Sweet company

5. Such a Flirt (2)

アンジェリークから見て、その日のオスカーは、いつもと全く変わらないように見えた。

「今日の夜、映画でも観に行かないか?」
お昼休みにそう聞かれた時も、特におかしなところはなかった。

「映画?」
「観たいって言ってたやつがあるだろう?取引先からペアシートのチケットを貰ったんだ」
そう言って差し出された2枚のチケットを見て、アンジェリークは破顔した。
「これって…すっごい混んでるって聞いてたから、見に行くのを諦めてたのに!うわー、本当に嬉しい!ありがとう!!」

笑いながら顔を上げたら、オスカーと目があった。
「お嬢ちゃんに喜んでもらえて、何よりだ」
彼も笑っていたけど、その瞬間、何かがいつもと違うような気がした。何かが、おかしいような。

一体何が違うんだろう?
じっとオスカーの瞳を覗き込むと、笑っているはずのアイスブルーの瞳の奥に、一瞬だけ不可解な色が混じって見えた。
背筋が凍るような、ひどく謎めいた、冷たい色。
でもすぐにその色は綺麗に消え失せ、いつも通りの彼の瞳に戻っていたのだけれど。

「なんだ、そんなにじっと見て。ああ、俺があんまりかっこいいんで、見とれてたのか?」
「もうっ、違いますっ!」
軽口を叩いて豪快に笑うオスカーは、もう何もおかしいと思わせるものはなかった。

きっと今のは、何かの見間違いよね。
オスカーの瞳が、一瞬でも恐ろしく見えたなんて。
そうよ、今の彼は、いつも通り優しくて素敵な人じゃないの。
アンジェリークは自分をそう納得させると、不安を振り切るように明るく笑い返した。


仕事が終わって会社を出ると、いつものように通りの向こうにオスカーの車が停まっていた。
「ごめんなさい、遅くなっちゃった!」
手を振りながら駆け寄ると、車体に寄り掛かっていたオスカーが、身体を起こした。
そのまま彼は荷物を持ってくれる為に、片手をこちらに差し出す。
そう、ここまではいつもと全く変わらずに。

びっくりしたのは、その次だ。

彼の手が荷物を通り越し、アンジェリークの背に回る。
力強い腕が腰に巻き付き、ぐっと引き寄せられる。
アンジェリークの足が地面からふわりと浮き上がり、同時にオスカーの顔がすぐ目の前まで迫ってきた。

「きゃっ?」
小さな叫び声をあげ、目を見開くアンジェリークに、オスカーは不敵に笑いかけると----もう次の瞬間には、キスでしっかりと叫び声を封じ込められていた。

「んっ、んんんっ?!」
何が起こったのか、アンジェにはすぐに理解できなくて、身体を捩って逃れようとした。
でもオスカーの逞しい腕は、それを逃さない。
がっちりと抱きとめる力強い腕とは対照的に、口づけは甘く優しく、そして巧みで。
いつのまにか滑り込んできた舌に、口の中を柔らかくひと撫でされた。
その途端、身体中の力が抜けてしまい、抵抗する事も出来なかった。

ハッと気がついた時には、もう口づけから解放されていた。
でもあまりに突然の強烈なキスの余韻に、アンジェリークはぼうっとして動く事すら出来ない。
目の前がピンク色に染まって、蝶々がひらひら飛んでいる、そんな感じ。
オスカーはそんなアンジェを見て満足そうに笑うと、ふわりと身体を抱き上げながら車に乗せる。
彼が運転席に座って「すぐ映画館に行くか、それとも先に食事するか?」と聞いてきた時も、アンジェリークの意識はまだお花畑の中を漂っていた。

「あ、え、映画に…」
良く考えもせずに反射的に返事をしてから、ようやく周りを見回す。
あ、あれ?私ったらいつの間に、車に乗ってたんだろう?
そして車の窓から外を見て、さぁっと血の気が引いた。

みんな、こっちを見てる…?

会社の前で、沢山の社員達がこちらを驚いた顔で見つめている。
そこにはロザリアやオリヴィエの姿も見えて、アンジェリークは一気に正気に引き戻された。
「オ、オ、オスカー…?」
恐る恐るオスカーのほうに顔を向けたが、彼はいつもと変わらずに平然としている。
「今からなら、急げば6時半からの上映に間に合うな」
何事もなかったようにアクセルを踏み込む彼を見ていたら、こっちもそれ以上何も聞けなくなってしまった。

さっきのキスは、一体なんだったんだろう?
挨拶…なんだろうか。オスカーなら女性に挨拶でキスするのなんて、当たり前って感じもするし。
会社の前だったし、常識的に考えたらそうなんだろう。
でも、でも。
挨拶のキスで、あんな風に強く抱きしめたりする?舌まで差し入れたりするもの?

周りにいた人達だって、びっくりした顔でこっちを見てた。
って事は、やっぱりあれは挨拶のキスになんかに見えてなかったに違いない。
じゃあオスカーは、会社中に私が恋人だと宣言したようなものじゃないの?

でも、なんで、突然そんな事を?
急に私の事を、友達から恋人に昇格させたくなったんだろうか?
だけど今まで毎日のように一緒に食事したり、買い物に付き合ってもらったりはしたけれど、一度だって彼は『いい友人』のスタンスを崩した事はなかったのに。
オスカーが急に気を変える理由など、全くわからない。

頭が混乱している上に、さっきのキスでまだ心臓がどきどきと弾んでいる。
身体も熱いし、呼吸まで乱れてる。
まずは落ちつかなくちゃ。ちょうどこれから映画を見るんだし、1時間半も画面を見ていれば、冷静になれるに違いない。
そうしたら、何気ないふうを装って、さっきの事を聞いてみよう。
「会社の前でキスしちゃうなんて、一体どういうつもり?」って。
でもその目論見は、映画館に着いたらものの見事に消え去ってしまった。


都会の映画館に『ペアシート』というものが存在すると言うのは、話に聞いて知ってはいた。
でも、こうして初めて実物を目の前にすると----これってまさしくカップル専用席なんだと思い知って呆然とする。
ゆったりしたサイズの2人がけのチェアには間を隔てる肘掛けの存在がなく、背もたれも高くて後ろからは座ってるカップルが見えないような配慮がされている。
それこそ抱き合って座ろうが寝そべろうが御自由にどうぞ、とでも言われてる感じだ。
実際他のペアシートは、べったりとくっついて座っている恋人達で埋まっていた。
中には女性の膝に頭を乗せてリラックスしている男性までいる。
アンジェリークは座席の前で、真っ赤になって立ちすくんでしまった。
こんなところにオスカーと2人で1時間半も座ってたら、冷静になるどころか脳みそが沸騰しちゃう!

「俺は飲み物でも買ってくるから、お嬢ちゃんは先に座っててくれ」
そんなアンジェリークに構わずオスカーはそう言うと、さっさと売店のほうへ消えてしまった。
…とにかく、座ろう。
アンジェリークは意を決して座席に着くと、できる限り端っこの方へと身を寄せた。

程なくしてオスカーが、手にコーラの紙コップとポップコーンを持って戻ってくる。
「どうした?そんな隅っこに座って」
横に座ったオスカーとの間に、少し距離が開いていた事にホッとした。
「あの、私、ペアシートって初めてだから、緊張しちゃって…」
「ああ、そうだったのか。俺は映画を見る時は大抵ペアシートなんだ。横がゆったりしてるのもいいんだが、何と言っても前の席との間隔が広いのが気に入ってるんでな」

そう言われると、確かにペアシートは足元が広々としている。
オスカーが背もたれにゆったりと身体を預け、足を組んでも前の席にぶつかる事はない。
これが普通席ならば、彼みたいに背が高い人は、膝が前の座席に当たってしまうに違いない。

でもオスカーがこれを使う理由って、きっとそれだけじゃない。
この人が1人でペアシートに座って映画を見てる図なんて、想像できないもの。
きっと今まで沢山の女の人達と、このシートに座って映画を観たんだろう。
…そう、周りの恋人達のように、身体をぴたりと寄せあって。
そう思った瞬間、胸の奥がちりっと灼けるような痛みを感じた。

そうこうしているうちに場内が暗くなり、スクリーンには広大な遺跡が映し出された。
映画のストーリーは、古代遺跡に眠る莫大な財宝を巡り、代々遺跡を守り続けてきた部族の娘と、盗賊の長が反目しつつも惹かれあう…という、アクションありロマンスありのスケールの大きいものだった。
男性が見ても女性が見ても楽しめる内容だとして、今年一番のヒット作品となっている。

………というのは、映画雑誌で見たレビューの受け売り。
実際のアンジェリークは、映画のストーリーなんて1つも頭に入ってはいなかった。
何故なら映画が始まってすぐ、オスカーがアンジェリークのほうへ上体を傾けてきたのだから。

オスカーは別に、アンジェの肩に頭を乗せてきたとか、身体を寄せてくっ付けてきたという訳ではない。
あくまで『上体を傾けた』、ただそれだけ。
たぶん彼は、手に持ったポップコーンのパックにアンジェが手を伸ばしやすいように、気を使ってくれただけなんだろう。
それでも彼の髪がアンジェの左肩を掠めただけで、アンジェリークの全神経は左半身に集中してしまっていた。

どきどきする気分を沈める為に、コーラを何度も口にする。
でもすぐにコーラは空になってしまい、しょうがないので今度はポップコーンに手を伸ばす。
それとほとんど同時にオスカーも片手をポップコーンに差し入れ、小さなパックの中で2人の手がぶつかった。

どきん、と心臓が大きく脈打つ。
しかも次の瞬間には、触れあった手をオスカーに掴まれたものだから、心臓が口から飛び出しそうになった。

そこからはずっと、手を繋ぎあったまま映画を見る羽目になった。
時折オスカーがアンジェリークの手のひらを、親指で小さく撫であげる。
繋いだ手を離したかと思うと、すぐに違う角度で指を絡ませてくる。
そしてオスカーは空いたほうの手でポップコーンをひと粒、アンジェリークの唇に滑り込ませた。
アンジェの唇に触れた指を、オスカーがぺろりと舐めているのが視界の端に入ってくる。
その度にアンジェリークの心拍数は跳ね上がり、身体中が震えてしまう。

…薄暗い映画館で、軽く手を握られているだけなのに。
まるでエロティックな拷問を受けてるみたいだ。
もう身体中の女性ホルモンが暴走を始めていて、このままじゃまた彼を誘ってしまいそう。
人が沢山いる場所だから、何とか持ちこたえてられるけど----誰もいない場所だったら、とっくの昔にオスカーの膝の上に、跨がってしまっていたかもしれない。

ああ、だめ。こんな事考えちゃ。
隣にいるオスカーは、全く何て事は無さそうに、平然とスクリーンを見てるじゃないの。
私も意識を、映画に戻さなくては-------!

画面に無理やり視線を向けると、ちょうどヒロインと盗賊のキスシーンが大画面にどアップで映し出されていた。
ただのキスシーンなのに、さっきのオスカーとのキスを思い出して、身体中が熱くなっていく。
その熱が足の間の1点に集まっていき、膨張し始める。
繋いだ手がじっとりと汗ばんでいるのが、はっきりわかる。きっとオスカーにも、伝わってしまってる。
恥ずかしいのに、手が吸い付いたように離せない。
息をするのも苦しくて、酸素を取り入れようと口が小さく開いていく。
呼吸がどんどん浅く早くなり、頭の中が白く靄がかかって、気が遠くなる------------



そこで場内が明るくなり、ハッと我に帰った。
「出ようか」
手を繋いだまま、オスカーが立ち上がる。
映画館を出ると、今度はオスカーの腕が腰に巻き付き、強く引き寄せられた。
彼の心臓の音さえはっきりと聞こえそうなほど、ぴったりと密着した格好で歩かされ、アンジェリークの意識は再び白濁し、歩く事さえおぼつかなくなっていく。
時折オスカーの指がアンジェリークの脇腹を撫で上げたり、ウエストに軽く食い込む度に、身体が小さくびくりと震え、膝がかくんと抜けそうになってしまう。

そのまま少し歩いてから、オスカーは洒落たイタリアンレストランに入っていった。
小さなテーブルに向い合せに座って、彼の腕から解放されて-----アンジェリークはようやく息がつけたような、そんな心地だった。
でもそのレストランは、薄暗い店内にテーブルのキャンドルだけという、いかにもロマンティックなムードが漂っていて。
オスカーの注文した濃厚な赤ワインを口にしたら、またおかしな気分になりそうな予感が襲ってきた。

「あ、え、映画、面白かったね!」
本当はろくに内容などなわかっていなかったけど、とにかく明るい雰囲気にしなければと、咄嗟に言葉が口をつく。
「そうか?俺はあんまり、面白くなかったけどな」
オスカーがつまらなそうに答えたので、アンジェリークは慌ててしまった。
面白いって前評判だったのに、案外な内容だったんだろうか?
あーんどうしよう、これ以上話が続けられない!
アンジェリークはパニックに落ち入りそうになり、意味なくワイングラスを何度も口に運んだ。

「そんなに飲むと、またぶっ倒れるぞ」
オスカーが身体を前に乗り出し、ワイングラスを持つアンジェリークの手を掴む。
それと同時に、テーブルの下で彼の膝がアンジェの膝に軽く触れた。
握られた手から顔に向かって、かぁっと熱が駆け上がる。
触れた膝からはぞくりとするような泡立つ感覚が、鳥肌を伴って内股に向かっていく。
思わずアンジェリークは、小さく身体を身震いさせた。

オスカーはアンジェリークの瞳をじっと見つめたまま、掴んだ手をワイングラスごと引き寄せて、自分の口元にグラスを当てた。
唇の片端をきゅっと持ち上げて笑い、ワインをくいっと口にする。
そのままグラスを持つアンジェリークの手にゆっくりと唇を滑らせて、見せつけるように震える指先に口づけた。
「…映画が面白くなかったのは、ずっとお嬢ちゃんの事ばかり考えてて、内容なんてわからなかったからだ」


もう、その一言で完全に頭がのぼせてしまった。
そこから先は、何を話したのか良く憶えていない。
どんな料理が出たのかも、何を飲んだのかも。
気がついたら、オスカーの車に乗って、帰宅の徒についているところだった。

やっぱりこれって、どう考えても-----オスカーは私に、迫っているとしか思えない。
なぜ突然、オスカーはこんなに私を口説いているんだろう。
今までだって十分素敵な人だと思ってたし、友達として扱われるだけでもドキドキしてた。
でも今まで見た彼の魅力は、まだほんの一部でしかなかったんだ。
こんな風にアクセル全開で迫ってこられて、甘い言葉を囁かれてしまったら、もう私には抗う術もない。
彼が本気を出したら、私なんていとも簡単に墜ちてしまう---------

「俺の家に、寄っていかないか」

その声に、ハッとした。
オスカーの…家?
その言葉の先にある意味を考え、全身が強張った。

「お嬢ちゃんの家には行った事があるが、俺のところには来た事がなかっただろう?コーヒーでも飲みがてら、ちょっと覗くってのはどうだ」

この言葉だけ聞けば、下心などないとも思える。
でも、心の奥にある何かが警告を鳴らした。
----なぜ今日に限ってオスカーがこんなに口説くのか、ちゃんと考えなさい、アンジェ。
そもそもあなたは、ジョッシュとまだちゃんと別れていない。
もしオスカーとそうなっちゃったら、二股をかけちゃう事になるのよ-----

「あの、でも…私、恋人がいるのに、他の男性のうちに上がっちゃうのはまずいんじゃない…かな」
「俺がお嬢ちゃんに変な事をするとか、疑ってるのか?こんなに毎日一緒に過ごしてるっていうのに、ずいぶんと俺は信用されてないんだな」
そう言ってオスカーは前を向いたまま、声を上げて笑い出した。
その笑顔は、いつもと本当に変わりがなくて。
子供をからかっているような、いつものオスカーだ、と思った。

「ごめんなさい、疑ってたわけじゃないんだけど…そうよね、オスカーの家、一度くらい見てみたいかも」
「よし、じゃあとびきり旨いカプチーノをご馳走してやるよ」
そう言って笑ったオスカーの瞳に、また不可解な色が混じった。
青い瞳の奥が、氷のように冷たく変化する。


でもくらくらするような熱に浮かされていたアンジェリークは、それに気づけなかった。