Sweet company

9. Rose Contest ~Qualifying~ (2)

「皆さん、作業の手を少し休めて、集まっていただけますか」

工房でケーキ作りに没頭していた4人は、ディアの声に顔を上げた。
「今日は大切な報告があります。ローズ・コンテスト予選の審査方法が、決定しました」
その言葉に全員の顔が、一瞬のうちに緊張でぴりりと引き締まった。
慌てたように手元を片付け、急いでディアの元へと集まる。

ローズ・コンテストの予選は、毎回違った審査方法でおこなわれ、しかもそれは予選の1ヶ月前にならないと公表されない決まりになっている。
それまでは、出場者達が各自で予想した審査方法にそって練習をしたり、あるいは全般的な技術の底上げをはかったり…という曖昧なコンテスト対策しかとる事が出来ない。
不便きわまりないような気もするが、これにはちゃんとした理由がある。

まずは、コンテストのマンネリ化を防ぐという事。
毎回同じ方式で戦うと、優勝する為にはどういうレベルでなくてはいけないのか、ある程度予測がついてしまう。
出場者達はそのレベルに達する事ばかりを目標にし、『それ以上』を目指さなくなる。
冒険心や創造力をなくし、守りに入って無難なお菓子作りしかしなくなっていく。
それは結局、新しい製菓技術の発展の妨げに繋がるからだ。

そしてもう一つの理由は、審査の公平を期す為。
事前に予選の方式がわかっていると、コンテストの為にそこの技術だけを何年も修練する職人も出てくる。
結果、コンテスト向きの技術が突出した職人にだけ有利になってしまい、地味でもまんべんなく技術を拾得している職人が不利になる恐れが出てくる。

こういった不公平などの問題は抑える為に、予選開始直前まで審査方法は伏せられる。
ただしあまりに直前すぎると、基本的な準備すら整えられないので、1ヶ月前に公表される決まりになっているのだ。
公表から僅か1ヶ月の短期間ならば、コンテスト用の技術だけをトップレベルに押し上げるという、一夜漬けのような策は通用しない。
だからローズ・コンテストを目指すパティシェ達は、どんな予選方法が採択されようが大丈夫なように、普段からあらゆる技術に秀でるよう努力していく必要がある。

そうは言っても、どんなに優れた職人でも得手不得手があるのは当たり前。
審査方法が自分の得意分野であれば、それだけで大きなアドバンテージが得られるが、苦手な分野ならば、僅か1ヶ月で自分の弱点を克服するのは難しいから、大きな不利を抱え込む事になる。
つまり予選を勝ち抜く為には、全ての分野に通用する幅広い『実力』に加え、ある程度の『運』も要求されるのだ。

「今年は、6種類のお菓子と3種類の飲み物が予選課題に選ばれています」
ディアは手にしたプリントを、1部づつ皆に配って渡した。
そこにはケーキ、クッキー、パイ、和菓子、ゼリー、パフェという6種類のお菓子と、コーヒー、ジュース、ティーという3種類の飲み物が記されている。

「この9種類、全てを予選の1日で作り上げてもらう事になります」

誰も言葉を発した訳ではないのに、場の空気がざわりと動いた。
9種類…それはコンテストの課題としては、今までになく多い。
しかも1日で作り上げるとなると、あまり凝ったレシピばかりでは制限時間に間に合わない。
制作課題も焼き菓子に冷たいお菓子に飲み物とバラエティに飛んでいるから、時間配分をかなり考えて作らなけらば、出来上がりを揃えるのも難しい。

「皆さんはこの9種類のレシピを1週間前までに審査委員会に提出し、予選当日はそれに沿ったお菓子と飲み物を会場で作っていただきます。各分野の専門家が審査し、その場で採点します。1種類につき100点が満点で、9種の平均点が高かった2名が、2ヶ月後の決勝に進める…という事です」

ディアの説明に、ロザリアとコレットは動揺を隠せずに青ざめていた。
この予選方式は、二人にとって決して有利な物ではないからだ。

ロザリアは細部まで凝りに凝ったゴージャスなお菓子を好み、手間ひまかけて一つ一つを納得いくまで作り上げていく、芸術家気質なところがある。
動きに無駄はないので余分な時間をかけるタイプではないけれど、それでもこの作り方で9種類も作ったら、絶対に1日では作り終えられない。

コレットも基本的にはゆっくりのんびりと、自分のペースでお菓子を作るタイプだ。
そのゆったりした作風こそが彼女の持ち味であって、こんな風に時間に追い立てられるのは、彼女向きではないはず。

それに対してレイチェルとアンジェリークにとっては、この予選方式はプラスに働いている。
レイチェルは綿密に制作プランを練り上げ、計画的に時間配分してお菓子を作るタイプ。
作業自体も機能的で手早いし、彼女なら1日で9種類くらい作るのは、どうって事はないだろう。

そしてアンジェリークも長年1人でケーキ店のお菓子を焼いていた経験から、沢山の種類のお菓子を決められた時間内に作るのは手慣れている。
ゼリーやパフェなどの冷たいデザートや飲み物類も、喫茶部門を立ち上げた時にさんざん作っているので、こちらもかなり自信がある。

アンジェリークは、運が自分の方に向きつつあるのを感じて、武者震いした。
まさか、こんな風に自分に有利な方式が採択されるなんて。
思ってもみなかったけど、この『運』は決してただのラッキーなんかじゃないはず。
今までの努力や経験の積み重ねがこの運を呼び込んだのだと、信じたい。
あとはせっかく巡ってきた運を逃さないよう、有利さに驕らずにさらに努力して、最善の準備を整えなくては。

「この審査は『時間』というものに大きく左右される為、苦手分野だと思う人もいるかもしれませんね。実際、出場予定者の中からは、既にこの審査形式に異論を唱えている人もいるそうです」
ディアは全員の顔をゆっくりと見渡し、優しく微笑んだ。

「でも審査委員会は、こういった予選形式を勝ち残れるパティシェこそが、今の時代に即した実力があると考えているのでしょう。現代人は忙しく、時間に追われ、ゆっくりとお菓子を味わう余裕すら失われています。だからこそ、なおさら人は休息を欲し、上質なお菓子と優しい飲み物で癒されたいのです。そんな人々の貴重な時間を無駄にする事なく、夢と優しさのこもったお菓子をスピーディーに届けられる…それを可能にし得る職人こそが、ローズ・コンテストの優勝者、ひいては『ローズ』の称号に相応しいのではないでしょうか」

『ローズ』の称号。
その一言で、全員の顔つきが変わった。

コンテストの歴代優勝者には、その格を表わすとも言うべき花の称号が与えられる事になっている。
「リリー」「コスモス」「チューリップ」etc...
沢山の称号が今までに授けられたが、中でも最高のランクと言われている「ローズ」は、まだ誰にも与えられた事がない。

菓子職人なら誰でも憧れる『ローズ』の称号。
でも単に優勝するだけではその栄誉は手に入れられない。
実力と、時代のニーズ。その両方を兼ね備え、尚かつプロにも大衆にも熱狂を持って迎えられるような、そんな職人が現れた時----その称号が授与される。

『ローズ』の栄誉を手にするほどの職人なら、審査方法が自分に合うとか合わないとか、そんなレベルで悩まないはず。
どんな審査方法であろうとも、真の実力があれば必ず乗り越えられるはずなのだから。

ロザリアとコレットも同じ事を思ったのだろう、二人とも先程までの不安げな表情は跡形もなく消え失せ、強い決意が全身から滲み出ていた。
こうなると審査方法のアドバンテージなんて、無いも同じだ。
足りない物がわかっている人間のほうが、精神的には強くいられるものだから。
二人はきっと、死にものぐるいで巻き返しをはかってくるに違いない。
今の私に何よりも怖いのは、自分には審査方法が向いていると安心してしまう、過信。
そんな気持ちをちょっとでも抱いたら、あっという間に足元を救われる。
よーしっ、私も予選までの1ヶ月間は、必死で頑張ろう!


それからの毎日は、文字どおり全員が『必死』だった。
誰も無駄口一つ叩かず、黙々と自分の世界に没頭し、新しいレシピの研究・開発に余念が無い。

ロザリアは当初、最高クラスのレシピを9種類用意し、なんとかそれで制限時間内に作れないものかと努力していた。
だがいくら練習を重ねても、時間内にはどうしても出来ない。
時間に間に合わせるようにすると、どこかが粗い出来になってしまう。

そこでロザリアは、勝負レシピを6種類に絞り込み、残りはシンプルなレシピにするという組み立て方にしたようだ。
ただしシンプルなレシピだからといって、手抜きっぽくなっては意味が無い。
シンプルだからこそ、クオリティの高さが重要なポイントになる。
ロザリアは最高級の素材探しに毎日奔走し、その素材感を最大限まで引き出すシンプルレシピを、必死で模索していた。

コレットは慎重な彼女の性格にしては珍しく、『賭け』に出たようだ。
レシピは9種類とも自分の最も得意とする物を用意し、なんとかそれを制限時間内に作るつもりのようだ。
毎日繰り替えし作って練習する事で、無駄な動きを無くしてスピードアップをはかっている。
今のところはどうやっても間に合わないようだけれど、それでも彼女は絶対に諦めない。
周りが驚く程の集中力を発揮し、深夜まで居残って研鑽を重ねている。

対するレイチェルは、やや余裕だ。
レシピとその所用時間をコンピューターに打ち込み、完璧な計画表を作り上げると、毎日それに沿ってシュミレーションを繰り返し練習している。
もう手順も完璧に頭に入っているようで、その作業の手早さは感嘆に値する。

そしてアンジェリークも、今のところは順調に進んでいて、レシピのテーマもほぼ固まった。
父親に教わった「お菓子づくりに大切な九つの要素」、これが今回のテーマ。
アンジェリークはメモを取り出し、そこに書かれた9個の単語をじっと眺めた。

「誇り・安らぎ・知恵・強さ・優しさ・美しさ・勇気・器用さ・豊かさ」。

子供の頃にこれを父から聞かされた時は、まだよく意味がわからなかった。
でも今なら、あの頃よりはずっと理解できている気がする。

自分の創るお菓子に、誇りを持って。
食べるだけで心が安らぐような、優しい味を目指し。
どうすればより良い味を出せるのか、常に知恵を絞る。
固定した技術に安住せず、新しい風を吹き込んでいく勇気を持ち。
豊かな自然を素材に生かし、そこに美しく夢のあるデコレーションを魔法のように施す。
その為には、手先を器用に動かす鍛練も忘れずに。
そしてこの全てを立ち止まらずにやり抜く、自信と強さが大切だ。

考えてみると、父は口にこそ出しては言わなかったけれど、いつも私の傍らでお菓子を作りながら、それを体現してくれていた。
そして私もレシピを考える時には無意識に、この九つの要素をバランス良く取り入れている。
きっと頭ではなくて、身体が、五感が、父の教えを覚え込んでいるからなんだ。
今までは「自分らしい味」がなんなのか、イマイチ良くわからなかったけど。
きっとこの九つのエレメンツこそが、「私らしさ」の原点。

今回の予選の課題は、9種類。
私らしさの要素も、同じく9種類ある。
ならば今回の予選用レシピは、それを生かせないだろうか?

一番お菓子らしさを感じさせるケーキには、誇り高さを思わせる光り輝くようなデコレーションを施して。
パイには、自然の恵みの豊かさがたっぷりのフィリングを詰めよう。
似たような物が多くなりがちなクッキーは、勇気を持って新しい感覚を取り入れる。
パフェは、少女達が瞳を輝かせるような、美しくて夢のあるデザインで。
ゼリーは舌に乗せた途端に優しく蕩ける、水のような質感に。
あまり得意でない和菓子は、その深い歴史背景までしっかり勉強して、先人達から受け継がれてきた知恵を取り入れよう。

お菓子を引き立てる飲み物も、紅茶は安らげてホッとできるような、香り高さを生かした物を。
ジュースはうって変わってテクニカルで面白い質感のものを、作ってみよう。
そしてコーヒーは…

アンジェリークはそこで、目を閉じた。
コーヒーを思い浮かべる時、いつも一緒に浮かんでくるイメージがある。
それは、オスカーの姿だ。

仕事の合間に、コーヒーを口にする彼。
一緒に過ごした夜が開け、二人で一緒にコーヒーを煎れる、幸せな朝のひととき。
本当はカプチーノが好きだけど、口のまわりに泡がつくから人前ではあまり飲まないと教えてくれた。
そして二人だけの時に、泡だらけのおかしな顔をこっそり見せてくれて、二人で大笑いした。

コーヒーには、いつも幸せなイメージがついて回る。
このイメージを、形にできたらどんなに素敵だろう?
幸せで、ほっと心が休まって、飲み終わった後にはまた新しいパワーが沸き上がってくるような、そんな強さも感じられる味。
誰よりもオスカーに飲んでもらいたい、そんなコーヒーを、作ってみよう。

アンジェリークは目を開けると、自らのイメージに添ってお菓子を作り始めた。
イメージとぴったりくるお菓子を作るには、まだまだ時間がかかるだろう。
素材を吟味したり、細かい部分までイメージに添うようにレシピを練り上げていかなければ。
残された時間は、あと1ヶ月。
最後まで気を抜かずに、納得いくまで作り上げたい。

そんな気持ちに突き動かされ、夜遅くまでお菓子作りに没頭する日々が続いていた。
残業続きではあったけれど、アンジェリークにとって嬉しい誤算だったのは、オスカーとの生活がすれ違いにはならなかったという点だった。


「予選当日までは、俺がそっちの家に泊まる事にしたから」
残業したアンジェリークを家まで送る車の中で、オスカーにそう提案された時には、思わず耳を疑った。

「え?どどどうして??」
「二人の家を言ったりきたりじゃあ、お嬢ちゃんも落ち着かないだろうし、疲れるだろうと思ったのさ。どうせ毎日一緒に帰ってるんだから、そのほうが無駄もないだろう?それともお嬢ちゃんは、俺が毎日泊まるとかえって疲れるかな。たまには1人でゆっくりしたいとか、あるんだったら言ってくれ」

オスカーらしくない物言いに、どきりとした。
物事をなんでも強引に決めて、その力強さで人を引っ張っているオスカーが、今は何よりも私の気持ちを最優先に考えてくれている。
決定権を私に委ね、それに従うつもりなのだ。

「…ひとりでなんて、絶対に嫌。オスカーが側にいてくれたほうが、心強いもん」
素直な気持ちを口に出したら、オスカーがハンドルを握ったまま嬉しそうに口元を綻ばせた。
「じゃあ決まりだな。俺が明日からそっちに泊まり込む」
「でも、大変じゃない?オスカーだって忙しいでしょう?」
「1ヶ月くらいなら、たいした事はないさ。ただそうだな、荷物を取りにいちいち帰るのも面倒だから、少しまとめて身の回りの品を置かせてもらいたいが、構わないか?」

構わないどころか、むしろ嬉しかった。
彼の私物が部屋に増えていくのを見るだけで、幸福な気持ちになれたのだから。

ピンクや赤などの可愛らしい色で占められていたクローゼットに、ダークグレーやネイビーのスーツが並んでいく。
柔らかい素材感のブラウスの横に、シャープなカッティングのビジネスシャツがかけられる。
洋服だけじゃない。仕事用のノートパソコンに書類ケース、彼の靴にグルーミングキット。
オスカーの荷物が増える度に、部屋の印象までもが少しづつ変わっていく。
そこかしこからオスカーの香りが漂い、今までの少女っぽいインテリアの部屋が、「男と女が共棲みする部屋」へと変貌を遂げていく。

1ヶ月間という期限付きではあるものの、これはもう完全な「同棲」生活と同じだ。
家に帰ると、いつも彼が、必ず側にいてくれる。
息をすると、彼の香りがする。
部屋を見渡すと、彼のいる痕跡がそこらじゅうに見つけられる。
その安心感がもたらす心のゆとりは、お菓子作りにも精神状態にも、全てにプラスに働いた。

仕事はやりがいがあり、愛する人がいつも近くにいる。
毎日が、満ち足りていた。

「オスカー、愛してる……」

だから、その言葉を口に出すのが楽しかった。
答えは返ってこないけど、そんな事すら些細な問題で。
別に答えなど帰ってこなくても構わない、このままの状態でいられれば幸せだ、とまで思っていた。
「愛」を口にする度に彼の瞳が翳ることに、気付かなかった。
ううん、本当は心のどこかで気付いていたけど、見ないふりをしてやり過ごしてしまっていた。

でも人は欲張りな生き物だから、ずっとこのままでいたら、本気で愛して欲しいといつか必ず願ってしまうはずなのに。
どんなに愛しても答えが帰ってこなければ、苦しくなるのは当たり前の事なのに。
忙しさと目の前の幸福に目が眩んで、現実から目を背けてしまっていた。
そのツケは必ず後から、回ってくるものなのに----。


問題を先送りにしている間も、時は容赦なく過ぎ去っていく。
そしてついに、ローズ・コンテストの開催日がやってきた-----