Sweet company

6. My Home Town (3)

オスカーはシャワーの下に立ち、冷たい水の流れに身を任せていた。
肌を叩くような強い水流を頭から浴びていると、落ち着かない気分がほんの少し和らぐ。

落ち着かない気持ちになる原因。
それは今日にもかかってくるはずのアンジェリークからの電話が、未だにかかってこない事だ。
オスカーは水栓をきゅっとひねって水を止めると、ふぅっと大きく息を吐き出し、軽く頭を振って水気を飛ばした。

束になって額に張り付く前髪をかき上げ、シャワールームのガラス扉を開ける。
ミネラルウォーターのボトルをごくごくと飲み干しながら、壁にはめ込まれた小さな飾り窓に視線を向けた。
他の建物より頭1つ抜け出るように高いこのマンションからは、金色に輝く満月が手の届きそうなくらい近くに見えている。
月明かりのせいで夜空は明るく、まるでそれ自体が発光しているかのようにも見えるが、実際にはもう夜も深けつつある。

今日はもう、アンジェリークからの電話はないのかもしれない。
既に夜の10時を過ぎている。例えこれから電話がきたとしても、もう彼女に会えない可能性のほうが高いだろう。
遅くに帰って疲れているかもしれないし、また日を改めて会おうという話になるかもしれない。
だがそれでも、どうしても早く彼女に会いたかった。

焦る必要など、これっぽっちもないのだというのはわかっている。
アンジェリークは恋人と別れる為に、故郷に帰った。
普通に考えれば、彼女は俺を好きだから、恋人との関係を精算しにいったという事になるだろう。
まあこれは、俺の勝手な自惚れと言われればそれまでだが。
だがそれならば、アンジェリークが俺に”愛してる”と告げた事も、嘘ではなかったのだと納得がいく。
恋人とやらが朝、彼女の部屋から出てきたのだって、あの男が勝手に押しかけただけかもしれないのだし。

こうして1人で頭を冷やしてみると、どれだけ俺が彼女の気持ちを斜めに見ていたのかがわかる。
今までずっと、心のどこかで他人を信じきれず、自分だけを信じて生き抜いてきた。
だからいざストレートな感情をぶつけられても、真直ぐに受け止めてやれなくなってしまうんだ。
自分が小狡い恋の駆け引きをするからと言って、皆が同じはずなどないのに。

アンジェリークから電話がきたら、取るべき行動はもう、決まっている。
勝手な誤解から生じた自分の卑劣な振る舞いを、謝罪する。
そして彼女が、もし許してくれたなら------もう一度、君が欲しいとはっきり告げる。
例え彼女が故郷で恋人と別れられなかったとしても、そんなのは別に構わない。
アンジェリーク自身が俺を選んでくれる気持ちがあるのなら、それだけでもう充分なのだし、これ以上彼女を疑うような真似はしたくない。
おそらく彼女は俺の気持ちに『YES』と答える、そう確信もしているのだが。
実際に会ってあの笑顔を目の前で確かめるまでは、まだ安心できない。

電話がかかってくるのが待ち切れなくて、酷くもどかしかった。
だから携帯電話が鳴っているのが聞こえた瞬間-----床が濡れるのも構わず部屋を突っ切り、水滴のついた身体のままで電話に出ていた。
携帯を耳に当てると、アンジェリークの「もしもし?」という遠慮がちな小さな声が聞こえてくる。
たったそれだけなのに、あれ程もどかしかった苛立ちが嘘のように消え失せ、ほっとするような安堵感に心を満たされた。

「お嬢ちゃんか、帰ってきたのか?」
「うん、今…戻ってきたところ。何とか全部、すっきり……終えてきた」
「そうか」

オスカーは笑みを洩らすと、腰に巻いていたタオルを外して身体の水滴をごしごしと拭い始めた。
別れ話の事とか聞きたい事は山程あるが、何よりもとにかく、一刻も早く彼女の顔が見たかった。
「それで今、どこにいるんだ?駅なら迎えに行くし、アパートならこっちから会いに行く。疲れてるだろうが少しだけでいい、俺に時間をくれないか」
アンジェリークに警戒されないよう、逸る気持ちを押し隠しながらオスカーはできるだけ優しい声で語りかけた。
だがアンジェリークは急に口ごもり、妙な沈黙の後にようやく「えーっとぉ……」と呟く。
その間の開き方に不審なものを感じ、オスカーは軽く眉根を寄せた。

「どうした?今日はもう、俺とは会いたくないか?」
「……あの、そうじゃなくて、今ね、……………の前にいるの…」
もごもごと聞き取れないくらい小さな声で、アンジェリークが何かを呟いた。

「なんだ?良く聞こえないぞ。もう一度言ってくれ」
「……えっとぉ…だから……オスカーのマンションの前にある、公衆電話ボックスからかけてて…」
「なんだって?」
思いもよらなかったアンジェリークの居場所に驚いて、オスカーは危うく携帯電話を取り落とすところだった。

俺のマンションの前だと?
ここは高級住宅地にあたり、都会の割には静かな通りに面しているが、逆に夜はひっそりし過ぎて女性の一人歩きには適していない。
巡回パトロールも見回ってくれてはいるが、24時間全ての場所をカバーしてくれる訳じゃない。
実際、痴漢やひったくりなどの小さな犯罪は、しょっちゅう起こっているのだ。
こんな時間に若い女が1人で公衆電話のボックス内にいるのなど、襲ってくださいと言ってるようなものじゃないか。
くそっ、なんで俺が迎えに行くまで、安全な場所で待っててくれないんだ!

オスカーはすぐに気を取り直して手近にあったジーンズをひっ掴むと、電話を顎に挟んだまま素早く足を突っ込んだ。
「おいおい、今、夜の何時だと思ってるんだ?とにかくそこを動くんじゃない、すぐに行くから。電話は切るな、このまましゃべり続けてろ。いいな?」
急いでジーンズのジッパーを引き上げると、目の前にあった白いシャツを掴み、風のように部屋を飛び出す。
携帯電話を耳に当てたまま、まだ水滴の残る身体にシャツを羽織り、オスカーは固い表情でエレベーターのボタンを押した。

「ごめんねオスカー、夜遅いのに勝手にこんな所まで来ちゃって…。迷惑だろうとは思ってたんだけど、こうせずにはいられなくって」
「いや別に、ここに来られたのが迷惑なんじゃない。こんな時間に人気のない通りで、若い女性が一人でふらふらと電話ボックスにいる事が、危険そのものだと言ってるんだ」
「あっ、そうか…!全然そんな事、考えもしなかったわ」
無防備そのものなアンジェリークの言葉に、オスカーは思わず溜息をついて天を仰いだ。
エレベーターが開いたので、話しながら中へと乗り込む。

「全くお嬢ちゃんは、しっかりしてるのか抜けてるのか、未だによくわからんな」
「あっ、ひどーい!だって私、オスカーに早く会いたくて、言いたい事があって頭がいっぱいだったんだもん。もうオスカーには他に恋人ができたって知ってるけど、それでも私…」

ブツッ。
嫌な音がして、そこで突然電話が切れた。

「おい、どうしたお嬢ちゃん?」
慌てて問いかけたが、答えはない。
「アンジェリーク、どうしたんだ、答えろ!」
オスカーはもう一度名を呼んだが、聞こえてくるのはツーツーという無機質な電子音のみだ。
彼女に何があった?まさか、もう危険に巻き込まれたのか?

青ざめながら携帯電話を見ると、ディスプレイには『圏外』を示すマークが点灯している。
という事は、どうやらこのエレベーターのせいで電波が届かなくなり、電話が切れたと考えるのが妥当だろう。
ここは携帯の電波が届かない可能性がある事くらい知っていたはずなのに、彼女を心配するあまりそれすら思いつかなかった自分の迂闊さに、オスカーは舌打ちしながら口の中で激しく毒づいた。

お陰でアンジェリークが何か問題に巻き込まれたという可能性は少なくなったが、それでも彼女がこんな時間に一人で外にいる、と言う事実には変わりがない。
しかも電話が切れてしまった今、彼女の無事を確認する術はなく、エレベーターが一刻も早く階下に到着するのをただ待つしかなかった。

オスカーは、頭上の階数表示をじっと睨み付けていた。
高速を誇るこのエレベーターが、今日に限ってやけに遅く感じられる。
「早くしろ!」
無駄だとわかっていたが、誰もいない空間に向かって1人で怒鳴りつけた。
まるでそうすれば、少しは早く着くだろうとでも言わんばかりに。



「もうオスカーには他に恋人ができたって知ってるけど---それでも私、オスカーが好きだって事だけは伝えたくて……」
勇気を振り絞ってアンジェリークが告白した途端、電話がブツンと音をたてて切れた。

「あれっ、オスカー?もしもし?もしもーし!!」

必死の問いかけにも応答はなく、ただツーツーと無情な電子音だけが耳に響く。
何が起こったのかすぐには理解出来なくて、手の中の受話器を茫然と見つめる。
だがすぐにその音が伝える意味を理解して、アンジェリークは青ざめた。

電話が切られちゃったって事は……考えたくないけど、これってまさか、まさか……
……告白した途端に、ふられちゃったの……??

頭の中で、がーんという大きな音がこだまする。
アンジェリークははぁっと大きく息をついて、力なく手を下ろした。
受話器が手の中から滑り落ち、だらんと宙を舞う。
そのまま俯いて頭を電話器にコツンと当て、ぶらぶらと揺れる受話器に視線を当てたまま、身動きすらできなくなった。

ふられるのは、予想できてたんだけど。
……さすがに電話を途中で切られちゃうとは思ってなかったなぁ。
まあでもちゃんと、自分の気持ちを言えたんだからいいじゃない。変に期待を持たされるよりは、すっぱりふられるほうが諦めもつくし。
そうよ、きっとこれで良かったのよ。

懸命に自分を慰めてはみたが、それでも涙がひと粒、ぽろりと頬を滑り落ちた。
「あーあ、これで全部終わっちゃった……」
呟いてからのろのろと、足元に置いてあったボストンバッグを持ち上げる。
いつまでもここにいたってしょうがない、もう帰ろう、そう思ってドアのほうを向いた瞬間------急にそのドアが、ばん、と勢いよく開いた。

最初は、何が起きたのかわからなかった。
開いたドアを塞ぐようにして、月の光を背にして立つ、黒くて大きな男のシルエットがある。
びっくりして固まっていると、その黒い影がこちらに向かって一歩を踏みだし、無言でアンジェリークの手からバッグを取り上げた。
「ど、泥棒…!」
叫ぼうとした瞬間、その影が大きな手で素早くアンジェリークの口を塞いでくる。
恐怖に目を見開いて、目の前の悪漢を見上げると-----そこにはムッとした表情のオスカーが立っていた。

「失礼だな、誰が泥棒だって?」
言いながらオスカーは何とかして怒った顔を保とうとしたが、無駄だった。
アンジェリークが無事だったという安堵感と、自分を泥棒呼ばわりした彼女の間抜けさに、ついつい笑いが込み上げる。
横一文字に引き結んだ口元が微かに震え、くくっ、と息のような笑い声が口の端から洩れだした。
アンジェリークが影の正体をオスカーだとはっきり認識した頃には、既に彼は腹を抱えて大笑いを始めていた。

「…そんなに笑わなくても、いいじゃないの…」
アンジェリークは全身を真っ赤に染めながらも、じとっとオスカーを睨み付けた。
オスカーはまだ失礼なくらい大声で笑っていたが、睨むアンジェリークの顔を見た途端、急に笑いを止めて真顔になった。
アンジェリークの頬に残る涙の後に気付き、人差し指の背でそれをそっと拭う。
「…泣いてたのか?」

アンジェリークは急に恥ずかしくなって、顔を背けた。
「だってオスカー、私が告白してる最中に、いきなり電話を切るんだもん…」
「俺が切ったんじゃない。エレベーターに乗ったら電波が圏外になったんで、切れちまったんだ」
「え……」
「言っとくが、お嬢ちゃんの事が心配で、すっ飛んで来たんだぞ」

その言葉通りオスカーは、いかにも急いで来ましたというような格好をしている。
シャツは前が全部はだけているし、ジーンズのウエストボタンも外れたまま。
湿った髪の毛は無造作にかき上げられただけで、濡れた毛束が額や首筋に張り付いており、まだ水滴がぽたぽたと滴っていた。

アンジェリークの目の前で、オスカーの首筋から胸元に、水滴が綺麗な筋を描いて流れ落ちていく。
水滴は盛り上がった胸筋をゆっくりと伝いながら、見事な割れ目を描く腹筋へと落ちて、臍の窪みでようやく止まった。
それを見た瞬間、急に逞しい裸の胸が自分のすぐ目の前にある事実を強く意識させられて、アンジェリークはそわそわと視線を泳がせながら、慌てて謝罪の言葉を口にした。

「あ、その…心配かけちゃって、ごめんなさい……」
「いや、こうしてお嬢ちゃんの無事が確認できたから、それはもういいんだ。ちゃんと電話ももらえて、嬉しかった」
「えーっと、でも…私ったら勝手にこんなところまで押しかけちゃったし……」
「まあそのお陰で、こうしてすぐに会えた訳だしな。だがもう、夜の一人歩きは慎んでくれ。心配でこっちの身がもたん」

アンジェリークが何を言っても、オスカーは笑いながら優しい言葉を返してくれる。
それが嬉しいと思うのと同時に、小さな不安も頭をよぎり、アンジェリークは自分で自分を戒めた。
喜んでばかりじゃダメよ、アンジェリーク。
こんな上手くいくはずがない、絶対何か、この先に落とし穴が待ってるに違いないんだから。

「何よりも俺は、一刻も早くお嬢ちゃんに謝りたかったんだ」

ほら、やっぱり来たっっ!
オスカーの謝罪の言葉に、アンジェリークはびくんと身体を強張らせた。
悪いのはこっちなんだから、オスカーが謝る必要なんて、何もないはず。
1つだけ考えられるとすれば、オスカーの新しい恋人の話。
つまり私に言った「恋人になりたい」という言葉を、謝るから取り消して欲しいって事なのよね?

「…オスカーは何も悪くないじゃない。誰と付き合おうが、それはオスカーの自由なんだし…」
アンジェリークは震えながらもなんとか笑顔を取り繕って答えたが、オスカーはその台詞に眉を顰めて問い返してきた。
「一体何の話だ?」
「え?だって…オスカーはもう、新しい恋人がいるんでしょう?会社で噂になってたもの。だから私に言った言葉は、もう忘れてくれて構わないから」
「おい、ちょっと待ってくれ」
オスカーは両の手のひらをアンジェリークに向けて話を押しとどめようとしたが、アンジェリークは構わず話し続ける。
「オスカーの新しい恋人、セレナさんって言うんでしょ?すっごく綺麗な大人の女性なんだってね。やっぱりそういう人こそ、オスカーには相応しいわよね。えぇっと…お、お幸せに、ね」

最後の台詞はちょっと不自然にどもってしまったけど、なんとか笑顔で言えた。
でもちょっと泣きそうになってきちゃったから、笑顔を作っていられるうちに、さっさと帰ろう。
そう思ってオスカーを見上げたら----彼の顔が、びっくりするほど固く強張って、こちらを睨み付けていた。
あ、あれ?なんか私、マズイ事でも言っちゃってた??

「…勝手に1人で、話を終わらせるな」
オスカーは不機嫌そうな表情を隠そうともせず、アンジェリークをじろりと見下ろした。
「セレナは確かに大人のいい女で、俺の古くからの友人でもあるんだが----俺はまだ、お嬢ちゃんに言った言葉を取り消したつもりはないんだぞ」
「私に言った……言葉?」
「そうだ、俺は君の恋人になりたいと言っただろう?」

アンジェリークの瞳が、びっくりしたように大きく見開いた。
堪えていた涙が、その翡翠の瞳をゆらゆらと揺らしている。
ああ、やっぱり綺麗な色だな、とオスカーはその瞳を覗き込みながら思う。

「え、だって…その言葉を取り消したくて、オスカーは私に謝ってたんじゃないの?」
「いや、違う。俺が謝りたかったのは、お嬢ちゃんを勝手に疑ったり、話も聞かずに追い返したり、無理に抱こうとした事だ。…本当にすまなかった。都合のいい事を言うようだが、許して欲しい」
「そんな、オスカーは何も悪くないわ!疑われるような事をしたのは私のほうだし。家に上がり込んだのだって、私の意思でやったんだから!」
勢い込んで一気にそう言ってから、アンジェリークは急にバツが悪そうに言葉を濁した。
「…それにオスカーの部屋に行った時、私のほうにもそういう期待が全くなかったとは、言い切れないし…」

真っ赤になって身体を縮こませたアンジェリークを見下ろしながら、オスカーはまた笑いだしたくなってしまった。
全くこのお嬢ちゃんは、正真正銘の正直者なんだな。
こんな馬鹿が付く程の正直さを疑っていたなんて、俺のほうこそいかに性根が捻じ曲がってたのかがわかろうってもんだ。

「あの朝、オスカーは私のアパートからジョッシュが出てきたのを見たんでしょう?あれは彼を泊めたんじゃないの。私が電話で別れ話を匂わせたら、彼が慌てて明け方にやってきちゃって、えーっとえっと、それを部屋の前で追い返して----」
「そこまでだ、お嬢ちゃん」
必死で話すアンジェリークの唇に、オスカーが軽く人差し指を当てて遮った。
「俺はもうお嬢ちゃんの事は何も疑ってないし、今は他の男の話も聞きたくないんだ。聞きたいのはただ1つ----さっきの電話が途中で切れた時の、お嬢ちゃんからの『告白』とやらだな」

そう言いながらオスカーが、電話ボックスの中に足をもう一歩踏み入れる。
それと同時に、彼の背後でドアが自然に閉まった。
つられるようにアンジェリークも後ろに一歩下がったが、すぐにガラス張りの壁に背中がぶつかり、動きが止まる。
電話ボックスの閉ざされた狭い空間が、いきなりオスカーの男の香りと熱に満たされたように感じて、アンジェリークは息苦しくなった。

「俺は君が欲しい。君の気持ちはどうなんだ、アンジェリーク?」

いきなり名前を呼ばれて、アンジェリークは呼吸すら出来なくなりそうだった。
信じられない思いと、信じたい思いとが頭の中をぐるぐると回っている。

こんなに上手く事が運んでしまって、いいんだろうか。
最初にオスカーに「愛してる」と告げた時は、ジョッシュと二股をかけていると誤解されて突き放された。
それでやっとの思いでジョッシュと別れ、その足で2度目の告白したと思ったら。
急に電話が切られ、今度こそ本当にふられたのだとガックリきて。
落ち込んで歩けそうもない自分を、必死の思いで奮い立たせ、ようやくここから立ち去る決心をしたというのに。
今度はオスカー本人から、目の前で『君が欲しい』と告げられた。

好きですって伝えたら、今度こそ受け止めてもらえるんだろうか。
でもまさか…夢オチなんて事はないわよね?
さすがの私でも、3回告白して全部ふられちゃったら、もう立ち直れないもの。

その考えに急に不安になって、アンジェリークは自分のほっぺをぎゅーーーっとつねる。
「痛たたっ!」
「おい、何をやってるんだ?」
1人で青くなったり赤くなったりを繰り返し、ついに奇行に走り出したアンジェリークを、オスカーが不審な顔で見つめていた。
「夢じゃないんだ…」
ひりひりと痛む頬を擦りながら、アンジェリークがぽそっと呟く。

ぼんやり立ちすくんだままのアンジェリークの肩を、オスカーが痺れを切らしたように掴んで揺さぶる。
「聞いてるのか、アンジェリーク?」
その声にアンジェリークもようやく、我に返った。
見上げると、オスカーが心配そうな顔をこちらに近付けていて。
そんな表情の彼を、すごく愛おしい、と思った。

オスカーがどうして、私みたいななんでもない女の子を恋人にしたいと思ってくれたのかは、わからない。
でも私は、オスカーが大好き。
彼を、愛してる。
だから何があってもこのチャンスを、逃しちゃいけないって事だけはわかる-------

アンジェリークはつま先立ちで伸び上がると、オスカーの首に両腕を回して縋り付く。
彼の肩越しに、満月が見える。
ああ、高層ビルの谷間の狭い夜空でも、こんな綺麗な月が見れるんだ。
都会にいようが田舎にいようが、オスカーの近くで見れるこの月が、きっと一番綺麗に違いない------

「オスカー、好き……」

月の魔法にかけられたように、アンジェリークが囁いた。

オスカーは最初、ちょっと驚いたような顔をして、それから嬉しくてしかたがないというような笑みを浮かべた。
ああ、この笑顔だ。
私が最も愛してる、この人の飾らない笑顔。

オスカーの笑顔が近づいて、見えなくなったと思ったら-----次の瞬間には、唇を奪われていた。
その口づけは、甘く優しく、味わうように長くたっぷりと時間をかけられて-----アンジェリークはホッとするのと同時に、またしても泣きたいような気分になった。
さっき泣いたのは、悲しかったからだとわかるけど。
幸せなのに泣きたくなるのは、一体どうしてなんだろう?

ようやく唇が離れても、アンジェリークはオスカーの胸に、しばらく顔を埋めていた。
確かな胸の鼓動を感じ、これが夢でない事を確認する。
逞しい腕が背中に回り、子供をあやすように優しく揺すられた。

「…ようやく俺の恋人になったな。1人の女にこんなに待たされたのは、初めてだ」
アンジェリークの金の髪に唇を押し当てながら、頭上でオスカーが嬉しそうに囁く。
その感触がくすぐったくて、アンジェリークも小さく笑いながら身を捩った。
それを逃さないとでも言うかのように強く抱きしめてくれる腕の感触が嬉しくて、アンジェリークは幸せな溜息をついてオスカーの胸に身を預けた。

「…ただいま、オスカー」

今頃思い出したとでも言うように、アンジェリークはふと呟いた。
頭の上でオスカーが、笑いながら「おかえり」と返してくれる。

唐突にアンジェリークは、今こそ自分のいるべき場所に戻ったのだと気付いた。
実家に帰った時でさえ感じなかった心休まる安堵感が、体内をひたひたと満たしていくのを感じる。

そうか、そうだったんだ。
ここが、私の求めていた居場所だったんだ。
故郷の街でもなく、実家でもなく-----愛する人の胸こそが、私の帰る場所。

オスカー、あなたのいる場所が私の故郷。
My Home Town-----なのだから。