Sweet company

9. Rose Contest ~Qualifying~ (1)

オスカーの恋人リストは、1ヶ月もしないうちに新しく書き換えられる-----

そんな噂ばかり聞かされていたから、付き合って1ヶ月が経つまでは、毎日が不安の連続だった。
今日、別れを切り出されるのかも。
それとも明日、突然彼が迎えに来なくなったりとか?
そんな風にビクビクして過ごし、何事もなく彼に抱かれる夜を迎えてはホッとしていた。

だから交際1ヶ月目のリミットがやって来た日なんて、生きた心地すらしなかった。
ついにこの日が来た、と覚悟を決めていたのに、その日の彼は拍子抜けする程いつもと同じで。
あっけなく次の朝が来ても、私はまだ半信半疑のままだった。

オスカーは、そんな私の気持ちを知ってか知らずか、日に日に私を大切に扱ってくれるようになっている。
朝は必ず迎えに来てくれて、一緒に出社。
会社でも休憩時間は空いてる限り一緒に過ごしているし、帰りも余程忙しくて時間が合わない時以外は家まで車で送ってくれる。
そのまま外食する事もあれば、家で夕食にする事もある。
そしてほぼ毎日のように、私達はどちらかの家に泊まり、一緒に夜を過ごしていた。

一つ屋根の下に住んでこそいないけど、今の私達は同棲してると同じようなものだ。
二人の関係は目に見えて安定し、周りからは公認のカップルとして扱われる事も多くなった。
それでも私は、心の底から安心し切れない。

車の中でオスカーから熱烈に求められた、あの日。
確かに私は、オスカーの心の奥深くにある真実の扉に辿り着いていた。
なのにそこに手をかけた瞬間…彼は扉の鍵を、以前より強固なものに付け替えてしまったようなのだ。
彼は簡単に恋人に心を許してくれる気などないのだというのを、思い知らされたようだった。

表面上は何の問題もない幸せな恋人を演じていながら、心の奥底に潜む本音は、一切曝け出してくれない。
何を考えて私と付き合っているのか。
少しは本気で好きでいてくれてるのか、それとも私はいつでもすっぱり切り捨てられる存在なの?
それがわからないから、どんなに大切にされていても、不安が消えていかない。

私とオスカーに残された唯一の強固な繋がりは、こうなってはセックスだけ。
毎日のように求められているし、彼はことあるごとに私との身体の相性の良さを口にする。
でもそのセックスも思いやりに満ちてはいるが、あの時のように我を忘れて求められるような事はもう、ない。
オスカーはベッドの上でも自制心を取り戻し、いつものように余裕たっぷりで、私は彼に翻弄されるがまま。
そうして私達の付き合いは、表面的には安定し、中身はこれといった進展のないまま、いつのまにか2ヶ月が過ぎ去っていた。

ローズコンテストの予選まで、あと1ヶ月。

---◇---◇---◇---◇---◇---


「ねぇあのアンジェって子、まだオスカーと別れてないの?」

(またかぁ~!)
アンジェリークは女子トイレの個室のドアに手をかけた姿勢で、がっくりと肩を落とした。

どうして私が社員食堂の化粧室に入る度、噂をされてる場面に遭遇しちゃうんだろう。
偶然のイタズラ?それともこのおトイレでは、24時間いつでも私とオスカーの話題で持ち切りなわけ?
そうだとしたらこの会社は、余程のゴシップ好きのヒマ人だらけだわ。

どっちにしても自分が噂されてる今の状況では、堂々と個室から出ていくのはためらわれる。
アンジェリークはドアを開けるのをやめて、しばらく個室の中で噂が通り過ぎるのを待つ事にした。

「そうそう、まだ別れてないのよ。結構長いわよね」
「もう2ヶ月以上経ってるんじゃない?」
「マジぃ?それって新記録じゃないのよ」
「いい加減、別れればいいのにね」
「ほーんと、オスカーもあんな図々しい田舎娘の、どこがいいんだか」

(むかっ。)
そんな事、わざわざ貴女達に言われなくともわかってますとも!
オスカーとの別れを一番恐れてるのは、この私なんだからー!

「でもさぁ、あの子…最近急に綺麗になったと思わない?」
「あ、私もそれ思ったわ!服装も垢抜けて、急に女っぽくなってきたし」

(え?ほほホントっ?)
我ながら現金なんだけど、一気に機嫌がなおった。

「バーッカねぇ、それくらい当たり前よ!オスカーの元恋人のロレッタが言ってたじゃない、彼ってベッドの上では一晩中『綺麗だ、愛してる』って囁きまくってくれるんでしょ?あんなイイ男にしょっちゅうそんな事言われてたら、脳内エンドルフィンが出まくって誰でも綺麗になるってば!」

(がくっ。)
今度はかなり、落ち込んだ。
ジェットコースターみたいに、気分が上がったり下がったり。
まぁ下がりまくってる訳じゃないから、以前よりマシになってるけど。

別に前の恋人とやらの話が気になって、落ち込んだ訳じゃない。
この2ヶ月というもの、本当にあちこちでオスカーの過去の噂を耳にした。
「昔付き合った恋人」の名前だけで、10人は軽く聞いたと思う。
最初は気になったけど、今では名前すら思い出せなくなった。
だって結局その人達は、もう『過去』なんだもの。
うじうじ名前を覚えて気にしてたって、しょうがないじゃない?

それよりも心にグサっときたのは、『ベッドの上では愛してるって囁く云々』というあたり。
私を抱く時、オスカーは必ず褒め言葉や、甘い台詞を囁いてくれる。
曰く「可愛い」「綺麗だ」「俺はもう、君の虜だ」「お嬢ちゃんは俺を狂わせる小悪魔だ」…等々。
そう言われるのはもちろん悪い気などしないし、女として嬉しいに決まってる。
でも肝心の言葉…「愛してる」って台詞は、一度も聞いた事がない。
よくよく考えてみたら、「好きだ」とすら言われた事がないかも。

今まではオスカーはそういう台詞を、意識して誰にも言っていないのかと思い込んでいた。
でも今の話じゃあ、以前の恋人達には勿体つけずに愛の言葉を囁いてくれてたって事なのよね?
じゃあそれすら言ってもらえない私は、今まで付き合った女性以下の存在なんだろうか。
だったらなぜ、私とは2ヶ月も付き合っているの?

「それにねぇ、ちょっと小耳に挟んだんだけど。あの子とオスカーがなかなか別れないのには、ちゃんとした理由があるらしいわよ」
「えっ、何それー?」

(えっ、何それ?)
同時に心の中で叫んだ。
本当にちゃんとした理由があるのなら、こっちが教えてもらいたいくらいだ。

「何とあの子、ああ見えて実はあの『ローズ・コンテスト』に、我が社を代表して出場する菓子職人らしいのよ。で、オスカーはそのサポートスタッフに選ばれてるんですって」
「それがどうして、別れない理由なのよ?」
「まぁ最後まで聞きなさいよ。このコンテストで我が社が結果を出せば、サポートスタッフは全員昇進、それも2階級特進を約束されてるんですって。でも逆にオスカーが今あの子と別れてコンテストに影響が出たりしたら、彼の責任問題にもなっちゃうってワケよ」
「なぁーるほど!そんな裏事情があったとはねぇー。それは別れられないはずだわ」
「ね、そうでしょ?」

(がぁーーーん!)
今度は頭を後ろから殴られたような衝撃を受けた。
目の前が貧血を起こしたように暗くなって、倒れまいと慌てて足を踏ん張る。

…確かに今の話は、筋が通ってるわ。
ローズコンテストは世界的規模のイベントだし、良い成績を残せれば、スモルニィ社にも大きな成功と報酬をもたらすのは間違いないところだろう。
そこに関わったスタッフが昇進するのももっともな話だし、そんな美味しい話が目の前にぶら下がってるのに、恋愛沙汰の失敗でオスカーがみすみすそれを逃すとは思えない。
じゃあそんな理由で、オスカーは私と別れなかったの?

頭がガンガン鳴り響いて、立っているのも辛くなった。
アンジェリークはふらつく足で後ろを向き、そこにある便器に座り込もうとした。
でも白い便座のどことなくユーモラスな形を見たら急に----こんな場所でシリアスに悩んでる自分がおかしくなってしまった。

私ったら、こんな狭いトイレの個室で何をうだうだと思い悩んでいるんだろう。
人の噂なんてどこまで真実かわからないのに、いちいち本気にするなんて。
例え今の話が真実だとしても、それなら少なくともコンテスト予選が始まるまでのあと1ヶ月間は、オスカーは私とは絶対に別れない、って事じゃない?
予選を通過すれば、更に猶予は決勝開始まで2ヶ月延びる。
オスカーにどんな理由があるにしろ、少なくとも明日別れられてしまうかもといった不安を抱える必要がないのなら、そっちのほうがずっといい。

頭痛を振り払うように頭をぷるるっと横に振ると、前向きな気持ちになってきた。
ふらついていた足をしっかりと踏みしめ、アンジェリークは背筋を伸ばして顔を上げた。
このペースで噂話が続いたら、いつまでたってもトイレから出ていく事すら出来なくなる。
でも別に、私は何も悪い事をしてる訳じゃない。
堂々と振る舞おう!

すうっと深呼吸してから、勇気を出してかちゃりとドアを開け、洗面所の鏡のほうへと向かう。
鏡の前では噂をしていた4人組が、アンジェリークに気付いて仰天しながらこちらを見つめている。
気にした素振りを見せちゃダメよ、アンジェ。
図々しい田舎娘の心意気を、今こそ見せてやろうじゃないの!

あんぐりと口を開けて青ざめている女達には目もくれず、アンジェリークはしっかりとした足取りで平然と手を洗い、そのまま化粧室を後にした。


「遅かったですわね、何かありましたの?」
社食のテーブルに座っていたロザリアが、戻ってきたアンジェリークに声をかける。
「ううん、ちょっと混んでただけ」
アンジェリークは何事もなかったように、笑顔で席についた。

「アンジェちゃんがいない時に、ちょうどオスカーから電話があったよ。仕事が忙しいから、休憩時間は社食に顔を出せそうにない、ってさ」
オリヴィエが携帯電話を指でもてあそびながら、教えてくれる。
「そうですか…」

ちょっとがっかりしたけど、仕事ならしょうがない。
アンジェリークは明るく笑って、椅子から立ち上がった。
「じゃあちょっと、オスカーの部署までお菓子の差し入れに行ってきます。今日は結構おいしく出来たから、食べてもらいたくて」
オリヴィエとロザリアは、笑顔で「いってらっしゃい」を言ってくれる。
アンジェリークは二人に手を振ると、お菓子の袋を抱えてオスカーの仕事場へ向かった。


「アリシアさん、こんにちわ!」
食品輸入部のフロアに入り、オスカーの秘書に声をかけた。
彼女はデスクから顔を上げると、アンジェリークに向かってにっこりと微笑んだ。

「クッキーが美味しく焼けたんで、差し入れに来ました。沢山あるので、部の皆さんでどうぞ」
アンジェリークが差し出した袋の中身を見て、アリシアが瞳を輝かせる。
「まぁ、嬉しい!アンジェリークさんの作ったお菓子、本当に美味しくて大評判なんですよ。3時だし、早速皆に配りましょう。…でも肝心の部長は、今忙しいんです。ちょっと待っててくださいね」
アリシアは立ち上がり、オスカーの個室をノックする。
中を覗いてから、アンジェリークの元へと戻ってきて、笑いながら肩を竦めた。

「部長は今、ちょっと立て込んだ用件で電話中です。終わったら少しはお話できるかと思うんですが…どのくらい時間がかかるのか、見当もつかなくて」
「あ、気にしないでください!お菓子を渡してくださればそれだけで結構ですんで」
「でも部長も、アンジェリークさんが来てくださった日はそれだけで機嫌が良くなって仕事もはかどるみたいだから、もう少し待ってみてくださいます?良かったらそこにおかけになって」
「ありがとうございます」
勧められた椅子に腰掛けながら、アンジェリークは笑顔で頭を下げた。

アンジェリークは、オスカーの秘書である彼女の事が、とても好きだ。
オスカーよりもだいぶ年上で一児の母でもある、この優しい印象の女性は、年下の自分にもいつも丁寧に接してくれる。
何よりアンジェリークがオスカーの恋人である事も、仕事上で重要な関係がある事も知り抜いていて、いつもさり気なく気を利かせてくれるのだ。
忙しい二人が食事や休憩を一緒に過ごせるのも、彼女の力によるところが大きかった。

「私はお茶とお菓子を配る準備をしますから、ちょっと失礼いたしますね」
「あ、私もお手伝いしますから!」
アンジェリークは慌てて椅子から立ち上がり、申し出た。
この部署は人が多いので、お菓子を出すだけの為にアリシアさんの手を煩わせるのもなんだから…と、以前からよく手伝っているのだ。
でもアリシアは、微笑みながらやんわりとその申し出を断ってきた。

「お手伝いしてもらえるのはとっても有り難いんですけど…実はうちの部の男性社員があなたを可愛いって騒ぐんで、部長があんまりいい顔をしないんですよ」
「ええっ?」
私が可愛いって騒がれてる?オスカーがそれにいい顔をしない?
アンジェリーク驚いて思わず顔をポッと赤らめた。

「アンジェリークさんはうちの部署では『結婚したい女性No.1』って言われてるんですよ。可愛いし、お菓子づくりも上手で家庭的だし、若いのにしっかりしてるって。バリバリのキャリアウーマンばかりのうちの会社では異色な存在だけど、そこがいいって評判で」
アリシアはそこで、これは内緒ですよ、と口元に人さし指を当てて付け足した。
「部長とのおつき合いが1ヶ月経った頃、今までの例に習って二人が別れるんじゃないかと、うちの男性陣は虎視眈々とあなたの恋人の後釜の座を狙ってたくらいなんですから」
「えええええーーーっ?」
「全く、失礼な話ですよね。お二人の仲の良さを見ていたら、別れるなんてあり得ないのに」

くすくす笑うアリシアに、アンジェリークは絶句しつつも嬉しい気持ちになった。
アリシアさんは、オスカーが1年前に部長に昇進してから、ずっと個人秘書を努めていると聞いた。
オスカーの女性遍歴もかなり把握しているだろうし、そんな彼女から「仲がいい」「別れるなんてあり得ない」との御墨付きを貰えたのだ。
これはさっきのお化粧室の噂なんかより、よっぽど信憑性があるんじゃないのかしら?

「でも折角お手伝いを申し出ていただいたんですから、それでは…これを部長室に持っていってくださるかしら?」
コーヒーとお菓子のお皿を手渡され、アンジェリークは目をぱちくりとしばたかせる。
「えっ、いいんですか?あの、でも今って、部長はお忙しい時間なんじゃ…」
「いいですよ、部長も私からより、アンジェリークさんから直接お菓子を頂いたほうが嬉しいに決まってますもの」
「あ…ありがとうございますっ!」
アンジェリークは弾けるような笑顔で礼を告げると、トレイを受け取って部長室のドアをノックした。

そっとドアを開けて中を覗くと、オスカーは手にした書類の束をめくりながら電話していた。
ちらりとアンジェリークに視線をよこし、すぐにまた書類に視線を戻す。

「ちょっと待ってくれ、今インヴォイスを確認するから」
受話器を肩口に挟みながら、今度は傍らのパソコンに向かってキーを叩く。
「…これじゃあ通関手続きにかなり時間がかかりそうだ。直接俺が向こうの会社と交渉してみるから、お前は荷揚げ会社に向かってくれないか。そうだな、すぐのほうがいい。それじゃ頼む」

オスカーは難しい専門用語を使っているので、アンジェリークには仕事の状況などはわからない。
でも、彼がひどく忙しそうなのは伝わってくる。
オスカーは再び受話器を取り上げると、今度は国際電話のオペレーターと話し始めた。
相手方が出るまでの短い待ち時間に、ようやくアンジェリークの方に顔を向けた。

アンジェリークは慌てて手にしたトレイを指差し、口パクで(差し入れ、食べて!)と告げた。
オスカーは笑顔で頷き、ジェスチャーで(後で電話する)と伝えてくる。
そうこうするうちに先方と電話が繋がったようで、オスカーはすぐに聞き慣れない外国語で喋りはじめた。
アンジェリークは邪魔にならないようにデスクの端に回り、お菓子とコーヒーをそっと脇に置いた。

(オスカーって、外国語も話すんだ…輸入部の部長だから当たり前なんだろうけど、やっぱりカッコいいなぁ…)
真剣な横顔に見とれてぼおっと動きが止まっていた自分に気付き、慌ててトレイを持ち上げる。
そこで急にある事を思い立ち、側にあったメモを一枚拝借すると、ささっと走り書きをしてからお菓子に添え、急いでその場を後にした。

オスカーは電話を切って一息つくと、傍らのコーヒーとクッキーに手を伸ばした。
お菓子のお皿に二つ折りにしたメモが挟んであるのに気付き、何気なくそれを取り上げる。
メモを開くと、そこには一言だけ、こう書き添えられていた。

「愛してる!」

オスカーは思わず目を見開いてメモの内容を凝視し、それから苦笑してクッキーを口にした。
お菓子は、程よく甘く、とても美味しかった。


(我ながら、ちょっと大胆だったかな?)
アンジェリークは早足で廊下を歩きながら、ふふっと思い出し笑いを浮かべた。

噂に振り回されて、もう少しで大切な事を見失うところだった。
オスカーに「愛してる」と言われないからって落ち込むのは、まだ早い。

愛してるって言って欲しいのなら、私からもたくさん「愛してる」って伝えなくちゃ。
そんな努力もしないで、一方的に愛されたいなんて虫のいい事、思っちゃ駄目だ。
心から愛して、それをいっぱい口にして、伝えよう。

私にできる事は、それしかないんだから。
今できる事を精一杯、やるしかないんだから。