Sweet company

5. Such a Flirt (1)

「ようやく我が家に帰って来れて、ホッとしたわ」

電話の向こうから聞こえる嬉しそうな母親の声に、アンジェリークも思わず笑みを零す。
母親のリリアンはようやく今日、晴れて退院の運びとなった。
入院中は電話する度にいちいちママを呼び出してもらう必要があったし、病棟の電話ではゆっくり話す事も出来なかった。
けれど今日からは、時間も周りも気にせずにママと話ができる!

「ママが退院できて、本当に良かったわ。もう体調は全く問題ないの?」
「ええ、今までゆっくりし過ぎたくらいだから、元気が有り余ってるわよ。お店もあなたが帰ってくるまでは再開できないんだし、近所のお店にパートにでも出ようかと思ってるんだけど」
「だめよ、ママ!無理したらすぐ病院に逆戻りしちゃうわ。しばらくはおうちで本を読んだりのんびりして。どうしても退屈なんだったら、カルチャーセンターとかで習い事くらいならいいと思うけど…そうだ、昔からキルトを習ってみたいって言ってたじゃない。それなんかどう?」

どっちが母親かわからない口調で嗜めてくるアンジェに、母のリリアンは思わず苦笑した。
「そうね、無理はまだ良くないわよね。あなたの言う通り、しばらくは家でのんびりするわ。そうそう、それとこの前ジョッシュから電話があって、あなたの新しい住所を教えて欲しいって聞かれたの。恋人だからいいかしらと思って教えちゃったんだけど、構わなかったかしら?」
「……う、うん。その後すぐ、ジョッシュがこっちに来たわ」

会話に妙な間が開いたのを、母親のリリアンは聞き逃さなかった。
「アンジェ、もしかしてジョッシュと何かあった?住所とか教えない方が、良かったかしら」
「あ、そうじゃないの!…うーん、なんて言ったらいいのかなぁ…」

言いにくそうにアンジェリークは口ごもる。
長年ジョッシュとの付き合いを見守ってくれた母親に、今の状況をどう説明すべきなのか、上手く言葉が出てこない。
黙ってしまったアンジェリークに変わり、リリアンのほうが口を開いた。
「ねえ、アンジェ。ママはちょっと前から、もしかしてアンジェはジョッシュと上手くいってないのかしらと心配してたの。でもこれはあなたの問題だし、ママが口を出すべきじゃないかな、とも思って。でももしあなたが悩んでる事があるのなら、ママで良ければいつでも話を聞くわよ?」
優しい母の声に、アンジェの気持ちがぐらぐら揺れる。

ママは、私がジョッシュと別れたいと言ったら、驚くだろうか?
町一番のお金持ちの恋人と結婚すると思ってただろうから、がっかりさせてしまうかもしれない。
それに結婚すると町中の人達が噂してるのに、別れるなんて言ったら、狭い田舎町の事だ。婚約破棄だとか何とか、大袈裟な噂が広まるかもしれない。
そんな無責任な噂の中に、ママをひとり置き去りにしてしまうのはいやだ。
でも、噂になるかもしれないのなら尚更、ママには私の気持ちをちゃんと知っておいてもらいたい。
ママにだけは、何があっても自分の心を正直に話しておきたいのだから。

押し黙ってしまったアンジェを、リリアンは辛抱強く待ち続けた。
やがてアンジェリークは決心したように受話器を両手でぎゅっと握ると、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「…実はママの言う通りなの。私、だいぶ前から少しづつ、ジョッシュとのおつき合いに疑問を感じるようになって…まわりはみんな結婚するものだと思い込んでるみたいだけど、私は彼とこのまま結婚して幸せだとは思えない。だってこうして離れて暮らしていても、彼に会いたいとも思わないのよ?こんな気持ちのままで彼とおつき合いしていくのは、いいことじゃないわ。だから……私、ジョッシュとはお別れしようと思ってる」
「そう、やっぱり。ママもね、あなたとジョッシュはこのまま結婚しちゃっていいのか、ずっと疑問に思ってたの」
「えっ?ママも?」

意外だった。
ママはジョッシュとの付き合いに最初から理解を示してくれていたし、きっと彼との結婚を望んでいるのだろうと思っていたのに。

「パパが死んでから、私はアンジェに頼りっぱなしだったでしょう?同級生達が楽しく遊んでいるのというのに、あなたは仕事漬け。頼りないママのせいで、アンジェの青春を奪ってしまったと、ずうっと罪の意識を抱いていたわ。だからあなたに恋人ができたと聞いた時は、本当に嬉しかった。時間の許す限りデートして、楽しんで欲しいと思ってたの」
リリアンの告白に、アンジェは驚きながらもじっと耳を傾けた。
ママがこんな風に私の事で思い悩んでいたなんて、初めて知った。

「でもデートから帰ってきても、あなたはちっとも楽しそうじゃない。恋する女性の持つ幸せな輝きを、あなたからは感じなかったの。ジョッシュは悪い子じゃないけど、アンジェにとっては真実の恋の相手じゃなかったのかも、って思ったわ。でもあなたは仕事一筋で、他に男の子と出会うチャンスもなかったでしょ?いつの間にか付き合いが長引いて、ジョッシュと結婚するって噂が持ち上がったから----ママは心配になったのよ。このまま何となく結婚しちゃって、アンジェは幸せなんだろうか?って。だからあなたがジョッシュを愛してないと思うんだったら、すぐにお別れしたほうがいいわ」
ママにあっさりと別れを肯定され、アンジェリークは緊張していた分、拍子抜けした気分になった。

「うん、でも…そこは小さい街だし、ジョッシュは有名人だし、別れたら噂になるのは避けられないと思うの。ママがイヤな思いをしないかなーって心配で…」
「いやだ、そんな事を心配してたの?無責任な噂なんかより、たったひとりの愛する娘が幸せになる事のほうが大事に決まってるじゃない」
リリアンはアンジェの不安を吹き飛ばすように、明るく笑い飛ばした。
「あなたが本当にジョッシュと別れたいと思うなら、それでいいじゃない。あなたはまだまだ若いし、これからいくらでも本物の恋に巡り合えるわ。その事のほうが、ママにはずっと重要よ」

本物の恋-----その言葉に、まっ先にオスカーの顔がぱっと思い浮かんだ。
そう、私はもう新しい恋を見つけた。自分が心から惹かれてる、と思える人に出会ってしまった。
でも、ジョッシュときちんと別れてからでないと、オスカーにも好きだなんて告白できない。それが、私なりのけじめだと思う。
オスカーの事もママに相談したかったけど、まずはジョッシュと別れてから。それがきちんと終わったら、ママにもオスカーの事を話そう。

「ねえアンジェ、でもジョッシュと別れるにしても、きちんと話し合った方がいいわよ。長く付き合ったんだし、彼もまだ、アンジェを好きなんだし----遠く離れてても、自然消滅なんて考えない方がいいわ。かえってこじれるかもしれないし」
「うん、私もきちんと話さなくちゃとは思ってるの。でも電話とかであっさり済ましたり、彼がこっちに来てる時に言うのは申し訳ないし…一度地元に帰って、そこで話そうかな、って」
「そうね、ママもそれが一番いいと思うわ」

そこでピーピーという電子音が、会話に被さった。
「あれ、キャッチが入ったみたい。ママごめん、そろそろ切るね」
「ええアンジェ、何かあったらいつでもママに相談してちょうだい。それじゃあね」
ママとの電話を切り、キャッチホンの受信ボタンを押す。
「もしもし、アンジェかい?僕だよ」
「ジョッシュ?」

今まさに、ママと話していたジョッシュ本人からの電話だった。
何を話していいのか、思わず言葉に詰まると、ジョッシュも同じように黙りこくった。
気まずい沈黙が、2人の間に流れる。
先に沈黙を破ったのは、ジョッシュのほうだった。

「…この間はごめん、アンジェを置き去りにして帰っちゃって。その、僕…ちょっと焦ってたんだ。アンジェは遠くに行っちゃうし、僕達の間には何も確約があるわけじゃないし。君と結婚したいって友達や親にも言いふらしちゃったのに、逆にアンジェがどんどん離れていっちゃうみたいに感じて。だから、早くきちんとした約束が欲しかったんだ」
一生懸命言葉を選び、素直に謝っているジョッシュの声を聞いていると、さっきまでの決心が鈍りそうになってくる。
でも、一生懸命考えてくれてる人だからこそ、私もきちんとお別れを伝えなくちゃならないんだ。

「ジョッシュ、その結婚の話なんだけど。…一度、白紙に戻したいの」
「…それってやっぱり、この前僕が帰っちゃった事を怒ってるから?」
「そうじゃないわ。とにかく電話じゃゆっくり話せないから、会ってきちんと話しましょう。ママも退院したし、今週末にもそっちに一度帰ろうと思ってるんだけど。…そこで私達の今後について、話し合いたいの」

再び沈黙が訪れた。
アンジェリークはじっとジョッシュの返事を待ったが、彼はなかなか口を開かない。
ようやく口を開いた彼の声は、泣き出しそうに震えていた。

「……つまりアンジェは、別れ話をしにこっちに帰ってくるつもりなんだ。そうなんだろう?」
図星を突かれ、アンジェは一瞬言葉に詰まったが、ここで話をうやむやにする事は出来ない。
「その事も含めて、私の考えてる事を全部話しておきたいの」
「いやだよ、聞きたくない!僕は絶対アンジェと別れる気なんかないからね。週末にこっちに来ても、僕は会わないよ!」

ブツッ、と電話が切れる音がした。
「もしもし?ジョッシュ?」
返事はなく、ツーツーという小さな電子音だけが聞こえてくる。
アンジェリークはふーーっと深く溜息をつくと、受話器を元に戻した。

簡単には別れられないだろうとは思ってたけど、これはかなり長期戦になりそうだ。
でも3年も付き合ってきたのに、短い時間でさっと終わらせようとする方が、どだい無理な話なのかも。
私のほうはだいぶ前からジョッシュとの付き合いに疑問を持ち続けていたけど、彼は全くそんな疑問は抱いた事もなかったんだろう。
ジョッシュからしてみれば、いきなり私が遠い場所に行ってしまい、何の前触れもなく突然に、別れを切り出しているようにしか思えないのかもしれない。

とにかく今週末、一度実家に帰ろう。
退院したママに会いたいのもあるし、近くに行けばジョッシュとも何とか会えるかもしれない。
すぐには無理でも、時間をかけて少しづつ話していけば、いつかはわかってくれるかもしれないし。

楽観的すぎるかもしれないけど、あまりぐずぐず悩まないのは自分の長所でもある。
考えても答えが出ない時は、さっさと眠って頭を切り替えよう。
明日になれば、また新しい局面に変わって、上手くいくかもしれないんだし。
アンジェリークはベッドに潜り込むと、毛布に深くくるまって眠りについた。



ピンポーン…

朝日が差し込む部屋で、アンジェリークはチャイムの音で目を覚ました。
最初は目覚ましの音かと思ったのだが、それにしては音が小さくて可愛らしすぎる。
ぼんやりと時計を見ると、目覚ましをセットした時刻より30分ほど早い時刻だ。

夢でも、見てたかな?
起きる時間まであと30分あるし、もう一度寝よう、そう思った時。

ピンポーン…

また、チャイムが鳴った。
今度はアンジェリークにもハッキリ聞こえた。
インターホンが、鳴ってる…?

アンジェリークは眠い目を擦りながらベッドから起き上がり、隣室にあるインターホンのモニタを覗き込む。
そこに映っている人物を見て、驚きでいっぺんに目が覚めてしまった。
「ジョ、ジョッシュ?」
夜眠る前に話していたジョッシュが、アパートの入口に立っていたのだから。

「ど、どうしたの?どうしてここに?」
混乱した頭で話しかけると、ジョッシュはいつになく真剣な顔で口を開いた。
「…昨日アンジェと話してから、居ても立ってもいられなくって、車を飛ばして来たんだ。ここで話すのもなんだから、とにかく部屋に上げてくれないかい?」

モニタに映るジョッシュの後ろに、警備員の姿がチラリと映った。
こんな朝早くにジョッシュが来た事を訝しんでいるのだろう、厳しい目つきを彼に向けている。
この場で押し問答をしたら、警備員に不審に思われてしまう事は避けられない。
「…わかったわ、入って」
アンジェリークはオートロック解除のボタンを押した。

ジョッシュがエントランスに入ってくる映像を見つめながら、アンジェリークは必死でこの事態について考えた。
一体何故、ジョッシュはこんな時間に突然ここに?
だが考えがまとまらないうちに、既にジョッシュは部屋のドアの前までやってきてしまった。

ドアチャイムが鳴り響き、アンジェリークは慌ててローブを羽織ってから玄関に向かった。
鍵を開けようとして、そこでふと手が止まる。

どういう理由で来たのかもわからないのに、ジョッシュを部屋に入れていいものなんだろうか?
彼はおそらく、別れ話を撤回させる為に来たのだろう。
でも私はもう、ジョッシュと別れるつもりで、気持ちは固まってる。
ならば既に、彼は私にとって『恋人』じゃあない。
恋人じゃなくなった男性を簡単に部屋に上げてしまうのは、危険なんじゃないだろうか?

もしジョッシュに力づくでセックスを迫られたら、私の力では絶対に抵抗しきれない。
好きじゃなくなった相手とのセックスは、私にとってはもう、レイプと同じだ。
でも…ジョッシュにしてみたら、まだ私と別れているという認識はない。
彼にとってのセックスは、恋人との別れ話を翻意させる為の、正当な行為。
それじゃあ私がジョッシュを部屋に上げてしまった時点で、レイプされても文句は言えなくなる。

…ならば、絶対に彼を部屋に入れてはならないんだわ。
今まで恋人だったとか、優しくしてもらったとか、こんな早朝にわざわざ遠くから来てくれたとか。
そんな感情に押し流されないように、はっきりと意思表示をしなければ。
アンジェリークは唇をきゅっと引き結ぶと、眠気を追い払う為に両手で頬をぴしゃん、と叩く。
途端に頭がはっきりして、思考が頭の中で急速にまとまっていく。
ドアチェーンをしっかりとかけると、ゆっくりドアノブを回した。
ドアは10センチほど開いて、その隙間からジョッシュの姿が覗いた。

「ごめんアンジェ、こんな時間に来ちゃって…」
ジョッシュはそう言いながら部屋の中に足を踏み入れようとして、それ以上開かないドアを不思議そうに眺めた。
「あれ、ドアチェーンがかかったままだよ。もしかして、まだ寝ぼけてる?」
当然部屋に入れてもらえるものだと信じて疑わないジョッシュは、明るく笑っている。
その笑顔を見ていると、これから自分が告げようとしている言葉がひどく残酷に思え、決意が挫けそうになる。
でもここで、可哀想だからと決意を曲げてしまったら-----もっと残酷な事になるんだ。
好きじゃなくなったのに、いつまでも期待を持たせてずるずると付き合いを引き摺る事にだってなりかねない。

「ジョッシュ、悪いんだけど…部屋には入れられないわ」
「えっ?」
ジョッシュから笑顔が消え、たちまちさっと青ざめる。
「なんでさ、入れてくれたっていいじゃないか。アンジェとの電話の後、寝ずに車を飛ばしてきたんだよ。アンジェだって、僕と直接話がしたいって言ってただろ?」

寝ずに。その一言が、アンジェの罪悪感を煽り立てる。
確かに故郷からここまでは、ハイウェイを飛ばしてもゆうに7時間は軽くかかる。
さぞかし疲れているだろうし、そこまでするのは、私と別れたくない一心だからに違いない。そう思うと、暖かいお茶の一杯くらい入れてあげたいとも思う。
でも、だめだ。どんなにひどい女と思われようが、別れるのだったら絶対に毅然とした態度をとり続けなければ。

「…確かにあなたと話がしたかったわ。でも、今は無理よ。これから仕事だし、もう支度にかからなくちゃ間に合わないの。話すんだったら、お互い事前に都合のいい日を決めて、ゆっくり話しましょう」
「そんな、ひどいよ!部屋に入れてくれないんだったら、ここで大声を出すよ。このアパートは異性トラブルにうるさいんだろう、それでもいいのかい?」
「ジョッシュがそうしたいんなら、構わないわ。でも、そしたら私も警察を呼ばざるを得なくなる…。わかって、私だってジョッシュにそこまでしたくないの」
「…お願いだアンジェ、別れないでくれよ…」

ジョッシュは脅したり泣きついたりと、様々な方法を試みてきた。
だがアンジェリークは、断固として部屋に入れないと言い続けた。
「ジョッシュ、悪いけどそろそろ会社に行かなくちゃ。会社からお迎えの車が来てしまうし、時刻通りに私が現れなかったら、何かあったとみなされて警備会社に通報が行く事になってるの。お願いだから、今日のところは諦めて」
そこまで言われてしまっては、さすがにジョッシュも引き下がらざるを得ない。

「…わかった、今日は帰るよ」
「私は退院したママに会いに、今週末には地元に帰るわ。その時に、会えない?」
「週末は、本当にだめなんだ。大学フットボールの試合があるし…」
「そう、じゃあしょうがないわね。でも私はそっちに帰ってるから、もし時間が空いたら連絡して」

アンジェリークはドアを閉めると、はぁっと大きく息を吐き出した。
こんなに朝早くに車を飛ばしてきてくれたジョッシュを、私は閉め出してしまった。
ひどい事をしたという自覚はある。でも同時に、間違っていないという思いもある。
頭をぷるるっと振って苦い思いを振り切ると、そのまま身支度の為にシャワーに向かった。


支度を終えて部屋を出ると、エレベーター前にジョッシュが立って待っていた。
「…ごめん、いつまでも居残ってて。でもせっかくこっちに来たんだし、ちょっとでもアンジェの元気な顔が見たかったんだ。下までだけど、送るよ」
そう言って荷物を持って、エレベータのボタンを押してくれる彼に、アンジェリークは泣きそうになってしまった。

謝るのは、私の方なのに。
ジョッシュはただ私を好きでいてくれて、別れたくないと思ってくれてるだけ。
一生懸命交際を続けようと努力もしてくれているのに、私が勝手に気持ちが移って、別れたいと言いだして。
なのにこうして優しくされてしまうと、自分がどんなにひどい人間なのかを思い知る。
告白された時にちゃんと愛してるかとか考えもせずに、軽い気持ちで付き合ったりしたから---こうして彼を、傷つけてしまうハメになるんだ。

アパートを出ると、正面には既に送迎用の車が止まっていた。
「ありがとう、ジョッシュ」
ジョッシュの手から荷物を受け取ると、アンジェリークは彼の顔を見上げて小さく微笑んだ。
やっぱり、私は彼を冷たく突き放しきる事なんて出来ない。
別れようという気持ちは動かなくても、今まで3年間も優しくしてもらっていたのも、事実なんだから。

そのアンジェリークの笑顔に、ジョッシュもホッとしたような表情になる。
その次の瞬間には、彼の顔がアンジェリークの前までやってきた。
あっ、と思う間もなくキスされる。

ふいを突かれて、アンジェリークは驚きに目を見開いた。
ジョッシュの腕が一瞬背中にきつく巻き付き、そしてすぐに彼は身体を離した。
抵抗する隙も抗議する暇も与えずに、ジョッシュは「じゃあね」と明るく笑って手を振った。
アンジェリークはその行動に戸惑いつつも、つい彼の笑顔につられてしまい、ぎこちない笑みを浮かべて手を振り返してしまった。

そのまま送迎車に乗り込み、車が発進する。
ジョッシュが車に向かって笑顔で手を振っているのを見ながら、アンジェリークはふと不安になった。
彼を突き放しきれないと思って笑いかけてしまったけど、本当にそれで良かったんだろうか?
ジョッシュにまだやり直せるというような、無用な期待を抱かせてしまったんじゃないのかしら?

ジョッシュにキスされた唇を、指でそっと拭う。
一瞬だったけど、無理やり舌を滑り込まされたお陰で、唇の周りに睡液が付着している。
そう、あれは間違いなく「まだ恋人だ」と宣告するようなキスだった。
彼はまだ、諦める気なんかないんだ。
それなのに私ったら、最後の最後に気を持たせるような事をしちゃったなんて。

こうしてキスをされても、私の心には何の感慨も起きてこない。
イヤでもないけど、嬉しくもない。
オスカーに軽くキスされた時は、心が震えて時間が止まったように感じたというのに。

綺麗に笑顔で別れようとか、もうそんな甘い事は考えない方がいいのかもしれない。
次にジョッシュと会うチャンスができたら、今度こそはっきりと告げなくては。

「私はもうあなたを愛してない」のだと。



その朝オスカーは、いつもと違う行動をとった。
たまにはアンジェリークを迎えに行ってやろうと、急に思いたったのだ。

彼女が会社の送迎車を利用しているのは知っていたが、自分もコンテストの専属スタッフとして、彼女の身の回りの安全を確保する権利を有している。
ならば朝、会社まで送ってやるのは俺がやったっていいだろう。

俺が急に迎えに行ったら、あのお嬢ちゃんは驚くかな?
彼女があの大きな瞳を零れんばかりに見開いて驚く顔を想像しただけで、ついつい口元が弛んでしまう。
そうだ、ちょうどアンジェリークが見たいと言っていた映画のチケットが手に入った事だ。
今日の夜の約束でも取り付けて、たまには洒落たデートに誘うのもいい。
朝っぱらから彼女と会うのをひどく楽しみに思う自分に気づいて、そこで思わずオスカーは苦笑した。

アンジェリークのアパートに近づくと、既に送迎車が入口正面に停まっていた。
「もう来てるのか」
オスカーは軽く舌打ちすると、そのまま送迎車の脇を通り過ぎ、少し先の路上で停車した。

送迎の運転手には、今日は俺が送るからと伝えて、場所を開けてもらおう。
そう思ってバックミラーを覗いた、その時-----
アンジェリークがジョッシュと一緒に、アパートのエントランスから出てくるのが見えた。

思わずサングラスを外し、ミラーに映る2人の姿を凝視する。
アンジェリークは恋人の手から荷物を受け取ると、その顔を見つめて優しく微笑んだ。
その笑顔に男がキスをし、強く抱き締める。

キスはすぐに終わったが、男は満足そうに笑みを浮かべている。
アンジェリークも笑い返し、手を振って車に乗り込んだ。

そのまま車は発進し、オスカーの乗る車の横を追いこしていく。
ガラス越しにちらりと見えたアンジェリークは、キスした唇を指で押さえながら、何かを考えているような表情を浮かべている。

アンジェリークを乗せた車が見えなくなるまで、オスカーはそこから動けなかった。
自分でも驚くほど、今見た2人の親密な姿に衝撃を受けていた。

なんだ?今のは。
アンジェリークは---あの男を、家に泊めたのか?

てっきり俺は、アンジェリークとあの恋人とは別れる寸前なのだと思い込んでいた。
俺の前では恋人とのキスを拒み、しかも家には泊めたくないと言い張っていたんだぞ?
彼女は間違いなく俺を意識しているし、俺を欲しがってる。
もう一押しすれば彼女は恋人と別れて俺のものになる、そう確信していた。

だが----今の2人を見ている限りでは、それは単なる思い上がりだったようだ。
彼女は相変わらず恋人を家に泊めているし、出かけ際に優しい笑顔と共にキスを交わしていた。
別れるような雰囲気など、微塵も感じられなかったじゃないか。

何の事はない、あのお嬢ちゃんは俺の前と恋人の前では、態度を使い分けてるって事だ。
全く、この俺とした事がすっかり騙された。
そう言えば彼女は最初から、いろいろわからない不思議な部分があったのに、いつの間にかそんな事はすっかり忘れてしまっていた。
あのお嬢ちゃんの無垢そうな外見や笑顔に目を眩まされて、上手く手玉にとられてたって訳だ。
何も知らない天使のような顔をして、俺と恋人の2人を秤にでもかけるつもりか?

そうはさせない。
今までは彼女は正直で奥手な人間なんだろうと信じていたから、彼女のペースに合わせてやろうと、万事ゆっくりと事を進めてきた。
…だがもう、それも終わりだ。
俺と恋人のどっちを選ぶのか、さっさとカタをつけさせてやろうじゃないか。

彼女という人間を信用し、心を開きかけていただけに、手酷く裏切られたような気持ちだった。
オスカーはサングラスをかけ直すと、アクセルを踏み込んで車を急発進させる。
その顔は先程までとは全く違う-----感情のない無表情なものへと変わっていた。