Sweet company

4. Love Trap ? (3)

金曜日の夜。仕事を終えたアンジェリークは品の良いレストランの一角で、ロザリアと向かい合っていた。

「…それで、部屋は無事に決まりましたの?」
「うん、結局オスカーが手伝ってくれたお陰で契約もスムーズに終わったし。私一人ではとてもじゃないけどあんなに良い物件を捜せなかったと思うし、本当に助かったわ」
「ずいぶんあのオスカーって男性に肩入れしてるじゃないの。まあ、あれからほとんど毎日一緒に帰ってるみたいだし。お陰でわたくしは、あなたとゆっくり話もさせていただけなかったけど」
美しい紫の瞳にじろりと睨まれ、アンジェリークは身体を縮込めた。
「ごめんなさい~!でも引っ越しの手続き諸々を手伝ってもらったからで、別に変なおつき合いとかしてるんじゃないのよ。ようやくそれも一段落したから、今日はロザリアと相談したい事があるって言ったらちゃんと納得してくれたし。あの人は下心がある訳じゃなくて、本当に親切なだけなのよ」

あんな男性が、下心なしで女性にそこまで親切にする訳ないじゃないの!
少しは警戒しないと、あっという間に弄ばれてポイっとされますわよっ!
ロザリアはそう叫びたいのをぐっと堪え、ナプキンで口元を優雅に拭いながら話を続けた。
「ところで、引っ越しはいつになりましたの?」
「うん、この週末に済ませちゃおうと思って。オスカーも、時間があるから手伝ってくれるって言うし」
「すいぶんあの方、見かけによらずヒマ人ですのね」
「そう言われればそうねー。今ってあんまり忙しくない時期なのかなぁ?」

ロザリアは精一杯のイヤミを込めて言ったつもりだったのだが、アンジェリークには通じてなかったようだ。
ふうっと溜息を付いて眉間に刻まれてるであろうシワを指で伸ばしていると、アンジェリークが心配そうに尋ねてきた。
「ねえロザリア、相談したい事があるって言ってたよね。なんだか深刻そうだけど、私で力になれる?」

あんたのほうがよっぽど心配なんだけど、まあいいわ。
ロザリアは困ったように眉を寄せて笑ってから、自分の相談話を始めた。

「…プロジェクトスタッフの一人で、オリヴィエって方を覚えてる?」
「うん、あの派手な雰囲気の人だよね。スタッフの人達はみんな美形揃いだなーって思ったけど、その中でもあのオリヴィエさんって特に目立ってるよね。あの人がどうしたの?」
「あの方と来週初めにお菓子の素材選びに出かけるんだけど、できればあんたにもついて来て欲しいのよ」
「私が?どうして?」

ロザリアは言いにくそうにもじもじとナプキンをいじり、しばらくしてからようやく口を開いた。
「…実はわたくし、あの方とは少し前からの知り合いなのよ」
「ええっ、そうなの?あの人とロザリアって一見何の接点もなさそうだけど、どういう知り合いなの?」
「わたくしの行きつけにしてるネイルサロンがあるんだけど、あの方もそこの常連なの」
「へ?ネイルサロンって…オリヴィエさんって、失礼だけど男の人…だよね?」
「あんたったら何を失礼な事を言ってるのよ!って言いたいところだけど、…実はわたくしも、最初にサロンで隣に座ってるのを見た時は、男の人なのか良くわからなくて…ついつい、じっと見ちゃったのよ。そしたらあの方が、話しかけてきて。声を聞いたら男性だってわかったから、あまり話してはいけないと思ったんだけど…」

アンジェリークはそこで、良くわからないといったように首を傾げた。
「なんで男性だと、話しちゃいけないの?」
「だってわたくし、許婚がいますのよ?両親からも、知らない男性とはあまり話してはいけないって言われ続けてたし…。まあとにかく、こっちは話すつもりなんてなかったんだけど、あの方ってすごくフレンドリーで全然男性って意識させる方じゃないから、ついつい聞かれるままにいろいろ話しちゃったのよ」
「話したって、例えばどんな事?」
「本当に色々よ。わたくしがお菓子作りに夢中になってる事や、家が代々有名なパティシェを輩出してる家系だって事、それからローズ・コンテストの出場を夢見てる事。そしたらわたくしのお菓子を食べてみたい、って言うものだから…」
「だから?」
いつの間にかわくわくした表情になって身を乗り出しているアンジェリークに、ロザリアは少し言いづらそうな表情を浮かべた。

「…だから、次にサロンに行った時にお菓子を焼いて持っていきましたの」
「じゃあロザリアったら、オリヴィエさんに手作りのお菓子をプレゼントしたんだ!やるなあ~」
「やるな、って…そんなんじゃないわよ!とにかく、わたくしのお菓子をあの方に食べていただいたら、『このお菓子は本当に素晴らしい、味もデコレーションも夢がある』って褒めちぎられて。それで…ローズ・コンテストに出たいのなら、個人で出るより企業のバックアップがあった方が有利だからって、スモルニィ社に推薦状を書いてくださった、って訳なの」
「すごい、じゃあオリヴィエさんってロザリアの恩人のようなものじゃない!…でもなんで、その恩人さんと一緒に素材選びに出かけるのに、私にも同行して欲しいの?」

ロザリアは頬を染めながら視線を外し、更に言いづらそうにもごもごと口ごもった。
「だから…あの方が、何度かデートに誘ってきて…」
「えー!すごいじゃない、ロザリア!いいんじゃない、たまにはデートくらいしたって。別にロザリアだって、オリヴィエさんの事、キライじゃないんでしょ?」
「そうだけど、わたくしには許婚もいるでしょう?だからずっとお断りしてるのに、あの方ちっとも気にしてないみたいで、諦めてくださらないのよ。来週の素材選びは仕事の一環だから行かない訳にはいかないけど、二人きりになるのはちょっと困るし…」

それを聞いた途端に、アンジェリークの顔がぱあっと輝く。
「なぁんだ、ロザリアったら、意外にスミにおけないんだからー!」
「ちょっとあんた、わたくしの話をちゃんと聞いてますの?」
「大丈夫、ちゃんと聞いてるわよ。私もその材料選びに、一緒に行けばいいんでしょ?オリヴィエさんってどんな人かまだわからないんだけど、ロザリアにお似合いかどうかちゃーんとチェックしてあげるから、任せて!」
微妙に論点がずれてるような気がしたが、とりあえずアンジェが一緒に来てくれる事になったので、ロザリアはホッと胸をなで下ろした。

あのオリヴィエって人と二人きりになると、何故か心臓がドキドキして落ち着かない気分になるのですもの。
でもアンジェも一緒なら、きっと大丈夫ですわよね?


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週末は、お天気に恵まれた絶好の引越日和になった。
朝から手荷物の移動を始める為、オスカーは車でアンジェリークのホテルまで迎えに来ていた。

「これだけしか荷物がないのか?」
ボストンバッグ一個だけ持って現われたアンジェに、オスカーが驚きの声を上げる。
「うん、だって最初はちゃんとこの会社と契約するかわからなかったし。とりあえず当面の身の回り品だけあればいいかなぁ、と思って…」
それにしたって少ない荷物だ、とオスカーは苦笑いした。
女性といえば荷物が多いのが当たり前だと思っていたが、どうやらこのお嬢ちゃんは違うらしい。

今まで恋人だった女性とバカンスに出かけた事が何度かあるが、皆ほんの数日の旅行でも呆れるほどの大荷物だったものだが。
さらに帰りには、土産や買い物の品が際限なく増え続け、身動きできないような有様だった。
買い物は女性の楽しみと言われればそれまでだが、荷物に振り回されて旅行が終わっているような気持ちにさせられていたのも事実だ。
もちろん買い物に行きたいとねだられれば応じていたが、せっかくのバカンスをもっとのんびりシンプルに楽しめないのかと常々感じていた。

このお嬢ちゃんはきっと、生活も考え方もシンプルで身軽なんだろうな。
意外な所が自分に似ている彼女の気質に好感を持つと同時に、こんな荷物じゃあ都会暮しは不便も多いだろうと心配になった。


新居に到着すると、アンジェリークはエプロン姿になって掃除を始めた。
そのうちに引っ越し屋が到着し、アンジェリークの実家から送られてきたという荷物の入った段ボールを運び入れる。
オスカーの思っていた通り、実家からの荷物もたいした量ではない。

オスカーは段ボールを各部屋に分けて運ぶのを手伝うと、キッチン用品などの荷解きを始めた。
アンジェリークはほんの少しの衣服をクローゼットにかけ代えている。
2時間ほどで大体の荷物が仕分けされると、オスカーが立ち上がった。
「お嬢ちゃん、区切りのいい所で休憩にしよう。近場に感じの良さそうなブラッスリーがあったから、そこで昼飯にしてから買い出しに行ったほうがいいな。この辺の街並も、見てみたいだろう?」
「あ、うん!日用品を売ってるお店とか、病院なんかの場所もチェックしときたいな」
「よし、じゃあ行くか」

オスカーがすっと片手を差し出した。
大きな手のひらがすぐ目の前に見えて、アンジェリークはどきりと胸が高鳴る。
この手を取るべきか迷って動けないでいると、オスカーが訝しそうに軽く眉を寄せた。
「どうした?荷物を持ってやろうと待ってるんだが」
「あっ、ごごごめんなさい!私ったらぼんやりしちゃって…」
真っ赤になりながら慌ててテーブルの上のバッグを掴むと、オスカーに手渡した。

私ったら勝手に勘違いして手を繋ごうとしてたなんて…やだもう、恥ずかしいー!
間違って手を繋がなくて、良かったけど……でも本音をいえば、ちょっぴり手を繋いでみたかった。
オスカーって女性の肩や腰に手を当てるのは慣れてそうだし、私もそれじゃ緊張しちゃうだろうけど。
逆に手を繋ぐほうが、特別って感じがするんだもの。
大きくて男らしいあの手にくるまれて、のんびり歩けたら。すごく安心できて、自然と笑顔になれそうな気がする。
…恋人がいるのにこんな事を考えちゃうのは、いい事じゃないわよね。

でも一度浮かんだ考えは、なかなか頭から消し去る事が出来ない。
アンジェリークはオスカーと並んで歩きながら、彼の手ばかり気になって、ドキドキしてしょうがなかった。


ブラッスリーで昼食をとった後、二人は日用品や足りない物の買い出しに出かけた。
鍋などの調理用具や、清潔なリネン類、シーツにカーテン。
ママが送ってくれた物も少しはあるけれど、調理用具なんかはママも家で使わなくちゃいけない物だし、そんなに送ってもらう事は出来なかった。
「フライパンに煮込み鍋と、レードル類に…あとは何が必要かなぁ?」
悩むアンジェリークの脇で、オスカーが適格なアドバイスをよこす。
「包丁も1本しか入ってなかったから、ペティナイフとか揃えたほうがいいんじゃないのか?」

次々と品物を選んでカートに放り込んでいく二人の後ろを、これは上客だとばかりに年輩の店員がにこにことついてくる。
たまたま後ろを振り向いたアンジェリークは、その男性店員とばっちり目が合ってしまった。
「新婚さんですか?いいですねぇ、優しそうでハンサムなダンナさまで。若奥様も可愛らしいし、とってもお似合いの夫婦ですね」
「え!ええ!?」
アンジェリークは一瞬のうちにゆでダコのように全身を赤く染めると、そのまま石のように固まった。
新婚?ダンナさま?若奥さまぁ???
わ、私達ってそんな風に見えてるのぉ!?

固まって動けないアンジェリークに、オスカーが追い討ちをかけてきた。
「そりゃあ似合って当然だろう。なんたって、この俺が選んだ嫁さんだからな」
肩を抱き寄せられ、アンジェリークはますますカチーンと固まっていく。
「ははは、こりゃあアテられましたな!新居の準備ですか?それでしたらこの辺りもお薦めの商品ですよ」
店員の指差した棚に目を向け、アンジェリークは恥ずかしさのあまり息すら止まりそうになってしまった。

そこは、寝具の棚。いかにも新婚やカップル向けといった感じの、光沢のあるサテンやシルクの艶かしいシーツや、ペアのバスローブやレースのセクシーなナイトドレスなどがずらっと並べられている。
オスカーはアンジェの肩を抱いたままシルクのシーツを手に取ると、指で感触を確かめながらいたずらっぽく笑いかけた。
「そうだな、これなんかなかなか気持ち良さそうじゃないか、ハニー?」

耳元で甘い恋人のように呼び掛けられ、アンジェリークはついにパニックを起こした。
「いやぁーーーっ!!」
叫ぶなり猛ダッシュで走り去っていくアンジェリークを、オスカーが笑いながら追いかけてきた。
「待てよお嬢ちゃん、冗談だ」
腕を掴まれたが、オスカーはまだ笑いを収める事が出来ず、くっくっと苦しそうに涙すら滲ませている。
こっちはまだ心臓が跳ね上がっているというのに、なんて人なんだろう!
「オスカーのばか!いじわる!どうせ私はからかい甲斐のあるお子さまですよっ!」
「いやすまん、お嬢ちゃんは考えてる事がストレートに顔に出るから、ついからかいたくなっちまうんだ」
「もう知らないっ!」
ぷぅっと頬を膨らませてあさってを向いたが、向いた方向からさっきの男性店員が足早にこっちに来るのが見えた。

「す、すいませんでした。私ったら調子に乗ってあんなコーナーをお薦めしちゃって。まだ奥様はお若いから、気恥ずかしいに決まってますよね」
懸命に頭を下げてくる店員に、アンジェリークもそれ以上怒った顔を見せられなくなってしまった。
「あ、あの、そんな気にしないでください」
「ああ、彼女は恥ずかしがり屋なのに、人前であんな事を言った俺が悪いんだ。俺達は別に気分も害してないし、買い物は楽しんでるぜ。なあ、ハニー?」
オスカーは再びアンジェリークの肩を抱くと、店員に向かって笑いながらウィンクを投げた。
また逃げ出したかったが、謝っている店員の前ではそれもできない。
アンジェリークも引きつった作り笑いを無理矢理浮かべると、なんとかその場をやり過ごした。


「…もう、2度とあんな事はしないでくださいね!」
食料品店でカートを押しながら、アンジェリークはぷりぷりと不平不満を並べていた。
オスカーは一応謝罪の言葉を口にはするものの、どう見てもまだ可笑しそうにくっくっと笑いを洩らしている。
その姿はまるでいたずらを楽しんでいる子供のようで、会社での近寄り難いようなクールな姿と同一人物には見えない。
その笑顔を見ていたら、なんだかいつまでも怒ってるのがばかばかしい気がしてきた。
「…でも今日は一杯手伝ってもらっちゃったから、許します。今日のお礼に夕食を作って御馳走しますけど、何が食べたいですか?」
手料理と聞いて、オスカーの笑顔が一層嬉しそうに綻んだ。


オスカーは新居のダイニングテーブルに腰掛けて片肘をつき、キッチンに立つ彼女の後ろ姿を眺めていた。
ポニーテールにエプロンというごく普通の家庭的な姿が、本当に良く似合っている。
菓子職人として店を切り盛りしていたと言うだけあって、料理の手付きも慣れたものだ。
とんとんとん、と野菜を切る軽快な音と、空腹感をいや増させるいい匂い。
その暖かくて懐かしい雰囲気に、オスカーはふと自分の故郷での暮らしを思い出した。

あの頃は、よかったな。
厳しいが強くて尊敬していた父、優しくて美しい母。
俺と見た目は似ているのに気の弱い弟と、勝ち気で俺にべったりの可愛い妹。
愛しあう両親と、笑いの絶えない明るい家。
だがもう、それは過去の幻影に過ぎなくなってしまった。

もう何年、俺は故郷の土を踏んでいないんだろう。
そう思った瞬間、無性に故郷が恋しくなった。
あんな思い出のあった故郷には、二度と帰りたくないと思っていたのに。
だが今は、あの乾いた大地が懐かしい。草原で馬を駆り、夕日が沈むのを飽きるまで眺めていた、あの母なる大地が。

そのセンチメンタルな感情の沸き上がりに、オスカー自身も少し戸惑い、顔をしかめた。
らしくないもいいところだ。全く、俺はどうかしてるな。
心に残る傷跡は、今まで見ないようにして乗り越えてきたと言うのに。

その時アンジェリークが、大きなお皿をテーブルに置いた。
暖かい湯気のたつ料理が並べられ、何もないテーブルはたちまち賑やかな食卓に変貌する。
「お待たせしました。時間がかかっちゃったから、お腹空いたでしょ?」
その屈託のない笑顔が、オスカーの心にあった何かを溶かしていた。


「ごちそうさま。旨かったよ」
食事を終え、皿を片付けながらオスカーが言った言葉に、アンジェリークは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「本当?えへへ、料理は結構得意なんだけど、オスカーの味の好みはわからなかったから、正直言って心配だったんだ」
「いや、本当に旨かった。ここのところ忙しくて外食ばかりだったから、こういうあったかい家庭料理を食べられて嬉しかったよ。お嬢ちゃんはお菓子だけじゃなく、料理の才能もあるんだな」
「そ、そんなに誉められると、照れちゃうなぁ~」

アンジェリークの横で皿洗いを手伝いながら、オスカーは笑う彼女の横顔をしげしげと眺めた。
料理を作っている時も、食べている時も、こうして後片付けをしている時でさえ、彼女は本当に楽しそうだ。
一緒にいると心が和むし、こっちまで楽しい気持ちになる。
都会で美人のキャリアウーマン達とラブ・アフェアを楽しむのももちろん俺らしいと思うのだが、彼女の横にいて笑っている今の俺こそが、本当の自分のような気もしてくる。
彼女の何が、俺にそう思わせるのだろう?

アンジェリークが少し前屈みになり、鍋をごしごしと磨き始めた。
ポニーテールから覗くうなじと、ふわふわとカールする金の後れ毛、そして華奢で折れそうな背中。
少し田舎くさいふくらはぎまであるたっぷりのギャザースカートから覗く、ほっそりした足首と裸足の踵。
オスカーは欲望が一気に喉元まで上ってくるのを感じ、思わず息を飲み込んだ。

女の裸足を見て欲情したのは、初めてだった。
足の爪や反り返った土踏まず、細い足首の横に張り出す軟骨に至るまで、わずかに覗いた素肌の全てに目を奪われた。
あの足を高く持ち上げ、つま先を口に含んで感じさせてやりたい。
シンクの前に立つ彼女の背中を抱きしめ、あの柔らかそうなうなじに口づけたい。
そのままスカートをまくり上げ、後ろから彼女の中に入ったら、きっと彼女はつま先立ちになり、あの可愛らしい素足を反り返らせて俺に応えてくれる------
考えただけで目眩がしてきたが、オスカーは視線をアンジェリークから無理矢理外し、逸る気持ちを押さえつけた。

ここで突然彼女を抱いても、断られないという自信はあった。
彼女と俺は身体の相性がいいし、感じるポイントを丁寧に愛撫してやれば、すぐに陥落するだろうというのもわかってる。
だが、そうはしたくなかった。
あくまで彼女から俺を求めさせ、恋人と別れようという気にさせたかった。
俺にしてはまどろっこしいやり方だが、なぜかいつものようにさっさと恋愛ゲームを進めていく気にはなれない。
焦ってしまったら、この心和む時間までぶち壊しにしてしまいそうな気がしたからだ。
彼女を早く手に入れたい気持ちも強かったが、この楽しい時間を失いたくないという思いも同じくらい強く感じていた。


「…さて、食事もいただいたし、俺はそろそろ帰るとしよう」
後片付けを終えたアンジェリークに、オスカーが声をかけた。
「…うん、あの…今日は色々とありがとうございました。お陰で本当に助かったし、感謝してもしきれないくらい」
アンジェリークは深々と頭を下げたが、なんとなくそのまま顔を上げたくなかった。
顔を上げたら、オスカーが帰ってしまう。
もうそろそろ時間も遅いし、恋人でない男性をいつまでも部屋にあげるのは非常識だというのもわかってる。
でも、何故かひどく寂しくて、もう少し側にいて欲しかった。

よし、食後のコーヒーでも勧めよう。そのくらいの時間だったら、引き止めちゃっても大丈夫よね?
アンジェリークは決心して顔を上げたが、コーヒーを勧める事は出来なかった。
何故なら突然インターホンから、呼び出しのチャイムが響いたのだから。

(誰だろう、ここを知ってる人はまだあんまりいないのに。荷物がまだ別便であったんだろうか?)
アンジェリークはインターホンを取り、そこから聞こえてくる声に呆然とした。
「ジョッシュ、どうしてここに?!」

予定外の恋人の来訪に、アンジェリークは思わず大きな声をだしてしまった。
その声に、帰り支度をしていたオスカーの視線もそっちへ向けられる。
インターホンに付いている小さなモニタに、満面の笑みを浮かべる若い金髪男性の姿が映っている。
「アンジェがなかなか連絡くれないから、君のママにここの住所を聞いたんだよ。急に来てびっくりさせてやろうと思ったんだけど、どう?驚いたかい?」

驚いたなんてもんじゃない。心臓が止まるかと思った。
だって今、ここにオスカーもいるのに!
「ジョッシュ、急に来られても困るの。まだバタバタしてるし、引っ越し作業で疲れてるし」
「そうかもしれないけどさ、こっちもわざわざ遠いところを出てきたんだよ?部屋くらい上げてくれてもいいじゃないか」
アンジェはちらりと後ろのオスカーを見ると、縋るような視線を向けた。
こうなったら、ジョッシュも帰ろうとはしないだろう。
ここで押し問答して、引っ越し早々管理人に不信感をもたれたくない。
それなら、オスカーがジョッシュと鉢合わせないよう、今すぐ部屋を出ていってもらうしかなかった。
「…わかったわ、上がって」
アンジェリークは観念したように溜息を付くと、オートロック解除のボタンを押した。

インターホンの受話器を置くと、アンジェリークはオスカーのほうに振り向いた。
「突然なんだけど、私の恋人が急にこっちに来ちゃったみたいなの。ここでオスカーとはち合わせたら誤解されちゃうかもしれないし、彼が部屋に来る前にそろっと帰ってもらってもいい?…本当はこんな風に無理矢理帰ってもらいたくはなかったし、食後のコーヒーくらい飲んでって欲しかったんだけど…」
言いづらい事を口にして、アンジェリークはいたたまれないように目を伏せた。
だがオスカーから帰ってきた答えは、予想外の物だった。

「いや、俺はここに残るよ」

「えっ?」
驚いて顔を上げたアンジェリークに、オスカーは「心配するな」と余裕の笑みを浮かべていた。
どうしていいのかわからなくてオロオロしているうちに、ドアチャイムがピンポーン♪と無情に鳴り響く。
「早く出てやれよ、あんまり待たせると可哀想だぞ?」

アンジェリークは泣きたいような気分になりながら、のろのろとドアの鍵を開けた。