Sweet company

8. Lovely Days (6)

高層ビルの立ち並ぶ都心を抜け、リヴァーイースト方面へ。
2人の乗った車は高級住宅街、いわゆるアップタウンに入っていく。

重厚な門構えの豪邸が延々と続く街並を、アンジェリークは興味深々といった様子で眺めた。
街はどこもかしこも美しく整えられ、ゴミ一つ落ちていない。
住宅地に混じって高級スーパーや品の良いカフェ、ブティックなども点在し、犬を連れたお洒落なマダム達が買い物やお喋りを楽しんでいる。
会社のあるビジネス地区とも、活気のあるダウンタウンとも、アンジェリークの住む中流住宅地区とも全く違う、日常生活までもがゴージャスな地域。
なんだかここに普通に生活している人達がいるのが信じられない、映画のセットの中にいるような気分だ。

「もうすぐ着くぞ」
その声に視線を前に向けると、ひときわ大きな鉄製の門が目に入った。
門の前に車をつけると、守衛とおぼしき男性が近寄ってくる。
オスカーが名前を告げると、守衛は無線機でどこかに連絡を入れ、それから門がゆっくりと開いた。

(ここがその、レストラン?)
暗くなり始めた景色を前に、アンジェリークは目を凝らす。
が、どこにも店らしきものは見当たらない。
目の前に広がるのは、夜露にきらきら光る芝に覆われた、小さな山だけ。

(山?それともこれって丘かな?それよりも、肝心のお店はどこ?)
アンジェリークは不思議に思ったが、オスカーは慣れた様子でハンドルを切り、鋪装された細い坂を登っていく。
くねくねした山道の両脇には美しい樹木が整然と並び、斜面には様々な品種の薔薇が植えられて、スポットライトで照らされいる。
5分ほど山道を登っていたら、突然木々が途切れ、視界が開けた。
小さな山の頂上は円形の広い駐車場になっており、その奥に月明かりに照らされた大きな洋館のシルエットが浮かんでいた。
洋館の前には黒塗りのリムジンや高級車が数台停まり、お洒落なカップル達が吸い込まれるように館の中へと消えていく。

「ミスター・カークランド、ようこそ。お待ちしておりました」
館の前で車を停めると、ドアマンがさっとドアを開けてくれた。
車を降りながら、アンジェリークは緊張した面持ちで館を見上げた。

館はかなり古い建造物のようで、バラの蔦が這う石造りの外壁は、かなりの年月を感じさせる。
でも古さがみすぼらしさに繋がるようなところは全くなく、むしろ歴史と品格を感じさせるような重厚さに覆われている。
それでいて、来る人を拒絶するような威圧感は微塵も感じられなくて、友人の家に訪問したような気さくで暖かい雰囲気もある。

それは、この洋館が一見してレストランには見えないからだろうか。
どちらかというと上流階級の人が住んでいる、異国情緒に溢れた豪邸と言ったほうが相応しい。
商業的な装飾もないし、むしろ人が暮らしていた事を伺わせるような名残りがそこここに感じられる。
ドアの横に「Bacchus」と店名が書かれた小さなプレートがライトに浮かび上がっているのが、唯一ここがレストランである事を示す印となっているが、あれだって昼間見たらただの表札にしか見えないだろう。

館の中へと足を踏み入れても、その印象は変わらなかった。
広くて天井の高い玄関ホールといい、そこから各部屋へ続く廊下といい、隅々までプライベートな雰囲気に溢れた内装で、レストランに来たというよりホームパーティーに招待されたような錯覚すら覚える。
案内係の男性に続き、静かな廊下を奥に進むと、見事な楡の一本木のカウンターがあるウェイティング・バーやラウンジ、壁一面がワインセラーになった小部屋などが見えた。
壁にさりげなくかけられた絵画は、本物のマティスだろうか。
時代を感じさせる繊細なアンティークの照明や、飾り棚に並べられた陶器の人形コレクションも、恐らくコレクター垂涎の品々に違いなかった。

どきどきと胸が高鳴っていたけど、不思議と不安感はなかった。
高級なお店なのには違いはないけど、特に気後れもしていない。
もちろんオスカーが横にいてくれる安心感も大きいけど、彼が買ってくれたこのドレスが、自信を与えてくれている。
この場所や客層にぴたりと馴染んでいるのが自分でもわかるから、顔を上げて堂々と振る舞える。
心なしか、周りの客達から向けられる視線も、賞賛の色が込められているような気さえする。
まあこれは私に向けられた賞賛というより、オスカーに向けられたものかもしれないけど。
でも少なくとも、場違いだというような視線は、全く感じられなかった。

螺旋階段を登って2階に案内されると、そこがレストランスペースになっていた。
ワンフロア全てを使った広い空間は、中央部分が吹き抜けになって1階のバーが見えるようになっている。
ほぼ満席になってはいたが、空間を贅沢に使ってテーブルをゆったりと配置しているので、混み合っているような印象はない。

「うわぁ…!」
アンジェリークは席についた途端、窓からの夜景の美しさに、思わず歓声をあげた。
眼下には、先ほど通ってきた美しい緑の山が広がり、その向こうに、宝石のようにきらきら光るアップタウンの街並が見える。

「見事な眺めだろう?高層ビルに遮られずに都会の街並を眺められるのは、広い高台に位置するここくらいなんだ」
「うん、うん、こんな素敵な場所が、都心にあるなんて信じられない…!」
「元々は外国の大使が住んでいた洋館を、庭ごと買い取ってレストランに改造したんだそうだ。なんでも1世紀以上経ってる、貴重な建造物らしいぞ」
「へぇー、だから歴史も品格もあるのに、人が住んでるようなあったかみも感じさせるのね…」
夜景に負けないくらい瞳を輝かせ、アンジェリークはうっとりと溜息をついた。

「さっき登ってきた道を覚えてるか?車を入り口の門まで回してもらったから、帰りは酔い覚ましも兼ねて歩いて丘をのんびり下ろう。ここから見る眺めとはまた違った美しさがあるから、ぜひお嬢ちゃんに見せたいんだ」
「うわぁー、楽しみ!薔薇の咲き誇る夜道を二人で歩くなんてロマンティックよね。こういう大人のデートって憧れてたから、すっごく嬉しい!」
頬を紅潮させながら、興奮を隠しきれずにアンジェリークは満面の笑顔を向けた。

「アペリティフは、いかがいたしましょう?」
ソムリエの声にハッとして、アンジェリークはテーブルの上のワインリストを急いで手にとった。
しかし、ずらっと並んだワインの銘柄は、イマイチよくわからない。
その上、値段すら記載されていない。これじゃあ完璧にお手上げだ。

「これは…7年物のロワゾーか。珍しいな」
「はい、かなり濃厚な口当たりのフルボディで、貴重なバン・ナチュールです」
オスカーはソムリエと、宇宙語のような小難しい会話を交わしている。
どうやら彼は、ワインに関してはかなり詳しいみたい。
ならば飲み物は彼にお任せして、私は一足お先にお食事のメニューを見させてもらっちゃおうかな。

革表紙のメニューを開き、目を通した途端に大きな声が出た。
「あ!これ、めちゃくちゃ美味しそう!!」
オスカーがソムリエとの会話を中断し、こちらにちらっと視線をよこす。
「ご、ごめんなさいっ!私ったら場所もわきまえずに、大きな声を出しちゃって…」
あわあわしながら顔を赤らめると、彼は口の端を小さく上げてクスリと笑った。
「いや、全然構わないさ。それより、どれが美味しそうだって?」
「え、この、『真鯛のセビーチェ、ココナッツ&マンゴー風味』っていうのが…」
「ああ、確かに旨そうだ。これに合うワインはどれがお薦めかな?」
「こちらのセミニョン種の白はいかがでしょうか。酸がくっきりしていて輪郭がシャープですので、セビーチェとよく合いますよ」
「よし、それを貰おう」


ソムリエお薦めの白ワインが運ばれてきて、いよいよロマンティックな場所でのお食事がスタートした。
運ばれてくる食事はどれもほっぺたが落ちそうなくらいに美味しく、アンジェリークはオスカーも顔負けなくらいよく飲み、よく食べた。
「グリルド・ラムチョップ、レッドモーレ・ソース添えでございます」
「わあっ、これも美味しそう~!このソースって何が入ってるんですか?」
「4種類のスパイスと、チョコレートを使っております」
「へぇー、ラム肉にチョコ!意外な取り合わせね…うん、でも蕩けそうに美味しい~!」

アルコールの酔いも手伝って、アンジェリークは気軽に給仕係に話しかけ、感心したり目を丸くしながら食事を楽しんだ。
あっという間にワインのグラスが空き、2杯目は果実味の強い赤ワインが注がれる。
「うーん、ラムチョップとこのワインがまた、ぴったり!このお店って、料理も素晴らしいけどワインも負けないくらい美味しいわよね」
「ここのワインセラーは、銘品揃いで有名なんだ。店名の『Bacchus(バッキュス)』っていうのも、神話に出てくる葡萄酒の神の名前だしな」
「ふーん、葡萄酒の神様なんているんだ!なんだかビール腹に赤ら顔の酔っ払いおじさんを想像しちゃうなぁ」

くすくすと笑いながら、本当に嬉しそうにワインと食事を口に運ぶアンジェリーク。
それまで笑っていたオスカーは、急に真顔になって食事の手を止め、そんな彼女の口元をじっと見つめた。
強い視線に気付き、アンジェリークが顔をぽっと赤らめる。

「…もしかして、私の口に何か付いてる?」
恥ずかしそうに口元をナプキンで拭ったが、オスカーの視線は唇にぴたりと張りついたまま、剥がれない。
「いや、お嬢ちゃんの食べてる姿は、実に色っぽいなと思ってたのさ」
「色っぽい?私の食べ方が?」

アンジェリークはナプキンをテーブルに戻し、小首をかしげた。
特別に気取って食べたり、意識して色気を出そうとしてたつもりはない。
むしろリラックスして、いつもより食欲旺盛にモリモリ食べてただけのように思うんだけど。

「素敵な場所で、いつもよりお洒落してるからそう見えるのかなぁ?」
「それは関係ない。同じ場所で同じものを食べてても、食べてる人間によって食事の印象はがらっと変わるもんさ」
「…ふぅん、そういうものなの?」
不思議そうにきょとんと目を見開くアンジェリークに、オスカーは思わず苦笑する。

そう、どんなにいい女だと思っていても、食べている姿にがっかりさせられる事は結構多い。
汚い食べ方はもちろんだが、気取ってちょっとしか口をつけない食べ方や、ガチガチのマナーに気を取られて料理の味すら楽しんでないのは、勿体無いしつまらない。
食べるっていうのは人間の最も根源的な欲求だし、それなしでは人生が成り立たない行為なんだから、もっと自然に楽しんで食事をすべきだ。
だからアンジェリークのように食欲旺盛で、食べる行為を心から楽しめる人間は、生命力に溢れていて、見ているこっちまで気分が良くなる。
でもそういう食べ方ができる人間に限って、自分では全くそれに気付かないもんなんだろうな。

食後のデザートが運ばれてきて、アンジェリークの瞳が一層輝きを増す。
「スターアニスのシャーベットとチョコレートムース、アングレーズソース添えです」
きゃー、と小さな歓声を上げて両手を前で合わせてから、アンジェリークは早速スプーンをシャーベットに差し入れた。

可愛い唇が誘われるように開き、綺麗に並んだ白い歯がちらりと覗く。
ピンク色の小さな舌の上に銀色のスプーンが乗せられ、次の瞬間ぱくん、と唇が閉じる。
スプーンを含んだ口元が小さく動き、それからゆっくりと、閉じた唇を割ってスプーンが再び姿を覗かせる。
ひとかけも残さず味わうかのように、小さな舌がほんの一瞬上唇を舐め取る。
アンジェリークは満足そうに「うーん、幸せ…」と呟いて、うっとりと瞳を閉じた。

オスカーは魅入られたように、その一連の動きを見つめ続けた。
彼女の唇が擦りあうように小さく蠢いているのを見ただけで、口づけたくてくらくらと目眩がしてくる。
なのに当のアンジェリークはと言えば、そんなオスカーの感情に気付く様子もなく、デザートの素晴らしさに無邪気に感激し、夢中になって食べ続けている。

「…やっぱりレストランのデザートは、お店で売ってるものとは全然違う。あくまで料理の流れの一部になってて、食後の余韻を引き立ててるのよね。素晴らしいわ!」
デザートを綺麗に平らげた後も、アンジェリークの興奮はおさまらない。
「そんなに感激したんだったら、ここのスター・パティシェを紹介しよう」
オスカーは近くにいたボーイを手招きすると、「ミスター・メイスンを呼んでくれ」と告げた。
ボーイは一礼して奥のドアに向かい、程なくして奥から白いコックコート姿の長身の男性が現われた。

「ミスター・カークランド、お久しぶりです」
「元気そうだな、シン」
シンと呼ばれた東洋系の男性は、白い歯を見せて笑いながらオスカーと握手を交わす。

「彼はシン・メイスン、この店のデザート長を任され、ローズ・コンテストで入選した経験もある、有名な菓子職人だ。シン、彼女はアンジェリーク。今年のローズ・コンテストに出場予定の新進パティシェで、現在俺が夢中になってる恋人でもある」
オスカーの紹介を受けて、シンはにこやかに微笑んだ。
「よろしく、ミス・アンジェリーク。あなたのような若くて可憐なお嬢さんがローズ・コンテストに出るなんて、驚きですよ。さすがはカークランドさんだ、こんな美しくて才能溢れる女性を恋人にするとは」

「美しい」なんて言われたので、アンジェリークは頬を赤らめながら挨拶を返した。
シンはオスカーと同い年くらいだろうか、すっとした立ち姿に黒髪と黒い瞳が印象的な男性だ。
かなりのハンサムだけど、丸っこい瞳が愛玩動物のようで、親しみやすくてキュートな雰囲気もある。
オスカーほどではないにしろ、フェミニストそうだし、きっとこの人も女性にはもてるんだろう。

「あの、いただいたデザート、本当に美味しくて感激しました…!まわしたてのシャーベットやほどけそうに柔らかいムースは、レストランでしかいただけない贅沢さに溢れてて。パティスリー(菓子店)のお菓子がプレタポルテだとしたら、こちらはまさにひと品づつ手をかけたオートクチュールで、味わえて幸せでした。私もいつか、こんな素晴らしいお菓子を作ってみたいです!」
「ありがとうございます。ここではあくまで料理全体が一つの作品ですから、デザートが主張し過ぎないよう、それでいて他にない個性を出せるよう、日々努力と研究を重ねてるんです。おっしゃるようにレストランならではの特性を生かして、お客さま1人1人の我が儘を叶えるクチュール的なデザートづくりを目指しているんですが…どうしても、料理が主役でデザートは傍役と思われる方が多いのも事実です。だからあなたのようにお菓子をよく知っている、素晴らしい感性をお持ちの女性に食していただけて、私も光栄ですよ」

2人のやり取りを傍らで聞きながら、オスカーは何故か面白くない気分になった。
いかにデザートが素晴らしかったか夢中で語るアンジェリークは、興奮で頬が紅潮し、いつもよりいきいきと輝いて見える。
そんな彼女に賛辞の言葉を送られているシンも、普段とは明らかに態度が違っていた。
いつもなら客との間に一線を引き、丁寧だがどこかよそよそしいこの男が、今日に限ってやけに熱っぽい瞳で彼女を見つめ、会話を楽しんでいる。
お菓子を愛する者どうし、合い通じる物があるのはわかるのだが、シンの視線は客に対する物ではなく、気に入った女に目をつける男のそれに見えた。

「ご希望でしたら、今度厨房をお見せしますよ。レストランデザートは料理からインスパイアされる事が多いので、通常のお菓子づくりとは違った視点が得られるんです。普段は企業秘密ですから厨房はお見せしてないんですが、あなただったら特別にお通しします。いつでもこちらに連絡してください」
「本当ですか?嬉しい、是非伺いたいです!」
アンジェリークは目の前に差し出された電話番号入りの名刺を受け取ろうとしたが、オスカーがそれを横から取り上げた。

「おいおい、俺の恋人をお菓子で釣らないでくれないか」
口調こそ冗談めかしていたし、一応笑顔を浮かべてもいたけれど、オスカーのアイスブルーの瞳は威嚇するような光を放っていた。
その視線にシンは慌てて笑顔を取り繕い、「もちろん、お二人一緒でいらしてください」と付け足してから、急ぎ足でその場を去っていった。

幸いにもアンジェリークは、男達の間に瞬間流れた、剣呑な空気に気付かなかったようだ。
デザートの余韻とアルコールのもたらす幸福感に浸り「オスカー、お言葉に甘えて今度一緒に行きましょうね!」と声を弾ませている。
「ああ、そうだな」
オスカーは苦笑しつつ、何か嫌な感情が喉の奥に引っかかってるのを感じた。
その感情の正体ははっきりせず、いくら飲み下そうとしても消えていかない。
すっきりしない感覚は少しづつ膨れ上がって喉から肺まで広がり、オスカーの神経を苛立たせた。

「…さて、食事も終わった事だし、階下のバーで食後酒でも飲まないか?」
苦い感情を口直ししたくて、オスカーは努めて明るい表情を装いながら、アンジェリークの手を取って立ち上がった。



1階のバーラウンジは、レストランとはまた違った雰囲気で、いかにも大人の恋人達の隠れ家と言ったムードが漂っている。
楡の一本木を使った見事なバーカウンターの端に並んで腰掛けると、姿勢の綺麗なバーテンダーが、2人の前に静かに立った。
「俺たちはこれから丘を散歩するんで、軽めの酒がいいな。彼女には甘いカルヴァドス、俺はマールをグラスで」
オスカーの注文にバーテンダーは言葉少なに頷くと、長い指でグラスに少量の酒を注ぎ始めた。
差し出されたクリスタルのグラスをアンジェリークが手にすると、チン、と音を立ててオスカーが軽くグラスを合わせた。

「ああ、今日は本当に幸せ!ありがとう、オスカー…」
グラスを口にし、アンジェリークは小さく開いた唇からほうっと幸せな吐息を零す。
その頬はほんのりとバラ色に染まり、瞳は夢を見ているように蕩けている。
少し酔っているのか、腰に力が入っていないような座り方が、妙にしどけなくて色っぽい。
無意識の色香が、彼女のうなじや耳朶から漂ってくるように感じて、オスカーの背筋に震えが走る。
ぞくぞくするような欲望が身体を駆け巡り、オスカーはそれを抑え込もうとグラスを呷ったが、酒が喉を通ったのすらわからなかった。

グラスを置いて一息つくと、前に立つバーテンダーが、グラスを磨きながらこっそりと視線を彼女に向けているのに気付いた。
よく見ればバーテンだけじゃない、カウンターに腰掛けている男性客や、ソファ席に座っているカップル客の片割れまで。
このラウンジにいるほとんどの男性客が、こっそりと、あるいは堂々と、アンジェリークに視線を向けているのだ。

普段のオスカーなら、連れの女性が男達の注目を集める事は、むしろ誇らしいとすら思うところだろう。
だが今は、誇らしさを通り越して怒りの感情しか湧いてこなかった。
男達の視線がアンジェリークの全身を舐めるように這い回っているのが、どうにも我慢ならない。
オスカーはおもむろにアンジェリークの腰に腕を巻き付けると、強引にイスごと彼女の身体を回してこちらに向けさせた。
黒いミニドレスの裾から覗く白い両脚を自分の腿で挟み込むと、アンジェリークが息を飲むのが伝わってきた。

「オ、オスカー?…どうしたの、人が見てるわ」
アンジェリークは恥ずかしそうに周りを見て、身を捩って懸命に前に向き直ろうとしていたが、オスカーは決して彼女を自由にさせなかった。
「いいんだ、見せびらかしてるんだから。今夜のお嬢ちゃんは綺麗すぎて男達の注目の的だから----俺の物だと、周りにはっきり教えてやりたいのさ」
耳元にオスカーが顔を寄せ、挑発するように低い声で囁くと、アンジェリークは急に力が入らなくなったかのように、オスカーの脚から逃れる努力を中止した。
まるでお風呂上がりのように全身が桃色に上気し、瞳がとろんと重たげに下がる。
アンジェリークの瞳にも欲望が現われたのを見取って、オスカーは満足げに口元を吊り上げた。

「…オスカーこそ、いつも周りの女の人達に見られてるじゃない。私はやきもきして大変なんだから」
誘惑を振り切ろうと、アンジェリークは必死でオスカーを睨み付けた。
だけど目に力が入らなくて、睨むと言うより流し目で誘っているようになってしまう。
アンジェリークは睨むのを諦めると、視線をオスカーの背後に彷徨わせた。
「ほら、あそこのすっごく綺麗な人も、オスカーを見てる…」

ソファ席に身を沈めたゴージャスな大人の女性が、オスカーにじっと視線を当てている。
と、突然その女性は立ち上がり、真っ直ぐこちらに歩を進めてきた。
驚くアンジェリークの視線を受けても動じる様子もないその美女は、オスカーのすぐ背後で立ち止まった。
「こんなところで会うなんて奇遇ね、オスカー」
女性は美しく塗られた赤い口元を、綺麗に持ち上げて微笑んだ。

「セレナ?」
振り返ったオスカーの声に、アンジェリークは凍り付いた。
セレナ。その名前には、聞き覚えがある。
あれは、たしか…私がオスカーに「愛してる」と初めて告げて、軽蔑され、突き放された夜。

あの時オスカーが連れ帰ったという女性が……そんな名前じゃなかったっけ?