Sweet company

8. Lovely Days (3)

オスカーとの朝デートの宣伝効果は、絶大だった。

「ねぇねぇ、聞いたヨ聞いたヨ!アンジェったら、オスカー部長と朝っぱらからそこのカフェでベタベタしてたんだって?」
まず出勤した途端に、耳聡いレイチェルが寄ってくる。
「ず、随分情報が早いのね…」
「モッチロン!ライバルの情報収拾も、コンテスト戦略の大切な一部なんだからネ!」

鼻高々なレイチェルの声を聞き付けて、コレットとロザリアもやってくる。
「えぇー、なになにぃ?アンジェったら、ついにオスカー部長とおつき合いする事になったのぉー?」
「やっぱりね、あの方の事ですから遅かれ早かれこうなるとは思ってましたけど」
「ネネネ、どっちから告ったの?やっぱアンジェから?」
「違うよぅ、レイチェル。オスカー部長って、アンジェを狙って強烈にプッシュしてたじゃない。ぜーったいに部長から告白したんだと思うよー」
「あっ、そっか!じゃあさじゃあさ、オスカー部長ってどんなセリフで告るワケェ?」
「そりゃあやっぱり、『エメラルドの海のような、君の瞳に溺れそうだ…』とかかなぁ?」
「ギャーハハ!コレットったらいくらオスカー部長がプレイボーイだからって、今どきそんなセリフを使う訳ないジャン!」
「でもあの方は、いかにも女性に対して歯の浮くような台詞とか言いそうですもの。コレットの言い分も、あながち間違いじゃないんではなくて?」

「あ、あのぅ、みんな…」
アンジェが口を挟むヒマもなく、たちまち工房は女3人のかしましい声で賑やかに彩られる。
「ところでレイチェルー、朝っぱらからベタベタって、一体どんな感じだったのぉー?」
「それがさ、キスよK・I・S・S!人前で堂々とブチューー!としてたらしいんだな、これが」
「んまぁ、人前ですって?あんたったらよくそんな恥も外聞もなく…」

「ちょ、ちょっと待って!」
アンジェリークはようやく会話に割って入る事ができた。
なんとかして早くこの話の暴走を止めないと、とんでもない事になりそうだ。

「そんな、ブチューっとなんてしてないわよ!…せいぜいチュッ、程度なんですけど…」
顔を赤らめながら抗議するアンジェリークに、先程までピーチクパーチク騒いでいた3人は、一斉に黙りこくる。
次の瞬間、レイチェルは大爆笑し、コレットはうふふ笑い、そしてロザリアは呆れたような視線を投げかけた。

「うふふ、なーんかアンジェに当てられちゃったなぁー。ご・ち・そ・う・さ・ま❤︎」
「全く、あんたも少しは人目というものを気にしなさいませ!」
「さ、これ以上ノロケられないうちにワタシも仕事の支度でもしよーっと!」

言うだけ言うと、3人は蜘蛛の子を散らすようにぱぁっと個室に消えていく。
ひとり残されたアンジェは、しばらくボー然としてから、ようやくハッと我に返った。
「あ、わ、私も仕事の準備をしなくっちゃ…」
独り言のように呟くと、慌てて自分の個室へと向かっていった。


4人はエプロン姿になると、再び中央の共有部屋に集合した。
「じゃあ今日の課題は、『モンブランとそれに合う飲み物』にいたしましょう。各自11時までに作り上げて、総務部のルヴァ部長をお招きして試食という流れで、よろしいかしら?」
「はぁーーい!」
「じゃあ、作業にかかりましょう」
すっかり4人のまとめ役となったロザリアの言葉で、一斉にお菓子づくりが始められた。
アンジェリークも材料を揃える為、くるりと皆に背を向ける。

「!」
その瞬間、アンジェを覗いた全員の空気が凍り付いた。
そんな雰囲気にも気付かず、当のアンジェリークはのんびりと備蓄庫から材料を取り出している。

「ちょ、ちょっと、アンジェ…」
「ん?」
ロザリアの声に、アンジェリークが無邪気に振り向いた。

「あ、あんたの、その…く、首ですけど…」
青ざめているロザリアを見て、アンジェも慌てて壁にかかっている鏡に自分を映した。
まさか隠したはずのキスマーク、もうお化粧崩れしちゃったんじゃっっ!!
しかし鏡の中の自分は、首が厚化粧なだけでキスマークは見えていない。
ホッとしてもう一度ロザリアのほうへ振り返ったが、今度は他の2人の様子もおかしい事に気が付いた。
コレットは、顔を赤らめて両手を頬に当て、「すご~い…」と溜息を洩らしている。
レイチェルはクスクスと可笑しそうに笑いながら「ヤバいよそれ、激しすぎー!」と首を指差している。

な、なんでみんな、私の首に注目してるの?
キスマークは、見えてないはずなのに!!

訳がわからなくて戸惑うアンジェに、ロザリアが近寄ってきた。
そのままアンジェの腕を掴み、ぐいぐいと個室へと引き入れる。
「あのオスカーって方は、全く…少しは遠慮ってものを、知って欲しいものですわ!」
腹立たしそうなロザリアに、アンジェリークは不安げに眉を曇らせた。

ロザリアは自分のロッカーから高級そうなシルクのスカーフを取り出し、アンジェリークの首に巻き付けた。
「お菓子づくりにスカーフもないけど、丸見えよりはマシよ」
「あのぅ…ロザリア…?」
いよいよ不安が隠せなくなったアンジェに、ロザリアは溜息混じりに笑いを洩らした。
「ああ、あんたは見えないのね。あのね、首の後ろ。蚊に刺されたような痕が、すごいわよ!」

アンジェリークは弾かれたように、ばっ!と両手を首の後ろに当てた。
調理前にポニーテールにして三角巾をつけたから、今はうなじが全部露出している。
そう言えば、首の後ろまでは気が回らなくて、お化粧もしてなかった…!

両手を首の後ろに回したままの格好で、アンジェリークは恐る恐る訊ねた。
「ロ、ロザリア~。その、痕って幾つくらい…」
「さぁ…正確にはわかりませんけど。『首全体がヒョウ柄模様』とでも言ったらよろしいかしら?」

ひ…ヒョウ柄模様ぅ~???
アンジェリークの頭の中に、身体にフィットしたセクシーなヒョウ柄のドレスを着た自分の姿が浮かび上がる。
…全然似合ってないわ。って、そうじゃなくて~!!!!

頭の中のヒョウ柄ドレス姿の自分は、突然背中のジッパーを下ろすと、いつものブラウスとスカートに着替えはじめた。
ようやく着替え終わると、脱いだヒョウ柄のドレスを手に取り、ジョキジョキとはさみを入れていく。
切り取ったサロンパス大の四角い布キレを、ポニーテールの首の後ろにぺたん、と張り付け、そのままの姿で平然とお菓子を作り出した。

その滑稽な姿を見ていたら、恥ずかしいやら情けないやらで、泣きたくなってきた。
顔を赤らめたり青ざめたりを繰り返すアンジェリークに、ロザリアが「同情しますわ」とでも言いたげな表情を向けていた。


……とりあえず、見られてしまったものはしょうがない。
アンジェリークは覚悟を決めると、ロザリアのスカーフを首に巻いたままお菓子づくりを開始した。
最初はコレットとレイチェルの視線を背後に感じて恥ずかしかったけど、すぐに全員がお菓子づくりに没頭し始めたので、さほど気にもならなくなった。
アンジェリークも次第に自分の手元と、頭の中に思い描くお菓子だけに神経を集中させていく。

今日のテーマに選ばれた『モンブラン』は、どこのケーキ屋さんに行っても必ず出会えるくらい、普遍的な人気のある定番のお菓子だ。
一見シンプルだけど、その実とても奥が深くて、作りがいがある。

まず、主役となる『栗』。
産地によって味も色も大きく違うから、まずは自分がイメージしたモンブランの全体像に合わせ、どんな栗を使うか決める。

そしてベースとなる『土台』部分。
タルトやスポンジ、サブレを使うのが一般的だけど、カリカリのメレンゲやダクワーズを使う事もある。 上に乗せる栗やクリームを引き立てて、尚かつボリュームを支えて食べやすくする為にも、ここの選択は重要だ。

そして『マロンクリーム』。
細い麺状のクリームが一般的だけど、パテ状にして塗るタイプや、粒状にして食感を生かすもの、ダイナミックにフェトチーネのような太い平麺状にして絞ったりと、ここが一番パティシェの個性が出る勝負どころ。

アンジェリークは目を閉じて頭の中でイメージを浮かべる。
やがて幾つかのイメージが頭に浮かび、その中で今の気分に一番、近いものを選ぶ。
それがアンジェリークの、いつものお菓子づくりのやり方だ。

うん、決めた。
アンジェリークはぱちりと目を開けると、イメージに沿って作業に取りかかる。

工房は、あっという間に不思議な静けさに包まれる。
全員が口もきかずに作業に集中し、聞こえてくるのは泡立て器のリズミカルな音や、かちゃかちゃと器具が触れあう音だけ。
でも静かな緊張感が漂いつつも、ここは決して息詰まるような空間ではない。
甘い香りと、パティシェ達の夢がたっぷり詰まった、優しく暖かい世界なのだから。

「ルヴァ部長がいらっしゃいましたわ。皆さん、作業はここまでにして、試食の準備にかかってくださいませ」
ロザリアの声に、夢から現実に引き戻された。
奥にあるダイニングの一角に設えられたテーブルに、それぞれが腕によりをかけたお菓子と飲み物を持ち込む。

「ああー、これは素晴らしい眺めですね。今日は皆さんにお招きしていただいて、私もとても楽しみにしていたんですよー」
穏やかな瞳の男性が、にこにこと微笑みながらテーブルにつく。

このルヴァと言う男性は、一見のんびりしているが、実は大変な博学の持ち主で、長く専門分野の研究室長を務めていたという。
もちろん製菓関係にも精通しており、その幅広い知識はパティシェ達の素材選びから製法に至るまで、あちこちで役立てられている。
現在は総務部の部長であるが、ここ数年のうちに幹部の仲間入りをするだろうと噂されている程の、スモルニィ社の重要人物だ。

「それではまず、わたくしからお願いいたします」
ロザリアが前に歩み出て、優雅な仕種でモンブランと紅茶をサーブする。
白いメレンゲベースのモンブランは、生クリームが多めの淡い色合いのマロンシャンティーがゆるめの麺状に絞られ、トップにラム酒のきいたマロングラッセが乗っている。
いかにもロザリアらしい、エレガントなお菓子だ。

「全体に雪のような美しい色合いで、これぞまさに『Mont Blanc(白い山)』という感じですねぇ」
ルヴァは頷いてからフォークで丁寧に端を崩し、断面をしげしげと眺めてからゆっくりとお菓子を口に含んだ。
「うーん…これは、フランス産の栗ですか?ラム酒がしっかりきいていて、贅沢で上品な味わいですねぇ。ただ合わせる紅茶は、もう少しスッキリしていたほうがモンブランの香りがより引き立つと思いますよ。まぁこれは、あくまで私個人の意見ですけどねー」
ゆっくりと噛み締めるように味わいながら、論理的で的確な批評を展開していく。

ルヴァが全員のお菓子を一通り試食すると、今度は女性陣の試食会だ。
互いのお菓子を試食しあい、活発に批評や意見を交わす。

コレットのお菓子は、和栗のほっくり感を生かした、ふくよかな味わい。合わせる飲み物も緑茶ベースのティーオレにするなど、『和』テイストにこだわって優しい味わいに仕上げている。
レイチェルは、見た目も味もモンブランのイメージを覆し、インパクトがある。ベースのメレンゲもマロンクリームもココアをきかせた濃厚な味と色合いで、その上に脂肪分の高い生クリームをパテでシャープに塗り付けてあり、都会的なスタイルのお洒落なスィーツと言った趣だ。

対するアンジェリークは、一見して正統派のシンプルなモンブラン。
でもひと口含むと、豊かなラム酒と栗の香りが広がり、次の瞬間すぅーっととろけていく。
バターたっぷりのマロンクリームと、中に詰められた口どけの良いクレーム・ディプロマット、ベースのふんわりしたダクワーズ生地のバランスが絶妙で、素材の持ち味が最大限まで引き出されている。

「うーん、迷いますねぇ。皆さんどれも素晴らしい出来映えだとは思いますが…私はミス・リモージュのモンブランが、ずっと食べたくなるような味わいで、いいと思いますよ」
ルヴァの賛辞に続き、皆も口を揃えてアンジェのお菓子を絶賛した。
「うーん、確かに!これはアンジェに1本取られたかもネ」
「優しくて、懐かしい感じがするよね?子供の時に初めてモンブランを食べた時のあの感動が、蘇っちゃったよぅー」
「奇をてらってないけれど、だからこそ素材の美味しさが一番しっかりと表現されてますわよね」

アンジェリークは皆の褒め言葉を、少しくすぐったいような、誇らしいような思いで聞いていた。
今までなかなか自分の思い通りのお菓子が作れなくて悩んでたのに、今日になっていきなり、思い通りのお菓子が作れてしまった。
ううん、それどころか、実力以上のものが出せてしまったみたい。
モンブランはもともと得意なお菓子だったとはいえ、やっぱりこれは…オスカー効果なのかも。

恋愛がうまくいってると、全ての感覚が鋭敏になるし、イメージするお菓子も優しく生き生きしたものになる。
自分の中に自信が溢れてて、何をやっても上手くいくような気もする。
心のバランスが取れてるから、作り出すお菓子にもそれが反影されていくし。

恋のパワーのすごさを実感すると同時に、なんだか恐くもなってくる。
私は恋に左右され過ぎなんじゃないだろうか?
今はいい。こうして幸せの最中にいるのだから。
でも、オスカーに飽きられて、捨てられる日が来てしまったら?
それが、コンテスト直前とかだったら?
こんなに恋に左右されてしまってる私が、果たしてきちんとしたお菓子を作り上げられるんだろうか…。

「そろそろ昼メシに行かないか?」
「ひゃあぁっ!?」
ぼんやり考え事をしていたら、いきなり耳元で囁かれて驚きに飛び上がった。
慌てて振り向くと、オスカーがすぐ後ろに立っていた。
辺りを見回すと、いつのまにかテーブルにはアンジェリークしか残っていない。

「オ、オスカー?いつからここに…?」
「試食会の終盤あたりからかな。もう他のみんなは、食事にいったぜ。何やら考え込んでいるようだったが、気になる事でもあったのか?お嬢ちゃんのお菓子は、全員に絶賛されてたじゃないか」
「あ、うん…。今までずぅっと納得いくお菓子が作れてなかったのに、急に上手くいっちゃったから…」
アンジェリークはそこで、言葉を濁した。
オスカーに捨てられたら、なんて考えていたとはさすがに言えないからだ。

「これがお嬢ちゃんの作ったお菓子だろ?」
オスカーは並べられた4つのお菓子から、アンジェリークの作ったモンブランの皿を指し示した。
「うん」
「ひと口、貰うぞ」

オスカーはモンブランをひとかけらフォークに取ると、ぱくりと口に放り込む。
その瞬間、切れ長の青い瞳が、驚いたように見開かれた。
「…これは、本当に旨いな」
「…ほんとう?」
「ああ、俺は甘過ぎるお菓子は苦手だから、本来モンブランはあまり得意じゃないんだが…こんなに旨いと思ったのは初めてだ。本当に素晴らしいお菓子なら、甘さは関係ないものなんだな。これは恐れ入ったぜ」

オスカーはもう一度フォークを皿に伸ばしかけ、そこで思い直したように手を止めた。
「もっと食べたいが、これは食事のあとの楽しみにとっておこう。何かに包んで、持っていってもいいか?」
「あ、うん。ちょっと待ってて」
アンジェリークは立ち上がり、奥の棚からお菓子用の小さなパックを取り出す。
パックにお菓子を詰めるアンジェリークを見ながら、オスカーは呟いた。

「しかし、昼食の前にお菓子の試食会とはな。いくら旨いお菓子とはいえ、俺はやはり食前は遠慮したい」
「甘いものは、別腹なんです」
「女性はよくそう言うよな。だが4人分のお菓子を食前に食べるのは、さすがに信じ難い」
オスカーが苦笑する。

パックに詰めたお菓子をはい、とオスカーに手渡しながら、アンジェリークは上目遣いに悪戯っぽく微笑んだ。
「じゃあ今度の昼食前の試食会は、オスカーを呼んでもらおうかな」
「おいおい、勘弁してくれよ」
「だってオスカーも立派なコンテストスタッフの一員なのよ?大丈夫、う~んと甘いお菓子の時に呼んであげますから」
本気でげんなりした表情の彼を見て、アンジェリークはくすくすと笑った。


---◇---◇---◇---◇---



アンジェリークがオスカーに連れていかれたランチの場所は、社員用の食堂。
社食に足を踏み入れた途端、女性社員の視線が一斉にこちらに降り注ぐ。
オスカーと一緒にいると毎回こうなのだが、いつまでたってもこれには慣れない。
アンジェリークは背中を丸め、なるべく目立たないようにこそこそと端を歩いたが、すぐにオスカーの隣にぴたりと引き寄せられてしまった。

どうやら彼は、私が恋人になったと徹底的に宣伝するつもりらしい。
まるで見せびらかすように堂々と私の腰に手を置いて、ゆっくりと混雑した人波をかき分けていく。

(やっぱりあの子、噂どおりオスカーの恋人になったのかしら?)
(きーーーっ!なんであんな子が?)
(でもあんなにくっついて、ちょっとうらやましいかも…)

ランチを買っている時も、歩いている間も。
ずうっとそんなひそひそ声が、ざわめきに交じって聞こえてくる。
でもアンジェリークがいたたまれない気持ちになる度に、オスカーが明るく話しかけて気を紛らわせてくれる。
お陰で席につく頃には、好奇の視線も噂話もあまり気にならなくなっていた。


ランチを食べ終え、アンジェリークの作ったモンブランとコーヒーを口にしながら、すっかりリラックスした様子でオスカーが口を開く。
「うん、やっぱりこのお菓子は絶品だ。スモルニィ社にスカウトされるくらいだから、お嬢ちゃんも菓子職人として一流なんだろうとは思っていたが…たいしたもんだな」
「うふっ、オスカーにそう言ってもらえると嬉しいな。そういえばこっちに来てから納得のいくものが全然出来なかったから、オスカーにもお菓子を食べてもらった事はなかったのよね」
「ああ、これだけ旨いなら毎日でも食べたいくらいだから、差し入れに来てくれよ。俺の部署の人間にも配ってやりたいから」

彼が本気で美味しいと思ってくれているのが、言葉の端々から伝わってきて、アンジェリークは嬉しくなる。
「うん、じゃあ今度から上手に出来たら持っていくね!よーし、もっといいものが作れるように、頑張らなくちゃ!」
満面の笑みを浮かべるアンジェリークを、オスカーは眩しそうに目を細めて見つめてくる。
「…お嬢ちゃんは本当にお菓子づくりが好きなんだな。ちょっと妬けるぜ」
「え?ええ?」
真っ赤になるアンジェリークを見て、オスカーがクスリと笑った。

「ところで話は変わるが、よく前の恋人とはすんなり別れられたな。あいつはお嬢ちゃんにベタ惚れっぽかったから、もっともつれるかと思っていたが」
急にオスカーが真面目な顔に戻ったので、アンジェリークも神妙な面持ちになる。
「…うん、私もちょっと意外だったけど。実は彼、浮気してたのが発覚して…」
「あいつが浮気?信じられんな、お嬢ちゃん以外の女など目もくれなそうだったのに」

「でも私が、……だったから…」
「なんだ?聞こえないぞ?」
急に小声になったアンジェに、オスカーが身を乗り出してくる。
「ちょっとここじゃ、言いづらいんだもん…」

もじもじと下を向くと、いきなり前に座っていたオスカーが立ち上がった。
テーブルを回ってこちら側に来ると、どかりと隣の椅子に腰を下ろす。
驚くアンジェリークに向かってにっと笑うと、首を傾けて無言で自分の耳を指差してきた。

アンジェリークは諦めたように小さくふーーっと溜息をついてから、オスカーの耳元に顔を寄せた。
周りの視線が一斉にこちらに注がれている事を強く感じたが、オスカーは視線など慣れたもので、悠々とコーヒーを口にしている。
でもアンジェリークはやっぱり恥ずかしいので、手のひらで口元をしっかりと隠してから、できる限り小さな声で話しかけた。

「(…私がシティに来てから、一回もHさせなかったから、どうも彼、欲求不満だったらしくて…)」

オスカーは突然ブッと吹き出すと、口にしていたコーヒーを喉に詰まらせてむせ込んだ。
「きゃっ、大丈夫?!」
アンジェリークは慌ててオスカーの背中をさすったが、当の本人はげほげほと苦しそうに咳き込みながらも、何故か嬉しそうに笑いを浮かべている。
その笑いを見て、アンジェリークは訝しそうにオスカーを睨みつけた。

「…また私、何か変な事言った?」
「いや、お嬢ちゃんがおかしな事を言ったんじゃない。自分のバカさ加減に気がついて、笑ったんだ」
「オスカーのバカさ加減?」
訳がわからないといった様子で、アンジェリークはぽかんとしている。
そのきょとんと見開かれた瞳を間近に見て、オスカーは苦笑するしかなかった。

全く、俺は勝手に二股をかけられただの、お嬢ちゃんは遊んでるのかもと疑っていたというのに。
俺と知り合ってからは恋人に1回もセックスさせてなかったとは。
まいった、これじゃ彼女は潔白もいいところだ。

彼女といると、自分がいかに都会に染まって、汚れてしまったかを思い知らされる。
人を心から信じきれず、いつしか物事を斜めに見る癖ばかりが身についてしまって。
だがこのお嬢ちゃんといると、そんな汚れた自分が洗われていくような気分になっていく。

だから、もっと彼女を知りたくなる。
いろんな場面で、どんな風に彼女が過ごすのか。どんな風に笑うのか。
今までいった事のない場所に連れていき、俺の知らない一面を覗いてみたい。

「…そうだ、お嬢ちゃんとせっかく恋人同士になった事だし、それらしいムードのあるデートでもしたいな。いつも焼き鳥屋だの居酒屋だの、色気のない場所ばかりだったし」
突然のオスカーの提案に、アンジェリークもぱぁっと明るい表情になる。
「一度連れていきたかった店があるんだ。内装も洒落てるし、料理も1級品だし、何よりデザートが素晴らしい。ローズコンテストに入選経験のあるパティシェがいるんだ」
「ええー!行ってみたーい!」
アンジェリークの瞳が、キラキラと輝く。
「予約が結構大変なんだが、俺はコネがあるからいつでもいいぞ。なんだったら今日でもいいし」

アンジェリークは考え込んだ。
オスカーと、恋人同士として素敵なデートに行く。
それ自体はすっごく魅力的だし、本音をいえば今日にでも行きたくてたまらない。
でも、私はこんな地味な服装だし…せめて週末にお洒落な服を揃えてから、万全の体制でデートに望みたい。
せっかくの素敵なデートなんだもん、私も心から楽しみたいし、オスカーにもちょっとは私を綺麗だと感じてもらいたい。

「ねぇ、じゃあ今週末は?土曜か、日曜日」
「お嬢ちゃんがそうしたいなら、構わないが。だが俺は、週末まで待ちきれないな」
「ほら、私も旅行明けだし、今週はオスカーと2人で家でゆっくり疲れを取るのもいいかなーって。今日は、私が家で食事を作ってご馳走する!ね、どう?」

食事を作って、という言葉にオスカーが敏感に反応した。
「それも魅力的だな。お嬢ちゃんの手料理に舌鼓を打って、2人きりでのんびりするのも」
「じゃ、決まりね!食後はちゃんとデザートもつけるから」
「…もちろんそのデザートは、お嬢ちゃん自身なんだよな?」

からかうように付け足され、アンジェリークは真っ赤になってそっぽを向いた。
「それは、その時になってみないとわかりません!」
「はいはい、じゃあその時のお楽しみにとっておくよ」

社員食堂に、オスカーの笑い声が響いた。
その頃には周りの人間達も、あてられまくって馬鹿馬鹿しいとでも思ったのだろうか。
もう不躾な視線を送られる事もなくなっていた。