Sweet company

8. Lovely Days (2)

「ちょっとやだ…何、これ~!?」

アンジェリークは鏡の前で、一人叫んでいた。
声が驚きと戸惑いとで、1オクターブ高くなっている。
「どうしよう、せっかく着替え終わったのに…これじゃあ外に出れないよーー!」

ここは、アンジェリークのアパートの1室。
オスカーのマンションから車で送ってもらい、着替える為だけに家へ戻った。
彼を車で待たせているので、ぱぱっと着替えたらすぐにまた車へ戻り、一緒に朝食をとる手はず…だった。

だから部屋に戻るとすぐにクローゼットの扉を開け、着ていく服を選んだ。
これからオスカーと朝食を食べに行くのだから、できれば少しお洒落な格好がしてみたい。
そうは思ったものの、そこにあるのは見慣れた垢抜けない服装のオンパレード。
いつも着ている地味なブラウスと野暮ったい長めのフレアスカート、それにジョッシュとのデートによく着ていった、リボンとフリルが大量についたブリブリピンクのワンピース。
アンジェリークはワンピースに手を伸ばしかけ、そしてすぐに引っ込めた。

オスカーの今日の服装は、ダークグレイのダブルのスーツ。
見るからに上質そうな綾織りの柔らかい生地で仕立てられたそれは、逞しい体躯を引き立てるようにシャープなシルエットを描き出していた。
クラシカルなイタリアンカラーのシャツに少し派手なシルクのタイを粋に結び、隙が無く決まっているその姿は、いかにも『仕事ができ』て『女の視線を虜にする』、大人の男という感じ。

そんな彼の横にいる女が、こんな少女趣味のぶりっこワンピースというのもナンだ。
私が傍観者の立場だったとしても「何なの、あの素敵な男性の隣にいる勘違い女は!」と思うだろう。
ましてやオスカーファンの女性達に見咎められたら、どんな嫌味を言われることか。

アンジェリークははぁ~っと落胆の溜息をつくと、渋々といつものブラウスとスカートを手にとった。
こっちも決してお洒落な服装とは言い難いが、それでも多少は大人っぽく見えるし、少なくともこれなら仕事をしているOLには見えるはず。
タイトなスーツを着こなすキャリアウーマンには見えなくとも、お茶汲み事務員くらいには見えるだろうから、彼の隣にいて浮きまくるという事態だけは避けられる。
諦めとともにブラウスに袖を通し、スカートの後ろのファスナーをぴっと引き上げた。

…よし、今度の休日には、ロザリアを誘ってショッピングに行こう。
彼女に相談し、お洒落な通勤着や、デートに着れそうな女らしいワンピースを選んでもらおう。
バッグや靴、アクセサリーもろくに持っていないから、それも一緒に買わなくちゃ。
ロザリアはいつも、自分に似合ったエレガントな服装に身を包んでいる。
彼女ならきっといいお店も知ってるだろうし、適格なアドバイスもしてくれるに違いない。

今までファッションに興味はあったものの、お金に余裕が無かったからろくにショッピングにも出かけた事がなかった。
たまーに買い物しても、選ぶのは無難で長く着れそうな物か、もしくはジョッシュが選んでくれた服ばかり。
自分らしさとかお洒落っぽさよりもとにかく『実用第一』、それが私の今までのファッションスタイル。
お陰でどんな組み合わせがお洒落なのかとか、何が流行りなのかが全然わからない。

でも今は一流企業の契約社員として充分すぎるほどのお給料を頂いて、生活にも余裕が出てきている。
今までは自分の為に自由にお金を使うなんて贅沢、考えられなかったけど。
ちゃんと私という人間の能力を認めてもらい、一生懸命働いて手にしたお金なんだもの。
少しは自分へのご褒美として使っても、バチは当たらないんじゃないのかな?

それに何より、せっかくオスカーの恋人になれたんだから。
少しでも彼と釣り合うような、素敵な女性になりたい。
誰もが振り向くような美男美女のお似合いのカップルになりたいなんて、そんな大それた事までは望んでないけれど。
せめてオスカーの隣にいて、不自然じゃない程度の女性にはなりたい。
彼に飽きられて捨てられる日を1日でも先延ばしする為にも、これからは自分を磨く努力もしていかなくちゃ。

アンジェリークは着替えが終わると、最後のチェックをする為に鏡に向かった。
服にシワや汚れはないし、地味だけど清潔感はある。
うん、まぁこんなもんだろう。

と、納得しかけたその時。
鏡に映る自分の姿に、奇妙なものを発見したのだ。
「ちょっとやだ…何、これ~!!」
そこで、冒頭のような叫びが起きた…という訳である。


首の真正面の目立つ場所に、『それ』はあった。
さあ見てください!と言わんばかりに、どーん!と存在する、赤紫色の痣。
そうこれは、昨日の情事の名残り。いわゆるひとつの『キスマーク』ってやつだ。

アンジェリークはそうっと顎を持ち上げて、首筋に目を凝らす。
なんと恐ろしい事に、キスマークはそれ1個ではなかった。

耳の後ろのほうから顎の下をつたい、首の筋を通って鎖骨の辺りに集中的に痕が付けられ、ブラウスの襟の奥まで点々とそれは続いている。
前ボタンを1つ外して見ると、キスマークは胸の谷間に続いているのがわかって、アンジェリークは真っ赤になってブラウスの前をかき合わせた。
オスカーの愛してくれた手順まで思い出すような、生々しい痕跡。
彼が胸元に舌を這わせていた映像がいきなり脳裏に浮かび、ブラウスの下で乳首がきゅっと立ち上がった。

…もう、やだっ、私ったら!!
甘い記憶に浸ってるヒマなんてない、こんなんじゃ会社どころか外も歩けやしないのよ?
今はこの痕跡をどうやって隠すかを、まず第一に考えなくっちゃいけないのに!
アンジェリークはぷるるっと首を横に振り、セクシャルな映像を頭から追い払った。
まだ心臓はドキドキと打ちつけているけれど、とりあえず今はそれどころじゃない。
冷やしたりすると痣は薄くなると聞いた事があるけど、そんな時間をかけてるヒマはない。
オスカーを外で待たせちゃってるんだもの、一刻も早くどうにかしなくちゃ!

必死で頭を巡らせ、結局お化粧で隠そうという結論に達した。
化粧台をがちゃがちゃと漁り、手持ちの化粧品で使えそうなものを探す。
出てきたのは、いつも使ってるお粉、それとサンプルで貰ったまま使ってないリキッドファンデ。
たったこれだけだけどしょうがない、とにかくこれでどうにかしよう。

アンジェリークは小さなチューブからリキッドファンデを指にとり、慎重に痣の上に擦り付けた。
一度塗りではうまく隠れないので、乾いてから二度、三度と指で叩く。
うん、ようやく目立たなくなったかな?
アンジェリークは少し鏡から離れて、全体をチェックした。
しかし、何かがおかしい。

たしかにキスマークは目立たなくなったが、今度はファンデの色が首と合ってなくて、濃いベージュの水玉模様が、まだらに首に飛び散っているように見えるのだ。
そこで今度は、首全体にリキッドファンデを薄く重ね塗りし、上からいつものお粉をはたいてみた。
それで水玉模様は消え、ようやく首筋には何もない状態が出来上がった。

もう一度鏡で全身をチェックすると、妙に首だけが厚化粧なのが気になったが、とにかくキスマークは見えなくなった。
オスカーと釣り合うような素敵な女性になると決意した直後なのに、首だけ厚化粧の自分はいつもに増して垢抜けなくて悲しい。
でも今は、これが自分にできる精一杯だ。

…よし、週末には化粧品も買って、ちゃんとしたお化粧の方法もロザリアに教わろう。
アンジェリークは頭の中のショッピングリストに、「化粧品」の項目を付け加えた。
もちろんその中には「カバー力があって自然に見えるコンシーラー」も入っていたのは、言うまでもない。

「あ!もうこんなに時間が過ぎちゃった、急がなくちゃ!!」
アンジェリークはハンドバッグを掴み、大慌てで部屋を飛び出した。


アパートを出ると、オスカーは銀色の車体に寄り掛かるように立っていた。
アンジェリークの姿を認め、笑みを浮かべて小さく手を振ってくれる。
「ごめんなさい、お待たせ!」
手を振りながら、小走りに彼の元へと急いだ。

しかしどうした訳か、上手く走れない。
もっと急ぎたいのに、気持ちと裏腹に足が全然前に進んでいかないのだ。
太ももの間に大きな何かが挟まってて、脚がうまく閉じられないような、変な感じ。

この足の間の異物感には、覚えがある。
そうだ、確か…ジョッシュとの初体験の次の朝も、こんな感じでうまく歩けなかった。
でも処女を喪失した次の朝は、異物感というより不快感がひどくって、歩く度にずきずきする痛みを我慢しながら、そろそろと摺り足で歩いていた記憶がある。
それに比べると、今朝のこの異物感は痛くはないし、不快な感じも全くない。
なんて言ったらいいのか、オスカーの一部が、体内にまだ残っているような感じだ。

…オスカーが、まだ残ってる???

自分で考えたその内容に、思わず動揺してしまった。
狼狽えて右手と右足が揃って出てしまい、余計に前に進まなくなる。
しかもオスカーがそんな自分をじっと見つめているのに気付いてしまったものだから、脚の間が痛みとは違った意味でずきずきと脈打ち始めた。
意識が足の間に集中してしまって、全身がかぁっと火照っていく。

よたよたしながらも必死で足を前に送り続け、ようやく車に辿り着く。
オスカーがさっと腕を出して身体を支え、助手席のドアを開けてくれた。
座席に座ると、異物感がようやく和らいで、少し楽になった。

オスカーが運転席に乗り込みながら、心配そうに顔を覗き込んできた。
「どうした?少し遅かったから、心配してたんだが…」
その時彼の目線が顔から首へと移動し、いきなり険しくなった。
「おい、なんだ?その首は」
「へ?首??」

あれ、ちゃんとキスマークが隠れてなかったのかな?
アンジェリークは咄嗟に首筋に手をやり、それからフロントガラスの上にある日除けを下ろして、その裏についている小さな鏡で首をチェックした。
別に、どうって事はないように見える。
…首だけ厚化粧なのを覗けば。

「首だけファンデを塗ったんだけど、やっぱおかしかったかなぁ」
「首だけ?なんでそんな事をしたんだ」
驚いた事に、オスカーはムッとしていた。
な、なんで彼は怒ってるの?
や、やっぱりこんな首だけ厚化粧の女なんて、横にいられるのも恥ずかしいんだろうか?

「だ、だって…キ、キスマークが目立つところにばっちり付いちゃってたから…」
アンジェリークはもごもごと小さな声で言い訳をした。
「目立つように、わざと付けたんだ」
「え…」
「…まあいい。他にも方法はあるさ」
オスカーはぶすっとした顔のまま前に向き直り、アクセルを踏んで車を発進させた。

他の方法?一体オスカーは、何の事を言ってるんだろう?
アンジェリークはそろっとオスカーの横顔を盗み見た。
運転するオスカーはもう既にサングラスをかけてしまっているので、その表情の全ては伺いしれない。
だけどもう怒ってるような空気は微塵も感じられなくて、アンジェリークはホッと胸を撫で下ろした。
何だかわからないけど、少なくともこの話は彼の中ではもう終わっているようだった。
その証拠に、彼はいきなり普通の口調で、話題を変えてきた。

「そういえばさっき、お嬢ちゃんは歩き方がおかしかったな。やっぱりどこか、身体が痛むんじゃないのか?」
聞かれた途端に、忘れかけていた脚の間の異物感を思い出した。
またしても太ももの間がむずむずしだして、アンジェリークは居心地悪げにお尻をもぞもぞと動かした。

「筋肉痛か?それともどこか捻ったのか?すまない、もっと気をつけてやれば…」
心配そうなオスカーの口調に、アンジェリークは慌てた。
「ううん!そんな、別にどこも痛いって程じゃないの、そんなに心配しないで!」
「だが、歩いてる姿がかなり辛そうだったぞ。俺の前だからって無理しなくていいから、正直に教えてくれ」

正直に。
そう言われても「オスカーのあそこが、まだ脚の間に挟まってるみたいなんです」なんて、言えっこないじゃない!
さっきからおかしな事ばっかり言って失笑を買ってるんだもの、せめて少しは恋人らしいマトモな会話がしたいのに。
どうしよう、なんて言ったらいいのかな?
大体わたし、そんなに心配されちゃうくらい、おかしな歩き方をしてたのかしら??

アンジェリークは、歩く自分の姿を思い浮かべた。
脚がちゃんと閉じられなくて、確かこう、ペンギンのようによたよたと…
その情けない己の姿の映像に、ガク然とする。
オスカーが信号待ちで停車し、心配そうにこちらを見つめている視線を感じたら、余計に恥ずかしくて顔が上げられなくなった。

俯いたまま、消え入りそうな声で呟く。
「…私、そんなにすごいガニ股だった…?」

オスカーは一瞬、アンジェリークが何を言ってるのか理解できなかった。
返事も忘れて唖然と固まり、信号が青になった事にすら気付かない。
後方からクラクションを鳴らされて、慌ててアクセルを踏み込む。
他人から運転の不注意を警告されたのなど、車に乗るようになってから一度もやられた事のない失態だ。
だがそんな事すら気にならないほど、アンジェリークの発言に心底驚かされていた。
身体が痛いかと聞いただけなのに、一体どこをどうすれば、ガニ股って答えに繋がるんだ?

オスカーは運転しながら必死で考えを巡らせ、そして1つの答えに突き当たった。
まさか、これなのか?しかし…
その答えの意味するものに、自分でも可笑しくて口元に笑いがこぼれだす。
しかしアンジェリークは、その笑いが自分のガニ股歩きに向けられたものだと誤解してしまった。

「やっぱり、そんなにひどかったんだ…もぅ、恥ずかしい~」
アンジェリークは俯いたまま、泣き出しそうな顔になった。
「お、おい、お嬢ちゃん」
「オスカーもこんなガニ股女となんか、一緒に歩きたくないでしょう?もう朝食の約束は、キャンセルしてくれていいから…」
「ちょっと待ってくれ」

オスカーは、道路脇のパーキングメーターに車を滑り込ませた。
左側にはスモルニィ社が見え、アンジェリークの座っている歩道側には洒落たオープンスタイルのカフェが見える。
ハンドブレーキを引いて素早くシートベルトを外すと、上半身を倒してアンジェリークの顔を覗き込んだ。
だが、彼女は俯いたままでこちらを見ようともしない。

「…お嬢ちゃんは別に、ガニ股なんかじゃなかったが」
笑いを堪えながら、子供をなだめるようにできるだけ優しく語りかける。
「え…?」

その声に、アンジェリークがぱっと顔をあげる。
金色の髪に隠れていた真っ赤な顔と、涙で滲んだ緑の瞳がオスカーの前に現われる。
赤に緑に金色。
まるで派手な信号機みたいだな、と考えて、また笑いそうになった。

女性に対しては花に例えるなど、常に甘い褒め言葉を囁いてた俺が、よりにもよって恋人を「信号機」呼ばわりするとはな。
でも、実際すぐにくるくると表情の変わる彼女は、目の離せない信号機そのものだ。
しかも驚いた事に、俺はその信号機を眺めて「可愛い」とも感じてる。
どうも彼女といると、調子が狂う。とうとう俺も、焼きが回ったか?

アンジェリークはすぐ近くにあるオスカーの笑顔にどぎまぎしながら、なんとか言葉を口にした。
「だ、だって…私の歩き方…おかしかったんでしょう?」
「ああ、ちょっとギクシャクしてたかな」
「だから…」
オスカーは可笑しそうに口元を上げてにやにや笑いを浮かべていた。

「そんなに俺のは、大きかったか?」

「…へっ?」
アンジェリークは間の抜けた声を出した。

「ガニ股になった感じがするほど、大きな感触が残ってるんだろ?」
「!」

言い当てられて、アンジェリークは全身の毛穴から火を吹き出したように真っ赤になった。
オスカーは笑いながら身を乗り出し、固まって動けないアンジェリークのシートベルトを外してやる。
「お嬢ちゃんの歩き方は多少ぎこちない程度で、他人から見ておかしいほどじゃない。それに俺は一緒に歩きたくないどころか、今の発言で逆にいい気分にさせてもらったくらいだから」

そう、男って生き物は、たとえ嘘でも恋人にサイズの事で誉められるのは悪い気がしないものだ。
馬鹿馬鹿しいと言われようが、それが絶対的な真実なのだからしょうがない。
ましてや言葉よりもはっきりと、態度で『大きい』と認めてもらったんだぞ?
もともと自信はあったほうだが、今ので完全に鼻が高くなってしまった。
これで自信満々になるなと言われるほうが、無理な相談ってやつだ。

鼻歌さえ出そうなほどいい気分になったオスカーは、まだ動けないアンジェリークを置いて車を降り、外に回って助手席のドアを開けてやる。
「だから朝食は、予定通り一緒に取ろう」
手を差し伸べたが、アンジェリークは完全に思考が停止しているようで、身動き1つしない。
オスカーはしょうがないな、というように肩を竦めてから、身を屈めてアンジェリークを車から抱きおろした。
そのまま地面に立たせてから、腰にしっかり腕を回して身体を引き寄せてから歩き出す。
アンジェリークはオスカーにぴったりと密着したような格好で、引き摺られるように歩いていく。
すれ違う人々が、朝っぱらからべったりくっついたカップルに好奇と奇異の視線を向けてくる。

「オ、オスカー!ちょっと、くっつき過ぎじゃないの?」
ようやく正気に戻ったアンジェリークが、両腕でオスカーの身体を突き放す。
だがその抵抗も、腰に回されたオスカーの腕で軽々と引き戻されてしまった。
「こうやっていれば、お嬢ちゃんがぎくしゃく歩いてるのも目立たないだろう?」
そう言われてしまっては、アンジェリークは言い返す事も出来ない。

そのままオスカーは、目の前の洒落たオープンカフェに入っていった。
歩道に面したオープンテラスのど真ん中、一番目立つテーブルに席を陣取る。
目の前を歩く会社員やOL達が、こちらをチラチラ見るのでアンジェリークは落ち着かない。
しかしオスカーは堂々としたもので、顔見知りの人間でもいるのか、時折歩道に向かって笑顔で手を上げて挨拶すらしている。

店内は朝だというのに結構な混雑ぶりで、しかもそこにいる女性のほとんどがオスカーに熱っぽい視線を送り、それからアンジェリークに冷ややかな一瞥を向けてくる。
歩道からの視線と店内からの視線。その両方に晒されて、アンジェリークは生きた心地がしなかった。

「御注文は?」
「俺はイングリッシュ・ブレックファストのセットにカプチーノで。お嬢ちゃんは何にする?」
「あ、じゃ、じゃあ、私もそれで…」
アンジェリークは上の空で注文を終えたが、緊張で身体が強張っている。
対するオスカーは運ばれてきたカプチーノを悠々と口にし、脚を組んで背もたれに身を預け、すっかり寛いだ様子を見せていた。

1人、また1人。歩道を歩いている人物が、オスカーに会釈する。
中には、アンジェリークの見知った顔もあった。
「あれっ?今の女の人、どっかで見た…」
「ああ、うち会社の受付嬢だ」
「ええっ?スモルニィ社の人なの?」
「彼女は『スピーカー』って呼ばれてるくらい、噂話が好きなんだ。たぶん今日の夕方までには、俺とお嬢ちゃんの朝っぱらのデートが会社中に知れ渡ってるだろうな」

きょ、今日中に知れ渡ってる、ですって?
アンジェリークは真っ青になった。
今こうして視線に晒されてるだけだって緊張するのに、明日にはもう会社中の人間が、私達の仲を知ってしまうなんて!
なのにオスカーはと言ったら、慌てるどころかむしろ満足げにさえ見える。

「…つまり、今日中には俺にやり捨てられたなんて無責任な噂は消えて無くなる。安心しろ」

アンジェリークは驚きに目を見張った。
オスカーの手がすっとこちらに伸び、首筋にかかる金の巻き毛を弄ぶ。
「俺としては、ここに付けた所有の印で噂を消してやりたかったんだが。まあでも、お嬢ちゃんが恥ずかしいんだったらこれでいいさ」
こちらを見つめる彼の瞳が、驚くほど優しく見えた。

オスカーは、私を恋人として大切にしてくれているんだ。
それも、私が想像していた以上に、ずっと-------

オスカーの顔が近づいてきて、触れるような軽いキスが降ってくる。
喜びに、胸がじぃんと熱くなった。
会社の前で、しかも人前でのキスだというのに-----

もう周りの視線など、全く気にならなくなっていた。