Sweet company

6. My Home Town (2)

----こんな事しちゃって、本当に大丈夫なんだろうか?

モリーと名乗った女性が運転する車に同乗しながら、アンジェリークは不安げに表情を曇らせた。
今はフットボールの試合が終わり、彼女に誘われるまま、これからジョッシュが現れるという場所に向かっている。
モリーの話によると、詳細はこうだ。

ジョッシュは今日、モリーと話し合わなければならない用事がある。
そのため、試合後に2人で会う約束をしていたのだそうだ。
試合後はミーティングだの祝勝会だのが行なわれる予定だから、その隙間のほんの1時間くらいしか、2人で会う時間はないという事なのだけれど。
そこにアンジェリークも、同席すればいいと言われたのだ。

一体どんな用事で2人が会うのかはわからないけど、そんな場に私が同席して、構わないんだろうか。
人前で別れ話をされるなんて、プライドの高いジョッシュは絶対許せそうにもないし。
このモリーさんって人にも、かえって迷惑をかけちゃうんじゃないだろうか。

悩んでいるうちに、モリーは田舎道沿いの古びたコーヒーショップの前に車を停めた。
「ここでジョッシュと、会う約束なの」
2人は車を降り、店の中に入った。

店内は薄暗く、お世辞にも清潔な雰囲気とは言い難い。
窓ガラスは手垢で曇っているし、床のプラスティックタイルはところどころ割れて、ヒビが入っている。
安っぽい赤のビニールが張られた椅子は、あちこち破けて中のスポンジがむき出しだ。
お客は一人もおらず閑散としており、店員の姿すら見えない。
ボックス席に2人が座ってしばらくたってから、ようやく奥にいたらしいウェイトレスが注文を取りに来た。
愛想のないウェイトレスはいかにも面倒臭そうに注文の飲み物を出すと、また店の奥に引っ込んでしまい、姿が見えなくなった。

正直言って、お洒落なジョッシュがこんな店で女の子と会う約束をするなんて、信じられなかった。
恋人とのデートじゃなければ、こんなうらびれたお店にも足を踏み入れたりするんだろうか?

不安げな表情のアンジェリークを見て、モリーはにっこりと笑顔を向けた。
「やっぱり心配?全然知らない女に連れられて、こんなお店に来ちゃうのって」
「い、いえ!モリーさんを信用できないとか、そういうのはないんです。ただ、ジョッシュはモリーさんとのお約束でここに来るのに、私がいたらあなたに迷惑がかかるんじゃないかと思って…」
「それは大丈夫よ、心配しないで。でもそうね、最初からここにあなたが座ってたら、彼は話もせずに逃げ出すかもしれないわね。でも私も今日の話し合いは、絶対に引き延ばしたくないの。だから最初だけ、この後ろの席に座って、隠れていてくれる?」
「えっ、でも…」

アンジェリークは不安げに、後ろの席を見た。
今座ってる席は、2人がけのベンチシートが向い合せになっている、いわゆる「電車のボックス席」型。
後ろの席との間には高い背もたれがあるし、わざわざぐるっと後ろに回って覗き込まない限り、後ろにいる人間の姿は見えそうにない。
それでもこんな静かな店内では、話がまる聞こえだろうし、モリーさんはそれでも構わないのかしら?

「ちゃんと私の話が終わったら、あなたが出てこれるように合図してあげるから、安心してよ」
「あの、そうじゃなくて。私にはそちらの話が聞こえちゃいますけど、構わないんですか?」
アンジェリークの問いに、モリーは少し複雑そうな笑みを浮かべた。
「そうね、確かに。特に今回の話し合いは、あなたにとっては不愉快な話になる可能性もある。それでもいいなら、彼と話すチャンスをあげるわよ」
「不愉快な話…?」

アンジェリークはその「不愉快」だという内容を先に聞いておきたかったが、出来なかった。
窓の外に、ジョッシュの姿が見えたからだ。
「あ、彼が来たわ!早く後ろの席に隠れて!」
アンジェリークはモリーに追い立てられるままに自分の飲み物を掴み、後ろの席に移るしかなくなった。

一人でボックスシートに腰掛けると、急に緊張が一気に襲ってくる。
アンジェリークは不安で、心臓が痛くなるような気がした。
落ち着く為に目の前のココアを口にしてみたが、ざらざらと粉っぽくてひどく不味い。
こんなんじゃぁこのお店に、お客が来ないはずだ。
それでもこんな時だからこそ、お客も店員も見えないこのお店の寂びれた雰囲気が、かえって有り難かった。

やがてドアが開く気配がして、背後から足音がこちらに近づいてくる。
(ジョッシュが来たんだ!)
普通に座っていても、ジョッシュの位置からこちらの姿は見えないのはわかっていた。
それでもアンジェリークは背を丸め、息を潜めて後ろの2人の様子を伺った。

「ジョッシュ、試合お疲れさま。見事な活躍だったわね」
「…ああ」
モリーの明るい声と、ジョッシュの不機嫌そうな声が交互に聞こえてくる。
女の子に不機嫌そうなジョッシュの声なんて、初めて聞いたように思う。

「そんな嫌そうな顔、しないでちょうだいよ。こっちだって楽しくはないんだから」
「……それで、結果はどうだったんだい?」
「せっかちなのね。少しは世間話くらい、してもいいのに」
モリーの低い笑い声が聞こえる。

「…結果を先に言うとね。今、妊娠2ヶ月目ですって」
「本当に僕の子なのか?君と寝たのは、1ヶ月前なんだ。計算があわないじゃないか!」
「そう言われてもね。最後の生理が終わった日から計算するから、実際は1ヶ月しか経ってなくても、2ヶ月目ってことになるんだそうよ」

アンジェリークは驚きのあまり、その場で立ち上がりそうになってしまった。
ジョッシュが、モリーさんと寝ていた。しかも、妊娠させた---?

「君は僕の他にも、沢山の男と遊んでたんだろう?誘ってきたのだって、君からだったんだし…」
「まぁね。でも、この2ヶ月はあなた以外は誰とも寝てないわよ。それに、今までの男は全員ちゃんと、避妊してくれてたし。避妊しないで寝たのは、あなただけよ」
「…それはそうだけど……。でもさ、僕が避妊具がないって言ったら、『それでも構わない』って言ったじゃないか!モリーは遊び上手だって聞いてたし、てっきり自分でピルとか飲んでるのかと…」
「確かに、避妊具がなくてもいいって言ったわ。でもその理由が、あなたにはわからないのね」
モリーの悲しげな笑い声が、店内に響いた。

「…とにかくさ、もちろん堕ろすんだろ?お金ならちゃんと欲しいだけ払うし…皆に内緒にしてもらうんだから、口止め料も込みにするよ」
ジョッシュの発言に、アンジェリークは衝撃を受けた。
でもその後のモリーの言葉には、もっと驚いてしまった。

「……いいえ、私は産むわよ」

しばらくジョッシュは、唖然としたように何も話さなかった。
沈黙が流れ、ようやくジョッシュが口を開いた時は、ショックのせいかしゃくりあげるような息遣いが漏れていた。
「………うそ、だろ、そんな……」
「本当よ、ジョッシュ。でも別に、結婚してくれとか迫る気はないの。あなたに愛されてないのなんて知ってるし。でもせめて、認知だけはして欲しいと思って。養育費を搾り取りたいとかじゃないの、あくまで生まれてくるこの子の為よ」
モリーは明るく話していたが、微かに声が震えていた。
その震えを感じ取って、アンジェリークは胸が詰まるような思いがした。

----もしかして、このモリーさんって……
本当はジョッシュの事を、好きなんじゃないだろうか?
私はジョッシュとのセックスの時は、断固として避妊してもらうよう、はっきりと口に出していた。
それは彼との間に子供を作りたいとは、これっぽっちも考えられなかったからだ。
でも、もしこれがオスカーだったら-----?
彼に急に求められて、避妊具がないって言われたら、私には断れる自信がない。
だって、好きな人に求められたら、そのチャンスを一瞬足りとも逃したくはないもの。
その結果、その人の子供が出来ちゃったとしても-----好きならばきっと、私も今のモリーさんと同じ事を言うだろう。

「ねえジョッシュ、これって別に、あなただけの責任じゃないわ。あなたの彼女が都会に行ってるのを知って、セックスの相手がいないならどうかって誘ったのは、私のほうだし。でもあなたが避妊を怠ったのも、事実なのよ。で、私は絶対に、堕ろしたくはないの。ならばこうするのが、一番いいんじゃない---?」
「…モリーが産みたいって言うなら、僕も反対したくはないよ。これは君の身体の事なんだから。……でも認知しちゃったら、親にもアンジェにもバレちゃうだろ?そしたらもう、絶対結婚してもらえない。ベッドの中でも話したよね?彼女が最近、僕と別れたがってるって事を」
「この事実を知ろうが知るまいが、その彼女が別れたいと思ってるなら、遅かれ早かれ別れは来るのよ」

ジョッシュは泣き出したのか、小さく洟をすするような音が聞こえてくる。
「…それはそうなんだと、僕にもわかってるよ。でも、アンジェみたいな子は、他にはいないんだ。他の男に取られないように、お洒落だってさせなかった。結婚するまでは、地味にして人目につかないようにさせてたんだ。だって彼女は汚れてなくて綺麗で、本当に天使そのものなんだから」
「…あなた、いつもそう言ってたものね。『アンジェは可愛い、付き合って3年も経つのに未だにセックスを恥じらうし、毎回涙を堪えてるのがたまらない』って。私みたいに誰にでも足を開く女とは、大違いですもんねぇ」
モリーは自嘲するように笑っていたが、彼女の口調から、今にも泣き出しそうなのが伝わってきた。

アンジェリークは思わず、立ち上がっていた。
モリーさんは合図を待て、と言っていたけど。
もうこれ以上、彼女に辛い台詞を言わせたくなかった。
彼女はきっとジョッシュを好きなんだ、それはもう、間違いないように思える。
でもジョッシュは私にこだわり、その為に認知が出来ないなどと言っている。
それならば、一刻も早く私が別れを告げなければならないんだ!

アンジェリークは、そのまま2人がいる座席まで歩いた。
ボックス席の横に突然現われたアンジェリークに、ジョッシュは驚きのあまり、しばらく幻覚でも見ているように目を瞬かせたていた。

「…アンジェ……どうしてここに…?」
そう言ってからハッとしたようにモリーのほうに向き直る。
「モリー!君がアンジェをここに呼んだんだな!最初から僕を、ハメるつもりだったんだ!!」
激昂して立ち上がりかけたジョッシュを、アンジェリークが制した。
「違うわ、ジョッシュ。私達、今日の試合前に偶然知り合ったのよ。私が週末にこっちに帰る予定があったのは、あなたも知ってたでしょう?」

アンジェリークはモリーの隣に座ると、テーブルの下で彼女の手をぎゅっと握った。
彼女の手は、痛々しいくらいに震えている。
その横顔は血の気を感じないくらい青ざめてはいたが、冷静そのものの表情をしているというのに。
「こんな偶然、私だって信じられないけど。でも私はどうしてもジョッシュと話したかったから、ここに来たの。まさかこんな話を聞いてしまうとは、思いもよらなかったけど」

「アンジェ、もう僕を軽蔑したんだろう…?こんなの聞いちゃったら、もう僕を許せないよね」
ジョッシュは、涙ぐんでいた。
まるで子供のように口を8の字に歪め、今にも泣き声を上げそうに見える。
その表情を見ていると、これから自分が言おうとする事は、なんて残酷なんだろうかとも思う。
でも、今しかない。何が何でも、ちゃんと言わなければ!

「ジョッシュ、私、あなたを軽蔑してないわ。許せないとも、思ってないの」
「…え?それじゃアンジェは、僕を許してくれるのかい-----」
目を輝かせてそう聞いてくるジョッシュに、アンジェリークは首を横に振った。
「……ううん、ジョッシュ。もし私があなたを愛してたら、この話を聞いた瞬間に、泣き叫んでいるわ。気が違うくらい悩んで、許すとか許さないとか、そんなすぐには答えは出せないと思う」

----そう、もし目の前にいる恋人が、オスカーだったなら。
きっと私はこんなに冷静に、この場にいられない。
彼を軽蔑し抜いて、許せなくても。
どんなにみっともなくても、泣いて縋り付いてでも-----私を捨てないで、と叫んでいるだろう。

「私はあなたの浮気を聞かされても、ショックじゃなかった。あなたが他の女性を妊娠させたと聞いても、涙すら出ない。それがどういう事か、わかるでしょ?」
アンジェリークはそこで、すうっと息を吸って、ゆっくり吐いた。

「ジョッシュ、私はあなたを、愛してないの---------」


---◇---◇---◇---◇---◇---◇---


「ただいまぁ…」

実家に戻った時は、アンジェリークはぐったりと疲れきっていた。
でも身体は別に疲れていた訳ではない、心が-----ひどく消耗していた。

別れた後はすっきりした気持ちになれるのかと思っていたが、そんな簡単なものではなかった。
あの後、放心状態のジョッシュに別れを告げ-----追い討ちをかけるように、モリーさんとの話し合いはきちんとしてね、と言ってしまった。
もう別れを宣告した人なんだし、私が立ち入る問題ではないのかもしれないけど。
でも3年も付き合ってきた恋人だからこそ、この問題をうやむやに終わらせて欲しくなかった。
どういう結論を出すにしろ、2人で納得いくまできちんと話し合ってもらいたい。
ジョッシュが責任ある行動をとってくれる事を、今は願うしかなかった。

「アンジェ、どうだった?ジョッシュとは、会えたの?」
心配そうに訊ねてきた母親に、アンジェリークは苦く笑ってみせる。
「…うん、会えた。別れ話もちゃんと、してきたわ」
「そう……」

母のリリアンはそれ以上、何も聞いてこなかった。
ただ静かに紅茶を入れ、「お茶にしましょうよ」と笑顔で言ってくれる。
「ママもクッキーを焼いたの。アンジェのみたく美味しくは出来ないけど、これでも頑張って作ったのよ」
出されたクッキーを頬張ると、砕いた紅茶の葉っぱが入ってるのがわかった。
今の自分の気持ちにはぴったりな、ほろ苦い味で-----なぜだか少し、泣きたくなった。

「ねぇアンジェ、なんだかひどく疲れてるみたいだし---もう一泊くらい、していけば?会社は1日くらいお休みとか、できないの?」
母の声に、アンジェは首を横に振った。
「ううん、せっかく言ってもらったけど、泊まっていかないわ。個人的な問題で、仕事を休みたくないの。それに---」
アンジェリークは少し恥ずかしげに、でも真直ぐに母親の瞳を見つめて笑った。
「----それに私、シティに好きな人が出来たの。ジョッシュと別れたら、その人に一刻も早く好きだ、って伝えたくて」

母親は目を見開き、紅茶を飲む手を一瞬止めて、それからふんわりと優しい笑みを向けた。
「そうだったの。どうりであなた、急に綺麗になったと思ったわ。それでその人とは、思いが通じ合えそうなの?」
「ううん、チャンスはあったのに、私がぐずぐずとジョッシュと別れられなくてダメになっちゃった。彼はもう、他に恋人が出来ちゃったみたい。でも、私が好きだって想いだけは、言っておきたいから」
「その人って、どんな人?素敵な人なの?」
「うん、すっごく素敵な人よ。オスカーって言うんだけど、ハンサムで仕事が出来て、気障でプレイボーイで、私の事はいっつも子供扱い。でもね、側にいるだけで胸がきゅーーっとなって。なのに不思議なくらい安心できるの」
アンジェリークはうっとりと夢見るような表情で語ってから、急に恥ずかしそうに真顔に戻った。
「や、やだ私ったら。ふられるのがわかってるのに、ペラペラとバカみたいよね」

リリアンはそんな娘の様子に、ふふっ、と小さな笑みを零した。
「----アンジェは本当に、その人の事が好きなのね。今日中にシティに戻れば、その人に会えるの?」
「うん、帰ったら話す約束をしてるの。上手くいく訳がないんだけど、一刻も早く会いたくて------って私ったら、親不孝ね。せっかくママの元に帰ってきたのに、すぐにとんぼ返りしようとしてるんですもの」
「いいえ、アンジェ。ママはね、今とっても嬉しいの。あなたが本当に好きな人に巡り合えたなんて、なんて素敵なんでしょう、って」

リリアンは突然立ち上がり、残ったクッキーを小さな袋に詰めはじめた。
「さ、それじゃあすぐに好きな人の元へ急がなくちゃ。クッキーは列車で食べてね。あ、紅茶も持っていく?」
いそいそとリリアンはキッチンに行き、アンジェが子供の頃に使っていた小さな魔法瓶式の水筒に、紅茶を注いだ。
「はい、どうぞ。今からなら4時の列車に間に合うかしら?そしたら夜の10時には向こうに着けるわね。あ、それから列車の中では、少しでもいいから寝ておきなさい。寝不足で疲れた顔じゃあ、告白も上手くいかないわよ。上手くいったらもっと寝不足になる可能性だってあるんだから」

いつもになく大胆な発言をする母親に、アンジェリークは戸惑い顔になった。
そんなアンジェリークの心を見透かしたように、リリアンが微笑む。
「アンジェ、あなたは告白が上手くいかないと思ってるのね。でもね、恋なんてどう転ぶのかわからないのよ。今のあなたはとっても綺麗よ、自信を持って。さ、急ぎましょう」

母親に急き立てられるようにして、アンジェリークは駅に向かった。
発車のベルが鳴り響く中、2人はしっかりと抱き合った。
「アンジェ、幸運を祈ってるわ!」
「ありがとうママ、またすぐ電話するから----」

ドアが閉まる寸前に、アンジェリークは列車に飛び乗った。
手を振る母親の姿が見えなくなるまで、ずっと窓の外を、見つめ続けていた。