよりどりみどりだろうに。
まあ、いっつも豪華なフルコースばかりじゃ飽きちゃうから、時には安い定食屋のご飯が食べたくなるようなものかもしれないけど。

オスカーがドアを開け、運転席に滑り込む。
そのままキーを回し、アクセルをふかすと滑らかに車を発進させた。

「お嬢ちゃんは、どこか行きたいところはあるか?なければ俺が、適当に見繕って連れてってやるが」
オスカーの問いに、アンジェリークは考え込んだ。
こんな状態で素敵なレストランとかバーなんかに行っちゃったら、私の女性ホルモンがまた暴走し始めちゃうかもしれない。
せっかく友達になろう、って言ってもらったんだから、私も自分が変な気にならないような所を選ばなくちゃ。
でも変な気が起こらないような所って、一体どこかな?

そう思ったところで、急にさっきの言葉を思い出した。
『いっつも豪華なフルコースばかりじゃ飽きちゃうから、時には安い定食屋のご飯が食べたくなる』
あれ、これって結構使えるかも!
定食屋とか、そんな感じでムードのない所と言えば------

「えーと私、焼き鳥屋に行ってみたいです!」

元気良く言った言葉に、オスカーが一瞬固まった。
「…焼き鳥屋だって?」
こちらを振り返った彼の顔が明らかに狼狽えてるのがわかる。
アンジェリークは途端に、面白い気分になった。

「はい、よくテレビドラマとかで、サラリーマンの人がカウンターで上司の愚痴をこぼしたりしてるじゃないですか。私、会社勤めの経験がないから、ああいうの一度経験してみたかったんです!」
にこにこと嬉しそうに言うアンジェリークに、オスカーは二の句も継げずに絶句した。

この俺とのデートで、行きたい場所が焼き鳥屋だって?
まいった、全く予想もしてなかった。一体このお嬢ちゃんの頭の中は、どういう構造になってるんだ?
頭がクラクラしてきて、それから思わず笑みがこぼれた。

何も希望がなければ、運河沿いにある、夜景が綺麗でロマンティックな店に連れてってやろうと思ってたんだが。
最近はモダンで洒落た雰囲気の焼き鳥屋もあるにはあるが、きっとこのお嬢ちゃんが行きたいのはそういった類いの店じゃないんだろう。
よし、それならお望み通りのこ汚い焼き鳥屋に連れてってやる。
店に入った瞬間どんな顔をするのか、とくと拝ませてもらおうじゃないか。

そう考えた瞬間にはもう、焼き鳥屋のデートが楽しみになってきた。
オスカーは笑みを浮かべて素早く車線を変更すると、タイヤをわずかに軋ませながら滑らかにUターンして、進路を北に取り直した。


着いた所は、小さな雑居ビルが密集する繁華街だった。
「車を停めて、少し歩こう。ちょっと車が入れないような場所に店があるんだ」
促されて車を降り、アンジェリークはオスカーの隣に並んで歩き始めた。

高層ビルが立ち並ぶスモルニィ社近辺とは違い、ここは同じ都会といっても全く違った表情をしている。
派手で安っぽいネオンが瞬き、若い学生やよれたスーツのサラリーマンが賑やかに騒いでいる。
居酒屋のチラシを配る若者、呼び込みのホステス、早い時間だというのに既に足元がふらついてる男性。
一人で来たら絶対に恐そうな場所だけど、隣にオスカーがいるせいか、全然恐くは感じない。
むしろどこもかしこも興味深く、ついついキョロキョロと辺りを見回してしまう。

「そんな物珍しそうな顔してると、未成年と間違われるぞ」
オスカーにからかわれ、アンジェはぷうっと頬を膨らませた。
「子供扱いはしないでくださいっ!こう見えても、オスカーと同じ職場で働く立派な社会人なんですからねっ!」
「はいはい」
いかにも子供にするように軽くあしらわれ、アンジェリークは悔しくてぷぃっと横を向いた。

「お嬢ちゃん、よそ見してると迷子になるぞ」
「きゃっ?!」
ぐっと腕を引っ張られ、アンジェリークは思わずよろめきながら抗議の視線をオスカーに向けた。
「悪いな。だが、時たま若い女性に絡んでくる酔っ払いもいるんだ。あんまり俺から、離れないでくれ」
そう言ってオスカーの脇にぴたりと寄せられ、アンジェリークは途端に真っ赤になった。

やだ、こんな場所ならいいムードにならないと思ってたのに。
この人の近くにくっついちゃうと、周りの喧噪なんかどうでもよくなってきちゃう。

そのままオスカーはビルの谷間の細い路地に入っていく。
表通りと違って薄暗く、あんまり人気のない雰囲気に、アンジェリークは不安げな表情でオスカーを見上げた。
「なんだ、こういう所が恐いのか?大丈夫だ、すぐそこの店だから」
笑いながらオスカーが指差した先には、小さな赤ちょうちんと「焼き鳥」と書かれた看板が見えた。

-----本当は不安だったのは、オスカーと二人で薄暗い路地に入って、またおかしな気分になったらどうしようと思ったからなんだけど。
でも気づかれなかったから、良しとしよう。

「らっしゃい!2名さま?奥のカウンタへどうぞー!」
がたつく引き戸を開けてのれんをくぐると、法被にねじり鉢巻姿の男性が威勢良く声をかけてきた。
小さな店内は歩く隙間もないくらいにぎっちりと椅子が並べられ、その全てが満席になっている。
カウンターの奥に行くと、長椅子に座っていた中年男性が、席を詰めてくれた。
2人がようやく座れる程度の狭いスペースが空き、アンジェリークとオスカーはその場所に腰を落ち着けた。

アンジェリークの身体の右半分は、席を詰めてくれた中年男性の肩に触れている。
そして反対側では、同じようにオスカーと肩がぴったりくっついている。
狭いからしょうがないとは言え、これではとても落ち着けそうにない。
オスカーに触れている左半身に意識が全部集中してしまって、動きがぎくしゃくとしてしまう。

アンジェリークは身体をずらして、オスカーとの間に距離を取ろうとした。
しかし反対側に座っていた男性に身体がぶつかってしまい、慌てて謝った。
「あ、ごごごめんなさいっ!」

「何やってるんだ」
オスカーの腕が腰に回され、ぐいっと引き寄せられた。
アンジェリークの身体は振り子のように、今度はオスカー側に倒れこんでいく。
「きゃっ!」

オスカーの広い胸に頭を預けるような格好になってしまい、アンジェリークの心臓が跳ね上がる。
慌てて身体を起こしたが、もう遅かった。
さっきよりずっとオスカーとの距離は縮まっており、まるで肩を寄せあってる恋人同士のようにぴたりと身体がくっついてしまっている。

アンジェリークはもう一度オスカーとの間に距離を取ろうと試みたが、もう無駄な抵抗だった。
彼の右腕は、それ以上アンジェリークが動けないよう、腰にしっかりと巻き付いていたのだから。

アンジェリークは真っ赤に染まった顔を見られないよう、慌てて店内を見回した。
初めて入った焼き鳥屋の店内は、想像よりずっとざわめいていて、活気に溢れている。
カウンタの内側では何本もの焼き鳥がじゅうじゅうと音をたて、若い男性が額に汗を滲ませながら、ひっきりなしに串をひっくり返している。
もうもうと立ち上る、油くさい煙。壁にずらっと貼られた、メニューの書かれた短冊。
その壁はタバコのヤニと油で、まっ黄色に変色している。
お世辞にも綺麗とは言い難いが、だからこそ逆に、すぐに馴染んでいける気楽な雰囲気がそこにはあった。

「どうだ、この店は?お嬢ちゃんのお気に召したかな?」
オスカーにそう尋ねられた時には、アンジェリークはもう、オスカーと身体が密着している事を不自然に感じなくなっていた。
むしろ居心地のいいその胸に、身体を全部預けたくなってしまう。
アンジェリークはその誘惑を、かろうじて振り切った。

ふうっ、危ない危ない。
こういう店なら変な気分にならないと思ってたのに。
緊張感がなさすぎて、逆におかしな気分になりそうだなんて。
油断しないで、気を引き締めていかなくちゃ!

「どうした?さすがにちょっと、まずかったか?」
オスカーが心配そうに顔を覗き込んできたので、アンジェリークは慌てて首を横に振った。
「ううん、そんな事ない!むしろ気に入ったくらい。本当にテレビドラマで見たのと変わらなくて、ちょっと感動したし」
「そうか、なら良かった」

ほっとしたような笑顔を至近距離から向けられ、またアンジェリークの心拍数が上がり出す。
駄目だ、私ったら彼のこういう自然な笑顔に、本当に弱いみたい。
口元を少し上げるいつもの笑い方もかっこいいけど、こっちのほうがダイレクトにハートに響いてくる感じで、彼の笑顔から視線が剥がせなくなってしまう。

だから店員がおしぼりを差し出しながら、明るい声で「飲み物は何にしましょう?」と聞いてくれた時は、ようやく視線が離せてホッとした。
「俺は生ビールをジョッキで。お嬢ちゃんは何にする?」
「あ、私も同じのでいいです」
「カウンタ奥、生2丁ですー!」

思わず何も考えずに注文しちゃったけど、まあいっか。
そう思う間もなく、目の前に巨大なジョッキがどん、と置かれた。
へ?ちょっとこれ、大きすぎない?
自分の胃袋より大きそうなジョッキを前にして、アンジェリークは目を丸くした。

「お嬢ちゃんは酒はいけるのか?あんまり飲めそうな感じはしないが」
「ええ、飲むのは好きですよ。でもそんなに強くはないですけど」
その言葉に、オスカーは眉を顰めるとアンジェの手からジョッキを取り上げた。
そのまま片手を上げて店の人間に声をかける。
「すまんが、小さなコップを1つ貰えるか?」
コップを受け取ると、オスカーはグラスを斜めに傾けて器用な手付きでジョッキのビールを移した。
あまり泡を立て過ぎず、上手い具合に注いでからアンジェリークに手渡す。
「あんまり強くないなら、このくらいにしといたほうがいい」
「あ、ありがとうござます」

この人って、さりげないところに気がつく人なんだなぁ。
きっと普段から、人をよく見てるんだろう。
一見自信満々で傲慢そうな印象を与えるけど、中身は案外気配りの人なのかもしれない。

「よし、じゃあ乾杯だ。可愛いお嬢ちゃんと再び巡り合えた偶然に感謝して、ってとこかな?」
アンジェリークの手にしたグラスに、オスカーがビアジョッキをかちん、と合わせる。
そのままオスカーはジョッキを口にし、一気に半分くらいの量を飲み干した。

「ふぅ、旨いな」
そう言ってネクタイを緩めると、シャツの一番上のボタンを外す。
オスカーの男性的な喉のラインがそこから覗き、アンジェリークの目は釘付けになった。
彼がもう一度ビールを口にすると、喉仏が上下するのがはっきりと見える。
それを見ているだけで、自分までお酒を一気に飲んでいるかのように身体がかぁっと熱くなる。

…やだ私ったら、男の人の喉元を見ただけでどきどきしちゃうなんて。
慌てて目を逸らし、アンジェリークは自分のグラスに口をつけた。
キンキンに冷えたビールが、少しだけ身体の熱を冷ましてくれた。

オスカーはカウンタ奥の店員に焼き鳥を何本か注文すると、アンジェリークの方に顔を向けた。
「さて、今日はお嬢ちゃんの事をいろいろ教えて欲しいな。どうしてケーキ職人になったとか、どうやってこの会社から話を貰ったとか」
アンジェリークはビールを飲んだ事で少し気が楽になり、ここまでの様々な出来事を話し始めた。
田舎町で母とケーキ店を営んでる事。母が倒れ、その直後にディアが店にやってきて、スカウトされた事などを。

「…なるほどな。こう見えてもお嬢ちゃんは、結構苦労もしてるんだな」
「なんですかその『こう見えても』っていうのは!どうせ私は童顔だし、頼りなく見えますよーだ!」
お酒の勢いでべーっと舌を出してむくれるアンジェに、オスカーは思わず苦笑した。
「いや、悪い意味じゃないんだ。苦労してるのに、それを感じさせないくらい明るいんだなと思ったのさ。きっとお嬢ちゃんは、御両親に愛されて大切に育てられてきたんだろうな」
思いもよらず優しい言葉をかけられ、アンジェリークは頬を紅潮させた。
「…あ、ありがとうございます……」
照れくさくて語尾が小さくなっていくアンジェを、オスカーはくすりと笑いながら見守っていた。

なんだかオスカーって、話してみるといろんな面を持ってる人だなぁ。
怪我してたのを助けてくれる優しさ、プレイボーイだという噂、自信満々な雰囲気、情熱的な…セックス。
危険な香りがして、以前の私だったらきっと近寄るのも躊躇しているタイプ。
でも今隣で穏やかに微笑んでる彼は、すっごく安心して何でも話せるような人に見える。
信頼できる人が側にいる安心感。なんだろう、この感じ。すごく懐かしい…
「オスカーって、なんだかパパみたい…」

「はぁ?」
オスカーは思わず、カウンタについていた肘をがくっと落としそうになった。
よりにもよって、この俺がパパだって?
いくらムードのない店とはいえ、俺がそんなオヤジに見えるのか?
オスカーは周りを見回し、くたびれた姿のサラリーマン達を見て不安になった。
もしかしてこのお嬢ちゃんから見たら、俺も彼らと変わらなく見えるんだろうか?

「…お嬢ちゃんのパパっていうのは、今何歳なんだ?」
不安を押し隠し、無理矢理微笑みを顔に張り付けて訊ねる。
「パパは今、生きていたら42才になるんですよ」

「生きていたら…?」
オスカーが眉をひそめたのを見て、アンジェリークは大慌てで両手をぶるぶると横に振った。
「あ、言い忘れてましたよね!パパは5年前に事故で亡くなったんです。それで私が、パパの代わりにお店のケーキを作るようになったんですよ」
「…そうか、すまない事を聞いちまったな」
少し罰の悪そうなオスカーを見て、アンジェリークは明るく微笑んだ。
「いえ、気にしないでください!過ぎた事を気にしてたら前に進めませんから。それにその事があったから、今こうしてケーキ職人として認められた訳ですし」
そう力強く言い切るアンジェリークに、オスカーは不思議な感動を覚えた。

本当にこのお嬢ちゃんは、掴みどころがない。
弱々しそうな見た目とは裏腹に、心はまっすぐで驚くほど強い。
でもその天真爛漫な明るさの中に、何か脆さも感じさせて、思わず守ってやりたいと男に思わせる。
この明るい笑顔をいつまでも俺に向けていて欲しい、そうこちらに思わせる何かを持っているのだ。

そう、彼女の魅力はこのキラキラした濁りのない笑顔だ。
こうしてこ汚い居酒屋に連れてきても、嫌がるどころか本当にこの場所を楽しんでいる。
子供のようにニコニコしながら興味深そうに周りを見回している彼女を見ていると、こっちまで楽しい気持ちにさせられる。
なのにその穢れを知らなそうな外見からは想像もつかないほど、情熱的なセックスを仕掛けてみたり。
知れば知るほど不思議で面白く、そして興味が湧いてくる。

「お嬢ちゃんの恋人は、こんな可愛くてしっかり者の彼女が持てて幸せだな。そいつとは、遠距離恋愛ってやつなのか?」
ジョッシュの事を聞かれ、途端にアンジェリークの顔が強張った。
「あ、はい。…彼は故郷にいるから、そんなにしょっちゅうは会えないんです…」
オスカーは彼女が身体を強張らせたのは、恋人を思い出して寂しくなったからなのだろうと思った。
だがアンジェリークは、今の楽しい時間の中で、ジョッシュの事をすっかり忘れていた自分が後ろめたかったのだ。

「あ、あの。私ばかりじゃなくて、オスカーの話も聞きたいな。故郷の事とか、家族の事とか…」
アンジェリークはそんな自分に気づかれたくなくて、話題を変えようと話を振った。
だがオスカーは、その話題に乗ってはこなかった。
「故郷と家族か…そうだな、もう少しお嬢ちゃんと仲良くなったら、そのうち話してやるよ」
遠くを見つめて笑った彼の横顔が、ほんの少し寂しげに見えた。

オスカーは、何か故郷に悲しい思い出があるんだろうか。
その時、アンジェリークの心に今までと違う、強くて不思議な感情が芽生えた。

オスカーの事を、もっと知りたい。
何か心に抱えているものがあるのなら、私に話して欲しい。

その時初めて、オスカーの心が欲しいと思った。
今までの身体の欲望だけじゃなく、もっと深いものを。


でもこの感情がなんなのか、アンジェリークにはまだわからなかった。