Sweet company

5. Such a Flirt (6)

いつの間に私は、こんな泣き虫になっていたんだろう。
故郷にいた頃は、人前で泣いた事など滅多になかったはずなのに。

アンジェリークはロザリアが差し出したハンカチを目にあてがったまま、喉から零れそうになる泣き声を、必死で飲み込んでいた。
「ひぃぃぃっく!」
声を我慢し過ぎて、大きくしゃくりあげるように息が漏れる。
そんなアンジェリークを、ロザリアとオリヴィエは何も言わずにしばらく見守っていてくれた。

ようやく涙が納まってきた頃、オリヴィエが優しい声で話しかけてきた。
「何があったのかはよくわからないけど、このままじゃ仕事にも出れないだろう?私とロザリアはちょうどこれから、お菓子の材料選びに出かけるところだったんだ。良かったらアンジェも一緒においで」
だが、アンジェリークは首を横に振った。
「いえ、私は…残ってここで、お菓子を作ります…」
「そんな状態じゃ、ろくなお菓子も作れないよ」
「そうですわよ、泣いてたら味覚も嗅覚もきかなくなりますのよ?それだったら仕事の為に外に出て、ついでに気分転換もしたほうがずっといいわ」
アンジェリークはまだ「でも…」と言い続けていたが、オリヴィエとロザリアはそれを無視して車を発進させた。

「今日は、コーティング用のチョコレートを探しに行きますの。オリヴィエが優秀な手作り職人のいる工房や、珍しい原材料の輸入元を紹介してくださったのよ」
気分を変えさせるためなのだろう、ロザリアが今日の目的を明るく説明してくれる。
「…ねえロザリア、一緒に連れてってくれるのは嬉しいんだけど…そんな貴重な材料の情報を、私なんかに知られちゃっていいの?」
友人であっても、コンテストではライバルだと常々公言しているロザリアに、心配になって訊ねた。
「別に構わないわ。同じ材料を使ったとしても、わたくしとあんたのお菓子は全く個性が違いますもの。むしろ同じ材料で競う事で、いい切磋琢磨になるのではなくて?」

ロザリアのその言葉に、アンジェリークは涙を止めて顔を上げた。
私が恋愛沙汰で悩んで立ち止まっている間に、ロザリアはこんなにもお菓子作りに真剣に取り組み、情熱を注ぎ込んでいる。
私もぐずぐず泣いてばかりじゃダメだ。
せめて仕事の時間中くらいは、一生懸命お菓子作りに取り組もう。

「ロザリア、ありがとう。…じゃあ今日は、お言葉に甘えさせてもらうね」
手の甲で涙を拭って、洟をすすりながらも笑顔を作る。
その笑顔に、ロザリアも安心したように優しい微笑みを返してくれた。


たしかに外出は、気分転換にはよかったようだ。
オリヴィエの見立てでいくつかのチョコレート工房を見て回るうちに、アンジェリークもお菓子作りへの情熱を思い出し、さっきまでの悲しい気分を忘れて没頭していく事が出来た。
素晴らしい香りのカカオクレームにも出会い、新しいレシピのアイディアが次から次へと湧き出てくる。
その日の夕方には、アンジェリークの心はだいぶ落ち着きを取り戻していた。

「すっかり遅い時間になったから、また食事でもしていかないかい?」
オリヴィエの提案に、ロザリアも「いいですわね」と同意する。
「えーと…私はお邪魔じゃないの?」
アンジェリークが気を遣って小声で訪ねると、ロザリアが顔を真っ赤にさせながら怒った。
「あんたは余計な気を遣わなくていいの!そんな事より、今日こそお酒は飲み過ぎないよう気をつけなさいよ!」
ロザリアにじろりと睨まれ、アンジェリークは縮こまりながら「は~い…」と照れ笑いを浮かべた。


食事中は、案の定2人から質問攻めにあった。
「今朝は一体どうしましたの?あんたの事だから、オスカーとなんかあったんでしょうけど」
レストランの一角でロザリアに問いつめられ、アンジェリークは俯いた。
「昨日の退社後、会社の前でオスカーに、いきなりキスされてましたでしょ?あれからまさか、変な事でもされたのではなくて?あの方は手が早そうだから、心配してましたのよ」
ロザリアはかなり憤慨している様子で、一方的にオスカーが悪いと決めつけているようだ。

「それと、今朝あの女達が言ってた内容も気になるね。まあ、あれが全部本当だとは思わないけど」
「何ですの、今朝の内容って?」

オリヴィエの言葉に、アンジェリークはどきりとする。
そうだ、オリヴィエさんは、あの女の人達と私が話してた場にいたんだ。
どこから聞いてたのかはわからないけど----オスカーが私とのデートの後、クラブに1人で現れて、セレナという女性を連れて帰ったと言うのは、聞かれちゃったかもしれない。
そこだけを聞いてたら、あの女性達の言うようにオスカーが私をやり捨てて、口直しに他の女性を探しに来たとも取れるだろう。
そこまでひどく取られなかったとしても、私とオスカーのデートが何らかの理由で破綻した事だけは、簡単に推測がつくだろうし。

どうしよう、このままロザリアとオリヴィエさんに、オスカーとの事を相談すべきなんだろうか。
でも…昨夜の出来事を正直に話したところで、真実がきちんと伝わるとは思えない。
たとえどんな理由があろうとも、女の子に手を出そうとしたほうが悪い、と決めつけられはしないだろうか。
でもあれは、どう考えても私のほうが悪かったんだもの。
それにオリヴィエさんとオスカーは仲のいい友人だというし、こんな事で2人の友情にヒビでも入ったら大変だ。

やっぱり、この件に関しては深く相談するのはよそう。
心配してくれてる2人には申し訳ないけど-----セックスが絡む問題って、あまりべらべらと他人に話していい事ではないような気もするし。
オスカーのいない場所で、一方的に彼を悪者に仕立て上げるような真似もしたくないもの。

「…昨日の事に関しては、あんまり私の口からだけ言っていい問題じゃないと思うの。お互い言い分もあるし、誤解してる部分もある。これは、私とオスカーがきちんと話し合わなくちゃ解決しない問題だと思うから」
はっきりと告げると、意外な程2人はあっさりと引き下がった。
「あんたがそう言うなら、わたくし達には何も出来ませんわね」
「そうだね、でも困った事があったら、いつでも相談してくれていいんだよ。私達はアンジェの、友達なんだからさ」

「…ありがとう、2人とも」
ロザリアとオリヴィエの思いやりに、また涙がじわりと滲み出てきた。
何だか今日は、本当に涙腺がおかしくなってるみたいだ。
今まで自分はしっかり者だと思っていたけど、本当は案外泣き虫だったんだって、今さらだけど気がついた。

その時突然、オリヴィエの携帯電話が鳴った。
「はいはーい…って、なーんだ、オスカー?」

その声に、アンジェリークがビクン、と弾かれたように顔を上げた。
オリヴィエは目線でアンジェリークに「心配するんじゃない」と合図する。
「ああ…うん、ここにいるよ。ちょっと待ってて」
オリヴィエは送話口を手で押さえ、顔を上げると「オスカーが話したいって言ってるけど、代わるかい?」と訊ねてきた。

アンジェリークは一旦は頷いて携帯電話に手を伸ばしかけたが、ふとそこで手を止めた。
もう少し落ち着いて、涙が止まってからのほうがいいかもしれない。
涙声を聞かれちゃったら、オスカーに変に思われちゃうかもしれないし-----何よりも今の自分は、ちょっとした事にも泣き出してしまいそうな程、動揺してしまってるのだから。
「いいえ、やっぱり…後でこっちから電話します、って伝えてもらえますか」
「わかった」
オリヴィエは長い指をくるりと丸めて「OK」の合図を作り、オスカーとの会話に戻った。

「アンジェは後でかけ直すってさ。え?なんで今出れないのかって?…そんなの、泣いてる子を無理に電話口に出せないでしょうが」
オリヴィエはぴしゃりとオスカーに告げると、アンジェリークに視線を向けて小さく笑った。
自分の心の内を見抜かれたようで、アンジェリークも驚きに目を見開く。

「それよりアンタさぁ、昨日はあんなに派手に会社前でアンジェにキスしときながら、深夜にクラブに現れて、女を連れ帰ったんだって?おしゃべりスズメ達が、朝っぱらからピィピィ噂してたよ。お陰でアンジェは、あんたに一日でやり捨てられた可哀想な娘、って後ろ指を差されてたんだ。どんな事情があるかは知らないけど、アンタはただでさえ目立つんだから、もう少し考えて行動しなよ」
今度はロザリアがびっくりしたように目を見開き、次いでアンジェリークの様子をそっと伺う。
アンジェリークは青ざめてはいたが、しっかりと前を見据え、オリヴィエとオスカーの会話に聞き入っていた。

「だーからぁ、後で落ち着いたらかけるって言ってるんだから、信用しなよ。いい?うん…うん、わかったから」
オリヴィエは電話を切ると、舌をペロリと出して笑った。
「アンジェが泣いてるって言ってやったら、オスカーのやつすんごい心配してたよ。でもまあまるっきり嘘じゃないから、許してね。アイツには少し、お灸を据えてやるくらいでちょうどいいんだから」

「…あの……オスカーは、何か私の事、言ってましたか」
「ああ、何だかアンジェちゃんに謝りたい事があるんだって。ちゃんと話がしたいから、絶対電話くれって言ってたよ。何時でもいいから待ってる、ってさ」
「そうですか…」

オスカーと、話ができる。
それこそが、私の待ち望んでいた事だった。

でも、彼は何を謝りたいと言うんだろう?
オスカーはなんにも悪くない、謝るのはむしろ、私のほうだ。
もしかして…彼はもう、『セレナ』とかいう人と付き合う事にしたから、私に言った『恋人になりたい』という台詞は-----すまないが忘れてくれ、とでも言うんだろうか。

そんな事をわざわざ彼の口から聞かされるかもと考えただけで、不安で目の前が暗くなっていくような気がしてくる。
でも辛いけど、そう言われてしまっても仕方がない。全ては私が、悪いんだから。
ただ、例えオスカーの恋人になるチャンスはなくなってしまったとしても-----
誤解だけはきちんと、解いておきたい。
そして、もう恋人になれなくてもいいから。
私はオスカーを本当に好きなんだと、それだけはちゃんと告げたい。

これが私の、初めての本当の恋なのに。
その想いを告げることすら出来ずに、いつまでも後悔にまみれて暮らすなんて、そんなのイヤだ。
正直に心を打ち明けて、その上で他に恋人が出来たからと断られるなら----まだ、諦めもつくはず。

アンジェリークは突然、勢いよく席を立った。
気持ちをちゃんと告げたいのなら、オスカーと話をする前に、どうしてもしておかなければならない事がある。

「オリヴィエさん、ロザリア。私、今すぐ行かなくちゃいけない所があるんです」


----◇----◇----◇----◇----◇----



「…最悪だな」

オスカーはぼそりと呟いてから電話を切ると、椅子に深く背を預けて天井を見上げた。
1人きりのオフィスの静寂が、オスカーの身体に重くのしかかってくる。

朝からアンジェリークを探し、ようやく掴まったと思ったら、この始末だ。
俺のとった軽率な行動のせいで、アンジェリークが噂の標的にされている。
あまつさえ、嫌な思いをして泣いているのだ。

唐突に彼女のきらきらとした輝くような笑顔が脳裏に浮かび、次いで別れ際の泣き出しそうな表情がそれを打ち消すように被さってくる。
その映像に打ちのめされたように感じて、オスカーは溜息混じりに額に手を当てた。

そうだ俺は、アンジェリークのあの笑顔に、何よりも惹かれていたのに。
出会った頃の彼女への好奇心とか、セックスの凄さとか、そんなものはいつの間にか二の次になっていて。
あの明るい笑顔を見ているだけで、不思議なくらい心が暖かくなっていく。それが嬉しくて、毎日のように彼女に会っていたんじゃないのか?
なのに勝手に彼女を疑い、一方的に突き放し、あの笑顔を俺が自ら壊してしまったのだ。

今すぐ彼女の元へ行って、慰めてやりたい。
すまなかったと謝罪し、涙を拭いてやりたい。
噂を撤回する為に俺にできる事は何でもやってやる。
皆の前で、俺がふられたんだとはっきり言ってやったって構わない。
別にそんなのは恥でも何でもない、彼女に辛い思いをさせるほうが、よっぽど恥ずべき事なのだから。

なのにアンジェリークが今、どこにいるのかすらわからない。
彼女の電話を待つしか術がないのに、本当にかけてきてくれるのかすら、怪しいときてる。
彼女を追い返した後、クラブで女を連れ帰った事も知られてしまったのだ。
もうアンジェリークは、俺と関わるのすら嫌かもしれない。

とにかくここで、うだうだと考えてばかりいても始まらない。
まずは彼女が電話をくれなければ、お話しにもならないのだ。
オスカーは焦燥感を振り切ろうと、目の前に積み上げられていた懸案事項の書類に目を通しはじめた。

しかし、どうにも仕事に身が入らない。
書類一枚に目を通すのに、やたらと時間がかかってしまう。
いつもならフル回転で仕事の処理をするはずの頭脳が、今夜は全く機能しない。
浮かんでくるのは、アンジェリークの泣き顔ばかりだ。

…全く、セレナの言った通りだな。
俺をここまで本気で悩ませる存在。それはあのお嬢ちゃん、ただ1人だけだ。
他の女を抱いて紛らわせる事などできやしない。
今になって、ようやくそれに気がつくとは。

俺を喜ばせ、信じさせ、動揺させ、本気で怒らせる。
どうして彼女だけが、俺の本気を引き出してしまうのか。
俺すらも良く理由がわからないが、だからこそどうしても、彼女が欲しい。
手に入れて、心ゆくまでアンジェリークという存在を知り抜いてみたい。

もう手遅れかもしれないが、それでも簡単には諦めたくない。
こんなに本気で欲しいと思える存在など、この先そうそう出会えるかもわからないのだ。
いつものように、手に入れてから「ああ違った」と失望するかもしれない。
それでもとにかく今は、何がなんでも彼女を欲しい。望みはただそれだけだった。

だから、とにかくアンジェリークに謝罪して、彼女の話を聞こう。
アンジェリークは、俺が誤解している、と言っていた。
今となっては、そうなのかもしれないと思う。
あのお嬢ちゃんと毎日のように過ごしてきて、彼女が嘘をついたり、二股をかけるような人間ではないと、わかっていたはずなのに。
何故かあの時は、そんな事すら思いもつかないほど頭に血が上っていた。
ちゃんと話をすれば、何か彼女なりの理由があったはずなのだ。

そしてもう一度、俺は本当にアンジェリークが欲しいのだと告げなければ。
もう回りくどい駆け引きなどいらない、ただ欲しいのだとまっすぐに言ってみよう。
その結果、アンジェリークが恋人の元へ戻ると言ったとしても、それはそれでいい。
とにかく、欲しいと思ったら失敗を恐れずとことんやってみる。そうだ、それこそが俺じゃないのか?

数枚の書類をようやく処理し、オスカーは疲れを感じてふと時計を見た。
いつのまにか時間は、深夜零時近くにまでなっている。
アンジェリークからは、いまだ連絡がない。

…いくらなんでも、遅すぎやしないか?
それとも彼女は、やはりもう、俺に連絡をしてくる気はないのだろうか?
オスカーがにわかに不安を覚えた頃、携帯電話の呼び出し音が突然オフィスの静寂を切り裂いた。

「カークランドだ」
「…もしもし、オスカー?」
「お嬢ちゃんか、今どこにいる?」

焦燥感を表わすように早口でオスカーは訊ねたが、アンジェリークは、何かを言い淀むように黙りこくっている。
電波の調子が悪いのか、オスカーの耳にはザーザーという耳障りな雑音ばかりが響いてくる。

「お嬢ちゃん?聞こえてるのか?」
「…ごめんなさい、聞こえてます。今…私、電車の中なんです。もうすぐ故郷の駅に、着くところです」
「故郷?一体どういう事なんだ?」

そこでまた、会話が途切れた。
アンジェリークはじっと黙り込んでいて、公衆電話の料金が次々消費されていく電子音と、電車の走る音だけが遠くでガタンガタンと聞こえる。
オスカーはひどく気が急いて、彼女の答えを待たずに話し出した。
「俺はお嬢ちゃんに、謝りたい事があるんだ。話もしたいし-----」

だがアンジェリークはオスカーの会話を遮るように、話しだした。
「話は、故郷での用事が終わってからにしてもらっても、いいですか?」
「用事?」
「私……この週末に、故郷で、恋人と別れてくるつもりなんです」
「なんだって?」

予想もしなかった展開に、オスカーも絶句する。
別れるだって?アンジェリークは、あの恋人を本当に愛してたんじゃなかったのか?

「だがあの恋人は、どう見てもお嬢ちゃんにぞっこんだったろう。そんなすぐに別れるなんて、できるのか?」
「確かにジョッシュは私と別れ話をしたくないって避けてるから、ちゃんと会えるのかも本当はわからないんです。でも、もし…ちゃんと彼と別れる事が出来たら、私、オスカーにどうしても告げたい事があるんです」

まっすぐなアンジェリークの言葉に、オスカーは息を飲んだ。
恋人と別れた後に、俺と話したい-----それはどう考えても、1つの結論にしか辿りつけない。
いや、それともこれも、俺の独りよがりな自惚れなのか?
だが自惚れだろうとなんだろうと、可能性があるならいくらでも待ってやる。

「よし、じゃあ俺はお嬢ちゃんの帰りを待ってる。日曜日には、こっちに戻れるのか?」
「…うん。何時になるかははっきりわからないけど…」
「じゃあ別れ話が上手くいこうがいくまいが、戻ったらすぐ連絡してくれ。迎えにいくから、その時に必ず話をしよう。いいな?」

アンジェリークはまた涙が出そうになった。
別れ話が上手くいくかもわからない、帰ってきても、オスカーの口からは恋人が他に出来たと聞かされるかもしれない。
それでも彼が、自分を拒絶していないのだとわかっただけで、嬉しくて泣けてしまいそうになる。

「うん、必ず連絡する-----」
「わかった。いい知らせを待ってるから、気をつけて行ってこい」

オスカーの声が、優しく耳に響いた。