Sweet company

5. Such a Flirt (5)

超高級マンションの最上階、眺めのいいペントハウス。

大都会の夜景を一望できるベッドルームで、裸の男女がシーツの海に身を投げ出している。
男は仰向けに寝転んで天井を見つめ、女はその隣でうつ伏せながら、くわえた煙草に火をつけた。

「…すまない」
オスカーは片手を額に当てると、はーーっと大きな溜息をついた。
「気にする事はないわ。こういう事って、誰にでもあるものよ」
セレナは微笑んで、煙草の煙りを吐き出した。

「酔っていたつもりはなかったんだが…自分で思っていたより、飲み過ぎていたのかもしれん」
こんな言い訳を口にする自分を、オスカーは苦々しく思った。

まさかこの俺が、こんな情けない台詞を口にする日が来ようとは。
女性とベッドインして勃たない男の話を聞く度に、俺だけはそんな失礼な真似はしないと心で笑い飛ばしていたのに。
しかもここにいるのはそんじょそこらのありきたりな女じゃなく、超一流の美女なんだぞ。
裸で寝そべっているだけで、男という男全てに活力を与えてくれる。そんな女を目の前にしながら、一体どうしてその気になれないんだ?
女性の方から気を使って慰められられるなど、情けない事この上ない。

「あなたは酔ってなんかいないわよ。それよりさっき言ってた『むしゃくしゃしてた』事が、関係あるんじゃないの?」
セレナは興味深々といった表情で、猫のようにしなやかに身をすり寄せる。
「ねえ、何があったの?良かったら、話してよ」

オスカーは片手で顔をごしごしと乱暴に擦ると、疲れたような表情を浮かべた。
「聞いても面白いような話じゃないぞ」
「あら、シティ1の種馬さんが勃たなくなる理由なんて、どう考えても面白そうじゃない。教えてくれたら今日の事は、チャラにしてあげるから」
「誰が種馬だ」

オスカーは横目で睨もうとして、すぐにやめた。
彼女が言い出したら引かないのは知ってるし、何といってもこちらには『出来なかった』弱味がある。
「ねえねえ、仕事の事でむしゃくしゃしてたの?それとももしや、女性関係?」
セレナは瞳を楽しそうに輝かせ、身を乗り出してくる。
オスカーは諦めたようにふうっと息をついた。

「全く君には、叶わないな」
「ま、あなたと私は似たもの同士ですもの。年が上なぶん、私のほうが有利よね。それより何よ、話を引き延ばさないで」
逆に横目で睨まれて、オスカーは苦笑いを浮かべて両の手のひらを前に向ける。

「わかったわかった、降参だ。女の事で、ちょっと頭にきてたんだ」
その言葉にセレナの金色の瞳が、一層輝きを増す。
「女性に関しては完璧なフェミニストのあなたでも、女に腹を立てる事なんてあるの?」
「…恋人にしたくて狙ってた女に、二股をかけられたんだ」

セレナは一瞬驚いたように眉を上げてから、次いで楽しそうにくすくす笑い出した。
「あらまあ、女に関しては無敵のプレイボーイさんが勃たないくらい、見事に打ちのめしてくれる女性がいるとはね。その彼女って、そんなにイイ女なの?」
オスカーは笑われて、少しぶ然としながらも答える。
「それが、まだ子供なんだ」

「子供ぉ?」
「…子供といっても、二十歳なんだが…都会に出てきたばかりでいかにもスレてない、色気も何もない子だ」
「なぁるほど。その田舎から出てきたお子さまに、あなたは本気になっちゃってるってワケね」
「別に本気なんかじゃないさ。ただ、ちょっといつもと毛色が違って面白いタイプだから、狙ってみただけだ」
「…ふぅん。ま、あなたがそう思うなら、それでもいいんでしょうけど」

含みのある言い方をされ、オスカーが眉をしかめる。
「何だ?気になる言い方をするじゃないか」
「別に。あなたが本気でもない女に腹を立てるなんて、そっちのほうが珍しいと思ったからよ」

セレナはするりとベッドを抜け出すとシルクのローブを素肌に纏い、大きな窓辺に向かって歩く。
ガラスの向こうには大都会の夜景が広がり、重なるようにセレナの姿が透けて映りこむ。
睫毛を伏せた表情はいつになく寂しげで、いつもの自信満々な彼女とは別人のようだった。

「…ねえ、オスカー。私っていい男なら誰とでも寝る、好色な女と思われてるじゃない?まあ、実際その通りなんだけど。でもね、こんな私でも、1年に一度だけは誰ともセックスしたくない気分になるのよ。…ちょうど今日のあなたみたいにね」
「1年に一度だけ?」
「そ、別れたダンナとの結婚記念日よ」
背を向けたままそう言うセレナに、オスカーは一瞬言葉を失った。

「おかしいでしょう?こんなに男遊びしてるくせに、って。でもね、私が今まで本気で愛した男は、別れた夫ただ1人なの。誰も今じゃあ信じてくれないけど、私にだって若い頃は下積みの苦労もあったのよ。そんな私の苦労を側で支えてくれて、若さだけで無鉄砲な小娘だった私と結婚してくれた、優しい普通の人。でも私が仕事で成功し、家庭をないがしろにしたから----彼は私の元を去っていったけどね。それでも毎年結婚記念日になると、彼の事を思い出すわ。人生で一番幸せだった、あの瞬間をね」
セレナは煙草の煙をふうっと吐き出し、目を細めて思い出を懐かしむように遠くを見つめた。

「ま、何が言いたいのかっていうと、本気で自分を怒らせたり悲しませたり、喜ばせたりしてくれる相手って、人生そうそう出会えないって事よ。失ってから後悔しても遅いの。欲しいと思ったら二股かけられようがなんだろうが、手に入れなくちゃ」
セレナはそこでくるりと振り向き、オスカーに向かって悪戯っぽく笑いかけた。


「それこそが、オスカー。あなたらしいってもんじゃない?」


----◇----◇----◇----◇----◇----



社員用のカフェテラスは、普段と違ってひっそりと静まり返っていた。
いつも満員の人で溢れかえっている店内は、今はほんの数人が点々と座っているだけだ。
徹夜明けなのだろうか、疲れきって眠そうな表情の男性。
そうかと思えば、携帯電話を耳に当て、聞き慣れない外国語で仕事の話らしきものを熱心にしている人もいる。
きっと電話の相手の国では、今が仕事時間の真っ最中なのだろう。
静かな店内に、電話の声だけが響き渡っている。

-----さすがに早すぎちゃったかな。
アンジェリークは壁の時計を見て、苦笑いを浮かべた。
時計の針は、始業時間まであと2時間以上ある事を告げている。
そのままがらんとした店内を突っ切って、奥にあるテーブルに腰掛ける。
自販機で買った熱いコーヒーを口にして、はーっと小さな溜息を零した。

結局一晩中、眠れなかった。

オスカーとのやり取りを思い出し、眠れないまま悶々と朝まで過ごした。
なぜこんな事になってしまったのか、それをずっと考えて----結局、自分が悪かったのだとの結論に達した。

そう、私が全ていけなかったんだ。
ジョッシュという恋人がいるのに、オスカーを好きになった事。
恋人と別れなければと思いながら、ぐずぐずと別れ話を引き延ばしていた事。
オスカーに部屋に誘われて----まだ恋人と別れてもいないのに、断りきれず彼の部屋にのこのこと上がり込んでしまった事。

オスカーの言う通り、男性とデートして、部屋に上がって、何もないと思う方が甘いんだ。
あの時点で私は、彼とのセックスを暗黙の上に了解していたようなもの。
なのに、泣いて拒否して彼を困らせ。
一転して、愛してると言って彼を受け入れようとした。
こんな訳のわからない態度を取ったら、いい加減な女だとオスカーに呆れられても当たり前だ。

その上オスカーは、あの朝ジョッシュが私の家から出ていくのも見ていたような事を言ってた。
もしかするとキスしたのや、その時私が曖昧に笑ってしまった事なんかも、全て見られていたのかもしれない。
そこだけ見たら、私はジョッシュと一夜を過ごし、仲良く出てきたように思うだろう。
あの時、ジョッシュに毅然とした態度を取りきれなかった私の優柔不断さが、この誤解を招いたんだ。
なのにその日のうちに、オスカーにデートに誘われて大喜びでついていき-----彼に迫られ、ぽぉっとのぼせ上がって。
きっと彼から見たら、私はさぞかし物欲しそうな態度をとっていたに違いない。
だからこそ、オスカーも部屋に誘ってきたんだろう。

でも、部屋でいきなりセックスを強引に迫られた時も----私が泣き出したら、一転して彼は優しくなった。
『俺は、君の恋人になりたかったんだ。君のただ1人の、恋人に』
確かに彼は、あの時そう言った。
最初の無理強いするような強引さは影を潜め、優しく私をなだめてくれた。
その優しさに私ったらつけあがって、今度は自分から彼を誘うような真似をしてしまったんだ。

ただ1人の恋人になりたいと言ってもらったからこそ、あの時流されずに、きちんと自分の意思を伝える必要があったのに。
「私はジョッシュと別れるから、それまで待って欲しい」と。
ううん、待ってもらえなくてもいいから、とにかく私は恋人と別れる、二股をかける気なんてないんだって事だけは、わかってもらうべきだった。

オスカーはひどく怒っていたし、私の顔など見たくもないという雰囲気だった。
せっかく恋人になりたいと言ってもらえたのに、もうチャンスは残されてないんだろうか。
これからジョッシュと別れても、もう遅いの?

…ううん、きっとまだ、手遅れではないと信じたい。
とにかくオスカーに話をして、ジョッシュが泊まったというのは誤解だとわかってもらわなくては。
私はジョッシュとは別れるから、もう一度恋人になれるチャンスが欲しいと、ハッキリ告げてみよう。

すっかりぬるくなってしまったコーヒーの紙コップをぼんやりと弄んでいると、頭上からくすくすと小馬鹿にしたような笑い声が聞こえた。
「あらあら、オスカーの『お友達』さんじゃない。ずいぶん早い時間から、ひとりぼっちでいるのね?」
その声に顔を上げると、見覚えのある女性が2人、テーブルの前に立ってこちらを見下ろしている。

以前、トイレで嫌がらせしてきた、オスカーファンの女性達だ。
何だろう、また嫌味でも言うつもりかしら?
アンジェリークは身構えるように肩に力を入れると、キッと2人を睨み返した。
「何か、ご用ですか?!」
「おお、こわ。随分強気なのね。夕べは会社の前でオスカーにキスされたんですって?晴れて『お友達』から恋人に昇格した訳ですもの、強気にも出たくなるわよね」
もう1人の女性がすかさず、嫌な笑みを浮かべて会話に割り込んでくる。
「でも可哀想に。あなたは1晩限りの恋人だったってわけでしょう?ずいぶんとまた、早く見限られたものね」

アンジェリークは2人の会話の意味がわからず、眉根を寄せた。
「一体、何の話ですか?」
「あーらぁ、強がらなくてもいいのよ。彼と1回やってすぐ捨てられちゃったから、こうやって朝早くからひとりぼっちでここにいるんでしょう?」
「たった1回やられて捨てられるなんて、よっぽどアッチがお粗末だったのね。ごめんなさいねぇ、以前はあなたをセックスフレンド呼ばわりしちゃって」
アンジェリークは思わずびくりと肩を震わせた。
彼女達の言ってる事は決して正しくはないけれど、まるきり間違っているとも言えない。
この人達は、何かを知ってる…?

「それにしても、オスカーも相変わらず精力的よねー。昨日の帰りにはあなたをやり捨てて、深夜にはもう、クラブで別の女性をお持ち帰りですもんねぇ」
「えっ?」
アンジェリークの顔が青ざめたので、女達はここぞとばかりに嬉しそうにぺらぺらとしゃべり続けた。
「それもそんじょそこらの女性じゃないわ、あの『セレナ・ジョーンズ』よ。彼女とオスカーは昔付き合ってたって噂を聞いた事があったけど、どうやらまたヨリを戻したらしいわね」

「…セレナ・ジョーンズ?」
ショックを隠せない表情でおうむ返しに聞き返してくるアンジェリークに、女達は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「あなた、まさかセレナを知らないの?このシティでも特に有名な、『成功した超一流の美女』よ」
「全く、あなたみたいなイモ娘と付き合ってくれてたんだったら、私達にも付け入る隙があったのに。せっかくクラブにオスカーが1人で現われたっていうのに、セレナが相手じゃ太刀打ちできないわよ」

目の前からすぅっと血の気が引き、指先が冷たくなっていく。
頭がガンガンして、女達の会話が、ひどく遠くから聞こえてくる感じがする。
オスカーは、あの後-----他の女性を?

ああ、彼だって男だもの、そんな女性が現われたら、そっちに行って当然だわ。
私とは付き合ってた訳でもないし、それどころか---軽蔑されるような真似をしてしまったんだから。
でも、これで残された希望はもう、なくなってしまった。
今からジョッシュと別れたとしても、もうオスカーに振り向いてもらえるチャンスはないんだ-----

「それにしても、たったの一晩で捨てられちゃうなんてねぇ」
「しかもその後、オスカーったらすぐに口直しに他の女を探しに来てたのよ?よっぽどあなたとの情事が、つまらなくて物足りなかったのかしら」

くすくすと嫌な笑い声が耳に粘りつく。
ああ、うるさい!わかったから、早くどこかに行っちゃって!
そう言ってやりたいのに、喉が締め付けられたようで、言葉が何も出てこない。
息が苦しい。座っているのも辛い。
この場を逃げ出したいのに、椅子に鎖で縛られてしまったかのように、身体が動かない。

「ちょっとあんた達、イジメはその辺で終わりにしなよ」

突然、女達の後ろから低い声が響く。
女達が振り向くと、すぐ後ろにオリヴィエが立っていた。
口調こそ軽いけれど、その目は軽蔑に満ちていて厳しい。

「あ、あら、オリヴィエじゃない。ずいぶん早いのね」
女達が、慌てたように笑顔を取り繕う。
「いやーね、イジメなんかじゃないのよ。ちょっと噂話をしてただけ」

「ふーん。ちょっと前から見てたけど、ただの噂話には聞こえなかったけどね。そろそろ人が増えてきたし、大声で下品な話ばかりしてると、まわりにぜーんぶ丸聞こえだよ」
女性達は辺りを見回し、いつの間にか増えていた視線に顔を赤らめた。
「ま、あんた達が若い女子社員を苛めてたって噂がたつ前に、さっさと行くんだね」

逃げるように走り去る女性達を呆れたように横目で眺めてから、オリヴィエはアンジェリークに手を差し出した。
「私達も出ようか」
「…あ、ありがとうございました、助けてくださって……」
心ここにあらずといった感じで呆然と手を見つめるアンジェに、オリヴィエは苦笑した。
「とにかく一旦、ここを出た方がいい。まだそんなに人はいないけど、みんなに注目されちゃってるから」
その言葉にアンジェリークは頷いて立ち上がったが、まわりの視線なんて正直いってどうでも良かった。
今は何も、考えられない。考えたくない。

ふらふらと1人で歩き出すアンジェリークを、オリヴィエが慌てて後を追う。
「ちょっとアンジェちゃん、大丈夫?」
「え?何がですか?」

アンジェリークは一応歩いてはいたが、目の焦点がろくに合っていない。
それを見たオリヴィエは心配そうに眉を曇らせ、次いで少し強引にアンジェの腕を引くと、エレベーターのほうへと連れていった。
「オリヴィエさん…?」
アンジェにはオリヴィエの行動の意味が良くわからなかったが、もう問いただす気力すらない。

オリヴィエに連れられるまま、エレベーターを降りる。
そこは見慣れた、地下の駐車場だ。
「こっちだよ」
薄暗い空間の奥に、珍しい色合いのシヴォレーが停まっている。
僅かに紫とグレーがかった、パールピンクの車体。
見た事もないような色だが、派手すぎる感じもなく、オリヴィエの個性的な雰囲気とぴったりとマッチしている。
そこでも何故ここに来たのかという疑問よりも、ああ、綺麗な色だななどという、場違いな考えしか浮かんでこない。
これ以上傷付くのを恐れた心が、自衛手段として物事を深く考えるのを拒絶していた。

オリヴィエが後部座席のドアを開けてくれたので、促されるままに乗り込む。
だが、ぼんやりしていられたのは、そこまでだった。
助手席に座っていた人物が、後ろを向いて声をかけてきたから。

「アンジェリーク?こんな朝早くから、一体どうしましたの?」
「ロ、ロザリア?」

びっくりしたと同時に、不思議な安堵が沸き上がり、閉じていた感情が一気に戻りはじめる。
昨晩からずっと抑えていた感情が一気に吹き出し、アンジェリークの瞳からは、ぼろぼろと涙が零れ落ちていた。